君のこと ロドス本艦にて。
朝方早くドクターは、自らの足で艦内にある喫煙所に赴いていた。個人的に用があるオペレーターが、休憩として其処に居ると聞いた為だ。
ロドスで働いているオペレーターには、意外と喫煙者が多い。そんな喫煙者の肩身が狭くならないよう、ロドスでは数箇所に喫煙所を設けている。此処には子供も非喫煙者も居るのだから、棲み分けは大事な事だろう。その内の一つ、一番大きくて人が集まる喫煙の場に、朝っぱらからドクターは足を運んでいた。
礼儀として、目の前の大きな扉を一応ノックする。はぁい、と陽気に聞こえてくる数人の声に笑いながら、ドクターは煙が充満している室内へと招かれた。
「うぇ? ドクター?」
「やべやべ、早く消さんと」
「はは、大丈夫だよ。これでも私、煙草好きなんだ」
「へー、意外ですね。ケルシー先生に怒られないんですか?」
「それもう、すんごい怒られるとも。だからあんまりバレないよう、貰ったりして偶に吸ってる。ああ、その人にはちゃんと買って返してるよ」
「ほうほう。……聞かなかった事にしときますね。ケルシー先生怖いんで」
苦笑いで言うオペレーターに同じく苦笑で返しながら、ドクターはこの場所へ赴いた理由であるオペレーターに身体を向ける。前回の作戦にて、聞きたい事、知りたい事がいくつか発生したのを放置して置ける程、己の立場は優しくはない。それに、起きてしまった問題はすぐに片付けるのが一番だろうし。
オペレーターから出てくる意見を端末に一通り書き込んで、一息吐く。その後深く息を吸い込むと、漂っている煙が肺に送られて少し落ち着くような心地になる。この煙草の独特な匂いも、ドクターは嫌いではなかった。
折角だからこの空気を楽しんでから執務室に戻ろう、と今度は鼻で呼吸をしていれば、ふと記憶に引っ掛かる香りが鼻に入ってきて、ドクターは首を捻る。キョロキョロと辺りを見渡して、最初に話していたオペレーターの元へと足を向けた。
「その煙草、流行ってるのか?」
「ええ? コレ吸ってる奴ロドスに居るんですか? 趣味悪いですねソイツ。俺以外で吸ってる奴なんて見た事ないですよ」
「本当に? 確かにロドスで誰か吸ってる人が居た……気がする。匂いが一緒なんだ、多分」
「へぇー、ドクターが言うんなら間違いないんでしょうね。俺も会ってみたいなぁ」
男のその言葉に、ドクターはますます首を捻るばかりだった。
確かに記憶に残っている筈なのに、誰が吸っていたのかは全く思い出せない。過去の記憶はさっぱり思い出せないけれど、記憶力にはそれなりの自信があったのになあ。
思い出せない所為か、彼の吸っている煙草が気になって仕方がない──ので、先程言っていた通りそのオペレーターに、一つ貰えやしないかとドクターは話を持ち掛けた。かくして、彼の反応は。
「俺がケルシー先生にどやされますよぉ」
だった。それはそう、誰だってケルシーは怖い。Mon3trも怖いし、彼女の冷たい瞳もとっても恐ろしいものだ。その眼差しを幾度も経験しているドクターはぶるり、と身震いするがそれでも諦める事なく“お願い”をする。気になったのを放っておけはしない性分なので。
「お願いだよ、今回だけだからさ」
「仕方がないドクターだなあ。…はい、俺の吸ったので申し訳ないですけど、折角だから箱ごとどうぞ。封切ったばっかだから量もそこそこありますよ」
「ありがと。今度カートンで返すね」
「え、マジです?! やりぃ、こちらこそありがとうございます!」
いつだって煙草をカートンで買うのは惜しい、とちまちま買っている者からすれば、ワンカートンはさぞ魅力的だろう。オペレーターはウキウキと喜んで少しひしゃげた小さな箱を差し出した。ドクターはしっかりとそれを受け取って、何となく丁寧な動作で防護服のポケットに仕舞い込んだ。
もう既にひしゃげているのだから丁寧にする必要もないし、そも煙草の包装に価値など余りない。でもどうしてかドクターの胸には、これは大切にしなければならないと言う思いだけが浮かんでいて、それを抵抗もなく受け入れて実行していた。
伝達も質問も終わり、煙草も貰った事でもう此処に居る必要は無い、と今この場にいる全員に別れを告げて、ドクターはまた歩き出す。
執務室で吸ってはすぐにバレてしまうだろうから、私室でゆっくり吸おうかな。
この柔らかで変わった香りのする煙に包まれながらベッドに入れば、良く眠れそうな気がして、ドクターは今日の夜を想像しながらゆっくりとした足取りで無機質な廊下を歩いて行った。
⬛︎
これはきっと夢だろう。
私のようで私では無い誰かと、サングラスとスカーフを身に付けて、ハットを被っている男が仲良さそうに会話している。そんな、夢。
男がガリガリと頭を掻いて、何かを伝えようと必死に“ドクター”に話しかけている。
でも“ドクター”は、そんな男の話を聞きながらじっとその顔を見つめて、首を傾げるばかりだ。傾げすぎて、最早身体も一緒に傾いている。そんな“ドクター”の様子に焦れた男は「ー」だとか「う゛ー」だとかの唸り声がずっと聞こえてきて、夢だと言うのに少し笑えてきてしまう。
表情が見えないのに何だか解りやすい男は、ようやっと何が言いたいのか纏まったのか、意を決したように一際真剣な声で、「これは、俺の独り言なんだが」と口を切った。独り言なのに私に言っても良いのかい。こんな言葉頭に浮かんだけれど、茶化すには男の声色が真剣過ぎて。“ドクター”はその言葉を飲み込んで頷いた。
「俺は、アンタが優しい人だとずっと思ってる。アンタのその過ぎた善性を信じてる。そして、そんなアンタが疲れたも寂しいも、一人で全部抱え込んで、ほんのちょっとでも他人に見せないようにする。……そんなドクターだから、俺は好きになったんだ」
「……そうかい」
いけない、口を挟んでしまった。
でも男は気にした様子もなく、伝えたい言葉を真っ直ぐに伝えてくる。酷く自分勝手に、でもそれがとても心地良いと思える位には、真っ直ぐな『好意』だった。
「でも、やっぱり辛くなる時もあるだろう? だから…そんな時に一人で抱える位なら、俺の胸でも使って吐き出して欲しいんだ。俺の身体なら、アンタを抱き締めるなんて訳ないし…抱き締めちまえば、誰にも見えやしないだろう? ……アいや、Aceとかケルシーさんとか、他に信頼できる奴がいるならそれでも…別に……ウン」
「ふ、ふふふ。そう、そうか。…なら、うん」
あの時。私は彼に、Scoutに、何と言ったんだったか。
ピピピ、とアラームが時間切れを報せる。
けたたましいその騒音を起き抜けの身体を動かす事で何とか止めて、起き上がってから夢の内容を反芻する。寝起きの所為でぼんやりとした頭をゆっくりでも回転させて、ドクターは知らないようで知っている名前を、掠れた声でポツリと呟いた。
「……Scout?」
その名前は、確か――。
そこまで考えて、ドクターの身体はポスリ、とベッドの上にまた沈んでいった。布団に残る、昨日の煙の残り香に埋もれたままの体勢で思考を回す。ああ、そうだ。その名は確か。
殉職したであろう。男の名前だ。
「Scoutの事だと? ……何か思い出したのか?」
「いいや、なぁんにも。でも、夢に彼に出てきた。サングラスとスカーフのサルカズ。彼がScoutなんだろう?」
自分を救出する上で、命を落としたと聞いているオペレーターの名前。アーミヤやクロージャと共に、Aceと彼の賭けの対象を見た時に聞いた名前でもある。
Scout。何故か口馴染みが良くて、でもその名前を呟いた瞬間に胸にぽっかりと穴が空いた心地になる、ドクターの中ではそんな言葉になっていた。
寝起きながらも、何処か寒々しく感じる己の胸に一度手を当てたドクターは、どうせ解らないのならケルシーにでも聞いてみよう、と医務室に移動したのであった。勿論、自身の職務を終えた上で、だ。「自身の仕事を疎かにし、私の業務の手を止めてまで聞きたい事とは何か、指揮官殿の口からお聞かせ願おうか」なんて事を毎回言われてはたまったもんじゃない(既に一敗している為、慎重にもなる)。そうこうしている内に陽はとうに落ちてしまったが、まぁ些細な事だろう。
「しかし、夢、か……」
「聞くのは私に取って良くない事だったりするだろうか? せめて、彼がどんな人間だったのかだけでも、知りたくなったんだ」
「ああ、それくらいなら例え何かあったとしても、ドクターの負担は少ないだろうな。ふむ。Scout…彼は、そうだな」
ケルシーは考え込むように目を伏せる。数拍無音が続いて、その瞳を開いてから懐かし気に目元を和らげた。
「ドクターの事を、誰よりも案じていた男だった。…恐らくな」
「……私を?」
「そう。君の身体を、精神を。君の構成する全てを尊んで、案じていたよ。このロドスで大体の者は“ドクター”に一定の好意を寄せているとは思うが…彼は色々な意味で特別だったな」
「特別…」
「まぁ、解りやすく言うならば。愛されていたな、ドクターは」
愛されていた。そんな言葉に合わせて、ケルシーはドクターに一枚の布を差し出した。渡された意図が良く解らずに、受け取ったソレを広げてみる。ひら、と揺れながら広がる布地にはシンプルな模様がついていて、ドクターはその見覚えのあるデザインに目を見張った。これは彼の、Scoutが使っていたスカーフなのだろう。夢で見た所為で一目で持ち主が解ってしまった。
少し色褪せて解れもあって、けれど匂いは真新しい洗剤の香りだけしか残されていない一枚。ああそうか、とドクターは理解を強いられる。失った者と記憶を、まざまざと見せつけられている。
──これは、遺品だ。そう称される物。彼が居なくなった、その証だ。
「これは、彼が?」
「正確には、彼の部屋にあった物を預かっていた。ブレイズにでも渡すか考えていた所だったが、君が彼を少しでも思い出したのなら、話は変わるだろう。ドクターが持っていた方が、彼も喜ぶだろうしな」
「……そうか。ありがとう」
「ああ、それと。そのポケットに入ってあるであろう煙草も、Scoutが吸っていたのと同じ物だ。…吸う事は咎めはしないが、吸い過ぎないよう注意してくれ」
「…はは。はぁい、ケルシー先生」
「宜しい。話は以上だ。……煙草を吸うのなら、甲板へ行くと良い。彼やAceも良く其処で吸っていたようだからな」
しっしっ、と追い払うように手を動かすケルシーを見て、「忙しいのに悪かったよ、ごめんって!」と笑いつつ謝りながら医務室を出る。煙草の事も何故かバレている以上、彼女の言う助言擬きに従ってさっさと甲板に行ってしまうのが吉だろう。
柔らかな布を右手で握りその感触を楽しんで、左手ではポケットの中の箱を弄る。自身の夢と、ケルシーから見た彼の事を頭に浮かべながら、ドクターは静かな艦内をゆっくりと歩いて行った。
⬛︎
「おお……」
夜空が綺麗だ。
暗い空の中でキラキラきらきら、星が輝いて穏やかな風がフェイスシールドを撫でていく。過ごしやすい夜だ。
空をホア、と口を開け、間抜けな顔と言われても可笑しくはない表情で見上げながら、ドクターは一応誰がこの甲板に来ても良いように、入り口からは出来るだけ死角になりそうな場所を探していく。誰だって感傷に浸る時は邪魔をされたくは無いだろう。
「…私がこれから浸るのは夢だけどさ」
此処なら落ち着けそうだと漸く見つけた、室外機なのか何なのか良く解らない場所を背もたれにして、ドクターは手に持った布を眺めながらポケットから煙草の箱を取り出した。目を閉じて、小さな夢の名残を思い返す。
Scout。
Aceとも、私とも仲が良かったらしい君の事を、現在の“私”は何も解らなくなってしまったけれど。その姿すら、夢で見た範囲でしか解らなくて、酷く朧げで霧がかかったように見えなくなってしまったけれど。そんな私でも、君について知ってる事は一つだけあったみたいだ。
君は私を優しい、と言っていた。でも、こんな私よりも君の方が。こんなちっぽけなドクターを案じる君の方こそが。
「私を優しい、と言う君のがずっとずっと……優しいに決まってるじゃないか」
箱から出した一本を咥えて、火をつける。煙を肺に深く取り込んで、そのまま全てを吐き出した。
嗚呼、この匂いだ。君の髪や帽子、スカーフに染み付いてしまったであろうこの匂いが好きだった。きっと。
薫る独特の香りは確かに知ってる筈なのに。これを吸っていた男がどんな風にこの煙草を持って、どう吸うかも解ってるのに。きっと大切だったであろう男の姿だけが、煙がかかったように思い出せない。
確かに自分の心に居た存在は、記憶を失った自分に幻滅したのか、その隅っこに引っ掛かったまま、されども決して姿を現してはくれないのだ。
もう一度息を吸い込むと、ぼうっとしていた弊害か、煙が一気に気道へと流れ込んできてドクターはゴホゴホと咽せてしまう。咳き込むのはいつでも苦しいものだ。咽せた所為でじんわりと浮かんだ雫が何故だか量を増していって、ついにはその瞳からポロ、と一つ溢れ落ちた。
「酷い煙草だな、これ。煙が目に沁みちゃうよ、こんなの」
スカーフに顔を押し当てる。貰ったのは私なんだから、どんな風に扱ったって良い筈だ。きっと笑って、いや、苦笑いで許してくれるだろう。でも、うん。一応謝っておこうかな。
ごめん、Scout。
君を、君の姿を思い出せなくてごめんなさい。
君が案じてくれた男のまま生きる事が出来なくなってしまった私を。最早かつての“ドクター”とは別人のように見えるらしい私のままで生きる事を。どうか、許して欲しい。
一口吸って、咳き込むのをただひたすらに繰り返す。
涙が浮かぶのは煙草の所為だ。思い出せない私が彼の為に泣いた所で、どうにもなるものか。
視界はいつの間にかぼやけていて、白い頬をボロボロと冷たい水が伝っていく。濡れた顔は夜風に晒され冷たくなり、ひ、ひっ、としゃくり上げていた声は段々とその頻度が増えて、いつしか赤ん坊が上げる産声のような声に変わっていった。
うあ、なんて耳に付く声が、暗い空に響き渡る。耐えきれなくなった身体で、抱えていたスカーフをぎゅうぎゅうに抱き締め蹲った。
すまない、ごめんね。謝罪の言葉だけが吸う事をやめてしまった唇から溢れていく。
今日はもう笑えなくても、最早真っ直ぐに生きる事が出来なくなったとしても。
君が、私が。他の仲間達が傷ついた日々。君が与えてくれた淡過ぎる過去の夜を、いつの日か愛せるようになるまで、大切に抱えて生きて行くから。だから、今だけは。立ち止まり振り返る事を、許して下さい。
煙草の火は、ドクターが落とした雫にすっかり消えてしまっていたが、その煙だけは風があるにも関わらずドクターの周りに漂っていた。
蹲った姿を案じるかのように、抱き締めるかのように。
確かに其処に、残っていたのだ。