静夜 何をしている、と背後の闇がささやく。
玄离は開け放った窓からつと顔を逸らすと、後ろに視線を流して声の主のほうを見た。
「お前も見るか。見事だぞ」
先刻まで己の身体を恣にしていた男が、わずかに身動ぐ。暗闇に眼が慣れて、男の怪訝そうな顔までが夜気に透けて見えた。臥牀に起き上がった身体の上を夜具が滑り落ち、張りのある肌が露わになる。生憎、自分のつけた痕までは見えなかったが、その生々しい眺めに尽きたはずの情欲をふたたび揺さぶられるような気がして、玄离は思わず苦笑した。
「何が見える」
「——桃が。盛りだ」
窓辺から見下ろす崖下には、月明かりに白く透けた桃の花が、夜霧のように淡く地上を覆っている。玄离は窓枠に掛けた肘に顎を載せて、元のように地上に目を向けた。
ひた、ひたと裸足の足音が背後に響き、やがて止まった。下履きをつけただけの剥き出しの背に、温かい人肌が被さる。筋肉質の腕が前に回され、形の良い鼻先が甘えるように髪に潜った。
「……美しいな」
くぐもった声が言う。
「本当に見ているのか?」
頭の天辺に、こつんと額の当たる感覚に苦笑しながら言うと、
「ああ、見ている」
と夢見るような声音が返ってきた。
「見ている——いつでも」
玄离、と耳の後ろでささやかれて、背に官能が奔った。そのまま耳殻を甘噛みされると、は、と胸の奥から震える息が出た。
「——おい、もう今日は」
「わかっている」
男——諦聴は、うっすら笑うように言うと、抱き締める腕にわずかに力を込めた。
玄离はなされるがまま、ぼんやりと眼下の花を見る。今を盛りにと咲き誇る桃花。普段は花なぞ見向きもしないのに、こんなことのあった夜には、何故か美しいものを無性に見たくなる。
刹那の美。文字通り、花の命は短い。ひょっとしたら自分は、この刹那の関係と共鳴するものを、知らずのうちに探しているのかもしれない。
約束は意味を持たず、互いに取り交わす言葉もない。それは彼らの間に最初から横たわる不文律でもあった。
それに虚しさを抱いているのか、俺は。
端から歪であるがゆえ、揺るぎない美を求めるのか。
それとも慴れているのか——いつかこの関係が破綻することを?
わからない。正直、考えたくもなかった。だからただ、いまは、この胸の内にわだかまる靄にも似た地上の美しい花霞を、ひとときの慰めにしよう、と思った。
重なる二つの背を月光が縁取る。
夜は、静かに更けていった。