【萩松】ふりふられ、てのひらでおどれ!(全文掲載) ――松田に好きな人がいるらしい。
萩原、なんか聞いてねぇ? というクラスメイトにはなんと答えたのか、今日の昼間の出来事だというのに思い出すことができなかった。クラスメイトは深く興味がなかったのかすぐ次の話題へと移ったが、ずっとそれどころではなかった。
あまりの衝撃に頭の中が陣平ちゃんのことでいっぱいで、陣平ちゃんのことが目に入れば「好きな人いるんだ……」と小学生みたいなことを思ったし、その視線の先にいる人を探したりもした。ずっと隣に居た幼馴染の秘密を盗み見てしまった気がしてなんだか落ち着かず、そわそわしていて当の本人には不審がられ心配される始末で。
そんな調子でまともに陣平ちゃんのことを見ていられなくて、放課後になるやいなや「ごめん今日予定あるから先帰んね」と一方的に告げて返事も聞かずに教室を飛び出してきた。ただでさえずっと考えてしまうというのに、何の因果か夕食はカレーでどうしたって陣平ちゃんのことを考えてしまい、家族にも心配される始末だった。
携帯に届いている陣平ちゃんからのメッセージも申し訳ないが無視して、自室のベッドの上に寝転がりぼうっと天井を見つめる。
――陣平ちゃんが「恋」ねぇ。
喧嘩っぱやくて仏頂面の幼馴染と甘い恋とが結びつかなくてふたつの単語を舌で転がすが、どうにも溶け合わなかった。
小学生からの付き合いで、学校の中の誰よりも、下手をしたら家族よりも一緒にいたし、なんでも知っていると思っていた。ふたりで悪戯を企んだり秘密基地を作ったり、自分たちしか知らないようなたくさんの秘密を共有してきたし、年頃になれば恋愛についても話してきた。彼女ができたら報告していたし(一緒に帰れなくなる日があるのでどうせバレるから知らせていただけだが)、別れたときは慰めてもらったりもした。
でも確かに陣平ちゃんの色恋については初恋以降聞いたことはなかったな、と思う。自分は明け透けに色々と話していたというのに、陣平ちゃんからは初恋の話以降そういったことを聞いていない。
淡い初恋以降何もなかったから、恋愛には興味がないのだと思っていた。陣平ちゃんが色恋に現を抜かしている姿なんて想像できなくて。
そういう人がいなかった、のではなく俺には話せなかっただけなのだろうか。
初恋はとても可愛らしいものだった。一目見るなり顔を真っ赤にしていたし、家に来る度そわそわして、聞くまでもなく「あぁ、陣平ちゃんは姉ちゃんのことが好きなんだな」ということが見て取れるくらい分かりやすくて。初恋の相手とは結ばれることはなかったけれど、ずっと弟扱いされてはいるがその相手とはいまでも良好だし、自分も含めて三人で出かけたりもする。それ以外に女の影を感じることはなかったからいつの間に、という衝撃が大きかった。
だからきっとそういう人ができたら分かると思っていたのに。いまだって感情を全身で現すけれど、さすがに小学生の頃のようなことはなかったか。
もう高校生だ。初恋のような可愛らしい想いだけではないだろう。触れたいだとか、キスしたいだとか、それ以上のこと――セックスしたいだとか。陣平ちゃんも健全な男子高校生だ。相手を想う気持ちにはそういった欲も伴うだろう。そこまで考えて、心がざわついた。ざわめく理由は分からなかったけれど。
きっと幼馴染の久しぶりの生々しい感情に密かに触れてしまい、どぎまぎしているのだ。そう結論づけて。
陣平ちゃんは口が悪いし愛想もないから勘違いされやすいが、なんやかんや面倒見が良いからなぁ。特別に想う相手には尽くすだろうし、大切にするだろうなとこれまでの付き合いで分かる。もし陣平ちゃんに彼女ができたら一緒に過ごす時間は減っちまうんだろうな、とこれまでの自分のことを棚に上げてそんなことを思う。親友の一番ではなくなってしまうことに寂しさは覚えるが、幸せになってほしいから。その恋を応援しようと誓った。
一晩経てばさすがに少し落ち着いて、視界に入るだけでは動じなくなった。むしろ幼馴染の恋路を応援しようと若干楽しく思えてきて。借りた少女漫画で読んだ「親友の恋を応援するポジション」っていいよな、なんて思うくらいには余裕ができて、ついニヤけちまう。
「陣平ちゃん昨日はごめんな? バタついてて、そんでそのまま寝ちった」
「ん、いや別に」
元気ならそれでいい、とこちらの体調を気遣うような言葉に、そういうとこだよなぁ、と思う。陣平ちゃんのことを考えててずっとそわそわしてた、なんてストーカーっぽいし本当のことは言えやしない。
応援しよう、と思うもののまずは相手を知らなければ。陣平ちゃんの意中の人は誰なのだろうと探るべく視線の先を追ってみても、眠たそうにどこかをぼーっと見ているか目が合うかのどちらかだった。目が合ってしまうのはマズい。本人は好きな人がいることすら俺に内緒にしているし、バレないようにこっそりと探らなくてはならないのに、陣平ちゃんはこちらが見ているのを目敏く見つけてくる。
そうやって数週間意識して見ていたけれど、その間ほぼ一緒に過ごしていたというのに陣平ちゃんに女の影を感じることはなく、同じクラスやこの学校の人ではないだろうというのが結論だった。陣平ちゃんは人間関係において器用なタイプではないし、分かりやすいかと思ったが近くにその相手が居ないのであれば分かりはしない。
他校にも調査範囲を広げてみるかぁ、と脳内で作戦を練り直していたところだった。
「んだよ、萩。最近うるせぇんだよ」
「え、俺何かした?」
煩かっただろうか。むしろ陣平ちゃんに好きな人がいると分かって以降、悪いかとあまりベタベタすることは避けていたはずだというのに。この学校の人じゃないだろうなと思ってからはあまり気にしていなかったが、それでも前ほどくらいにしていたはずだ。
「視線。ここんとこずっと俺のこと見てんだろ」
ぎくりとした。バレていたか。自分としてはうまくやっているつもりだったが、長年の付き合いの幼馴染の目はごまかせなかったらしい。
「言いたいことでもあんならはっきり言いやがれ」
ずい、と感じる視線の圧。見透かされそうで目を合わせることができず、逃げるように視線を逸らしてしまう。
「い、いやー、陣平ちゃん、最近色男に磨きがかかったなと思って」
「あ?」
いつもの調子で言えただろうか。直球では聞けず、そして咄嗟のことでうまい躱し方ができず、辛うじて出てきたのはからかうような言葉だった。
「萩にはそう見えんのか?」
「へ……?」
「いや、何でもねぇ」
「え、何、陣平ちゃん!?」
恋する陣平ちゃん可愛いんですけど!? なんて当然言えるわけもなく心の中で叫ぶ。
「何でもねぇ、つってんだろ!」
凄まれても照れ隠しと分かっているから全然怖くない。待ってろ陣平ちゃん、経験豊富な研二くんがキューピッドしてやんぜ、とウィンクしたいくらいだった。
なんて思って一ヶ月ほどが経っただろうか。陣平ちゃんはいつになったら秘密を打ち明けてくれるのだろうと待てど暮らせどその時を待っているというのに、一向にその気配がなくていい加減痺れを切らしそうだった。勝手に触れてはならない心の奥底をのぞき見続けているようで居心地が悪く、さすがに申し訳なくなる。つってもキッカケがないしどうしたもんかねぇ。
そう悶々と考えていると、ちょうど陣平ちゃんから今日は一緒に帰れねぇから先に帰っててくれと言われ、なんとなくいつもと気分を変えた場所でひとりになりたかったので屋上へと向かった。放課後にここに来るやつはいない。それこそ、告白とか――
「松田くんのことが、好きです」
マジかーーー。
緊張で震えた声に、本気さが伝わってきて。ここからは見えないが、一緒に帰れないと言われた状況からして「松田くん」は陣平ちゃんだろう。キューピッドの出番なんか必要なかったかぁ、と盗み聞きは申し訳ないと思いつつどうすることもできないのでその場でじっと待つ。
陣平ちゃんはなんと答えるのだろうか。
基本的に来る者拒まず去る者追わずの精神なので、タイミングが合って告白されれば「好きになれるかも」と付き合っていた。付き合った相手のことはもちろん「彼女」として大切にしてきたつもりだが、それでも決まっていつも「松田くんの方が大事でしょ」と長くは続かず振られてばかりいて。
陣平ちゃんと比べるなんて間違っている、と思う。どちらも大事に想っているけれど、土俵が違うから比べられるわけがないのに。また振られた、と陣平ちゃんに言えば呆れたようにまたか、と言われ「萩も本気で好きになれるやつに出会えるといいな」なんて慰められて。まるで自分にはいるかのように――今思えば――言っていたなと思う。
「……悪ぃ。好きなヤツがいるから応えらんねぇ」
「ううん。聞いてくれてありがとう。伝えられてちょっとスッキリした。松田くんの恋が叶うように応援してるね」
なんていい子なんだろう。さすが陣平ちゃんを好きになるだけのことはあるな、と去って行く後ろ姿をぼんやりと眺める。あれは隣のクラスの子だった。
あまり関わりのない子ではあるし、適当に断ることだってできるはずなのに、ちゃんと理由を伝えて断る誠実さ。真っ直ぐな男だ。きっとあの子もそういうところを好きになったんだろうな、と思う。
「っ、萩」
聞いたのか、と物陰に居た俺を見つけて陣平ちゃんはひどく驚いていた。そりゃそうだ、まさか告白現場を見られていたなんて思わないだろう。
「ごめん、聞くつもりはなかったんだけど」
聞こえちった、と言えば、「……そうかよ」とだけ返ってくる。
誰も来ない屋上にふたりきり。そして図らずも現場を押さえてしまった。聞くなら今しかないのでは、と口を開く。
「陣平ちゃん」
「んだよ」
恥ずかしそうに逸らされた視線。告白の現場なんて見られたいものではないだろう。自分がする側じゃなかったとしても。
「好きなコいるんだ?」
「……ああ」
聞かれていたのならもう逃げられないと腹を括ったのだろう。陣平ちゃんは隠すことなくその存在を認めた。初恋以来の恋バナだ。
「言ってくれりゃーいいのに。水くせぇなあ」
俺と陣平ちゃんの仲だろ? と言えばふたつの青に僅かに影が落ちた。俺には言えないような後ろめたいことがあるのだろうか。
「俺の知ってる子?」
ちらりとこちらを見て少しの躊躇いを見せた後、松田はこくんと頷いた。俺の知ってる人、だけど、同じクラスでも学校でもなさそうだし、それならば……、と少ない情報から導き出そうと頭をフル回転させる。様々な女の子の顔を思い浮かべては違ぇよなあ、と思っているとぽつりと溢された。
「叶う見込みねぇけど」
報われることのない想いだから、これ以上は踏み込んでくるなと。その声には拒絶と諦めが滲んでいた。
確かに陣平ちゃんは愛想はねぇけど実は優しいから本人は気づいていないだろうがよくモテる。勘違いされやすいが、相手がその隠れた優しさに気づけば可能性はあるだろう。むしろそれに気づかないヤツは陣平ちゃんの相手に相応しくない。
それに見た目だって悪くないどころかすげぇいいと思う。すらりと伸びた手足はスタイルの良さを引き立てているし、筋肉がつかないと嘆いている身体はほどよく筋肉に覆われていて男の俺からみても格好いいし、そして何より顔だって整っている。
そんな陣平ちゃんにここまで言わせるなんて、相手はなんて贅沢なのだろう。
「分かんねーじゃん」
「だって相手は端から俺のことそんな対象として見てねぇし」
そう言ってはた、と気づく。陣平ちゃんの好きな人って、もしかして。
やっぱり陣平ちゃんはまだ姉ちゃんのことが好きなのか、と思う。気安い関係ではあるが、弟のように扱われているのを見ているから。諦めたとは言っていたが、陣平ちゃんは一途にずっとひとりで想いをあたためていたのかもしれない。
「まだ姉ちゃんのこと好きなの?」
「は? なんで千速?」
「や、だって」
「千速はもうそんなんじゃねぇ、って知ってんだろ」
「じゃあ、誰?」
自分が思っているより低い声だった。その声に遮られるようにふたりの間に沈黙が落ちる。野球部のかけ声や吹奏楽部の楽器音を遠くに聞き、流れる雲をフェンス越しに眺めた。踏み込んでしまっている自覚はある。けど、これ以上知らない振りはできそうもなかったから。
沈黙を破ったのは陣平ちゃんだった。
「萩原は、それを聞いてどうしてぇの?」
「そりゃあ、陣平ちゃんの恋を応援したいからよ」
そうか、と陣平ちゃんがほとんど独り言のように呟く。再び落ちる沈黙。どれくらい経っただろうか、「そうだな」と吹っ切れたように言った。
「一回しか言わないからよく聞け」
「はい」
「萩」
「ん?」
「萩原」
「なぁに」
「だから、お前!」
俺? 萩原は首を傾げる。目の前の男はいまなんと言っただろうか。理解が追いつかなくてワンテンポ遅れてやってきたのは衝撃だった。
「陣平ちゃんの好きな人って俺ェ!?」
うるせぇ! とさっきまでのしんみりとした雰囲気を吹き飛ばすように、ばしんと背中を容赦なく叩かれる。それが好きな人に対する態度!? ほんとに俺のこと好きなの!? と思い、確かめようと顔を見ると紅く染まっていて。
これはマジのやつだ。
「ほらみろ。全然意識してなかったじゃねぇか」
「だ、ってさぁ……」
まさか松田が「そういう」対象として自分のことを見てくれていたなんて思わなかった。いままでの俺に対する言動を思い返して、ぶわりと顔に熱が集まる。
屈託なく心から笑う顔も、萩! と嬉しそうに飛び跳ねる声も、視線を追った先に俺がいたのも、あれは、それは、俺のことが好きだったからで。
「ま、俺が勝手に好きになっただけだから」
お前とどうこうなりたいとかはねぇよ。だから、今限りで忘れてくれ。
忘れてくれなんて、そんな。ずっと時を一緒に重ねてきた幼馴染の、どこかに消えてしまいそうな儚い表情は忘れられるわけがない。そんな顔、初めて見た。
松田は想いを伝えるだけ伝え、勝手に自己完結して終わろうとしている。打ち明けるのにどれだけ勇気がいっただろうか。それをただ受け止めるだけにはしたくなくて。
ずっと一緒にいた大事な幼馴染に、そしてこれからも傍に居たいと思う親友に真っ直ぐな想いを真正面から伝えられたからこそ、これまでのように「とりあえず」で返事をすることなんてしたくなかった。いままでの告白はお断りするにしてもうまく躱せていたと思うが、どうにも口が動かなくて。これまでどおりいるために、何をどう言えば正解なのか分からなかった。
じゃあ、と去ろうとする松田に、このままなかったことにしてほしくなくて、出口へと向かっていた松田の手を掴む。身体は咄嗟に動いたけれど、だからといって頭の中は整理できていなくて、ふたりの間の時間は止まったままで。
「おい、もういいだろ。さすがに恥ずいんだよ」
まだ、少しだけ時間がほしい。ここでいつものようにさよならして、松田が伝えてくれた想いをなかったことにはしたくないから。
「陣平ちゃん、……松田」
名前を呼ぶと、顔を上げてくれてようやく目が合う。
「松田の気持ちは嬉しいよ。嬉しい、けど、ごめん。同じじゃねぇから応えられない」
目を見て真っ直ぐと。友情以上の感情を向けてくれていたことに驚きこそすれ嫌悪感はなかったし、嬉しいという言葉に嘘偽りはない。だからこそ、同じ熱量で応えられないことが申し訳なくて。
せめてそれだけでも伝わってほしいと思う。松田にそういう気持ちを向けられていると知ってもなお、離れてほしいわけでも、離れたいわけでもないから。
「松田」
「んだよ」
「これからも、変わらず親友でいてもいい?」
ハァ? と心の底から呆れたような声が返ってくる。
「なんでお前が聞くんだよ。どっちかってぇと俺の台詞だろ」
「だって……」
ずっと一緒にいて、心地よくいられるこの関係を崩したいわけではないから。もし許されるなら、親友としてずっと傍にいたい。
「変わらず、って言ってくれっけど」
気持ち悪ぃとか、思わねぇの。
「なんで?」
なんでって、そりゃあ。幼い頃からずっと一緒にいて、高校生になるまでずっとほぼ毎日のように顔を合わせていた相手だ。そんな相手から友情ではない、自分とは性質の違う愛を向けられていたなんて。
気持ち悪いだとか、裏切りだとかと思われても仕方がないだろ。
「だからずっと言えなかった。ま、これでちったぁスッキリしたかな」
心を暴いてしまったことに罪悪感があったけれど、そう言った松田の顔は心なしか晴れやかに見えて。
「んじゃ、まあ、これからも変わらずよろしくな、萩」
「うん、また」
屋上でひとり松田を見送り、空を見上げれば、さっきまで見つめていた相手の瞳の色を思い起こさせる澄んだ青が広がっている。
松田が想いを寄せてくれていたなんて、全然、気づかなかった。朝から晩まで、何なら月曜から金曜では足りずに土日も一緒に過ごすくらい時間をともにしていたというのに。陣平ちゃんはそんな素振りはまったく見せなくて、意外と演技派かもなと思った。
なんて思うけれど。見せなかったというよりかは感じさせなかったというのが正しいのだろう。他のひととするより近くて多いスキンシップも友情の延長線上なんだと思っていたから。だから自分も『親友』として同じだけのものを返していたと思う。
――なのに気持ちは同じじゃないとか。
ひでぇよなあ、と思う。
その上これからも変わらず一緒にいたいだなんて。よく殴られなかったなと思う。気持ちには応えられないくせに都合が良すぎる。でも陣平ちゃんはそれでも許してくれると言った。
ちゃんとこれまでどおり親友やれるんだろうか。自分から願ったのだからちゃんとしなくては、とぱしん、と頬を叩いた。
その次に顔を合わせた日、少しくらい気まずくなるのかと思ったが、松田の態度は少しも変わらなかった。むしろ若干自分の方が意識してしまっているくらいで、なんだかいたたまれなくて。
想いを告げられてからこの二日間、久しぶりに土日を別々に過ごして会うことはなく、これだけ会わなかったのはいつぶりだろうかと思い返す。ぱっと思い出せないほど前のことだ。これだけ、というもののたった二日だというのに。
松田はこの二日間、何を思って過ごしていたのだろうか。墓穴を掘りそうで触れなかったけれど、お互いに気持ちをリセットするのに必要な時間だったと思う。
松田の性格を考えたらその場の思いつきのような軽い気持ちで伝えた訳じゃないことは分かっている。結果的にあのタイミングで言わせてしまったが、そこに辿り着くまで散々悩んで考えたはずだ。でも、いや、だからこそそれにしたって平然としすぎじゃね? ほんとに俺のこと好きなんだよな? と思うくらいに、態度が変わらない松田を見て思う。
松田の中であの告白はなかったことにされているのだろうか。なかったことにしているのかもしれない。
親友、でいるために。
ふとしたときに触れる指先の温度だとか、こちらを見つめる視線だとか。そこに含まれていた熱はなくなってしまったのだろうか。
「萩?」
「へ? ごめん、聞いてなかった」
「ん、やっぱいーわ。今日はやめとく」
「え、何?」「今日おまえん家で一緒にテス勉すっかって言ってただろ」「えぇ……」「寝んなよ」と、切り替えて調子を戻せばいつものように小気味よいテンポで会話ができていることにほっとする。
一緒に過ごせなくなったのは残念だが、ちょっといろいろまずいかもしれないのでちょうどよかった。今日はひとりで気持ちを整理したい気分だったから。テスト勉強は……、まあなんとかなるだろう。
「最近寝られてねぇみてぇだからよ」
すっと手が伸びてきて、目の下の隈をなぞる。誰のせいで、と思うけれどこちらの話だ。いきなりのことで驚いて、びくりと一瞬強ばった反応をしてしまった。物言いたげな瞳がじっとこちらを見つめていたが、何も言われることはなくて気づかないふりをする。
あのあと何事もなかったかのようにいつもどおり一緒に帰ってきて、自室で机に向き合っていた。寝てはいないが勉強なんて手につくはずがない。想いを告げられてからこの方考えるのは陣平ちゃんのことばかりだ。
自分だけに向けられる心からの笑顔だとか、目を細めて悪戯っぽく笑う表情だとか上目遣いで甘えてくる仕草だとか。他の人にはそうそう見せないそれに心を許されているなと思うし、陣平ちゃんの数少ない『特別』の枠に入っているのだろう。そこに恋愛の色が乗っているなんて思わなかったが。
『萩!』
『萩原』
『はぎ』
記憶の中で自分を呼ぶ声はこんなにも甘くて、見つめる視線は真っ直ぐでいて熱が籠もっていて。
――陣平ちゃんってこんなに可愛かったか?
自分は知らず知らずのうちにブレーキを掛けていたのかもしれない。そんな目で見ないように、そういう対象として考えないように。
気づかなかった。気づけなかった。気づかないように、していた。
男同士であることとか、そこに偏見はなかった。それでも陣平ちゃんをその対象として見ていなかったのは、いまのここちよい関係を失いたくなかったから。
物事には始まりがあれば終わりもある。始まらなければ終わらないからと、始まらないようにずっと気持ちに蓋をしていた。親友なら別れはないし、そのままでいられると思っていたから。
それでもあの日をきっかけに、始まってしまった。始まりのきっかけの言葉を陣平ちゃんがくれたのだ。
好きだ。陣平ちゃんのことが、好きだ。
なぜ今ごろ気づいてしまったのだろう。気づいてしまえばぶわりと一気に顔に熱が集まって。誰もいなくて良かった。
恋愛はタイミングが大事だというがそりゃねぇよ、とひとりごちる。とはいうものの、あの出来事がなければこのタイミングで気持ちを自覚することはなかっただろうし、人の心はままならないなと思う。
なんて、寝落ちる直前までそんなことを考えていたら欲望が具現化したとんでもない夢を見た。
『はぎ……』
なぁ、キスして。とこれまで聞いたことのないような欲に濡れた甘い声で強請られる。熱っぽい視線は理性を解かすにはじゅうぶんだった。
ずっと幼馴染だと、親友だと思っていた男に恋人がするようなふれあいを求められて、嫌じゃないどころか、したいだなんて。
いつも言葉以上に感情を伝える雄弁な瞳がそっと閉じられて、睫毛が期待に揺れている。喧嘩っぱやいのが信じられないくらいに唇は大人しく引き結ばれていて。自分のそれをそっと重ねると、お互いの熱が混ざり合ってとけてゆく。
いままで女の子とは何度もしてきたその行為に、必要以上の感情はのっていなかった。関係性を確かめるためのそれはキスと言えたのだろうか。これまでの女の子達に申し訳なかったなといまさらながら思う。
松田とキス、してしまった。親友同士ではこんなことはしない。
全部、自分が見た都合の良い夢だけど。
夢だからこそ質が悪い。自分の心に嘘はつけなかった。
――あぁ、俺は、陣平ちゃんのことが。
はぁ、と溜め息が落ちる。それはほとんど無意識だった。
「なんなんだよ」
「何が?」
とぼけんな、と。陣平ちゃんは大きな瞳をきっ、とつり上げて見つめてくる。
やっぱ無理とかだったらこういうのも止めっから。
陣平ちゃんはこれまでどおりに接してくれていた。後ろから抱きついてくるこの行為だって、友人としては過ぎたふれあいだと分かっているが、自分たちにとっては当たり前の日常で。それを変に意識してしまっているのは自分の方だ。
「や、別に嫌とかじゃなくて……」
嫌ではない、が、どこか落ち着かない。目の前の男で昨日あんなことを考えてしまったからだろう。その唇に触れたくて仕方がない。自覚してしまえば一直線だ。
はあぁ~と先ほどより深く、けれどもやわらかくなった溜め息が溢される。
「ん、じゃいーわ」
ふわふわと揺れる髪の毛がくすぐったい。そんな距離にいるというのにそれだけでは足りないだなんて。どこかで暴走を止めないと、と思うものの一緒に過ごす時間で想いは膨らんでしまうばかりで。
親友でいたい、と願ったのは自分だというのに。
――松田が女の人とふたりで歩いていたらしい。
――すっげー美人だったけど彼女かな!?
――この前言ってた「好きな人」じゃね!?
また喧嘩をして呼び出しを食らっている当の本人の不在を見計らい、クラスメイトが口好き勝手に口々にそんなことを言っていた。それが陣平ちゃん以外のほかのクラスの誰であっても聞き流せたけれど、好きな人の噂とあれば当然心中穏やかではないし、つい聞き耳を立ててしまう。
松田が? 女の人と? ふたりで?
いつの間にそんな人ができたんだよ、と面白くない。本当はそこにいられたのは自分かもしれないのに、とその権利を自分から手放したくせに、我儘がすぎると思うけれど。
本人から聞いたわけではない不確かな噂にさえ嫉妬してしまうくらいには、もうこの気持ちから目を背けることも、蓋をすることもできなかった。否、したくなかった。
陣平ちゃんのことが好きだから。
でも、それにしたってと思う。好きだと言ってくれたのがほんの少し前のことだというのに、もう心変わりしてしまったのか。陣平ちゃんは押しに弱いから、強く言われて断れなかっただけかもしれない。試しに、と言われて予定もなくて、たまたま一回だけ一緒に出かけただけとか。なんて都合の良いことを考える。
どうしよう、ほんとに好きな人だったら。一度気になってしまったらそればかりだった。
「萩?」
「あ、陣平ちゃん戻ったんだ」
「反省文で解放してもらった」
「よかったな」
んじゃ、帰ろっか。今日、うち誰もいねーんだけど、来るだろ? と噂の真相を確かめるべく誘えば何の疑念もなく陣平ちゃんはついてきて自分の部屋に二人きりになれて。モヤモヤを晴らしたくて、なんでもないことのように尋ねる。
「なぁ、陣平ちゃん。女の人とふたりで出かけてたって言われてたけど……ほんと?」
「ん、……あぁ」
心当たりがあるのだろう。否定してくれるのではないかという淡い期待は一瞬で打ち砕かれた。
「千速だろうな。 この前出かけたときに見られたんだろ」
「姉ちゃん!? てか、ふたりで出かけてたのかよ。俺、なんも聞いてねぇ」
陣平ちゃんからも、姉ちゃんからも。ふて腐れて言うと、そりゃ言ってねぇからな、とさも当然のことのように告げる。
「萩の様子がおかしいから、何があったんだって連絡来たんだよ」
「それで? デート?」
「デートじゃねぇ。家だとお前がいるし聞けなかったんだろうが」
「なんで俺の様子がおかしいからって松田に聞くんだよ」
「千速にはバレてたんだよ。『お前達は分かりやすいな』って」
表面上は親友を装いつつも、少しだけ、よそよそしくなっていた自覚はある。意識しないでいるには自分たちは近すぎたから。それでもクラスメイトからそれを指摘されたことはなかったし、女の勘ってヤツは侮れないなと我が姉ながら思う。
「『お前達ようやく付き合ったのか?』って聞かれた。実際は逆なんだけどな」
――撤回。
なんでいまそんなこと。気まずい空気が流れる。これまで親友として振る舞えるようにあえて触れてこなかったのに、自分から言い出すなんて。陣平ちゃんは平然とそのことが話せるくらいに整理ができたのだろうか。
「で、萩はなんで俺が女の人とふたりでいたらそんなに焦んだよ」
「そ、れは……」
そんなの、陣平ちゃんのことが好きだからに決まっている。と、素直に言えたらどれだけ良かったのだろう。
勇気を出して心を打ち明けてくれたにも関わらず振ってしまった相手に、いまさらどんな顔して好きだと伝えられようか。掌返しも良いとこだ。
それでも、この先もし陣平ちゃんに彼女ができて、この想いを伝えることすら許されなくなるのなら。これまでの関係性が崩れてしまうかもしれなかったが、触れたいという欲が出てきた時点で「これまで」と同じでいいなんて無理な話だった。
「あれからずっと、考えてたんだよ。陣平ちゃんのこと」
――そしたらキスする夢、見ちまって。
親友ではしないような、恋人がするようなこと。できたし、したいと思ってしまった。好きなやつと、触れあいたい。男子高校生の欲求なんてそんなものだろう。
「今更もう遅いかもしんねぇけど、好きになっちまった」
「同情ならいらねぇよ」
決死の告白は、ばっさりと切り捨てられた。
「ずっと『親友』なんだろ?」
そう言ったのは自分だ。無理して関係を変えて、やっぱ無理となるくらいだったらこれまでどおりでいい、とどこかで思っていたから。
「松田」
「んだよ」
「ほんとに! 同情、なんかじゃねぇよ」
がしり、と両肩を掴んで無理矢理視線を合わせる。っ、と飲んだ息に加減ができなくて痛い思いをさせてしまったのだと思うがそれには構ってやれなかった。
「だ、ってお前、俺のこと好きじゃなかったんだろ」
陣平ちゃんから想いを告げられたとき、好きでは、あの時の陣平ちゃんとは同じ気持ちではないはずだった。はず、なのに。けれど、人の気持ちはうつろうものだ。そんなの、陣平ちゃんだって分かっているだろうに。
そのきっかけが、陣平ちゃんからの告白だなんて現金だとは思うけれど。でも、いまのこの気持ちに嘘はなくて。陣平ちゃんのことが好きで、触れたくて、キスがしたくて。それ以上のことだって、したい。
「なあ、どうしたら信じてくれる?」
情けない、声だった。きっとこんなの陣平ちゃんが好きな、好きだった俺じゃない。けれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。かっこ悪くたっていい。なんとか、どうにかしてこの気持ちを伝えたくて。もう陣平ちゃんの心が落ち着いていたとしても。
「色男がざまぁねぇな。そのツラ拝めただけでじゅうぶんだ」
じゅうぶんだなんて言わないでほしい。自分勝手だとは分かっているが、見ているだけでは、これまでのままでは満足できなくなってしまったのだから。こころに触れたいし、身体だって暴きたいと思う。
恋がこんなに暴力的な感情だなんて知らなかった。教えてくれたのは他でもない。
「陣平ちゃん」
するり、と頬を撫でる。傷の耐えないそこに触れるのは自分だけがいいという独占欲。
「……夢じゃなくても、キス、できんのかよ」
まさかの言葉に、え、と固まってしまう。こちらをまっすぐと見つめるふたつの瞳が不安げに揺れて、答えを待つ。
「できる、し」
してぇ、とぽつりと溢れた言葉は懺悔だった。今更こんな、ごめん。とすん、と松田の肩に頭を押しつけると、いいぜ、と耳元で聞こえて。
ほんとに? いいのか? それこそ松田は同情で許してくれたのかもしれない。
それでも、よかった。
夢で見たみたいに、ゆっくりと瞼が下ろされる。口以上にものを言う勝ち気な瞳が閉ざされて、その感情は読めなかった。
心臓の音が伝わるんじゃないかというほどにばくばくと煩くて、らしくもなく緊張しているのが分かる。このドキドキが伝染れば良いのにと願う気持ちもあったが、好きな人の前ではスマートに決めたくて。
これが最初で最後になるかもしれない。どんな奇跡か気まぐれか、好きな人に触れることを許されたのだ。
大事なものに触れるように、決して壊さないように。そうっと唇を重ねる。
少しかさついた唇は、これまで触れてきたどの女の子のそれよりも、そして自分の想像よりもはるかに甘くて。触れるだけのキスひとつでこんなに幸せになるのかと心が満たされていく。
たったの三秒が数分にも、ほんの僅かな時間にも感じられた。名残惜しくも唇を離して、吐息がふれる距離で囁く。
「こんな風にキスしてぇって思うくらい好きになっちまった、し、それだけじゃ嫌だ」
――でも。
俺だけ好きになっても意味ねぇよな。悪い、いまさら掘り返して。
人の心はうつろうものだと分かっていたじゃないか。自分がそうであったように、松田の気持ちだって変わっているかもしれないのに。どうして変わらず松田の心がここにあるのだと思っていたのだろうか。独りよがりの勘違いも甚だしい。
「萩原」
ひとりでぐるぐると考えていると、耳に馴染んだ声に呼び戻される。
「変わらねぇ、って言ったよな」
なんでか、分かるか? と尋ねる声は穏やかで、優しくて。
陣平ちゃんは俺に好きだと告げたあとも何も態度は変わらなかった。そりゃあ親友としてずっと一緒にいて、そして望むとおりこれまでと同じように『親友』として振る舞ってきたからそれに陣平ちゃんも応えてきたのだろう。
「俺が、変わらずいていいかって言ったからだろ?」
「分かんねぇか」
まぁ、俺だけ言わねぇのもずりぃよな、と溜め息とともに零される。ちらり、とこちらを見て逸らされた視線。紅く染まった頬に、まさか、と期待してしまう。
だって、そんなの都合が良すぎる。
「お前への気持ちも変わんねぇからだよ」
嘘だろ、と思うより前に身体が動いていた。どこか拗ねたような声すら愛おしくて、陣平ちゃん、とぎゅっと力の限り抱きしめる。痛ぇって、と文句がとんでくるがそんなものは耳に入ってこなかった。
「松田ぁ」
「……んだよ」
「好き、すげぇ好き。陣平ちゃんは?」
「調子いいヤツ。だから、さっき言ったろ」
「ううん。ちゃんと聞きたい」
抱きしめる腕の力を弱めて視線を合わせる。仕方ねぇな、とそんな気持ちが込められた溜め息だって幸せの色をしている。
「テメェが気づく前から、ずっとお前に惚れてんだよ。待たせてんじゃねぇ」
「は~、ごめんね。陣平ちゃん」
「んで謝んだよ」
「一回陣平ちゃんのこと振っちまった。いまこんなに好きなのに。あんときの俺のこと殴りてぇ」
「まあ、でもいまは好きなんだろ。それでチャラにしてやるよ」
「ったく、男前だねぇ」
傷つけてしまっただろうに、それでもいまが良ければと許してくれる。男前すぎる恋人に、ますます好きになっちまう。
「まぁ、それに」
「それに?」
あれでちょっとは意識してくれっかな、って思わねぇでもなかったし。
「……マジ?」
内緒話をするような囁き声で秘密を打ち明けて、悪戯が成功したような子どものような顔で笑う。
「俺、てのひらの上で踊らされてたってこと!?」
初めて知る衝撃的な事実に大きな声が出てしまったのは許してほしい。確かにあれをきっかけに自分の恋は始まったが、松田の術中にまんまとはまっていたとか。策士では。
「でも、まあ、正直賭けだったぜ。伝えたところでお前が俺のこと避けることはねぇと思ったし、分は悪くねぇと思ったけどな」
「……俺、陣平ちゃんのこと大好きみたいじゃん」
「違うのか?」
「好き、大好きだよ陣平ちゃん。待たせた分いっぱい言わせて?」
心の中でせき止めていた想いが、言葉となって溢れていく。消えてしまうはずだった想いが届くなんてさっきまでは考えられなかったというのに。
「なぁ、陣平ちゃん」
もう一回だけ、キスしていい?
「ヤダ」
がん、と頭が殴られたかのようにその言葉がリフレインする。
え、だって俺たち想いを確かめ合ってこんなにいい雰囲気だったのに……!? 陣平ちゃんも好きって言ってくれたし両想いなんだよな……? と直前までのやりとりを思い返す。
「一回『だけ』でいいのかよ?」
陣平ちゃんはくつくつと楽しそうに笑って言う。くそ、からかわれたというのにかわいい、なんて。
「んーん。もっとしたい」
これからもこのかわいい恋人に踊らされるんだろうなと思う。まあ、それも悪くねぇな、と思うくらいにはもう惚れてしまっているのだから仕方がない。結局惚れた者負けなのだ。
でも、まあ、やられっぱなしは悔しいので。触れるだけのキスで満足している恋人の唇を解いて深いキスを仕掛けてやった。
せっかく恋人になったんだ、ふたりで踊った方が楽しいだろ?