【阿根】【秋の空】
秋の空に風船が高く飛んでいく。
どこかで、ぽぽん、ぽん、と花火が鳴っている。
僕は小白と手を繋ぎ、小白は小黑と手を繋いで、賑やかな人混みのなかを歩いていた。
「すごいねえ」
小黑が、きょろきょろと辺りを見回しながら言う。
「人の世界にもだいぶ慣れたと思ってたけどさ。それでもこんなに、普段どこに隠れてたんだろうって思うよ」
「みんなこの日を心待ちにしていたからね」
僕が答えると、
「小さい頃、哥哥と来たよね。懐かしいな」
小白がにこにこと笑って言う。
僕たちは秋の祝日に、街の大きな公園で催されるお祭りに来ていた。年に一度、収穫を祝うこの秋の祭りには、屋台だけではなく、近所の農家も総動員してファーマーズマーケットが大規模に開かれる。この広い会場のどこかで、お爺ちゃんや大吉一家も小さなお店を出しているはずだ。僕たちはそれを労いに——という名目で、お祭りを楽しんじゃおうとやってきた。
小白と共にやってきたおじさんとおばさんは、会場に着くや格安で新鮮な食材を求めて、どこかへ行ってしまった。僕たちはそのハンターのような風格を漂わせる背中を見送って、いま、のんびりと大路を歩いている。
「小白、ポシェットは前に出しておいてね。こう人が多いと、スリも紛れていそうだから」
「うん」
「小黑もお小遣いもってこれた?」
「うん。友達とお祭りに行くって言ったら、妙に嬉しそうに大金握らせようとするから、断るの大変だった。師父、たまに金銭感覚バグる時あるから」
「あの人、金に困ることなさそうだしな……」
「と言うか、元々そこまで興味がないんだよ。無ければ無いでなんとかしちゃうし」
それで僕がどれだけしんどい思いをしたか、と小黑がげんなりしたように言うから、つい笑ってしまった。彼の師匠が出会った当初、どれほど壊滅的な料理の腕だったかは、小黑が事あるごとにネタにするので知っていた。
「それでも今は人並みにできるようになったんでしょう? お師匠さん、きっと小黑に喜んで欲しくてすごく頑張ったんじゃないかな。前にお家にお呼ばれした時に食べた料理、どれも美味しかったよ」
小白がにこっと笑って言う。
「折角だから小黑も何か買って帰る? ここのは肉も野菜も安くて美味しいよ」
「うん、そうしよっかな。そろそろ冷蔵庫の中、寂しくなってきてるし」
「じゃあ買い出しは後でするとして——まずは僕たちの小腹を満たすところから始めようか」
「賛成!」
それから僕たちは屋台を回り、肉屋の焼きソーセージを食べ、酪農家自慢のラクレットを食べ、搾りたてレモンと蜂蜜で作ったレモネードを飲んだ。
「どれもこれも美味しいね。師父にも食べさせてあげたいなあ」
食べることが何より好きな小黑が、感動したように言う。
「来年は一緒に来るといいよ。広場で大道芸も見られるし、牛を一頭、まるごと焼いたりもするから派手で面白いよ」
「わあ、師父、肉好きだから喜びそう! そうする!」
「小黑は本当にお師匠さんが好きなんだね」
ジャージー牛のソフトクリームを舐めながら小白が言うと、小黑は照れたように笑った。
いいものだな、と思う。
こんな風にのどかで平和で、子供が子供のまま、無邪気に祭りを楽しんでいる。
それを噛み締めて、心がじわっと温かくなる。この光景を見たら、きっと无限もそう思うだろう。
僕自身、戦乱は経験していない。けれど知っている。戦乱も、貧困も、それによって人と人とが争う姿も。そう遠くない過去、この国に確かにあった出来事。それを知る人間は、もうかなり少なくなっているだろう。
守りたいと思う。この日々を。この澄み切った空の下、穏やかな日常を壊すことがないように。せめて、自分の手の届くところにある、この愛おしい笑顔を曇らせずに済むくらいには。
「哥哥?」
小白が顔を覗き込む。
「ん?」
「——ううん、なんでもない。ねえ、あの的当て、みんなでやらない?」
そう言って指差す先には、ダーツによく似た手作りの台があった。
「うん、いいね」
「行こ!」
真ん中の小白が、手を握って引っ張る。僕たちは笑って、そこに向かって一緒に駆け出す。
小白は聡い子だ。きっと、さり気なく僕の感傷を見抜いたのだろう。そういうところも、あの子に似ている。
僕は会ってないけど知っている、あの優しく聡い、愛しい少女に。
——狗哥。
鼻先に金木犀が香る。ふと、懐かしい声に呼ばれたような気がした。
【粉末】【ミモザ】
人間の世界には、花言葉というものがあるらしい。
花や木、それそのものに性格的な意味づけを持たせるものだと言う。
希望や愛情、悲しみや果ては嫉妬まで。
変なの、と粉末は思う。
粉末は花の妖精である。そして、花の妖精は粉末以外にもごまんといる。
それぞれ性格は千差万別で、一概にこの花だからこの性格、ということはありえない。そのへんは人も妖精も同じようなものだろうと思う。
人には、血液型診断というものがあるらしいが、それだって「おおむね当てはまる」という程度のもので、あなたは何型だからこうだろう、と最初から決めつけられたら、きっといい気はしないはずだ。
粉末は花の妖精であって、花そのものではない。元となる花もあったのだろうが、粉末は覚えていない。気づいたらこの世に顕現していて、能力や周囲の反応から、どうやら自分は花の妖精らしい、と気づいた、その程度のものだ。
粉末は自分の性格を、「タフで行動的で短絡的だが友達思い」だと思っている。そんな花言葉があってたまるだろうか。
大体、花言葉なんていうものは、人間の勝手なイメージによるものだ。花に直接聞いたわけでもないのに、「可憐」だとか「優雅」だとか、その花自身の性格とはあまりにもかけ離れすぎていて笑ってしまう。粉末の知る限り、日がな一日文句ばかり言っているチューリップもいれば、向かいの木の枝が折れただけで哀しむような優しい黒薔薇もいる。花言葉なんて、てんで当てにならないと、粉末は思っている。
そもそも、どうしてそんなことを知っているのかと言えば、以前散歩がてらに行った百花園のプレートに、それが書いてあったのだ。
曰く、
「百合——純粋・無垢・威厳」
「木蓮——自然への愛・崇高・持続性」
等々。
文字は人間の友人が教えてくれた。ひょんなことから知り合いになった、人間の男の子だ。名を阿根と言う。
粉末は関わったことはないが、この世には妖霊会館なる機関があって、そこでは数多の者たちが人と妖精の共生について日々模索していると聞く。
粉末は生まれ育ったこの森を出ることを考えてはいないけれど、人が進出するに従って、この森もいつかは開発の憂き目に遭うかもしれない。そうなった場合の身の振り方として、人の文字を読めるようになるのは決して損なことではない、と阿根は言った。
それは考えるのも悲しいことだが、一理あるので、粉末は友人の助言を素直に受けることにした。実は少し興味もあったのだ。
阿根は良い教師だった。辛抱強く、粉末が辛くならないペースで、ゆっくりと文字を教えていった。学習が進むにつれ、今まで模様にしか見えなかったものが言葉として頭に流れ込んで来た時、粉末は感動した。今まで何気なく見てきたあれこれが、意味を伴って目の前に存在し直した。新しい世界に触れて、震えるような喜びを感じて——そして現在、粉末はもやもやしている。
両手で持った木苺をぷちんと噛み切りながら、友人である七果に愚痴る。
「つくづく、勝手な生き物だと思うわ。傲慢って言うの? 私たちは何でも知ってますー、これにはこれこれこういう意味があるんですーって、見当外れもいいとこ! 文句のひとつも言ってやりたいけど、どこに言ったらいいのか分からないのもまた腹が立つ」
がぶがぶと、すごい勢いで木苺が減っていく。
七果は向かいで同じように木苺を咀嚼しながら、ふうんと相槌を打つ。
七果は木の妖精だ。以前死にかけていたところを、粉末たちに救われたことがある。その縁で阿根とも友人になったが、七果は粉末のように彼から文字を教わってはいない。なので粉末が憤っているようなレッテルが自分たちに貼られていることも知らなかった。
ちょっと首を傾げて、七果は言う。
「——俺は、むしろ面白いことを考えるなと思うけど」
「どこが!?」
果汁に塗れた口で粉末が吠える。
それをまあまあ、と手で押し留めるような仕草をして、七果は続ける。
「だってそれって、人間が俺たちに意味を見出そうとしてるってことだろ。花は花、木は木じゃなくて、もしそれがあることで人間が少しでも俺たちに興味を持ってくれるんだったら、俺は嬉しいと思うよ」
「そうかなあ」
「そりゃ、嫌な言葉を当てはめられたら、いい気はしないけどさ。ケチとか、ろくでなしとか言われたら、決めたやつを根っこでわざと転ばせるくらいのことはしたくなるけど」
ははは、と二人で顔を見合わせて笑う。
「——人間ってさ、わざわざ金を払って花を買ったりするって、本当?」
「うん。人の街には、そういう店もあるよ。すごく不思議な眺め」
粉末は犬に乗ってあっちこっち行くから、七果より少しだけ人の世を知っている。
「それでね、自分の家に飾ったり、人にあげたりするの。ただの木や花なのに、妙に有難がるの」
「ふうん。じゃあなおさら、意味があると嬉しいんじゃないかな」
「どういうこと?」
「俺が花だったら、自分に意味があるのは誇らしいことだと思う。木や花ってだけで一括りにされるわけじゃなく、自分たちにもそれぞれちゃんと意味があるって思えたら、きっと嬉しい。俺たちと違って花や木は人と交わす言葉を持たないから」
俺たちが植物の言葉を全部代弁できたらいいけど、そうはいかないしね、と七果は笑う。
「それに存在自体が言葉の代わりになるなら、人もそのぶん身近に思ってくれるんじゃないかな。それは木や花にとっても良いことだと思うけど」
「うーん、そういう見方もある……のかな」
でもやっぱり私は勝手に決められるのは嫌だなあ、と粉末が口を尖らせる。
それを優しく見やって、七果は上を指差す。
二人の頭上には、丸い花粉のような花が、密集して黄色い綿のような天蓋をなしている。この時期によく見かける、鮮やかな花だ。
「粉末は、この花の名前を知ってる?」
問いに、頷いて答える。
「うん。ミモザ、って言うんだよ」
七果は、へえ、と返して、花を見上げる。
「じゃあさ、この花にも、人のつけた意味はあるのかな」
「えっとね、確か——」
粉末は考える。いつの間にか腹立ちは治まっていた。
七果と話すと、いつもこうだ。七果は、粉末に穏やかで優しい時間をくれる。考える時間と、新たな気付きをくれる。
こんな関係がずっと続けばいい、と粉末は思う。
ミモザの花言葉は、喉元まで出ていた。
【北河】【年度末】
友の家に向かう細道で大きな行李を背負った男とすれ違う。中年で、やや痩身の男は、しきりに背後に向かって頭を下げながら、ゆっくりとした足取りで遠ざかっていった。
それを見るともなしに見ながら目指す庭先に足を踏み入れると、今の男を見送っていたであろう友が私に向かって笑いかけた。
「よう、久しぶりだな。怪我か? 病か?」
分かっているくせに、誂うように問う。
「見ての通り、すこぶる健勝だ。君の手を煩わせることはない」
「そうか、それは何より」
この一連のやりとりも慣れたものだ。友——北河は、山奥の静かな村で医師として生計を立てている。
「今のは?」
怪我や病とも思えぬ旅支度を整えた男のことが気になって尋ねてみると、馴染みの薬師だ、との答えが返ってきた。
「もともとこの辺りを巡っていた人で、その都度手に入りにくい薬を売ってもらっていたんだが、そろそろ場所変えをしたいと申し出があってね。それで別れの挨拶にきてくれたんだ」
「それは——困りはしないか」
基本、薬草は友が自ら摘んで煎じてはいるが、それが全てではないことは知っている。医師として窮することにはならないのだろうか。
そう心配はしたが、あっさりと否定された。
「ここを去るにあたって、新たな伝手を紹介していった。それに必要なものは山程置いていってくれたから、薬がなくて難儀することは当面ないだろうよ」
それで今日のお前は何用で? と問われたから、片手に下げた経木を軽く掲げて見せた。
「足が向いたので、機嫌伺いに」
「そうだろうと思った」
はは、と顔を見合わせて笑う。
「中身は?」
「馬拉糕」
「ああ、ちょうど小腹が減っていたところだ。丁度いい、裏の桃が見頃だから、そこで食うとしよう」
「出払っていいのか? こんな昼日中から」
「扉に、裏の林に居るって張り紙でもしておけばいいさ」
彼がそう言うなら異存はない。私たちは連れ立って、彼の家の裏手にある桃園の、もっとも華やかに咲き誇っている樹の根本に並んで座った。
経木の紐を解いて、まだ温もりの残る馬拉糕を手に取る。一口齧ると、素朴な甘さがふんわりと蒸された生地から柔らかく舌に染み出してくる。
「茶が欲しくなるな」
一つ目を早々に食べ終えて友が言う。そして遠くの霞みかかった空を見ながら、
「この時期になるとな、みぃんな、何処かへ行ってしまうんだ」
と言った。
「そうなのか?」
「ああ。この気候が、そんな気にさせるらしい。長く苦しい冬を終えて、獣や虫たちが動き出すように、この季節になると、人も何かしら動きたくなるらしいな。新しいことを始めたり、新天地を求めたり——そんな人たちを、僕は何人も見てきた」
寂しげな内容だが、口調はどこかあっさりとしていた。
それが春の力ってやつなのかも知れないな、と言うから、君は何処かへ行きたいとは思わないのかと問うたら、笑って首を振られた。
「僕は何処にも行かないよ。どっちかって言えば、ここで出ていく人を見送る方が性に合ってる。孫力もいるし、それに、僕が旅に出てしまえば、君の羽を休める場所が一つ減ってしまうだろう?」
そう言って悪戯っぽく目元を緩ませる。
私の暮らしは根無し草に近い。皇帝の側に仕えていた頃には所属もあって、ひとところに居を定めたりもしていたけれど、今の自分は住所不定だ。気が向いたところに行って、気が向いたところに留まる。だがそれもいっときのことだ。定住はしない。それでも定期的に訪れる場所は幾つかあって、そのひとつがここ、友の住処だったりもする。
「僕は何処にも行かないよ」
再び、友が口を開いた。
「だから、君が時々来てくれると嬉しい。こんな風に、春の、皆が何処かへ旅立つ頃に、いろんな土地の土産話を持って此処に来てくれれば、僕はそれでいいんだ」
それが僕にとっての春だよ、と友はふたつめの菓子を手に取りながら、花の香吹き抜ける空のように軽やかに笑った。