【執行人】【職業体験】
そこまで、と声が響いて、腕を止める。拳は過たず狼の鼻面数センチ先で停止していた。
もとより寸止めのつもりだったから問題はないのだが、それでも拳を向けられた方は、詰めていた息をほっと吐き出した。
「大丈夫か?」
握り込んだ拳を開いて、促すように手を伸ばす。仰向けに倒れ込んだ相手が手を取り、ゆっくりと身体を起こしながら苦笑した。
「やっぱりお前は強いな。候補になったのは俺の方が早いくらいだったのに」
少し悔しそうに、けれどからりとした調子で言う男は獣人で、名は何と言ったか忘れてしまったが、俺と同じ執行人候補の一人だ。それに微笑で応えて整列し、「ありがとうございました!」と立会人役の執行人に向かって頭を下げる。
今日は週に一度行われる、執行人候補同士の手合わせの日だ。今日、俺と対戦した相手とも、かつて二、三度顔を合わせたことがある。獣人の特性を活かしたキレのある技を繰り出す好敵手だ。
挨拶を済ませて闘技場を出ようと踵を返しかけた時、立会人から、「洛竹、ちょっといいか」と声をかけられた。
なんだろう、と足を止めた横で、「じゃ、お先」と獣人の姿がかき消えた。龍游会館の闘技場は霊域の中にある。霊域ではよく見られる真っ白な空間の中に、石造りの闘技場が浮いていて、会館に所属するものなら誰でも出入りすることができる。誰かの霊域に入るなど、最初はあり得ないことだと思ったけれど、今ではもう慣れたものだ。
対戦相手が消えたのを見送って、改めて立会人の元に向かう。
「何でしょう」
その後、立会人の口から告げられた内容を聞いて、俺はぽかんと口を開けてしまった。
「任務に同行 すごいじゃない!」
紫羅蘭がほうきを握りしめて叫ぶ。俺は慌てて手を振りながら、
「そう大した話じゃないんだって。ちょっとした職業体験みたいなもので」
と言った。
そう。あの後、立会人である執行人から、次の任務に帯同するよう言われたのだ。とはいえ、俺はまだ正式な執行人じゃないから直接任務に関わる訳ではなく、安全な場所でのサポートがメインだ。言うなれば本採用に向けた実地訓練のようなもの——だと思う。
「それでもすごいわ。ついこの間候補生になったばかりだって言うのに。やっぱり私の人を見る目は確かだったようね」
ふふん、と何故か紫羅蘭が胸を張っている。
俺よりも余程誇らしげにしている様子に苦笑しながら、大きなパキラの鉢を持ち上げる。仕事があって良かった。こうして身体を動かしている方が気が紛れていい。どうかすると自分でもこみ上げる昂りに翻弄されてしまいそうだったから。
いよいよだ。いよいよ——かつて龍游の館長から提示された新しい未来、会館所属の執行人になると言う道の、新たな段階に足を踏み入れた予感が、俺の全身を満たしていた。
その三日後の夜、俺は執行人数人と共に、龍游の端にある集落を山の上から見下ろしていた。
チームリーダーである女が、今日の概要を告げる。
「もう頭には叩き込んでいるだろうが、最後の確認だ。今夜、集落が襲撃される。対象は五名、いずれも妖精。斥候の合図があった時点で、各人は速やかに捕縛に移れ。以上だ」
一斉に頷き、散る。ここからは所定の場所で待機だ。俺は集落にほど近い森で、樹木を使った足止めの役目を負っていた。
丈の高い草むらに身を潜めて待つ。
夜の森は、昼とはまるで違う顔を見せる。風がざわざわと梢を揺らし、夜鳥の啼き声が遠く近く響く。それ以外の気配はない。眼下の集落は寝静まって、しんと夜の底に沈んでいる。襲撃を予想させるものなど何もない、静かな光景。けれど水面下では何かが確実に蠢いていて、俺たちだけがそれを知っていた。
じりじりと時が過ぎる。常に無く緊張しているのか、強く拳を握りしめていた。
突如、キィンと鋭い耳鳴りが走った。空気を震わす音ではない。合図だ。
次の瞬間、闇の各所で、何かがもつれ合う音が続けざまに聞こえた。怒声と罵声と打撃音。ざざざっと草が鳴り、激しい音を立てて枝が折れる。
強い気配が近づいてくる。執行人のそれではない。俺は両手を地面に当てて一気に気を注ぎ込んだ。
土を跳ね飛ばして突如生えた樹に行く手を塞がれた何者かが慌ててたたらを踏む。俺はすぐさま蔓を伸ばして、その足首に絡みつかせた。バランスを崩して倒れたところを背後から追ってきた執行人がすかさず捕らえる。どうやら最後のひとりだったらしく、夜の森はまた当初の静けさを取り戻した。本当にあっと言う間で、作戦開始から僅か数分の出来事だった。
捕縛された妖精たちはひとところに集められ、手足を縛られて転がされていた。皆、目を爛々と光らせ、取り囲む執行人に向かって口々に罵倒の言葉を投げつけている。俺たちが最後の一人を連れて戻ると、そのうち最も年若く見える妖精が、いかにも憎々しげにこちらを睨みつけた。
「人間に飼い慣らされた犬どもめ、お前らに妖精の誇りはないのか! 同族を同族とも思わない所業は、いつか己の身に災いとして降り掛かると覚悟しておけ!」
それから男は大きな声で叫んだ。怒りと苦渋と失望に彩られた、血を吐くような叫びだった。
ああ、と思った。
こいつらは、あの日の俺たちだ。
人間を憎み、人間に味方する会館を憎み、その挙げ句、手を出さずにはいられなかった、あの日、あの時の俺たちだ。
「洛竹」
隣に立つ執行人が言う。
「大丈夫か」
「え? ああ、うん。どこも怪我はしていないよ」
「そうじゃない」
静かな眼差し。それで、俺はようやく気がついた。
この任務は、俺の試験でもあったのだと。
かつて同じ境遇で館に牙を向いた俺が、こいつらを見てどう思うか、その精神の動きを見極める試験でもあったのだと。
試されていたのだと分かると複雑な心境だが、仕方ない。信頼を積み上げるのは容易ではない。それでも、俺の事情を知っているであろう相手の目には、俺の心境を慮る色が確かに潜んでいて、それで少し救われた気がした。
俺は微笑った。それで、相手の目も少し緩んだ。
心を、ぎゅっと引き絞る。緩んだ箍を締めるように。
過去は振り払えない。だからこそ積み上げられた課題は、きっと同じ立場の誰よりも多いだろう。
けれど、やり遂げてみせる。必ず。
目線を上げる。闇夜を背に、銀の蝶がひらひらと音もなく舞い降りてくるのが見えた。
【西木館長】【会議】
堂内に入ると、そこは阿鼻叫喚の様相であった。
「領界 領界だと」
「聞いていないぞ! どうしてそんな巨大な能力を持った者が今まで野放しになっていたんだ!」
「強奪もだ! 情報班は一体何をしていた!」
「老君様へ連絡は」
「とっくにしています!」
文字通り蜂の巣をつついたような騒ぎの間を縫って自分の席に向かう。本部の会議室は西に大きく開けた窓があり、外は既に暗い。天井からの明かりに白々と照らされ、反射で鏡のようになった硝子を背に自分の席に腰掛けると、隣に座していた夏館長がちらりとこちらを見て会釈した。
「厄介なことになりましたね」
「ええ」
言葉は少なく、空気は緊張をはらんでいる。それもそのはず、現在、事の中心である龍游は彼女の連れ合いの担当地区だ。事態の状況についても規模についても、到底心穏やかではいられないだろう。
「潘靖殿は軍師として名を馳せた方。きっと適切な指示を行っていることでしょう」
「そうね。それでもあまりに規模が大きすぎる」
卓の上で組んだ指先に、ぎゅっと力がこもる。表情こそ変わらないが、今現在、連れ合いが直面している危機を傍観することしかできないという焦燥が感じられた。
これ以上は何を言っても根拠のない慰めにしかならない。私は視線を前に戻すと、狼狽している各館長たちを眺めた。開け放たれた入り口からは新規の情報を持った書記官がひっきりなしに出入りしていて、そしてそれを受け取るたびに、あちこちから呻き声が上がった。
『敵勢力が市街地に大規模な領界を展開』
この言葉が持つ恐ろしさを知らぬ者はここに誰一人としていない。それは言い換えれば絶望という言葉に容易く取って代わる。
領界はあらゆる外的干渉を受けない。一度閉じられれば、そこはもう完全に霊的な空間として隔絶される。唯一、空間能力者だけが通行可能だが、よしんば中に入れたとしても、霊域の特性上、支配する者に打ち勝つのは困難だ。つまりは展開されてしまった以上、九割九分我々の「詰み」である。
ゆえにこうして招集され、会合を開いたとしても、具体的な解決策など出てこようはずもない。会館の最高権力者である老君ですら手出しできない能力、それが領界だ。ここに居る者たちがそれぞれ立場を忘れ、恐慌を来しても仕方がない。未曾有の事態に直面して平静でいろと言うのが土台無理な話だ。
——いや、ただ一人。騒乱の中、時に取り残されたように微動だにしない人物がいる。
その人物は上座に座って腕を組み、面白くもなさそうな顔で目の前で繰り広げられるやりとりを見ていた。
普段会議嫌いで有名な「彼」まで来ていることに、改めて事の重大さを感じながら視軸を外しかけた時、突然、バァン! と激しい音が堂内に響き渡った。
人々の間に沈黙と緊張が走る。
全ての視線が彼に集中していた。彼は卓に打ち付けた右手を軸にゆっくりと体を起こすと、立ち上がって人々を睥睨した。
「俺様が行く」
高い声が有無を言わさぬ重みをもって響いた。
一拍の後、金縛りから解けたようにひそひそと囁きが交わされる。
「なんだ? 言いたいことがあるなら言え。不服か? 俺様ひとりでは頼りないか」
鋭い眼差しで見つめられた本部の役員が、いえ、と口ごもって下を向く。
これはこれは、と思った。よもや当代で一、二を争う実力者が直々にお出ましになるとは。
遠い遠い昔、やはり空間系に苦しめられた記憶が蘇る。確か、あの時も彼が一役買ったのではなかったか。
ならば一日の長だ。私は彼の背中を押すべく立ち上がった。
「良いのではないでしょうか。現地には首席執行人も居合わせていると聞きます。実質組織の上層に位置する方々に治められないような事態なら、ここで我々が幾ら雁首揃えていても無駄かと」
場内が水を打ったように静まり返る。決まりだ。
口元に添えていた扇子をぱたぱたと閉じ、左手にぽんと打ち付ける。
そのまま扇子を帯に挟むと、拱手の礼を取って頭を下げた。
「哪吒様。この場を代表してお願い申し上げます。どうか事態の鎮圧に尽力していただきますよう」
それを受けて彼はやおら立ち上がると、事もなげに言った。
「任せろ。お前らは事後処理に全力を注げ」
そうして片手を上げて堂内を出ていく。その飄々とした背を見送って、では、と改めて言葉を継ぐ。
「我々は我々にできることを致しましょう。まずは被害規模の想定から——」
私の呼びかけに、それぞれが我に返ったかのように動き出す。ずれていた歯車が噛み合って回り始める。泡のように議題が生まれ、解決策が次々と提示されていく。
ここに集った者は決して無能ではない。会館の中枢であり、各人がかの老君に見出された精鋭なのだ。
館長と言う名に与えられた責務。その名に恥じぬためのもうひとつの戦いが、現場を遠く離れた会議室で、いま正に始まろうとしていた。
【一凡仙人】【旧暦の七夕】
川沿いにある馴染みの楼閣は、温かな灯火と、笑いさざめきに満ちていた。
闇夜を背景とした飾り窓のある卓に向かい合わせになって、互いに杯を掲げる。
「今回はどこまで行ってきたんだい?」
すっきりとした後味の酒を一口飲んで言う。
「そんなに遠くではないよ。近くの星を三つほど回ってきただけさ」
対する友は杯を一気に干すと、からりと笑って言った。
「それで? 何か珍しいものは見られたのかい」
「うーん、どこも似たりよったりだったね。砂だらけで、生き物の姿もなかったよ」
「そうなのかい。不思議だねえ。この星にはこんなにも生き物がひしめいていると言うのに、君の行く先々にそれがないと言うのも」
「出かけるたびに、今度こそは、と思うんだけどねえ。最初に行った月に玉兎すら居なかったのには驚いたな」
「伝承とは案外あてにならないものだね」
「全くだ」
はは、と笑い合って、また一口酒を飲む。
「伝承と言えば、今日は七夕節じゃないか。天に引き裂かれた牛郎と織女が年に一度逢瀬を遂げる日だ」
「ああ、天の川。あそこにも行ってみたいと思っているけれど。牛郎と織女は本当にいるのだろうか」
「それこそ、その目で確かめてくるといい。もし会えたらよろしく言っておいておくれ」
「任された。——おや」
何かに気づいたように、目線を窓の外に向ける。
「あれは?」
促されて見ると、眼下に流れる川に幾つもの灯火が浮かんでいる。
「ああ、あれか。最近はああやって、川に灯りを載せた紙船を流すのが流行りのようだよ。なんでも水底に沈む死者の霊を弔うためだとか」
「へえ。人は面白いことを考えるものだね。でも寂しくて静かで、そして綺麗だ」
友はしばし感じ入ったように川を見、そして言った。
「老君。いつか僕が戻らないと君が思ったら、そのとき僕のために紙船を流してくれないか」
淡々とそんなことを言うものだから、少なからず驚いてしまった。
「なんだい縁起でもない。酔っているのかい」
「そうかも知れない。でも覚えておいて欲しいんだ。君は、僕の一番の友だから」
こちらを向いて、ふふ、と笑う。
「すまないね、困らせるつもりはないんだよ。でも君が忘れてしまったら、僕は本当にこの世から消えてしまうような気がするんだ。それはあまりにも寂しいじゃないか。だから君が僕を思って、僕のための標を流しておいてくれたなら、僕は何処に居たとしても、きっと安心できると思うんだ」
彼はいつか私に、この世の果てを見てみたいと言った。それはきっと、私には想像もつかないほどの旅になるだろう。
私達の寿命は気が遠くなるくらい長いけれど、それでも再び会えるとは限らない。
「分かったよ。でも君は戻る。せめて、私にだけはそう信じさせておくれ」
「努力するよ」
そう言って、再び笑い合う。それから私達は、またいつものように他愛もない話を始めた。
約束は、それから長いこと、心の深いところに沈み込むことになる。
あの夜の空気も、人々のざわめきも、今でも手に取るように覚えているのに、何故だろう、あの時の彼の笑顔だけが不思議に曖昧だ。
「——師父、用意ができました。行きましょう」
幼い弟子が、両手で大事そうに荷花灯を掲げている。
藍渓鎮では街を流れる川ではなく、星夜湖に紙船を浮かべる。弟子は父母の霊を慰めるため、さっきまで小さな手で一生懸命紙船を作っていた。
「ああ、行こうか」
読んでいた本を閉じて立ち上がる。
君閣を出て老君山を下り、星夜湖のほとりに立って空を見上げる。漆黒の夜空を背に、たなびく薄絹のような天の川が流れている。
彼は牛郎と織女に会えただろうか。
「遅いぞー」
桟橋に繋がれた小舟の上で、玄离が櫓をもてあそびながら言う。
それに乗り込んで漕ぎ出すと、夜空を映した湖面がすうと乱れた。
あたかも天の川の川岸を小舟で発ったかのように。
君もかつて、こんな風に星間を渡ったのだろうか。
紙船は流さない。私はまだ君を覚えている。
一凡。懐かしい友。いま君は、この夜の何処を歩いている。