お題【逸風】【夕涼み】
東の国には、医者の不養生、という言葉がある。
いまの僕のことだ。
とはいえ、妖精が病気になるなんてことはない。
ただ、過労でへばることはある。
今まで、たくさんの人たちを癒やしてきて、時には無理はいけませんよと諭したりもしてきたのだけれど、人に言うのと自分がなるのとでは大違いだ。
僕はいま、横たえられた夏草の上で、つくづくとそれを感じていた。
「逸風、大丈夫ですか。水を持ってきました。飲めますか?」
「あ、ありがとうございます。——冠萱さんは」
「私は大丈夫です。慣れていますから」
さすが過重労働頻度ナンバーワンの猛者は言うことが違う。
とはいえ、今回の現場は酷かった。
妖精たちが住む大きな山で噴火があった。山体崩壊を引き起こすほど大規模なもので、溶岩と火砕流、そしてそれに伴う森林火災に生き物たちは追い立てられた。
僕らが所属する龍游とは別地域の災害ではあったが、規模が大きいこと、人手が少ないことから僕に声がかかり、つい数刻前まで寝ずの救護に当たっていたのだ。
相手が妖精だから、大爽さんの技は使えない。その分、どうしても救出するタイミングが遅くなり、重篤な怪我人も増える。
次から次へと運ばれてくる患者。治癒を施しても施しても、あちこちから聞こえてくる呻き声。壮絶だった。多分、僕の経験上、三本の指に入るくらいには。
そうして先刻、ようやく全ての妖精を助け終わり、最後の患者が連れられていくのを見たら気が抜けて、ぺたんとその場にへたり込んでしまった。
「逸風!」
同じく派遣されていた冠萱さんが気づいて駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか。少し力を使いすぎましたね。とりあえず横になった方がいい。酷い顔色だ」
「だい、じょう——」
「私がそう言うと、貴方はいつも諭すでしょう。無理はいけません。ひとまず霊力が戻るまで、ここで安静にしておいた方がいい」
そう言われると、ぐうの音もでない。
「はい……」
そんなわけで僕はいま、さっきまでの患者たちと入れ替わるようにして、柔らかい草の上に、ひとり横たわっていた。
身体は芯から疲れきっていて、指先ひとつ動かすのも億劫だ。けれど心は軽く、大変な仕事をやり遂げた充実感と安堵感に満ちていた。
自分が治癒系で良かったと思えるのはこういう時だ。
本来なら、自分の出番はないに越したことはない。けれど生きている限り、何らかのトラブルに見舞われることもある。今回のような、大規模な災害ほどではないにしろ、他者が思う以上に治癒系の出番は多い。それは他の能力と比べて絶対数が少ないため、必然的にそうなってしまうのだけれど、どれほど任務に忙殺されようとも僕は、館に所属したことを後悔したことはなかった。小柄で、決して戦闘向きではない自分が、それでも誰かの役に立てる、こんなに喜ばしいことがあるだろうか。
だから招集にはほぼ確で応じてしまう。結果、収束する頃にはオーバーワークで、こうして地べたに寝転がったりするのだけれど——
「身体、起こせますか」
冠萱さんが覗き込む。頷いてどうにかこうにか身を起こし、竹筒に入った水を受け取って一口飲んだ。
冷たい清水が、乾ききった喉を心地よく滑り落ちていく。
——ああ、美味しい。
無味のはずなのに、どこか甘さすら感じる。甘露というのは、こういうもののことを言うのだろう。
涼しい風が、汗ばんだ頬や首筋を撫でて通り過ぎていく。
西の空には夕闇が迫り、昼の蒸し暑さが空に立ち上るように薄れていくと、樹々の梢の下でヒグラシたちがカナカナカナカナ……と一斉に鳴き始める。
僕はひととき目を閉じて、その声に耳を澄ます。もの寂しくも全身で生の喜びを謳歌する、短い生命たちの歌を。
涼しい風、一日の終わりの歌声。一呼吸ごとに、疲労が洗い流されていく。夏の夕暮れというのは、どうしてこうも優しいのだろう。まるで酷暑で負ったダメージを、そっと癒やしていくかのように。
「逸風?」
目を閉じたまま微動だにしない僕を訝ったのだろう、冠萱さんが確認するように僕の名を呼ぶ。
僕はぱちっと目を開けて、心配そうに覗き込む瞳に笑いかけた。
「大丈夫です。気持ちよくて——少し、癒やされてました」
そうですか、と冠萱さんが微笑って空を仰ぎ見る。
「確かにここは気持ちの良い場所ですね。たくさん癒やされてください。貴方も、たまには」
本当にお疲れ様でした。優しいばかりの声が耳に届き、同じく仰ぎ見た群青の境目で、一番星が居場所を教えるかのように、ちかりと名残の空に瞬いていた。
お題【諦聽】【アイス】
氷菓を初めて食べたのは、まだ鄷都に居た頃だ。
白磁の器に盛られたそれは、きらきらと陽を受けて輝く雪だった。どうしてわざわざ雪を器に盛るのだろうと内心で首を捻る私に、「解けるぞ」と苦笑を向けて、明王が手元の器に匙を入れる。ひと掬い、煌めくそれを優雅な仕草で口に運ぶと、満足したように形の良い唇を綻ばせた。それを見て、不思議な気持ちのまま、自分も同じように匙を口に運んだ。
最初は、やっぱり雪だと思った。それは、はっとするほど冷たく、非常に鮮烈だった。しかし雪と決定的に違うのは、しゅんと解けた端から、豊かな甘味が口中に広がり、何とも幸福な気持ちになるところだった。
なんだろうこれは、と思った。
今まで食べたことがない。味は果物に似ているが、この上なく冷えているぶん、果物よりはるかに優れているような気がした。
「美味いか?」
思わず匙を咥えたまま恍惚としている私に、明王が訊ねる。大きく頷く私に、眼の端を緩ませて、
「たまには珍しいものも良いかと思ってな」
と言った。
次に氷菓を食べたのは、それから大分経ってから、老君の使いで人の街に降り立った時だ。夏の暑い日で、路上には一台の屋台が出ていた。荷車の上に大きな箱が載っていて、その横に「冰糕」と書いた幟が出ていた。その名が、かつて食べた氷菓のものだと、その頃にはもう知っていたから、懐かしさもあり、ひとつ買い求めることにした。
店主は銭を受け取ると、大きな箱から木の棒に刺さった薄桃色の氷菓を手渡した。それは、私の記憶しているものとは色も形も違っていたが、口に含むと、あの懐かしい味がした。さすがに全く同じ味ではなかったが、やはりよく冷えた果実のような、爽やかな甘み。そしてそれは同時に、私の中に、どうしようもないほどの郷愁を巻き起こした。
あの懐かしい、鄷都での日々。気心の知れた仲間に囲まれ、まだ本当の困苦すら知らなかったあの頃。何も考えず、あるがままを享受していた幸福、遠ざかって初めて知った胸の痛みと共に、もう戻れないという現実を、甘味と共に飲み下す。甘いばかりのそれが、喉元を通り過ぎる際に混じる僅かな苦味。それを受けて、ああ、私はいま惜しんでいるのだと思った。
留まらぬ時の流れ、移ろいゆく身の上。そこに昔と変わらぬままの氷菓が光を当てる。過ぎ去っていった日々、その都度選択してきた自らの行いに、悔いるところは微塵もないけれど、それでもやはり手放したものの存在を想って、胸が微かに痛む時はある。だからどうというわけでもなく、淡々とそれを受け入れるのが私という者の常ではあったが、今日はふと、それに浸ってみるのもいいかも知れない、と思った。
私はまた一口、氷菓を歯で齧り取った。思い出が、またひとつ蘇る。鄷都での記憶は、決して楽しいことばかりではない。それでもこうして思い返してみれば、その一瞬一瞬が、たまらなく愛しいもののように感じるのは、感傷という名の甘味がまぶされているせいだ。彼らはどうしているだろう。元気でいるだろうか。やはり私と同じように時々は、在りし日を思い返したりしているだろうか。その記憶に、私は居るだろうか。生意気で、よく笑い、真の困苦の味も知らぬ、まっさらだった頃の私が。
ぽつり。雫の落ちる感覚に、ふと我に返る。見れば、夏の陽が氷菓の表面をとろりと緩ませていた。桃色の汁が地面に垂れて、くっきりとした丸く濃い染みをつくる。
私は解けかけの氷菓を口に含んだ。舌に広がる甘味と刺すような日差し、そして降るような蝉しぐれは、気の遠くなるほどの時を隔ててもなお、無垢だったあの頃と何一つ変わりはなかった。
お題【阿赫】【読書】
仲間うちでは、多分、いちばん人間社会に溶け込んでいたんじゃないかと思う。
情報機器はお手の物だし、流行りにも聡い。普通に過ごしていれば、百パーセント妖精だってバレない自信もある。人間は嫌いだけど、人間の作り出すものまでは別に嫌いじゃなかった。動画や音楽、そういったものに囲まれて過ごす時間は悪くなかったし、暇を潰すのに、これ以上最適なものもないだろうと思っていた。
「……つまんねぇ」
床の上に、ごろりと大の字になって天井を見上げる。捕縛されてどれだけ経ったか、もう数えることすら止めていた。割り当てられた部屋にはタブレット端末はおろか、テレビやラジオの類すら無い。完全に新規の情報を遮断された部屋で、生き人形のように過ごす日々には、流石にそろそろうんざりきていた。時々、思い出したように尋問に呼ばれることがあるから、かろうじて言葉は忘れずにいるが、でなければ早々に知的生命体であることを放棄したくなるくらいには、日々に嫌気がさしていた。
あー、つまんねぇ。口を開けば、そればかりだ。今まで、何気なく浴びてきた娯楽を全て取り上げられて、孤独の中に取り残されるのが、こんなにも精神的にくるだなんて知らなかった。人間くさい、といえばそれまでなのかもしれないが、あれだけ排除しようとしたものの一部が、自分には必須だったのだと思うと、癪に障るし、どこか虚しいような気がした。結局のところ、俺は、仲間たちのように本気で人間を排除しようとしていたのか。もちろん、妖精の世界を取り戻すと誓って全力を出してきた気持ちに嘘はないし、ずっとそう信じてきたけれど、それでも俺は、その反面、人間の作ったものの上澄みを、調子よく受け入れていたのではないか。娯楽の全てを遮断されたこの部屋で過ごすうち、そう思うようになりつつある自分に嫌気がさすし、もし、それが館側の狙いであるならば、大成功だぞこんちくしょう、と罵りたい気持ちでいっぱいだった。
ごろりと寝転がったまま、ちらと目線だけをある場所へ送る。そこには、白で統一されたこの部屋の中でゆいいつ、様々な色があふれるコーナーだった。
壁に取り付けられた棚の上、大小様々な判型の本が十数冊ほど、ブックエンドに挟まれて置かれている。今までの俺なら、それはカフェの壁とか、そういうちょっと洒落た場所を彩る背景のひとつとしてしか捉えていなかっただろう。けれど今は、その色とりどりでありながら落ち着いた色彩の背表紙に、どうにも目が惹かれる。その心境の変化が不思議だった。
本なんて、読むだけ時間の無駄だと思っていた。動画のように刺激があるわけでもなく、音楽のように心弾むものでもない。ただ文字を追うことの何が楽しいんだと、最初から見向きもしなかった。けれど、この娯楽に飢えた生活で、その一角は山盛りのご馳走のように、どうにも魅力的に見えた。けれどそれを手に取ることが、すなわち館の思う壺にはまるような気がして、手を出すことにためらいがあった。気になりつつ、それに気を取られるのが悔しい。ならいっそ、それすら遮断してしまえばいい。目を閉じて、それすらも遮断してしまえば。そう考えて目を閉じても、うずうずとした胸騒ぎは一向に治まらない。本なんてちっとも読みたくないのに、今の俺には、それしか手に取れるものがない。いつ終わるともしれない退屈を、このまま目を閉じて過ごすことを考えると、冗談じゃない、という気持ちすら湧き上がってきた。
「——ええい、くそ!」
がばと起きて立ち上がり、足音も荒く棚の前に歩み出て、ろくすっぽ背表紙の文字も見ずに一冊抜き出す。読んでやるよ。読んでやりゃいいんだろ。どかりと床にあぐらをかいて、表紙を開く。整然と並ぶ文字列。クリームの紙に載った黒の印字が、どこかはっとするほど鮮やかだった。一行目から文字を追う。そんなに難しい内容ではない。口語を多用した、淡々とした文章。それなのに、読めば読むほど、先程までの悔しい気持ちや、何だったら自分自身の自我すら、時と共に薄れていくような気がした。俺はひたすら文字を目で追い、頭の中にイメージを次々と作り出していく。止めどなく繰り返されるその作業、けれど決して苦ではなく、むしろ乾きった喉に甘露を注ぐような歓びがあった。時間を忘れ、ただただページを繰る。本なんて、読み慣れていないから疲れて、そろそろ休憩をと頭の片隅では思うのだけれど、それでも目が、指が、止まらない。結局、一冊読み終えた頃には夜が明けて、自分でも呆然としたくらいだ。
——なんだ、これ。
目が痛い。肩も背中も、バッキバキに凝っている。そのうえ寝不足で、体調としては最悪なはずなのに、心は清流に洗われたかのように澄んでいた。
「……なんだ、これ」
今度は声に出して、手に持ったままの本に目をやる。こんな、片手で持てるくらいの紙の束に、俺はすっかり魅了されていた。それこそ、それを読む前と読んだ後で、世界がまるで違って見えるくらいに。
ばっと顔を上げる。壁に括り付けられた棚の上には、一冊ぶんの余白を残して、まだ沢山の本がある。
これを、全て読み終える頃には。
底知れない、慴れに似た気持ちが、腹の奥から湧き起こる。
俺は、知ってしまった。動画や音楽のように受動ではない、自らが読み、考え、やがて心の糧となる、読書という名の愉しみを。
もう戻れない。けれど。
「……面白れーじゃねぇか」
きっと隈が浮いている、寝不足の酷い顔で、俺は色とりどりの紙の束、まだ見ぬ世界の入り口に向けて、ひとり、にやりと笑ってみせた。