指先に、纏う月桂 注意!
新米開拓者(現在らふをよちよち歩き中)の為、所々間違っている点があると思います
スクシオですが、アベンチュリンさんが結構な頻度で出演しております。苦手な方はお戻り下さい
階差宇宙の話が出ておりますが、アベンチュリンさんも出ております。捏造を繰り返しているのでお気をつけ下さい
レイシオとアベンチュリンをとても仲良し(当社比)で書いております。友愛です
スクリューガムさんがただの紳士(?)ではありません。少なくともこの小説ではそこまで真っ直ぐではないと思います
以上が問題なさそうな方はこのままお読み下さい
恋愛感情。
書いた通りの、愛だの恋だの世の中に存在する一定数の人間が騒ぐであろう、非常に甘やかに感じる筈のそんな感情を。ベリタス・レイシオという男は一切信用していなかった。
そも、恋愛の始まりとは錯覚から起こるとも言われているのだから、信用なぞ有って無いようなものだろう。
そう言った感情に動かされる人間を否定はせずとも、所謂“お花畑”のような状態になっている教え子や同僚を見る度に、馬鹿がとんでもなく馬鹿な事に身を費やしている、としか思えないのがレイシオだったのだ。──そう、“だった”のだ。既に過去形になっている。
知恵の星神ヌースに焦がれ、天才に焦がれ。諦念を滲ませながら、地上に居る人をそれぞれ見比べて、必要ならば自身の知恵を貸しつつもその星々に手を伸ばし続けた。
その結果。ずっと頭上で煌めいていた一つの星に、そっと指をとられた事を。彼は今でも鮮明に思い出せるように、その優秀な脳みそにしまい込んでいる。
スクリュー星の王、天才クラブ#76 スクリューガム。一癖も二癖もある天才クラブの中において、彼らからもその辺にいる凡人からも“優しい”と言われる、傑出した人格者。
そんな男が、階差宇宙という実験の為にとレイシオを勧誘してきた。とはいえ、レイシオにはレイシオなりに彼らへ思う所があり、彼の誘いは丁重にお断りし、性格も相俟った所為でそこそこに辛辣な“意見”も添えてスクリューガムへと伝えたのだが。
しかし、それでも。彼の星が自分を見下ろし視認して、手を差し伸べた事に変わりはない。
スクリューガムの硬質的な指先が自身の手に触れた時に、ベリタス・レイシオは──その内側で燻っていた火種を、見事恋慕に昇華させたのである。
元々、恋情を持ってはおらずとも、それなりの好意を持っていた相手なのだからさもありなん。そもそも、あの優しさの塊のような男を嫌える者なんぞ中々居ないだろう。
などと言えれば話は簡単だったのだが、生憎Dr.レイシオという男がそんな単純な思考をしている筈もなく。始めて抱いた恋情を変に難しくこねくり回しては、一人で静かにパニックを起こしていた。
定期的に研究に対しての意見を求められ、自身が返す答えに落ち込むという謎の一喜一憂をする彼が、「きっとあの男ならば経験も豊富だろう」と相談しに足を運んだのが──未だ尚美しく輝き続ける、砂金石の座す場所だった。
一方で。頼りにされた砂金石ことアベンチュリンは、綺麗に整った眉をへにゃりと下げて、世の中の女性達が放って置かないその美貌に困ったような表情を浮かべながらも、その裏では面白くて仕方がない、とゲラゲラに笑い転げていた。決して表に出すヘマはしないが。
一度、どうして自分に相談を? と問いかけたのだが「他に誰が居る?」なんてしれっとした顔で返された事がある。「マイフレンドは?」「君はあの開拓と愉悦の運命が混ざり合ったようなトンチキが、僕に真っ当な答えを返してくれると本気で思っているのか? 思っているなら早急に頭の中を治療した方が良いだろうな、今すぐ行ってこい」「そこまで言う?」なんて経緯もあって、Dr.レイシオの相談相手という割ととんでもない肩書をアベンチュリンは背負ってしまった。問題はないから別に構わないのだけれど。
今日も今日とて、相談という名の“レイシオ自身がスクリューガムに取った行動について振り返り、勝手にダメ出ししていく姿を眺める会”を開くつもりで訪れた優秀な教授を温かい紅茶と共に出迎えて、アベンチュリンは今日はどんな話から始まるんだろうか、とその相貌にふわりと柔らかい笑みを浮かべるのだった。
「……そもそも彼、スクリューガムは……どんな人間が好みだと思う? 君が思い付く限りの人物を挙げてくれないか」
「それは構わないけれど。……聞いてどうするんだ?」
「ん。僕が出来る範囲で……己をその人物達に寄せる事が出来ればどうだろう、と考えていたのだが」
出された紅茶で喉を潤しながら話す男を、アベンチュリンは改めて見つめ直し彼に言われた通り、要望に該当する人物を思い描いていく。
あの機械の王様の恋愛対象だって? トントンと指先でこめかみを叩き、思考を巡らせて如何にか出した結果を静かに唇に乗せてレイシオに告げた。
「天才クラブに居るんだから、頭の良い人間は大体好きなんじゃないか? あと、突拍子もない人間。それこそマイフレンドみたいな」
「それはそうだろうが」
「というか前提として……無機生命体の恋愛って、同じ者同士でするものとかじゃないのかい? ア、生殖行為とか本能とかそういうのは抜きにしてね。僕が知らないだけで、そういう感情は有機生命体にも向けられるものなのか?」
そう、スクリューガムは無機生命体。その身体の全てが機械で構築されている。
彼が類を見ない程の人格者であれ、無機生命体と有機生命体の架け橋たらんとしている人であれ。やはり有機生命体である我々とはどう足掻いても埋める事が出来ない差、というものがあるのではないか、とアベンチュリンは思うのだ。
そこに、きっとレイシオが抱く想いは不毛なものだから否定しようだとか、無機生命体がそんな情を持つなんて! みたいな類の差別を持ち出すという真似をするつもりは毛頭ない。
だって、アベンチュリンは既に知っている。
自らが友と呼ぶあの“開拓者”が。そして、稀に列車の中で遭遇する幼き少女が、家族である大きな機械──スヴァローグがどんなに優しいか、どんなに頼りになるかとまるで自分の事のように嬉しさを溢れさせて語る様を。彼は知ってしまっているのだ。
故に、スクリューガムが友情や尊敬などという感情をレイシオに向けたとしても何ら可笑しい事ではない、と普通に断言出来るのだが。
──彼が恋や愛に溺れる所なんて、微塵も想像がつかないんだよなあ、これが。
思考を整理する途中で傾けたティーカップの中に、こっそりと溜息を注ぎ込んだ。
ちらり、と正面に視線を向ければ、珍しくもポカンとした表情をしているレイシオが居て。嗚呼、本当にパニックになっているんだな、と慣れぬ感情に振り回されている男に心の中だけで、少しばかりの同情を寄せる。
そんなアベンチュリンの心情を知らないレイシオは、彫刻のように固まっていた所為で薄く開いたままだった口を漸く動かして、呆然と彼らしからぬ言葉を呟いた。
「僕が……機械に……?」
「どうしてそっちの方向に振り切るかなあ。いや、解らないけどね? 内面を重視するタイプかもしれないし、やっぱり無機……どちらかと言えば、君が被ってる彫刻の方が好きなのかもしれないし」
正直な所アベンチュリンは、彼の王はレイシオの外見も内面も相当気に入ってる方だとは思っているのだけれど。不確かな事は言わないのが吉だろう。雄弁は銀、沈黙は金とも言うのだし。
まあスクリューガムの方だって、レイシオの行き過ぎる自虐に物申したい所もある筈だが。それも彼の口から直接言って貰えば宜しいのだ。この教授の美徳と悪徳を伝えるのも、ちょっと頭がパッパラパーになっている今が届きやすいだろうから。
視線をウロウロと頼りなさげに彷徨わせているレイシオを、少しでも安心させるようにアベンチュリンはへらりと笑う。
数少ない友人に訪れた、滅多にない情緒育成の機会に乾杯! とティーカップをさりげなく掲げて、彼は大層美しく華やかに破顔した。──それにしても。
「……彼の前では、彫刻を被ったままで居るとしよう」
何故この男はこんなにも面白いんだろう。
再び変な方向に暴走したレイシオの発言に、アベンチュリンは口に含んだ紅茶を吹き出しゲホゲホと咳き込んで、ひっくり返るような笑い声を部屋中に響かせる事となった。
⬛︎
スクリューガムは最近、ふとした瞬間にどうしても考えてしまう事柄がある。
それは、研究の進捗でもなければ自らが身を置くスクリュー星の事でもなく、天才クラブのメンバーに対してでもない。
常人と比べてとんでもない速度で回転しているその思考回路の、それでも少しのリソースを割いてでも考えてしまう事象の内容とは──博識学会の学者、ベリタス・レイシオの事に他ならなかった。
別に、彼が研究について過剰な程に口を出してきた、などという嫌な出来事が起こっているなんて訳ではない。
あくまでも、レイシオがスクリューガムに対して取る行動によって、そのスクリューガムの思考にモヤモヤとしたノイズのような不快感が混ざり合っているだけ。それだけだ。そのそれだけの事がどうにも腑に落ちなくて、いつまでも頭の片隅に残っている事実がスクリューガムにとっての問題だった。
レイシオに階差宇宙の件で意見を求めに行ったり、そうでなくとも彼と話す事で自身の中にインスピレーションに似たものが浮かぶ事を期待し、ただの会話を目的としてレイシオの元へ向かい、また彼が此方へ足を運んでくれる、という交流をスクリューガムは純粋に楽しんでいたのだが。
どうしてか、最近になって彼と目が合わなくなった。身長が──などという勿れ、目が合わないどころかそもそも、あの整った素顔すら滅多に晒される事すらなくなったのだ。それも、スクリューガムの前だけで。
些細な事ではあるのだが、しかし多少なりとも悩まざるを得なくなっている事態である。
以前はそうではなかった。そもそも、レイシオが被り物をしているのは“バカ・アホ・マヌケを視界に入れる事に耐えられないから”だと言っていたのを、スクリューガムの優秀なメモリはしっかりばっちり記憶している。
であるならば、今のレイシオが仮にも天才クラブに所属している己と二人きりで過ごす際に、あの彫刻をずっと被っているのは可笑しいのではないか。否、決してあの被り物を嫌っている訳ではないが。それとこれとは話が別だろう。
兎にも角にも、ぐるぐる考えてみても特にこれが原因だ、と言えるような答えは見出せず。
スクリューガムは早々に自分のみで答えを出す事を放棄した。幾ら考え、演算しても。人の心を予測出来たとてそれは欲する答えではないのだから、と。
一人で煮詰まるまで考えるくらいなら、他者に意見を求めるべきか。
彼は、溜息に似た音を短く発して既に到着していた目的地、宇宙ステーション「ヘルタ」の通路を歩いて行った。
「そういった訳で原因が未だ不明なのですが、今までの話を踏まえた上でヘルタさんの意見をお聞かせ願えますか?」
「人には見せられないような、とんでもない肌荒れでも起こしてるんじゃない?」
「……肌荒れ、ですか? 彼が?」
「いや知らないけど。夜更かしとかすると肌荒れするって、アスターが言ってるのを聞いた事があるだけ」
スクリューガムの方を見ないまま、ヘルタはひたすら自分の手を動かし作業を進めている。眉間にぎゅう、と皺を寄せたその表情は「そんなどうでもいい事を聞く為に来たのか」と言わんばかりであった。
少しの沈黙が続いて、「肌荒れ……」とスクリューガムの小さな声が静かな空間に反響する。困惑したような声色は、信じられないという感情で溢れていた。ヘルタは、そんなスクリューガムをじっとりと睨んでから、諦めたのか深い溜息を吐いてやっとその口から助言と呼べるような発言をする。
「彼の見た目に変わりがないのなら、視覚か心境に変化があったんじゃないの」
「ふむ。どうぞ、そのまま続けて下さい」
「はあ……。そう、例えば──貴方の顔を見たくない、若しくは貴方に顔を見られたくない……とか」
「……検索結果:そのように思われる原因が該当しません。困りました」
「へえ。貴方が困るんだ、スクリューガム」
珍しいね。彼女は、誰もが愛らしいと思うであろうその顔に、にんまりと愉快なのを隠しもしない笑みを貼り付けて言う。
ヘルタは、「少し気分が良くなったから、もう一個提案してあげるね」とデスクに放ってあった一枚の紙を手に取って、スクリューガムにぐい、と無理矢理押し付けた。彼は少し皺の寄ったソレを受け取って、書かれている文字に目を通していく。
「これは……」
「ルアン・メェイが置いてった、オススメらしいお茶とお菓子の組み合わせリスト。要らないって言ってるのにそのまま置いてかれたの。折角だから貴方にあげるね、次彼女が来るまでにどれか一つでも買っておいてくれたらそれで良いから」
ルアン・メェイも自分が訪れた時用に置いていて欲しい、と言った訳ではないのだろうが。それはそれとして布教もしたいしあわよくば自分も食べる事ができるだろう、なんて理由でヘルタに渡したのであろうリスト。それがスクリューガムの手に渡ったのだった。
機械特有の無機質な瞳でヘルタを見下ろせば、彼女はふんす、と得意気に笑っている。
「それの中から好きなのを選んで、休憩にでも誘ったら? 彼も息抜きに食べるか飲むかするだろうし、被り物を外した時に彼の状態も確認すれば良い。真相も解ったら尚良しじゃない」
「成程。ヘルタさん、貴女に感謝を。近い内に、このリストに載っている物を数点此処に送らせて頂きます」
「うん、そうしておいて」
それじゃあね、と再びデスクへ向かったヘルタに一礼して、スクリューガムは彼女のオフィスを後にした。
さて、彼は。Dr.レイシオは、どのような味のものが好きだろうか。そもそも、仙舟の菓子類は好みに合うのだろうか、なんてまだ解決もしていないのに浮き足だった事を考えながら、少し軽くなった足取りで自身の船へ向かって行く。
──ああ、でもその前に。
「彼の方が、私よりも詳しいでしょうか」
想像した友人に手早くメッセージを送って、立ち止まる。
送信先に書かれている名前は“穹”、件の開拓者だった。その件名は──Dr.レイシオの食の好みについて。
シュポン、と軽い音と共に可愛らしいマスコットとクエスチョンマークが描かれたスタンプが返ってきて、スクリューガムの口から「ふふ、」と笑いが溢れ落ちる。
「どちらにせよ。行動あるのみ、ですね」
どうせ、ルアン・メェイの為にも複数購入する事は決定事項なのだから、迷うも何もないだろう。
そう結論付けて、連絡をした経緯を説明するようなメッセージをもう一度開拓者に送った後、彼は止めていた足を再び動かし始めた。
⬛︎
第一真理大学にある、ベリタス・レイシオの研究室。
幾度かは足を運んだ事のあるその部屋の前に、スクリューガムは立っていた。
携えている袋には、明らかに一人への土産の量を超えているように見える茶葉と菓子。ミチミチに詰まっている所為で表面からは視認する事は叶わないが、その袋の中には本も数冊入れられている。
それら全てを、重さを感じないような所作で軽々と持ちながらも、少しの緊張も一緒に持ち合わせてスクリューガムはその場に立っていたのだ。
整える呼吸など無機生命体の身には存在しないが、それでも妙にそわそわと落ち着かない感情を抑えるように「ン、」と咳払いをし、目の前の扉をノックする為に手を上げて──。
ガチャリ、扉が開いた。
「ん、あれ?」
「おや、」
「……えーっと、スクリューガム、さん?」
「貴方は、アベンチュリン総監……でしたね。こんにちは、このような格好で申し訳ありません」
「いやいや! 気にしないで下さい、お目にかかれて光栄です。それからどうか、総監と呼ぶのは勘弁して頂けませんか」
「では、アベンチュリンさんと」
「ふふ、ありがとうございます。まあ、僕はもうお暇する所なんで大丈夫ですよ。部屋の主は僕を放ってずっと考え事中ですから」
そう言ってからりと笑う、レイシオの研究室から出てきた青年──アベンチュリンを、スクリューガムはスルスルと視線を動かして余す事なく観察していく。
この青年が時折、彼の元へ言って何らかの話をしているのはスクリューガムも知る所ではあった。しかし、意外にもその頻度は高いのやも、なんて考えの他に目の前に居る男とどんな関係を築くべきか、とうっすら数パターンを浮かべている内に、アベンチュリンの眉がすっかり下がってしまったのを見て、機械の王はカクン、と首を傾ける。
「どうかなさいましたか?」
「いや、圧がさ……強いんだよな……。心配しなくても、貴方が想像するような関係じゃないよ。僕はただの相談相手さ」
「相談相手、ですか」
「そうそう、貴方の前だと素直にお喋り出来ない彼のね」
「……失礼。今、なんと?」
思ったより動揺しているように見える無機生命体を見たアベンチュリンは、実に嬉しそうに微笑んだ。少なくとも、レイシオの一方通行ではないのでは、と。
「申し訳ないけど、彼今とち狂ってるから。しっかり決めるなら今だと思うんだ、僕はね」
「……結論:本当に、レイシオさんが“相談”されていたようで」
「はは、うん。……僕に言われるまでもないとは思うんだけど、レイシオはさ、善人なんだよね。笑っちゃうくらい。そんな男から相談を全部受けた身からすれば、しっかりガッツリ報われて欲しいと願っちゃうんだ。だから、貴方がどんな想いを抱えてるかは知らないけどさ」
「……はい」
「────彼を、宜しくね。スクリューガムさん」
「ええ、アベンチュリンさん。彼が私にどんな感情を抱いていようと、私は彼の側に居たいと思っています」
「うん」
「そして、どうかこれからも。彼を、宜しくお願いします。……私に言われるまでもないとは、思いますが」
「そうだね、言われるまでもない。……貴方と話せて良かったよ。それじゃあ、僕はこれで」
「はい。良い午後をお過ごし下さい」
ヒラヒラと手を振って、砂金石は去って行く。スクリューガムはその後ろ姿を見送ってから、先程は出来なかったノックをしてレイシオの研究室──彼の城へと足を踏み入れた。
レイシオの思索の邪魔にならないよう、音に気をつけながら慎重に扉を閉める。
さて、と顔を上げ此処の主を探す為に視線を動かせば、優秀な瞳はすぐにでもその姿を見つける事が出来た。
部屋の奥。最低限、それなりにもてなせれば良いだろう、と声が聞こえてきそうな程に狭いスペースにある、これまた控えめな来客用のテーブルとセットの椅子に座りながら、目を伏せて思案しているレイシオの横顔がスクリューガムの瞳に映る。
最近、長命である己が飽き飽きする程に目撃していた特徴的な彫刻はすっかり取り払われて、今回確認する事が目的でもあった素顔が、惜しみなく晒されている。外から柔らかく差している午後の斜光が、彼のさらりとした髪に注がれて、軽く俯いているその顔に優しく影を落としていた。
その様を、その一瞬を。思考を巡らすよりも早く、スクリューガムはメモリに焼き付けた。たった少しの期間、見る事すら叶わなかった、ただただ美しいものが其処にある。そう判断したが故に。
しかし、幾ら彼の姿を眺めていたいと思えども、ずっと見惚れたままの状態で立ち尽くしては居られない。時間は有限で、己はまだ彼に声の一つもかけられていないのだから。
スクリューガムは、一先ずレイシオの名を呼ぶ事から始める──のではなく、この部屋にある簡易的なキッチンの方へと身体を向けるのだった。
ぐるぐる、グルグル。
アベンチュリンにどれだけの内容を話そうと、消えた端から湧いて出る感情、考えはレイシオの頭から離れることなくずっと巡り続けている。
早急に解決策を講じなければ、その内研究などにも支障が出ることだろう。他人事のようにそんな言葉を浮かべるくらいには同じ事を──スクリューガムという男の事を、繰り返し考えていた。
恋は盲目、なんて、良く言ったものだとレイシオは嗤う。
凡人である自分が、こんな感情の所為で“愚鈍”にまでなってしまったのなら。知恵の星神どころか、折角己の手を取ってくれた彼にすら見向きもされなくなるのではないか。
巡る思考はその動きを緩やかにし、どんどん下向きへと軌道を変えていく。その軌道と共にズブズブと沈んでいくレイシオの、憂鬱になりつつある気分と自虐にも似た行動を止めるかの如く、コツ、と硬い足音を立てて近寄る影が一つ。ハッ、と覚醒するようにすっかり俯いていた顔を上げた彼の鼻を、芳しい新緑の香りがくすぐった。
「お帰りなさい、レイシオさん。思考の波は落ち着きましたか?」
「……スクリューガム」
「はい。一度、ノックはしたのですが貴方の返事がなく。先程まで居た彼に思索中と聞いていたので、失礼とは思いつつもお邪魔させて頂きました」
「彼……ああ、ギャンブラーか」
「肯定:彼を余り責めないようにお願いします。貴方を心配していましたからね。……さあ、一旦休憩と致しましょう」
レイシオが気付いた時には、側にある小さなテーブルの上に複数の食べ物が並べられていた。
月餅から始まり、仙舟で作られたであろう色とりどりのお菓子や、如何にも若者が好きそうな少しジャンクな風味がする類のものまで。その隣には湯気の立つ湯呑みもしっかり用意してあって、レイシオは温かいお茶をそっと手にしてから、スクリューガムを呆然と見上げて口を開いた。
「……ありがとう?」
「私が貴方に食べて欲しかったのですよ。お気になさらず。此方のお茶とお菓子は、ルアン・メェイさんが宇宙ステーションに置いていったリストを参照して用意したものです。このチップスなどは穹さんからですね、“これが好き!”と笑って教えて下さいました」
「そうか」
スクリューガムの言葉を聞いて、ポツリと小さな呟きと共に頷きを返したレイシオは、良い香りや美しい造形をした菓子には目もくれず、じっと男の顔を見上げ続けている。
きゅう、と悩ましげに眉を寄せ、唇を引き結んでいるその姿は、どこか傷ついているのではないのか、と思わせるものだった。何か気に触るものでもあったのか、とスクリューガムは気遣うようにレイシオの名を呼ぶ。
「レイシオさん?」
「貴方のは? スクリューガム」
「……疑問:私の何が、今の貴方に必要でしょうか。助けになるものがあれば、私は喜んで貴方に差し出しましょう」
「…………貴方が勧めるものはないのか、と聞いているんだ」
今度はすす、と視線を逸らしながら、まるで拗ねた子供のようにぼやくレイシオを見た彼は、無言でキュ、と瞳の度合いを調整する。珍しい表情をするレイシオの表情を、少しでも見逃さぬ為に取った行動だった。
そんな反応を彼に見せないように間を置かず、そして何事もなかったのだとスクリューガムはレイシオに答えを返す。
「勿論、持ってきていますよ。休憩が終わった時にでも渡そうと思っていたのですが、気になるのなら今お見せしましょうか?」
「気になるとも。貴方が態々持参するものだ、気にならない筈がない」
「そうですか。では、私からは……これを」
スクリューガムが持ち込んだ袋から取り出したのは、厚みのある三冊の本だった。
少し古びて見えるその本の背表紙には、それぞれ“上・中・下”と解りやすく記されている。レイシオの、見る者の角度によってはガーネットを思わせるような色合いの瞳が、キラリと美しく煌めいた。
「……本?」
「肯定:他ならぬ私が、貴方に読んで頂きたいと思った一冊。続きがあるので、正確には三冊なのですが。私物なので古ぼけて見えると思いますが、保存状態は良好ですよ」
「読む」
「どうぞ、それは既に貴方のものですから」
「今。今すぐ読むから、貴方の手にある上巻をくれ」
「それは許可できません。少なくとも、休憩が終わってからが宜しいでしょう。手元に置くのは構いませんが」
「」
「推論:それはパグのような小型犬のモノマネでしょうか。皺の加減が絶妙に似てると判断しましたが、成程愛嬌がありますね」
「誰がパグだ」
軽口をたたきながらも、上巻を渡されたレイシオは諦めたように大人しく並べられた菓子の一つを摘んで口へと運んだ。
クッキーのように見えたソレは、想像していたより軽い食感でほろりと口の中で簡単に崩れていく。味の方は、簡潔に言うのなら──砂糖甘い。それに尽きるだろう。
口腔内に広がる甘さを無理矢理舌で追いやって、程良い温度になった茶を呷れば、途端に訪れた苦味と調和された甘さに思わず息を吐いてしまう。
きっと二つの相性が良いのだろう。この点において、ルアン・メェイの目は確かだったらしい。尊敬は別にしないが。
レイシオが空にした湯呑みを持って、もう一度簡易キッチンに向かうスクリューガムの後ろ姿を視線だけで見送って、レイシオは彼から手渡された後、膝の上に置いていた一冊を手で持ち上げる。
ざらりとした高級感のある手触りの表紙は、レイシオの心を酷く落ち着かせた。題名を指の腹でゆっくりとなぞり、口の中だけで読み上げる。
以前から読みたいとは思いつつも、前提知識を落ち着いて頭に入れる時間もなければ、用意する手間もかかるような、そんな一冊。
それを、スクリューガムは持参した。自身の私物で、中々に貴重であるこの本を、己の為だけに。
これを彼の好意と言わず、なんと言おう。こつん、とかさついた表紙に額を押し当てて、目を瞑る。
好きだった。いとも簡単に好意を手渡してくる彼が。
──好きだった。此方の気も知らず、自分の容姿を。そしてそれ以上に内面、頭脳、仕草。これらを幾ら止めようと散々に褒める言葉を並べてくる無機生命体が。
────どうしようもなく好きだった。星神が見なかった僕を見て、少しでも掬い上げてくれたスクリューガムが。
だから。彼が側を離れている内に、聞こえないようにと声を潜めて堪えきれぬ“ソレ”を、小さくちいさく部屋の空気に混ぜ込んだ。
「すきだ」
しかし、空気に溶かすような音量でも。彼の王の優秀すぎる耳には届いてしまうようだった。
ガタン! と何かをぶつけたような鈍い音が少し離れたところから聞こえてくる。よりにもよって、今この場に彼が訪れている時に口にしてしまったのか。レイシオは自身でも信じられないとでも言いたげに、目を見開いたまま己の唇を微かに震える手のひらで覆っていた。
⬛︎
「なんと、仰ったのですか」
しっかりと耳に届いた言の葉を、今度は確信を持って聞きたいとスクリューガムは、愕然としながらも低い声で聞き返す。
驚いているのはどちらも同じで。しかし、スクリューガムが驚きつつも落ち着いた様子を見せている一方で、レイシオはただ見開いた瞳を細かく揺らしている。問い詰めるような声色の所為か、築いてきた関係性に罅が入るかもしれないという緊張の所為か、レイシオの眼球には微かに、薄い水の膜が張られているように見えた。
それでも恥を晒さぬように、と目に力を入れてぎゅうと瞼を閉じ、いつもの調子を取り戻そうと頭を数回横に振って、深呼吸をする。
ゆっくりと瞼を開けたレイシオは、妙に凪いだ瞳で目の前の機体を見つめてから、諦め切った表情を浮かべ弧を描いたその唇でスクリューガムに好意を紡いだ。
「貴方が好きだ、スクリューガム。……すまない、伝えるつもりはなかったんだ。本当に。でも、今。貴方の声を、姿を見たら……堪らなくなってしまった」
「……レイシオさん。貴方は、」
「言わないでくれ、解ってる。貴方にそんなつもりがなかった事なんて、僕が一番解っているんだ」
心の底から申し訳なさそうに話すレイシオを、スクリューガムは黙して見つめている。彼に何を言えば、己が抱く感情とやらを理解して貰えるか、逡巡していたからだ。
自分がレイシオに抱く想いは、きっとレイシオが抱くソレとは似て非なるものだろう。かといって、抱いている全てを彼に伝えるのは酷なのではないか、好意の差はあれど、彼に嫌って欲しい訳ではない、などと。
珍しくも、スクリューガムは迷っていたのだった。
スクリューガムは、とても長い時を生きている。
その所為か、無機生命体として生を受けた時に持っていた、元来の性根かは解らないが。スクリューガムは人が言う“無駄な努力”やら“無駄な行為”となどと呼ばれる行為を見る事を好んでいた。
決して驕りや嘲りを混ぜて言っているのではなく。
有機生命体がそう思いながらも歩み続けていく小さな積み重ねが、自虐しつつも己を鼓舞し、例え傷だらけになったとしても成し遂げようとするその努力が。それらを全てを総括して、見知らぬ他人が“無駄な事”だと切って捨てるような、そんな人の営みをじっと観察する事が、スクリューガムが好んでいたものの一つだった。
故にこそ、初めてべリタス・レイシオという男に邂逅した時。硬い身体に覆われた炉心が──心が。歓喜に打ち震えたのを、スクリューガムは覚えている。
彼は、己が好んでいたソレをその身一つで体現する者だ、と。
無駄だと思いながらも歩みを止めず、しかし願うその夢は諦めない有機生命体。ただ今までと違ったのは、ただ眺めるだけではなく、彼と交流しながらもその姿を観察していたい、と思った事である。
だからスクリューガムは、レイシオと話をする事にした。会話して、関係性を深めて。いつの間にか離れ難くなった時に、自身の実験の協力者となってくれないか、と持ち掛け彼の手を取った。
そしてその果てに、レイシオにただならぬ想いを抱くようになってしまったのだから、我ながらどうしようもないと自嘲する。
スクリューガムはレイシオを支え、見守り。時には叱咤し激励して、先達として共に進んで行きたいと望んでいる。その望みの裏に、もう一つの願いを隠していた。
彼の身体に触れ、心を蕩かせて。身も心も己で染め、レイシオの好意、想いを己一人の分だけに煮詰めて満たしてから。彼の隣に居られるのが自分だけである、と知らしめてやりたい。
友としては行き過ぎて、師と呼ぶには重すぎる。澄んだ水のような感情と、ドロドロと澱んだ乾留液のような願望。自分の中で溢れて止まない、相反する想い全てを撚り合わせたソレを────今初めて、スクリューガムは愛と名付けたのだ。
不甲斐ない、と思った。愛した人に先に想いを語らせて、己は今その感情に漸く名前を付けたのだから。
スクリューガムはクツクツと、彼にしては珍しく愉快だというように喉奥で嗤ってから、レイシオを見つめ返した。諦める覚悟を持って告白をされたのだから、此方も同じものを返すべきだろう。
それがスクリューガムが考える礼儀で、彼が与えられる精一杯の誠意だった。
「ありがとう、レイシオさん。貴方の告白を、私はとても嬉しく思います」
「……そうか」
「結論:私も貴方が好きなのです。だからこそ、貴方のその美しい瞳を、表情を。見る事が出来ない、という状況は非常に悲しかった」
「は、待て。待ってくれ、スクリューガム」
「否定:待ちません。貴方が私にくださったとても澄んでいて愛らしい愛とは違い、私のソレはタールのように重く、粘ついたものです。しかし、私はそれこそが貴方に渡す事が出来る愛であると定義しました。……このような醜い想いでも、貴方は受け入れてくれるのでしょうか」
微塵も返ってくるとは思っていなかった、スクリューガムの怒涛の告白にレイシオは目を丸くしている。目も口もぽかりと開いて、とんでもないものを見る眼差しで見つめる彼の返答を、スクリューガムは首を緩く傾げて待っていた。
「…………随分と、熱烈な告白だな? 貴方に悪くは想われていないと実感はしていたが、それほどの感情が来るとは想像もしていなかった。……その、ありがとう」
「いえ。お恥ずかしながら、私もつい先ほど自覚したところです」
「それは、また……。いや、無機生命体とはそういうものなのか? まあ良い。……その、もう一つ謝らなければならない事がある」
「何でしょう、レイシオさん」
緊張しきった表情ではなく少し力の抜けた顔で、穏やかに微笑むレイシオだがまだその表情は固く強張っている。
再び謝るように口を開く彼の頬を、スクリューガムは手袋に覆われた指でそっと撫ぜた。問題ない、と安心させるように白い頬を数回往復すれば、意図が通じたのかレイシオの唇が柔らかく弧を描く。
「申し訳ない。今のままでは、貴方の好意をそのまま受け取る事は出来ない」
「疑問:それは、何故でしょう。今の私達は、俗に言う両想いに該当すると思われますが」
「……僕自身が、抱いている懸念事項がある。それが解消されるまでは、貴方に全てを委ねたくないと思ってしまうんだ」
「懸念、ですか」
恋愛において、両者の想いが通じる以上に懸念する事などあるのだろうか? と思わなくもないが、お互い無機に有機と気にしなければいけない事など巨万とある。気にしすぎるくらいが丁度良いのか、などと認識を改めたスクリューガムはそっと手を動かした。
右手はそのまま彼の頬に。空いた左手は、同じく空いている彼の手を取り指を絡めて、己の元へと引き寄せる。沸く熱などありはしないが、少しでも熱量を分け与えるように。きゅ、と絡め取った指に少し力を込めてから、穏やかに語りかけた。
「では、お聞かせ下さい」
「ん……」
「推論:その懸念とやらは、私にも関係があるものなのでしょう。なのであれば、解決は一人ではなく二人で。共同作業と参りませんか?」
「は、はは。こんな共同作業で良いのか、貴方は」
「構いません。貴方となら何だって……構わないのですよ、私は」
声をあげて笑うレイシオを見たスクリューガムはずっと握り込んだままの左手を持ち上げて、己の口元へと運んでいく。
口付けるようにコツン、と指に当てられた口元をレイシオは押し黙って顔を逸らした。目尻が少し色付いているのを、揶揄うように右の手でまた擽って、言葉の続きをゆっくり促す。時間をかければかけるほど、レイシオは自分が不利になるのではないか、と思わずにはいられなかった。
⬛︎
「貴方は僕より沢山、過去も現在も知っている筈だ。そして、余程の事がない限り進み続ける未来すらも、僕を置いて知ることになるだろうな」
「そうでしょうね。古来より、寿命差や種族差というものは、そういうものですから」
「……寿命であれ、事故や災害などであれ。高確率で僕の方が先に逝く。貴方を、遺して。そんな当たり前の事が、いつしか恐ろしくなった」
「それが、貴方の懸念──不安、ですか」
「そうだ。傍から見ても素直ではないと言われる僕が、貴方と過ごすであろう短い日々──ああ、貴方からすれば刹那とも言える時間だ、スクリューガム。その日々の終わりが訪れるまでに、僕は何度。どれだけの“愛してる”を貴方に伝える事が出来る?」
レイシオは眉間に皺を寄せかぶりを振る。
暫くの間は猶予がある、しかしいつの日か必ず来る終わりを認めたくない、とでもいうように。その後に、スクリューガムを襲うであろう事実を拒むように。
「何十、何百と重ねれば、貴方の記憶メモリの容量を満たせるのか? 答えは否だ。それっぽっちじゃ足りやしない、言葉も時間も僕には足りないんだ。でも、それを満たさなきゃ、僕が居なくなった時。……スクリューガム、貴方が辛くはないか」
スクリューガムの左手に捕らえられていた自身の右手を、今度はレイシオが自分の胸元に引き寄せる。彼の静まり返った胸とは正反対に力強く、訴えるみたいに脈打つ鼓動を伝える為に。
「貴方のメモリを満たせばふと過去を振り返る時、寂しさを覚えた時に。少しでもそんな想いをさせなくても済むんじゃないかと、そう思ったんだ。……笑ってくれても良いから、教えてくれ。僕の不安は貴方には余計のものか? ままならない、どうしようもないものか。相手は長命の者なのだから、と切って捨てても良い考えなのか。……教えて、ほしい」
懸命に脈を打っている鼓動の音を、触れた指先で聞き取りながら。スクリューガムは眼前の生命体を見つめていた。
いずれ来る筈の終わりを憂い、その“終わり”自体を恐れるのではなく、また、自分の事をずっと覚えていてくれ、と自分の為に頼む訳でもない。
あくまでも、自分よりも長く生きる者の為に出来る事はあるのか。あるのなら、その者が少しでも寂寥に苛まれる事がないように、と希う生き物を、感慨深くなりながら見つめ続けていた。
かつて己に近しかった者で、こんなにもひたむきな感情を持つ生命体が居ただろうか。思い浮かべれば浮かべるほど、叩きつけられた彼の気持ちに堪らなくなってしまう。
こんなにも素晴らしい人物に己だけを見て貰う事が出来る、仄暗い優越と、もう逃す事なんて考えられないのだろうな、という後悔に似た想いを抱き、携えて。スクリューガムはレイシオに応えた。
「意中の人間に、こうも熱烈に告白されるという経験は、得難いものですね。先ほどのレイシオさんも、こんな気持ちだったのでしょうか」
「は、あ……? 茶化しているのか? それとも馬鹿に?」
「いいえ、レイシオさん。貴方の想いも、その先にある“覚悟”もしっかりと伝わっておりますよ。それら全てを受け取る身としてはとても嬉しく、そして光栄に思います。──だからこそ、私も。向けられた貴方の問いに真摯にお応えしましょう」
「結論:貴方の言う通り、私が有する稼働時間は貴方の寿命を簡単に追い越す事でしょう。貴方の存在、声や瞳、その美しい知性でさえ、いずれは私の記憶の奥底にしか居なくなる」
スクリューガムの左手が、先程レイシオに引き寄せられた時より緩められてはいるが、それでも縋るような力で握り込まれる。
悲しげに寄せられた眉と伏せられた瞳に、冷たく出来ている筈の胸の内が締め付けられる心地がした。
それ以上憂いを帯びた表情をして欲しくなくて、下を見るレイシオの目の下を親指で拭うように優しく擦り上げる。安心させる為にも、と表情のない機械生命体は声色だけで微笑んだ。
「しかし。私は貴方とこれから過ごす日々を、どんな些細な出来事であれすぐに思い浮かべる事が可能です。レイシオさん、貴方がほんの少しだけ遠い未来に、銀河の先にあるヴェールの向こうへ足を踏み入れる時。そしてそれ以降に私を襲うであろう空白は、私の内から生涯消える事はないでしょうが……追い越してしまった最愛の日々を擦り切れるまで出力し、慰めながら私は生きていく。これは、確定事項です」
下瞼を指先でくすぐった拍子に、ぽろりと一つ雫が溢れ落ちた。その雫の量は一滴、また一滴と嵩を増し、小さな滝のようになってスクリューガムの手に降りかかり、手袋を濡らしていく。
レイシオの、「、ん」と唸っているのか頷いているのか解らない声を聞きながら、スクリューガムは態と明るい調子で声をかけ続けた。
「──ですので。その心配は杞憂、と言えるでしょう」
「……うるさい、少しばかり気がかりだっただけだ」
「ええ、解っています。事前に考え、予測し。万全を期す事は素晴らしい事ですから。しかし、まあ……どうかそんなに焦らずに」
未だ握られ続けている手をやんわりと解き、スクリューガムは仕切り直すように姿勢を正していく。左手を後ろにまわし腰に当て、残った右手をレイシオの前へとゆっくり差し出して。
「手を取り合って、共に歩いて行きませんか?」
きょとり、と目の前にある手を見つめ、考えるように視線を動かしたレイシオは──差し出された手のひらに己の手を重ねた後、それだけに留まらず、硬く冷たいその身体に両の腕を巻きつける。
ゴツ、と額をぶつけつつ、甘える猫のように鼻先をスクリューガムの首筋に擦り合わせて、フゴフゴとくぐもった声で小さく呟いた。
「……貴方が、その指に。月桂の葉を絡めてくれるなら」
指先に、纏う月桂
(月桂樹の花言葉を、彼は知っているのだろうか)
⬛︎
「……それで? 何でまた此処に来たの、スクリューガム」
貴方から出てる雰囲気が凄く鬱陶しいんだけど?
スクリューガムの向かいに座り、頬杖をついているヘルタは、吐き捨てるようにそう言った。
「ルアン・メェイさんのリストを頂いたでしょう。その際に頼まれた通りに、リスト分の菓子類を持ってきただけですよ」
ヘルタの刺すような視線をものともせずに、スクリューガムは紅茶の香りを楽しんでいる。ティーカップを持つ彼の手を見たヘルタは、更にげんなりとした表情を人形の上に乗せた。
研究なら構わないが、唐突に開かれた茶会で話す事なぞない、と黙るヘルタと彼女に合わせるように沈黙するスクリューガムの所為で、室内が静寂で満たされていく中。ドスドスと、普段己が利用する会議室などの周りでは聞かないような足音が、ヘルタの小さな耳に入ってきた。
明らかに苛立っている事が解る力強さで近づいてくるその音は、会議室の前でぴたりと止まって。そのまま間髪入れずに音の主が扉から姿を現した。
「──スクリューガム!」
怒号のような低い声がスクリューガムの名を呼び、ぐわん、とその音が室内に響き渡る。
現れたのはDr.レイシオだった。眉間に皺を寄せ、唇を食いしばるように結んでいる険しい表情を見れば、誰もが彼が怒りに突き動かされている事を察するだろう。
そんな表情のままレイシオは、ツカツカとスクリューガムの元へ近寄って──ドン、と勢いをつけてテーブルに手を置き、平然としている機体に詰め寄った。
「貴方は、この宇宙ステーションで一体何を喋ったんだ?! 僕を見る全員の視線が気色悪い、そして鬱陶しい!」
「否定:私は、貴方がそれほどまでに怒るような発言などしておりませんよ、レイシオさん。ただヘルタさんの元でこうして、食後のティータイムを楽しんでいただけです」
再び紅茶を口に含もうと、ティーカップを傾けるスクリューガムを睨みつけていたレイシオは、カップを持ち上げた彼の指先を見てあんぐり、と口を開ける。
己がこの宇宙ステーションに到着してからこの部屋に来るまでに、ずっと生暖かい視線が纏わりついて来る理由が理解できたからだ。
「そ、それは、なぜ、」
「ああ、最近目にして気になったので購入してみたのですよ。中々指が動かしやすくて良いですね、落ち着かなくもありますが」
いつもならば黒く厚い手袋を身につけているスクリューガムの左手は、新たに用意したらしい手袋で覆われていた。
その手袋は、普段使用しているもののようにシックな雰囲気が漂う革で出来た黒手袋──であるのだが、少しだけその様子が違っている。
親指から中指にかけては、特に変わったところは見られない。しかし、薬指と中指の二箇所だけ手袋としての機能が失われている。その所為で、スクリューガムの機械特有の硬い指が露わになっていた。
「貴方という奴は……! 間違いなくそれが原因だろう何だその手袋は!」
「こういうのも偶には良いでしょう。……お許し下さい、レイシオさん。私もそれなりに浮かれているのです」
「〜〜〜〜ッッもう良い! 勝手にしろ僕は帰る!!」
「おや、そうですか。階差宇宙の事でお聞きしたい事もあるので、後で連絡を入れる事にします」
「知った事か!」
来た時と同じ勢いで去っていくレイシオを、天才の二人はそれぞれ違う表情で見送った。「あーあ、」と溜息混じりに言葉を吐いて、ヘルタはちらりとスクリューガムの指先──晒されている薬指を注視する。
彼の薬指、その付け根から指先にかけて何かの紋様が彫られているようだった。
硬い装甲を何度も往復して少しずつ傷をつけたのか、歪になりながらもくるりと指に絡みついている刻印は、特徴的な葉の形をしている。
その形状は、先程部屋を出て行った男を見た事があるものならば、すぐにピンとくるものだった。
「その月桂を彫ったのは、Dr.レイシオ?」
既に解りきった問いかけを、ヘルタはスクリューガムに向けてやる。するとすぐさま「肯定:最初は無理だと言っていたのですが、どうにか説得して掘って頂きました」と惚気るような答えが返ってきたので、彼女はもう一度溜息を吐いた。
「そう。別に興味ないけど、希望が通って良かったね」
「元はといえば彼の提案ですがね。嗚呼、一つだけ貴女に相談したい事があるのですが、宜しいでしょうか」
「しょうがないから良いよ、貴方が満足しないと面倒だし」
「ありがとうございます。質問:この刻印を指輪とするならば、もう少し目立つようにしたいのですが……貴方ならどんな鉱石を推奨しますか? 私よりも余程詳しいでしょう」
「普通にダイヤモンドで良いんじゃない? ほら、解決」
「……ヘルタさん」
此方は真面目に聞いているのですよ、とスクリューガムに心なしかジトリとした視線で見られた気がしたヘルタは、不満を全面に出したしわくちゃの顔で、諦めたように思考を巡らせる。
そして、すぐにピン! 時た鉱物の名前を口にした。
「サンストーン」
「……検索:成程、確かにこれは良さそうだ」
「でしょ? その月桂の間で光るくらいなら、丁度良いんじゃない? 彼にも似合うと思うしね」
私はダイヤモンドの方が好きだけど。
最後にそう呟いて、もう自分の役目は終わった、と彼女は今度こそ其処に居る人形からログアウトした。
その合間に 煌めき光る 太陽の石
(月桂樹の葉の花言葉は、「私は死ぬまで変わりません」という意味があります。これは、とある神が月桂樹で作った冠を永遠の愛の証としたから、だそうですね)
(それから日長石──サンストーンには、勇気、情熱、健康などの石言葉があるのだとか。自己否定しがちな方にもオススメの石のようで……私と貴方に良く似合う石だとは思いませんか?)