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    白い桃

    @mochi2828

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    白桃です。
    リンバス、アクナイ、その他ハマった色々な物

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    白い桃

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    ムリナール×トーランド×ドクター、ムリトー博です
    サンコイチ、ムリトーでトー博でムリ博です。よろしくお願いします

    三人分の呼吸と体温 ロドス艦内の、一つの部屋で。
     
     背が高く金色に輝く髪を持つ男と、中性的な体躯を持ち、顔全てを隠している男はぎゅう、と互いの形を確認するかのように軽くハグを交わしていた。
     
     満足したのか、そろりと自らと比べれば小さな身体が離れていくのを確認して、背の高い男──ムリナールは、彼自身が自室に連れてきた片割れ、ドクターに小さな紙でできた箱を手渡してやる。「土産だ」と言う声と共に、堅苦しく結ばれていたネクタイを解きながら箱を差し出すムリナールに、ドクターは驚きながらもそろりと箱を見下ろしてから部屋に備え付けてある椅子へ、ストンと腰を下ろした。側面を見れば、店名と思しき印字がされている。何と、これは。
     
    「え、ケーキ?」
    「有名な店舗が出張で来ていたらしい、余り詳しくはないから解らないが」
    「おいしい」
    「ノータイムで口に入れるのはやめなさい。せめてフォークを使え」

     思い返せば。
     贖罪という行為を、他人にした覚えが無かったような気がする。なんて事をいそいそとケーキを口にするドクターを眺めながら、ムリナールは密かに己が過去にとっていたであろう行動を振り返っていた。ニヒ、と悪戯が成功した子供のように無邪気に笑うその姿に、胸が暖かな物に包まれる心地と同時にチクリと生まれた、じわじわ鈍く広がる後悔がその胸の内を占めていく。

     少し前の自分は、例え初めは流されるままだったとしても名目上は己の恋人となった者にすら、こんな顔をさせてやる事もできなかったのかと。ぼんやりと霞がかった思考の中でも、愛しいと想った者であれば尚更に、もっとかけてやるべき言葉があったのではないかと。
     思いがけなかった土産に、手掴みで行儀が悪くも嬉しそうにケーキを頬張っているドクターと、この場には居ないもう一人を脳裏に思い浮かべてから、ドクターに気づかれないように静かに、けれどもそれなりにムリナールは深く溜息を吐いた。

     ムリナール・ニアールは。
     ドクターと、その内此処へとやって来る筈のもう一人に対して、胸の内に溜まってしまった感謝を伝えきるのと同じ位に。何を捨ててでも謝り続けなければならないと、そう思っている。


    ⬛︎


     
     本艦勤めでは無いものの、オペレーターであるムリナールとドクターは恋人同士である。
     これはロドスにいるであろう殆どの人間が知っている話だ。
     
     例えば、ムリナールの近くにいるドクターがとても嬉しそうだ。自分達が話しかけた時とは違う、少し上擦ったような高い声が聞こえる。何であいつなんだ、愛想なら俺の方が上ですドクター。お前の顔もスペックでも負けてるぞ諦めろ、等々。
     ロドスの指揮官と言う立場ににいる以上、ドクターの耳にもそんな風に噂されている事は入っていて、少し照れくさいような気持ちが胸を擽る。後半は噂では無いが、一体誰が言って誰が慰めていたのだろうか。少し、気になる所ではあるので後で噂が好きそうなオペレーターにでも聞いてみようか。
     それはさて置き、だ。

     ムリナールとドクターは恋人同士である。
     無論、事実である。事実ではあるが──。
     皆が噂するような、俗に言う甘い関係とはかけ離れているのが現状だ、とドクターは自らを客観的に眺めていた。
     そも、自分たちが付き合い始めた理由は自分が懇願したからだと、ドクターは常々思っている。貴方が好きだ。側に居られるだけで嬉しいけれど、どうか恋人になってはくれないか、と。
     根負けした、という訳では無いだろう。ムリナールは嫌な物は嫌だときっぱり断る男だ。例えそれが、己の上司であっても関係無い。一蹴しなかったという事はそれなりに情は持っているという表れであろうし、それは肝心のムリナールからも伝えられている。そこまでは良かった。ただ彼からは、仮にも情を持っている筈の人間に接する時に発生するであろう熱量が、余りにも感じられなかったのだ。
     
     故に、ドクターは。ムリナールという男は、私が彼を想う熱量や彼が他人から向けられる熱量で、如何にか自分を燃やして生きているのだろうな、などと。そんな考えを抱えて過ごして。
     それで良かった。例え同じだけを返されなくとも、彼が自分を動かす為だけに己を利用しているのだとしても。彼に寄り添う事が出来るただ一人の人間になれるのならば、それで良かったのだ。
     ドクターはただ、彼の側で緩やかに燃える焚き火のような存在になりたかっただけだ。戯れに薪を与えられては喜び燃える、そんな存在で在りたかっただけ。
     
     ──だから。彼から与えられる行為、感情。その全てを、その頼り無い痩せた体躯で受け止めている。


     
    「ぶ、ぇ、う゛……う、ぐ…」

     粘り気のある液体が喉奥に叩きつけられたと同時に、質量のある物が喉の奥から口の中を通ってずるり、と時間をかけて抜かれていった。嘔吐きながらも、決して美味くは無いソレを如何にか飲み干してからドクターはふ、ふ、と何とか浅くとも呼吸を繰り返す。そうでもしないと、今し方重くなった胃の中身が逆流してしまいそうだった。
     ドクターを精一杯肩で息をしなければならない状態にした張本人であるムリナールは、欲を叩きつけ終えた後特有の気怠さを纏いながら、ただただぼんやりと、ともすれば直ぐにでも寝てしまいそうな瞳でドクターを見下ろしている。男はゆっくりと瞬きを繰り返つつ、行為を終える度に問うているであろう、お馴染みの疑問をドクターに呈するのだった。

    「ただ欲をぶつけられているだけの現状なのに、それでもまだ、私が好きだと?」

     お馴染みの疑問。
     私に諦めて欲しいのか、毎回変わらないであろう私の答えを、不安か何かの所為で自分に言い聞かせる為に聞いているのか。彼の真意は解らない。解らないけれど、その問いの答えの台詞も毎回変わらぬまま、私はずっと同じ言葉を繰り返している。

    「……好きだよ。貴方の側に居られるなら私はそれで構わないんだ。それに、欲をぶつけるって言うけど…私に欲を抱いてくれるのは純粋に嬉しいと思う」

     いつも通りの変わらない答えを聞いたムリナールは、瞼を閉じてすっかり黙ってしまった。そんな男の様子をドクターは静かに見守って、部屋の中に暫しの沈黙が流れていく。
     どれだけそうしていたか、漸く目を開けたムリナールの瞳に少しの熱も灯る事は無く。

     ──嗚呼、やっぱりな。

     少しの落胆と悲しみを織り交ぜた感情を、自嘲するような笑みと共に飲み下す。ドクターが意図的に隠している表情に、無気力と言える状態に近い男が隠されたソレを知る由も無い。故にムリナールは、そんなドクターを前にしても事もなげに自身の願いを言ってのける。

     否。事もなげ、という訳では無かった。
     ムリナールはムリナールなりに、ドクターに申し訳ないとも如何にかしなければならない、とも思っている。それは毎回続けられている問いに現れているのだが、それこそドクターには知る由も無い事であるし、そもこの男にソレを伝える気も無いのだから、どうしようも無いとも言える状態だった。
     ただ、口に出せば概ね自身の要望その通りになる。皮肉にも、ドクターが男を甘やかすような行動を取ったのが裏目に出ていた。今日も今日とて己の感情が優先される、とムリナールは思っていたので、するりと流れるように出てきた望みを口にする。

    「申し訳ないが。今日は、もう…」
    「ん…一緒に居た方が良い? それとも、帰った方が?」
    「……一人にして欲しい」
    「うん。わかったよムリナール、それじゃあ…また」

     少し項垂れながらも退出を願う男の髪を、さらりと撫でてからその太い首にドクターは頭を擦りつけた。本当は側に居たいが、一人になりたいと言うのならそうしてやらねば休まるものも休まらないだろう。
     名残惜しくもムリナールから離れて、努めて明るく気にしてないようにドクターは、「ゆっくり休んでね」と態とにやらかい声を意識して告げてから、扉のある方向へと歩き出す。その後ろ姿に何か思う所があったのか、珍しくムリナールは小さな背中を呼び止めた。ゆったりとした動作でドクターが向き直る。

    「ドクター」
    「うん? どうしたの、ムリナール」
    「…すまない。私がお前に、その……好意を抱いているのは、信じて欲しい」
    「……勿論。私も、貴方が好きだよ」
    「そう、か? ……そうか」

     返答を聞いて、噛み締めるように同じ言葉を繰り返しているムリナールの表情を見ないまま、ドクターは扉を抜けて部屋を出る。次に一緒に居られるのは何時になるだろうか、互いに忙しい身であるから暫くは難しいだろうな。
     次回を望んで、ドクターはその次の事を想像して──やめた。多分、きっと。会話は変わる事こそあれ、彼の根本は直ぐには変わらないだろうから。
     今日も薪は焚べられず、少しだけ残った火が燻ったまま。
     
     ドクターは、己も気づかない内に抱えたその熱源を持て余している。


     ⬛︎

     

     身体の疲れは無いものの、気疲れはそこそこにドクターは自身の部屋を目指して歩く。

     暗い廊下にポツポツ点在する人工的な明かり。
     疲れ目や眠たい時には沁みるんだよな、なんて他愛もない事を考えながら一人寂しく静かに歩いていれば、にゃあん、と控えめで愛らしい鳴き声が耳に届いた。
     自分はこの鳴き声を知っている。小さいながらも気高い影を思い浮かべながら立ち止まり、キョロキョロとその姿を見付けるために頭を動かしていれば、廊下に設置されている簡易的な椅子の近くにちょこんと居座っている黒猫──ミス・クリスティーンの姿があった。その可愛らしい姿にドクターは隠された中でどうしようもない程に表情を崩してニコリと笑う。小動物はどうしてこうも癒されるのか。
     
     然し、このレディはただの猫では無い。
     出会ったからには敬意を払わなければ、と会釈してその近くにしゃがみ込んだ。ツルリとした床は冷たいが、豊かで美しい漆黒に覆われているミス・クリスティーンは、気にならないようでそのまま毛繕いをしている。強いなぁ、と許される限りでちょいちょい彼女の頭を撫でて戯れていると微かな足音と共に、「ドクター」と己の名を呼ぶ低い声が聞こえた。
     予想通りの声にドクターはとうとう「ふふ、」と笑い声まで漏らしてしまう。此処にこの子がいるのなら、私の名前を呼ぶ人間なんて一人しか居ないのだから。黒猫を驚かせないように静かに立ち上がって、自分を呼んだ男の名を呼び返した。

    「やぁ、ファントム。良い夜だね…君はミス・クリスティーンを探しに?」
    「いや? 彼女は君を見つけてくれただけだ、ドクター。私も彼女も、君の話を聞く為に此処で待っていただけに過ぎない」
    「……毎回世話になっているけど、君は疲れないのかい? それに、ミス・クリスティーンだって」
    「全く?彼女も君の為に此処に居るんだ、問題無いとも」

     ファントムと話をするきっかけは何だっただろうか。
     私が今日のように一人寂しく、ムリナールの部屋から戻ってくる時に出会ったのが始まりだったような気もするし、元気がないように見えた私を気遣ったファントムが、何があったのかと聞き出してたのがきっかけだった気もする。
     
     最早ドクターもファントムも、この関係の始まりなんて覚えてはいないけれど。
     何かがあって落ち込んだり、気分が沈んでいる時のドクターの様子を察知しては、ふとした瞬間にドクターの前へと現れて一日の終わりに酷かった“今日”の話を聞く。これがファントムとミス・クリスティーンが共に行っている、最近の習慣のような物だった。
     聞き役に徹する度に、ドクターが少しでも救われたような顔をするものだから。
     
     その表情が少しでも長く続くように、と一人と一匹が尽力してくれているのをドクターも理解している。然し、それが君達の負担になる位ならやめても構わないと伝えれば、その考え自体が彼と彼女は気に食わないとでも言うような表情と鳴き声で返されたのをドクターは覚えていた。何でも、ドクターの話を聞いて声色や表情が段々と変わっていくのを見るのが面白いのだとか。そんな感想を聞いて、変な趣味だなぁ、と笑いながら話した事も、懐かしく思えてしまう。

     ファントムの声を聞いたドクターがかつての出来事を思い出していれば、何かあったのかとファントムが近寄りながら声をかける。ミス・クリスティーンもいつの間にかドクターの足元にいて、丸い頭を上げくりくりした瞳でフードとフェイスシールドに遮られてい顔を見上げていた。ジッと顔を見つめてくる二人に、「何でもないよ」とだけ返してどうしようか、と首を捻れば考える必要は無いと言うようにファントムがその口を動かして、選択肢を与えてくれる。

    「それで、ドクター。今君は一人になりたいのだろうか。それとも…話し相手が必要か?」

     相変わらず、耳馴染みの良い声で話す人だ。
     じんわりと染み渡るような声色を聞きながら、ドクターは一拍だけ考えて──彼と彼女の優しさに、今日も甘える事にした。

    「少しの間だけ、一緒に居てくれる?」
    「了解した。君が眠りにつくまで、沢山の話をしよう……それに、君から貰ったお菓子がそろそろ溢れそうになっているんだ」

     影のように静かに佇んでいるのに、ふざけた調子で話すファントムにドクターは吹き出してしまう。
     意外とユーモアに溢れている人物なのだ、これも彼と話をするまでは解らなかった事だけど。お菓子の事は申し訳ない、いつも自身の影の中で護衛してくれている彼に、少しでも何かをお裾分けしてあげたくて。言い訳のように呟いて、如何にかそれ以上の追及を避けていく。ドクターはこっそりと、他の者にバレないように自らのおやつとレディでも食べられる者を分けているのだった。

    「できれば、全部君に食べて欲しいんだけどな。ああ、彼女の分は別だけどね?」
    「ミス・クリスティーンはしっかり食べているとも。私は…君と共に食べる分で十分だ、ドクター」

     ポケットに入っていたチョコレートを、折角だからとファントムに分け与える。
     彼も自分も口に入れて、二人してその甘さに笑いながら今度は三人仲良く部屋へと歩き出した。少しだけ軽くなったように見えるドクターの足取りに、ファントムは安堵から込み上げた息を吐き出して足を止め、くるりと一度だけ廊下を振り返る。
     己から見える限りでは、離れている扉から明かりは漏れていない。それに一つ舌を打って。「ファントムー?」「なぁん」と己を呼ぶ声の方へ何でもない、と声をかけて急いで足を動かした。
     

     
     ドクターの話を聞くのを、己も彼女も楽しみにしている。嘘では無い。
     嘘では無いが、最近のドクター話題は専ら恋人であろう男の事ばかりであったので。
     不満とまではいかないけれど、それでも寂しいし悲しくなる、といったドクターの心の内が吐露される度にファントムは、「そんな男等捨ててしまえ」といつも喉まで出かかるのだが、当の本人はそんなつもりは毛頭ない為に未だ言えずにいる。今のドクターに必要なのは正論を言う者ではなく、静かに寄り添いつつ黙して聞いてやる、謂わば観客のような存在だと言う事を、ファントムは良く理解していた。
     
     己は彼の想いの理解者にはなれないけれども、影として寄り添う事に徹するのは得意であるから。
     故にファントムは、今日もミス・クリスティーンと共にドクターの側にいる。偶には観客になるのも悪くは無い、そう思って。

    「ごめんね。毎度、同じ話ばかりだ。こんな事を聞かせるのも…」
    「何度も言うように、気にしないでくれドクター。私は君の心情を推し量り理解する事は敵わない。だが、願わくば。いつか君の理解者が現れるその日まで…一人の観客として、君の話を独り占めさせてくれると嬉しい」
    「なぁーん」
    「ああすまない、レディ。二人占め、だな」

     その言葉がどれだけ自分の救いになった事か、ファントムはきっと解らないだろう。解らないままで良い。いつか彼が困った時、彼にして貰ったように今度は私が彼の力になれば良いのだから。
     こんな話をしたこの日から、ドクターの葛藤や悩み全てが解決する日まで。解決した後でも、ドクターはずっとそんな風に思っている。理解者が現れても尚、聴き役に徹していてくれた彼にはずっと頭が上がらないだろう。なんて文章が日記に綴られる位には、ずっと。
     
     ──近い内、ファントムとミス・クリスティーンは私の支えだ!とロドスの中で公言して回るようになるドクターなぞ予想もしないファントムは、しまいには誰よりもムリナールとドクター、そして現れた理解者の三人の関係に詳しい者になる。

     今の彼はそんな事を知らぬまま。
     ただ部屋の中で分け与えられた菓子を食べつつ、この部屋でしか見ることのできないであろう暖かで柔らかい表情で、どうにもならないと思っている一人の男の話を静かに聞いているのだった。


    ⬛︎

     

     幾ら艦内の仕事だけ見て忙しいとされていても、現地に赴かねばならない依頼もある訳で。

     久々の外へ出て、眩しい太陽の光を浴びながら如何にか終えた作戦の後。戦闘後、というだけでは無い高揚を抱えながらドクターはずっとソワソワしながら忙しなく行動していた。
     何せ、「どうせ外に出るのだから、一緒に街中に行かないか?」という誘いを、作戦に組み込んだムリナールにダメ元で持ち掛けてみれば了承を貰えたのだから、そりゃあもう浮き足も立つと言うものだ。あの、ムリナールから、一緒に行動する権利をもぎ取ったのだ!
     ドキドキ脈打つ胸を押さえて、ムリナールとの合流地点へドクターは向かう。

    「一緒に出かけるなんて、楽しみだな…あ、ちゃんとお土産も買うから期待していてね」

     コンコン、と足の先で自らの影を叩く。普通は動かないであろう暗い影が、ゆらりと蠢いたのを確認して、ドクターは動かしていた足を早めていった。



     待ち合わせはこの小さな街に唯一ある商店街の、そんなに目立たない角の所で。
     緊張からか興奮からか、普段よりも高く出されたその声の持ち主に言い含められた場所にある壁に、ムリナールは背を預けて佇んでいた。
     正直な話、乗り気では無いもののドクターがこれで多少は満足するのなら、と言う理由だけでムリナールは此処に居る。欲を言うのなら、直ぐにでも作戦中拠点にしていたホテルに戻りたかった。頭に浮かんだその思いを振り払うかのように、視線を横にずらして余計な情報を脳に叩き込んでいれば、この場に居る筈のない男の姿にムリナールは目を丸くして──その男の名を口にした。

    「トーランド?」
    「んぁ? …ムリナール?」

     名を呼ばれた男──トーランドも、知己であるムリナールがこんな街中にいると思ってなかったのか、驚きでその青い瞳を丸くしている。だが、すぐにその顔にニンマリと笑みを貼り付けて、己を呼んだ男の方へと行き先を変えた。面倒な事になってしまった、とムリナールも気怠げだったその顔にげんなりとした表情に浮かべる。そんな男の顔を見て、笑いながらトーランドは揶揄うように声をかけた。

    「おいおい、連れない顔をするなよ。呼んだのはお前だろ?」
    「……何故ここに居る?」
    「単純に用があって来てたんだ。まさか、お前も居るなんてな…ロドスの仕事か?」
    「ああ」
    「ふーん…」

     まじまじとムリナールの顔を見てから肩に腕を回すトーランド。表情はそのままでも、振り払いはしないその様子にトーランドは笑みを深めて、自分よりも高い位置にある耳に口付けた。聞こえてきたリップ音に、クランタ特有の耳をくるりと回してギョッとした表情をムリナールは男に向ける。
     そんなムリナールにケラケラ笑いながら、「暇なら遊ぼうぜ? ムリナールくん」と気にせず囁くトーランドに深い溜息を吐き、待ち合わせ中だとムリナールが低い声で返せば、正面から首にくるりと腕を回された。反射的にその身体に腕を回してしまい、ムリナールは己の行動に頭が痛くなっていく。私は一体何をしているのか。

    「待ち合せぇ? 可愛いかわいい姪っ子達か?」
    「いや、違うが……」
    「久々に会ったんだ、偶には良いだろ? なぁ、ダーリン?」
    「ッおい……!」

     ちゅう、とトーランドが鼻先に吸い付けば目の前から咎めるような声が聞こえるのと同時に、「あ……」なんて少し聞き覚えのあるか細い声が聞こえてきた。ムリナールの首に腕を回したまま、トーランドが声が聞こえた方向を見れば、これまた見覚えのある姿があって首を傾げる。

    「あ? ロドスの…」
    「……ドクター」

     トーランドが言う前に正解を言ってしまったムリナールに視線を戻せば、男はどこか気まずそうな顔をしていて成程、と一人で納得する。待ち合せ相手はロドスのドクターだったらしい。護衛という名目もあるだろうしどうしたもんかな、体勢はそのままにして思考を回していれば、そのドクターが何処か顔を逸らしながらムリナールに話しかけていた。少し違和感を感じるその様子に、トーランドはまた首を捻る。
     
     ──何か、不味い事をした気がするのは何でだ?

     そう思いながらもムリナールの腕に身体をしっかりホールドされているトーランドは、身体を離す事もできないまま変な空気が流れている二人を見つめるのだった。



     自分だけだと思っていた。
     ドクターは、距離の近すぎる二人を見て己の勘違いを悟る。だって、あんな表情は知らなかった。
     表情は歪んでいるものの、ムリナールの瞳に浮かぶ感情は拒絶ではなくて許容の色をしている。そんな色を、私は見たことがなかった。ただただ恥ずかしさだけが募っていく。側にいる事を許されているのは自分だけだと思っていたから。
     決してそんな事はなかったと言うのに。拒絶されてなかっただけだと言うのを、ムリナールでは無い他人に思い知らされてしまった。
     名前を呼ばれて、びくりとドクターの身体が跳ねる。いつもは嬉しく思うその声も、今だけは駄目だった。頭が真っ白になって、足が知らずに一歩後退りを始める。何を言われるのか解らないのが怖くて、告げられる前にと此処から離れる為に如何にか目の前の恋人に、矢継ぎ早に話し始めた。

    「その…すまない、貴方達の邪魔をしてしまった。えっと、ムリナール。用が終わったら先程伝えたホテルに戻ってきて欲しい。貴方の部屋の番号も、事前に端末に送ってある通りだから」

     伝えるべき事は伝えた、と衝動のままに来た道を駆け抜ける。
     自身の息が続くまで、この足が動くまで。兎に角一秒でも速くこの場から離れたかった。そんな想いでもつれる足を動かして、自分が出せる全速力で走り出す。それが今のドクターに出来るたった一つの事だった。
     
     言うだけ言って、駆け出してしまったドクターをトーランドはポカンと眺める。
     視線を己の腕の先に戻してから全然解らん、と正面きって目の前の男に疑問をぶつけた。こう言うのは直球なのが大事だろう、トーランドの持論だった。

    「お前さん、あの指揮官となんかあったのか?」
    「……一応、恋人同士では…ある。それらしい事は出来てないが」
    「……なぁ」

    「そう言う事は先に言えよ! とんだ悪者だぜ、俺が!!!!!!」

     ずっと腰に回されていた腕から抜け出して。急いで離れる。今更離れても遅いと思っても、だ。誤解、いや全部が誤解でも無いが話をしないと不味いのは明白だろう。こんな所、そして痴話喧嘩が理由でロドスと敵対なんかしたくはない。絶対に嫌だ。
     どっちへ行った? 走り去って行った方向に辺りをつけてから、トーランドは未だ動きもしない男の方へ顔だけ向ける。修羅場みたいなもんだってのにコイツは一体何をしているのか、と呆れた表情を貼り付けて。

    「一応聞いておくが、お前は追いかけ無いのか?」 
    「…追って、何と言えと? それに…勘違いされたとて、私に何か言ってやる権利は……」
    「あー、はいはい。じゃあ俺が追うぜ? ちゃあんと見つけて送っといてやるから、お前は先に戻ってるんだな」

     トーランドはそれだけ言い残して、先程のドクターが出していた倍の速度で走り出した。あっという間に遠くなっていったその姿を、ムリナールはぼんやりと眺めてから。ごつ、と鈍い音を立てて己の後頭部を背後の壁に打ち付けた。それなりの勢いでぶつけた事で、じわじわ痛みも広がっていくがそれでも頭痛を消すことは出来ず、深く息を吐いてムリナールは手のひらで顔を覆う。
     ドクターの悲しそうな姿も、トーランドの何かを期待するような振る舞いも。そして、何も応える事の出来ない己の情けなさからも逃避するかの如く、手の中で金色の瞳をキツく閉じて、更に隠してしまうのだった。


     ⬛︎
     
     
     はぁ、はふ、と何とか呼吸をしながらも、自分の肺から聞き慣れない音がする、と縺れそうになる足を動かしてドクターは笑った。
     こんなに走るのは久しぶりだ。気分は最低最悪と呼べる程なのに、どこか爽快感があるのは走り回っているからだろうか。そんな事を考える余裕が出来て漸く、ドクターはその足を止めた。ごほ、と咳き込む所為で胸も背中もギシギシ悲鳴を上げているし、足なんてもう一度止めてしまったものだから、ガクガク震えて言う事なんて聞きやしない。普段の運動量からかけ離れているのは明らかで、もう少し体力をつけなくてはな、とフェイスシールドの中で苦笑した。
     
     とりあえずの目的であったあの場所から離れる事は出来た、と使い込んだ自分の足を労る為にもドクターはゆっくり歩く事を選択する。歩みを進める度に、ひんやりとした風が火照った身体を通り抜けるのが心地良くて、ほぅ…と口から軽く息が漏れていく。
     然し、幾ら外の空気が心地良くとも頭に浮かぶのは先程の二人で。
     少しだけ上昇した気分がみるみる内に下がるのを感じて、ドクターはとうとうその場にしゃがみ込んでしまった。
     もう疲れた。朝はあれだけ楽しみだったけれど、今思えば私があんな事を言わなければ、もう少しだけ幸せな夢を見られたのではないか。ぐるぐるグルグル考えて、気づけば瞳から涙もこぼれ落ちそうになっていて。余りの虚しさにどうにかなってしまいそうだった。それでも。
     
     とにかく、戻らなくては。
     よいしょ。掛け声と共に立ち上がれば、パキパキと膝から音が鳴る。ちょっとだけ発生した痛みに「へへ」と空笑いをして、後一息だと足を動かそうとすれば背後から、「おーい!」と誰かを呼ぶ声が聞こえてきた。何故か聞き覚えのあるその声の方を向いて、ドクターはそれはマァ驚いた。何故かって、離れたいからと逃げてきた原因の一人であるトーランドが追いかけて自分を呼びかけていたので。
     いとも簡単に追いつかれた事にショックを受けないでもないが、かのバウンティハンターに勝てる訳も無いかと一瞬で勝負も思考も放棄した。勝ち目の無い勝負は余りしたく無いのだ。
     逃げた己に一体何の用があるのか、と警戒しつつジリジリと後退する。トーランドはそんなドクターの警戒に気付いたのか、目を丸くしつつも手を挙げて敵意は無い、とその顔に柔らかな笑みを浮かべていた。

    「いやいや、そんなに警戒しないでくれよ。俺はただ、お前さんと話をしたいだけなんだ…本当に」

     存外にも真面目な男の声色に、怪訝には思いながらもドクターは動きを止めて立ち止まる。やっと止まってくれた、と胸を撫で下ろしてトーランドは手をヒラヒラ動かして目標に近づこうとした。
     にゃあ、と猫の小さな鳴き声が聞こえる。…何処から?

     ──己の、足元から。
     
     理解が出来ずに下を向けば、己の靴に足を乗せて此方を見上げている黒猫がいる。
     いつの間に?という疑問も浮かぶが優先すべきはこんな黒猫では無く、ロドスのドクターだ。一歩横にずれて黒猫の足を退けてから、もう一度ドクターに近づこうとすると再度黒猫は一鳴きしてトーランドの目の前に立ち塞がる。まるで邪魔をするような黒猫の行動に、一体何なのかと頭を掻けば黒猫の瞳がキラ、と光った気がした。そして。

    「彼女に対し、随分無礼な真似をする」

     男の声が聞こえた。姿は、無い。
     訳の解らない事の連続で、困ったようにトーランドがドクターを見つめて目を見開く──そのドクターの影が、揺れていた。
     ひく、とトーランドの顔が引き攣る。つまり、だ。この猫も、このヘンテコな影も。全部ドクターの関係のモノであると確信したし、不味いとも思った。何せやっぱり、敵意を持たれている。ドクターは兎も角、全部聞いていたであろうこの声の持ち主からは間違い無く。
     ずるりとドクターの足元にある影から腕が伸びて、知らぬ男の全身が出てきてしまえば、固まってしまっているトーランドにはどうしようもなかった。
     直ぐに戦闘態勢に入ろうとした這い出た男の名を、ドクターは静かに呼び止める。

    「ファントム」
    「…何だ、ドクター。あれは君にとって、害ある物だろう?」
    「ううん、彼は話がしたくて追いかけて来ただけみたいだから…大丈夫だよきっと。ミス・クリスティーンもありがとう」

     そう言って黒猫を撫でるドクターに、トーランドは脱力する。
     びびらせないで欲しい、本気でその男と戦わなければいけないのか、と本当に焦ったのだ。ふー、と仕切り直すように息を吐いてドクターも謎の男も視界に入れながら、やっと話を切り出した。

    「そっちの意見がまとまったら、場所を移さないか?ゆっくり話がしたいんだよ」

     もう面倒はごめんです。
     そんな思いを全面に露わにしたトーランドの表情が面白くて。ドクターは笑いつつ、コクコクと何度も頷いて了承した。



     さて、何だろうこの状況。
     
     ドクターは半分は面白さで、もう半分は困惑してる、という思いで座りながらこの場の状況を観察していた。
     話の席についてるのは三人と、ドクターの足元に擦り付く一匹。
     汗をダラダラ流しながらとても気まずそうにしているトーランドと、渦中の人間である私よりも怒っているような威圧感を出しているファントム。圧が強すぎる所為で何だか圧迫面接みたいになっていて、これが少し面白い。そして私の足元でマイペースに毛繕いをしているミス・クリスティーン。うーん、とても可愛いけれど現場と合わせてしまうと良くない。混沌とし過ぎている。ドクターは少しだけ、現実逃避をしたかった。
     多分、私じゃなくてファントムがここまで怒ってるとは思わなかったんだろうな、とトーランドの心中を察する余裕まで出て来てしまった。ファントムを如何にかしてやらないと、恐らく話が進まない。ドクターは気に食わないからと、とうとうメンチまで切り始めたファントムを止める所から始める事にした。

    「ファントムあのね、話が進まないから一旦その圧かけるのをやめよう?」
    「だがドクター」
    「良いから。話だけでも聞こう? ね?」
    「……承知した」

     渋々、といった様子で椅子へと座り直したファントムを見てから、トーランドをこっそり観察する。
     彼は、「神か…?」と呟いてびっくりした表情をしていた。良いから、変な事言ってないで話を進めなさい。ジトっとした視線を向ければハッと気を取り直して此方を見つめるトーランドの姿に、ドクターはもう疲れたと言わんばかりに身体の力を抜いた。

    「えーっとだな…俺とアイツの関係は、何となく知ってる…よな?」
    「まぁ、そうだね」
    「なら良かった。アイツが俺の事をどう思ってるかなんて、聞いた事は無いが…お前さん達みたいな関係では無いのは確かだよ。俺の感情は抜きにしてな」
    「…恋人では無いって事?」
    「そう、だな。あーっと、身体の関係はあったが…なぁ、ムリナールの恋人なんだろう? 本当に悪かった、知らなかったんだよ…」
    「……謝らなくて良いよ。知らなかったのは確かだろうし…それに私だって、恋人と称して良いか微妙な位置にいるしね」

     微妙な位置? 聞こえた言葉の意味が解らずに、トーランドは眉間に皺を寄せて綺麗に晒されている額に指を当てて考え込んだ。
     コリコリ摩るように指を動かしながらーと唸っている、自身の目の前に座る男を愉快な人だと再認識したドクターは。かつてのムリナールを知っている人間ならば良いだろうか、なんて気持ちのまま恋人に至るまでの経緯も動機も、事細かに話していった。

     ポツポツ話して。少し笑っては、唇を微かに震わせて。
     そうしてゆっくりと時間をかけて語られる全てを、表情と態度で以てトーランドは正面から受け止める。理由は単純、何時ものように茶化して煙に巻いてから離れると言う手段を使う気にならない位には、ドクターの気持ちが理解できてしまったからだ。かといって、ただの恋人である彼にそんな事を言ってやる義理はトーランドには無くて。
     はてさてどうしたものかな。なんて先程と同じ言葉を持って少しだけ思考を逸らす頃には、ドクターの話も終盤に差し掛かっていた。そんなドクターも、話し相手の気が一瞬でも逸れたのが解ったのだろう。気分を損ねた様子も無く、「ふふ、」と柔らかく笑うその姿に、トーランドは目を大きく開いた。

    「すまない、私の話にそこまで興味はないものね」
    「ああ、いや…スマン。何て言ったら良いのか考えてたんだが…」
    「……いっそ、君みたいに私の感情は抜きにしてセフレって言い切った方が良いのかもね。私はただ…」


    「私の熱が、冷え切ってしまった彼に少しでも伝われば良いのにって…思っただけなんだけどなぁ」

     浮かべた笑いはそのままに、言葉の先から終わりの全てで寂しいと訴えかけてくる声色で。高望みだったか、とそんな事を言うものだから。
     込み上げる衝動のままに、トーランドは目の前の薄い肩を鷲掴んだ。自身の手のひらで簡単に包んでしまえる程の薄さに顔を顰めて、それでも耐えきれなかった思いの丈をびくりと震えたその身体ににぶち撒ける。逃してやるものか、と自分より小さな身体に言い聞かせるように。

    「わかる」
    「えっ?」
    「わかるぜ、その気持ち」
    「何ドクターに触れているんだ貴様、許可を出した覚えはないぞ」
    「ファントム? 落ち着いて、少しびっくりしただけだから…」

     ミス・クリスティーンと共に、威嚇するような言動をとる己の護衛に苦笑しつつも、問題はないと伝えてからドクターは肩を掴んでいる大きな手に自分の手を重ねてみた。痛みは感じないが、その手に込められている力は中々の物で。肩からじんわり広がっていく圧力に、もしかしたらという感情を抱えながらドクターは起こり得るかもしれない可能性に思いを馳せる。

     だって彼は、わかると言った。
     先程まで確かに聞いてはいたけれど、深入りはしないと言わんばかりの表情であったのに。ぽそりと漏れ出てしまった自身の中で煮詰めていた本音に、声色も表情もガラリと変えたこの男ならもしかすると。

     ──私の理解者とやらになってくれるのかもしれないな、なんて。

     トーランドもきっとそんな事を思ったのか、存外柔らかな顔をしつつも絶対逃さないぞと言う顔をしながら、もう少しだけ時間をくれ、だなんて言う物だから。
     今日あの人と過ごす時間を全て上げてもいいかな、とドクターは朝に味わっていた感覚とは違う、久々にウキウキと弾むような心地のままその言葉に快諾を返すのだった。

    「ってな訳で。アンタ達のドクターは借りてくぜ! ちゃんと日付が変わる前には返すからよ、心配すんな」
    「ありがとうファントム、一応戻る時には連絡を入れておくよ。君も、散策するなり休むなり…この街を楽しんで」

     んじゃ! とファントムが預かり知らぬ所で意思疎通が出来た二人は、両者共に腕をヒラヒラ振りながら歩き去っていく。そんな彼らにあっという間に残された一人と一匹は、ポカンとした顔を見合わせつつも見送っていた。
     元気になったなら結構だが。まあ、あの男と二人で出かけるよりは精神的にも宜しいか。普段と比較しても楽しそうに見えるドクターの後ろ姿に、ファントムもするりと表情を和らげて足元にいる黒猫に声をかけた。

    「戻って、おやつでも食べようか。レディ」

     にゃうん、と黒猫は賛成というように一つ鳴いてから、毛艶の良いスラリと美しい足を一歩ずつ優雅に動かし始めた。


     ⬛︎


     
     さて。移動した二人が、直ぐに場所を移して話し込んでいたかと言えばそんな事は無く。
     元はと言えば、野暮用込みでこの街に来ていたトーランドの、その野暮用とやらを終わらせる為に二人は趣のある小さな店へと訪れていた。「本当に直ぐ済む用だから、ここに座って待っていてくれ」と言い残したトーランドがその店の中に入っていくのを、ドクターはちょこんと指定された椅子に座って見送っている。
     彼が言うには襲われるような事態は万が一にも無いとの事で、話し相手が消えて急に暇になってしまったドクターは一頻りぼーっとした後、一応携帯していた小説を読む事にした。
     
     本を読むのは好きだ。
     ロドスでの仕事上、文章を読む事にドクターは漸く慣れた来たとは言え、集めた筈の知識は忘れてしまったし経験等も圧倒的に足りていないと思う事も度々ある。そんな日々を過ごす中で、書類や論文を読むのとはまた違った感覚を得る事が出来る、小説や伝記の類を空いた時間に少しずつ読み進めていくのが、今現在のドクターが手にした趣味と呼べる事柄だ。
     記憶を失った自分が、失った物を埋める為に見聞を広めようとした所で、浮いた時間で外に出る事は叶わない。かと言ってオペレーター達に聞いて回り、長く時間を取らせるのも申し訳がないだろう、と考えた末に思いついたのが読む事でその風景や情景などを思い浮かべる事の出来る物語を読む事だった。
     
     ──この本にはこんな景色が書かれている。これにはこんな事が書いてあったけれど、これは私にも適応されるのだろうか。
     
     そんな事を考えながら読み耽るのが好きだった。書かれている所にいつか行ってみて、同じ景色を見られるのだろうか、なんて空想を浮かべたりもして。何だか指南書のような扱いをしてしまっている気もするが、楽しみ方なんてきっと人それぞれなのだし問題ないだろう、と。

     本を読むにあたっての細々した理由はあるにせよ、フィクションだろうと何だろうとドクターは“本”と言う物を好んでいる。
     今手に持っているのはちょっとした恋愛小説で。お勧めしてくれたグラベルが言うには。それはもう定番とも言えるような恋愛模様が描かれているらしく、これも自分に応用できたりするのだろうか、と考えたドクターが手に取った一つだ。今日の参考には、ならなかったが。
     
     ページを一つ捲って頬杖をつく。
     それを何度か繰り返しているうちに、開いていた本に影が落とされた。ドクターがゆっくり視線を上げて影の持ち主を見上げれば、待ち人であるトーランドが興味深そうに本を覗き込んでいて。
     丁寧に栞を戻し、パタリと軽い音を立てて本を閉じる。その本のタイトルが見えるようにと置いてやれば、「ああ!」明るい声を出すのと共に、合点がいったと表情を変えていた。態とらしいとも感じるが、この男から出るそんな軽薄さが好ましくてドクターはフェイスシールドの下でこっそり笑みを浮かべる。懐かしいなぁ、なんて本の表紙をなぞりながら言う男を再度見上げて解りやすく首を傾げて見せれば、へにょりと眉を下げてトーランドも解りやすく苦笑いを返してきた。

    「いやぁ、ちょっと前に流行ったんだよなこれ。話題の種になればと読んではみたが、コテコテの恋愛物だった…」
    「確かに、面白いけれど人を選ぶよね。私は好きだよ」
    「俺はてっきり、論文とかそんなもんしか読まないと思ってたぜ? ドクターはこんなのも読むんだな」
    「ふふ、意外だった? こういうので勉強してるんだ。今日だって、少しの参考になればと思って持ってきたんだけど」
    「……参考?」

     自嘲しているような声で話すドクターの言葉をトーランドは聞き返す。恋愛小説が何の参考に、まで頭に浮かべて街中での事を思い出し成程と一人頷いた。ドクターは自身が読んだ所のページを覚えているのか、パラパラ捲ってそれぞれの箇所を指さしては話を続ける。

    「例えば、ここ。定番の恋愛物なら、デートの仕方だって定番だと思って読んでいたんだ。それなら、彼も断る理由なんて無いのかなって」
    「……そうかい」
    「うん。後は、これかな? 彼はきっと食べ歩きとかは好まないだろうから、店に入った方がきっと楽しめるか…なんて事を考えながら読んでる。…彼は、こんな小説自体そもそも好きじゃないと思うけど」

    「でも、でもね」
     
     声が震える。視線がどんどん下へと落ちて、とうとう本へ向けていた骨ばった手のひらで顔を覆って。
     泣くのを堪えるように丸まってしまった痩せた背中に、トーランドは何も言わずに手を添えた。力加減に気をつけてそろりと撫ぜれば、その感覚に耐えきれなかったのか言葉の続きが喉奥から搾り出されていく。

    「一度でいいから、普通の恋人のような思い出が欲しかったんだ。それがあれば、今日の出来事を抱えて生きていけると思って、でもダメで、私は」
    「そうだなぁ…無償ってのは、キツいよな。褒美なんてのも欲しくなるさ」
    「…一度だけで、良かったのに」

     ぐす、と鼻を啜る音が聞こえてトーランドは少し力を込めてフードに隠された頭を撫でた。小さく聞こえるありがとうの声に、何の事は無いと笑ってぐりぐりと手のひらを押し付ける。泣いて解決する話では無いが、ずっと我慢しているのは心にも身体にも悪かろう。吐き出せる時に吐き出してしまえば良い、少なくともトーランドはその想いを持って今のドクターに接している。
     最早声だけではなく身体まで震えているものだから、慰撫していた男はしゃがみ込んですっかり縮こまってしまった目の前の体躯を、如何にか自らの腕の中に招いてポンポンと更にあやすように叩いてやる。すると今度はしゃくり上げるようになった姿にすっかり困ってしまって、小さな身体を抱えたまま思考を巡らす。

     ドクターの肩に顎を乗せて、こてりと首を傾ければ触れるフードの感触にトーランドは目を閉じて──「あ、」と一言呟き、閉じた瞼を直ぐに開いた。何かを思いついたような、思い出したようなそんな声色と身体を覆う熱のお陰で、少しずつ落ち着きを取り戻したドクターが腕の中で身じろぎする。最も、思いの外ぎゅうぎゅうに抱き締められていて何も動かせない事を悟って、大人しく己を抱きしめている男の肩に頭をぐりぐり押しつける羽目になったのだが些細な事だ。
     母音だけを呟いたトーランドは、ドクターが落ち着いたのを確認して抱えたまま立ち上がる。急な浮遊感に「うわ、」と声を上げたドクターを気にせずに立ち上がらせた。小さなテーブルに乗った本を手渡して、にんまり笑って呆然としているドクターへ、自身が思い至った事を楽しそうに告げる。

    「ドクター、俺だけの所為じゃあ無いが…悪い事をしたとは思ってるんだ」
    「うん? でも私も、君の所為とは思って無いよ」
    「まぁまぁ聞けって。今日あいつとやりたかった事全部ができる訳ではないし、俺相手じゃ意味は無いかもしれないが」

    「今日の楽しみを台無しにしちまった詫びに…俺と街を見て回ろうぜ、ドクター。どうせなら、楽しい気持ちで帰ってあいつを見返してやろう」

     この本に書いてある事だけを、デートって思うのは悲しいだろ?
     そう言って笑いながら、自分に向けて手を差し出しているトーランドをドクターは静かに見つめる。
     一頻り考えて、その瞳にしっかり目を合わせて──頷いた。彼の瞳にも、自分と同じ寂しさの色が混ざっている気がして。どうせなら彼の本音も聞いてみたい、とドクターは伸ばされている手にしっかり自分の手を重ねる。
     どんな事を教えて貰えるのか。考える度に気持ちが浮き立つような感じがして、しまいには世間一般のデートの始まりとはこういうものなのだろうか、なんて事も思ったりして。重ねた手を眺めてから、トーランドの顔を見上げて大切な意見を口にする。

    「しっかりエスコートしてくれるなら」

     デートというのは、相手の意見も大事なんだろう?
     悪戯のように口から紡がれたその言葉に、トーランドはドクターが初めて聞く位の大きな声で笑いながらも仰々しく、自信満々に答えを返した。

    「仰せのままに」


    ◼️


    「でも、もう夜も遅いしどうするんだ?」
    「んー?何言ってるんだ、ドクター。幾らそこまで大きくは無い街とは言え、夜でも楽しめる所はあるものさ」
    「へーー…」

     先程重ねた手はずっと握られたまま、陽が落ちてすっかり暗くなってしまった街の中を二人でゆったり歩いて行く。ドクターが見た事の無い物興味を示せば、トーランドは簡潔に教えたりそれが食べ物関係であれば、「食べてみるか」なんて言って二人で食事をしつつ街並みを眺めて一息吐く。
     かと言って、ドクターだけが楽しそうにしているかと思えばそうでも無く。あくまでトーランドが知っているのは街の構造や楽しみ方のみであって、販売している物や店舗全てを知っている訳では無い。彼が「あれは何だろうな」と指差した物にドクターが解説等を加え、それを知った場所や自分なりの感想も含めて伝えれば、意図せず知識が増えたトーランドは嬉しさのまま笑顔を浮かべて相槌を打つ。
     食べ飲みはしゃぎ、笑い合っては小突き合う。
     気づいた頃にはドクターの腕はトーランドに絡んでいるし、トーランドの手のひらはドクターの肩を抱いていて。アルコールなんて物は一滴も身体に入っていないのに、二人は知らず居た時間が勿体無い! とでも言うように今までの分、お互いの距離を埋めるかの如く馬鹿みたいに楽しんでいた。

     ほい、なんて声とともに手渡された紙コップには湯気の立つ温かい飲み物が入っていて、何種類かのスパイスの香りがするソレをフェイスシールドをずらしてずず、と一口啜る。チャイ、というらしい熱い液体が食道を通る感覚に、ほっと息を漏らせば注がれる視線。再度チャイを口に含みながら視線の主を見つめ返せば、想像していたよりもまじまじと見られていてドクターはパチパチ目を瞬いた。

    「なに? トーランド」
    「いや、さっき食べてる時も思ったが…ちゃんと口あるんだなって」
    「あるよ? 私を何だと思ってたんだ」
    「実はちょっと前までは、高性能ロボットなんじゃないかと疑ってたんだよな」
    「んはは」

     トーランドも同じ飲み物を啜りながら、ちまちま飲み進めているドクターの唇にもう一度目をやる。
     自分のよりも小さくて、色素も薄い唇だ。その唇を悲しみで震わせて、己も並々ならぬ感情を抱えているあの男の名を呼ぶのかと。今はこうして喜びに溢れているやらかい声をか細くして、後生大事にしている想いを向こうへ戻ったらまた告げるのだろう、と。
     そんな言葉が頭を過ぎってトーランドは、なんて勿体無い事をするのだろうな、なんて感想を、彼の金色を思い返しながら抱いていた。何となくそう思っただけだ。思っただけで、特にしてやれる事なんて自分には無いのだし、どうしようも無いだろう。冷め始めた液体と一緒にそんな感情を纏めてごくり、と飲み下して。

    ──自分と同じ香りがするその唇にキスをした。
     
     へ?と気の抜けた声と共に甘ったるい吐息が漏れていく。それに目を細めてからもう一度、薄く開いているその口にキスを落とせば、ポカンと今度は大きく開かれていて、口元だけしか見えていないのに間抜けに見えるその様子にトーランドは笑うのだった。
     笑い声が聞こえた途端にきゅむ、と結ばれるその口が更に笑いを誘って仕方がなくて、耐えきれずトーランドは片手で表情を隠し空を見上げる。
     トーランドのその様を見て自分が笑われていると察し、いそいそとフェイスシールドを戻したドクターはむすりとした声色を隠しもせずに、ずっと笑い続けている目の前の男に行為の理由を問いかけた。

    「……なんでキスしたの?」
    「んっ、はは…!すまん、ちょっと待ってくれ!声聞くだけでまずい…!」
    「人の様子で笑ってるんじゃないよ、この!」

     ケン!とドクターは軽くトーランドの脛を蹴る。急に二回もキスしたかと思えば勝手に笑って、一体何だというのか。
     ふん、と鼻息を荒くしつつも失礼な男を見上げれば、漸く笑いが治ったトーランドがまた違った表情でこちらを見下ろしていて。
     穏やかだけど、好意も興奮も隠しきれていない、蕩けた蜜のような表情だった。そんな顔をしているとは微塵も想像していなかったドクターはかきんとしっかり固まってしまう。カチカチになってしまった身体を抱き寄せて、見下ろしたままトーランドは腕の中に閉じ込めたその存在に語りかける。努めなくとも出るようになってしまった、柔らかい声音で。

    「ドクター、これからも仲良くしてくれないか。お前さんといると、随分気が楽になるんだ。同じ男を知っているからかもしれないが」
    「……さっきのキスも、仲良くの一部?」
    「そうだな、そうしてくれるととっても助かるんだが…どうだ?」

     トーランドは甘えるように首を傾けて、フードに覆われた頭に頬を寄せる。
     できれば拒否はされたくないな、と思っていればドクターの頭が動きまた自分の顔を見上げる形になって。ジッと己を見つめるだけのドクターに、声を出さず見つめ返していればコツ、と胸に固い物が当たる。顔を覆っているフェイスガードだろうと当たりをつけて、胸に擦り寄る頭を眺めていれば小さな声が腕の中から聞こえてきて、トーランドは嫌に耳に馴染むその声に耳を澄ませた。

    「……お願い聞いてくれる?」
    「俺の叶えられる範囲なら」
    「その、気持ちの共有できる人が欲しかったんだ…理解者、っていうのかな……それになってくれる?」
    「…もうそのつもりでいたんだが? 良いぜ、俺の話もその内聞いてくれ。ちゃんと聞くし、話すから」
    「へへ、ありがとう。あと、もう一個聞きたい事があるんだけど……」
    「ん?」

    「仲良くするだけ? 慰めは、いらない?」

     慰め。慰めて欲しいのは自分だろうに、それでも慰めてくれるのか。
     ぐわりとした感情が内から溢れて、グゥと喉の奥から音が鳴る。これも全て受け止めてくれるなら、慰め合うのも悪くないな。そう思いつつ、衝動を隠してどうにか笑みを浮かべたトーランドは、溢れた感情の中にある喜びだけを声に集めて返答した。

    「俺を慰めてくれるって? そうだな。…どうせなら、お互いに慰め合おうぜ。こんな寂しさに塗れてるなら一夜だけじゃ足りないだろ?」
    「……良いよ、トーランド。君がそう言うなら」

     ぎゅうと抱きしめて深く息を吐いて──トーランドはその身体を解放した。
     急に軽くなった身体にドクターから「う、ぇ?」と困惑しきった声が聞こえて、トーランドも同じく困ったような表情で己を取り繕う。今離さなければ己は適当に何処かへ連れ込んで、問答無用で目の前の身体を貪るだろう。自分の事は自分が一番解っている。深呼吸を数回繰り返し、名残惜しくも時間切れを告げれば、意味を理解したのかドクターはしまい込んでいた端末を手に取って約束していたであろう連絡を入れていた。判断が早くて何よりだ。

    「さ、日付が変わる前に帰さなきゃな」
    「時間経つの早いねぇ……楽しかった」

     ぽつ、と独り言のように呟くドクターの手を取って歩き出す。
     心なしか遅く感じる歩みに、離れ難いと思ってくれているのかと胸が暖かくなって──トーランドはその身体を抱き上げた。堪らなくなって走り出したトーランドに「ちょっと!」と声をあげるも、そんな文句は聞き入れられず、次々移り変わっていく景色にとうとうドクターは目を瞑ってしまう。
     鍛え上げられた身体の前では、街中程度の距離など障害になる訳も無く。次に目を開けた時には、もう拠点にしていたホテルの前で情緒も何もないのか、と自分を抱えている男にじとりとした視線を向けてしまった。やはり気にした様子も無く快活に笑う男に、仕方がないと諦めたドクターが礼を告げようとすれば、いつの間にか屈んでいたトーランドの口が耳の側に当てられた。

    「慰め合うのは、また今度だ。連絡してくれよ? 俺も、ちゃあんと連絡するからさ」

     パッと素早く身体を離し、たった今囁いたであろう艶のある声が嘘だったかのように、「じゃあなー」と郎らかに去っていくものだから。悔しい、と男との経験値の差を感じたドクターはジタバタと地団駄を踏んで、余裕綽々の後ろ姿に叫ばずには居られない程苛立ったので。

    「ハニトラ上手そうって噂、そこら中に流してやるからな!」

     負け惜しみのような台詞だったがトーランドには効果抜群だったようで、途端にがくりと崩れ落ちた男にざまあみろと舌を出して満足したドクターは、今度こそ振り向かずスキップでもするような軽い足取りでホテルの中へと入っていった。


     
     流石に日付も変わる手前ともなれば、ホテルだろうと静かなもので。
     時間帯の所為か薄暗くなった廊下を、ドクターは音を立てないようゆっくりと、廊下の小さな明かりを頼りに部屋へと向かう。
     静かな廊下に、コツコツと自らの足音だけが響くのがだんだんと楽しくなってきて、下ばかり見つめて歩いていれば何処かで見たデザインの靴がドクターの視界に入った。パチリと一つ瞬いて、靴の持ち主を確かめる為に俯いていた顔を戻すと、先程連絡を入れた端末を持ったままのファントムがそこに居て、まだ起きていたのかとドクターは目を丸くする。

    「…もしかして、待っててくれたのかい?」
    「おかえり、ドクター。心配もするだろう? 怪我が無いようで何よりだ」
    「ただいま、ファントム。……聞いてくれる?」
    「勿論だとも」
    「私の気持ちをね、理解してくれる人が出来たんだ。とても…とっても楽しくて、嬉しかったよ」

     いつも聴く調子とは違う、弾んだ上擦ったようなその声にファントムは心底安心する。数時間前とは違う声色と態度に、良い出会いをしたのだな、とこちらも嬉しくなってしまう音色に笑みを浮かべつつも、自分の役目に幕を下ろす時が来た事に寂しさを覚えていた。彼のこんな話を聞けるのは、自分とミス・クリスティーンだけだったのだから。

    「そうか…私はもう、お役御免か? 舞台の幕が降りたなら、観客は家に帰るべきだろう」

     静かに告げるファントムのその言葉に、「えっ…?」とドクターは悲しげな声を漏らすが直ぐに、心外だ!と如何にも怒っていますと言う態度のまま、観客に徹する目の前の男へとずっと思っていた心情をしっかりはっきりぶつけてやった。

    「まさか! もっと私の話を聞いてくれないと困るよ、ファントム。まだまだ聞いて欲しい事が沢山あるし…悲しかっただけの話じゃ無くなるだろうからさ」
    「…了解した、ドクター。ふふ、ミス・クリスティーンも喜ぶだろう」
    「ほんと? それは嬉しいな。……やっぱり君と話せなくなるのは私も寂しいからさ」

     これからも、よろしくね。
     続けられた言葉に影はとろりと瞳を和らげて、君の願うままにとでも言うかのように、劇中で使う仕草そのままの美しさでドクターの足元へと跪いた。


    ◼️


     ロドスのドクターはそこそこに多忙である。
     特に行う作戦が乱立している時であれば、指揮をした後にその度にやらかしたであろう項目が書かれている書類の山をヒィヒィ言いながら崩し、訪れたオペレーターやロドスにずっと居てくれている者達の話も聞いて──上げていけばキリが無いが、やはりそこそこに多忙であると言えるだろう。

     トーランドと仲良くなったあの日。
     いつの間に入れたやら、防護服のポケットに入り込んでいたメモに書かれてある連絡先に、改めて感謝の言葉を送る為に連絡を入れた。意外にも早くに返信が来てからは、これも彼とのコミュニケーションの一環だろう、とこまめに他愛無い話を続けていたのである。然しそれから怒涛の日々が続いて、まとまった時間も取れなければ少しの休憩は睡眠などに使ってしまうので、端末を詳しく見る事も叶わず。
     どうしたものかなぁ、と空いた時間を利用してドクターが自らに理性剤をぶち込んでいる間。
     タイミング良く部屋に訪れていたファントムに、ぼんやりとした頭で相談するとケロリとした表情で、「私が代わりに連絡しよう」と返ってきたので。理性も脳みそも軽くイカれていたその時のドクターは、返信しないのも失礼か、と蕩けきった脳で判断して連絡代行をファントムに頼んでしまったのである。両者とも、事情を知っているのだから構わないだろうと思っての判断だった。

     ──これが意外に英断であったと後のドクターは語るが、ファントムから返信が返ってきたトーランドの心臓へのダメージを知らないからこそ言える事である。

     トーランドが呟いたであろう「代理を頼むなら、事前に相談して欲しかった」と言う台詞が、一言の軽い謝罪と共にドクターの日記にしっかり記載されている。あの時は脳みそがご臨終だったからノーカンだとは思う。ふとした瞬間、トーランドがこの話を蒸し返す度にドクターが言う台詞も、実は小さく書かれている。

     そんな経緯を経て、ドクターから返信が返ってこない時はファントムの端末へトーランドからの連絡が送られてくる。それを確認してドクターへ端末を見るのを勧めるか、忙しすぎる場合はドクターからの伝言を向こうへ伝えるのがファントムに新たに与えられた役目だった。
     滅多に震える事の無い端末が、何かを受信した事を知らせる。手に取って画面を確認すれば、案の定ドクターの理解者となった男からの物で、ファントムは眩しく光る画面から視線を外さずに最近のドクターの状況を思い出していた。
     ドクターは今、執務室へ缶詰状態の筈である。故に己へと連絡が来たのだろう。ドクターの気分や体調次第では返信に対しての意見すら聞く事できないだろうが、それはそれとして知らせねばならない。

     ファントムは端末をポケットへと押し込んで、大人しく行き先を変更する。
     今日の秘書は誰だったか。伝えられていた其々の今回の配属者達をぼんやり頭に浮かべて──その端正な顔には似合わなさすぎる量の皺を寄せ、表情を歪めた。
     本日からの秘書はいけ好かない、輝く色をしたあのクランタの男である。己には眩しすぎるあの色もドクターへの態度にしても好きになる要素等欠片も無い。大きく溜息を吐いて、早々に罰でも何でも当たればいい、と心中で願いながら目的の場所へとファントムは向かい始めた。



    「やっっっっっっと、終わっ…た……」

     未だ書類の散乱するデスクへと突っ伏す。
     数枚床へと落ちた気もするが、些細な事だとドクターは伏せたまま乾き切った目をしぱしぱ瞬かせた。心の底から目薬が欲しい所だ。
     久々の秘書に任命されていたムリナールも、とんだ災難だったとでもばかりの疲れ切った表情で、とうの昔に淹れたであろうコーヒーと言う名の泥水を啜っている。そんな不味そうな顔をするなら淹れ直せば良いと思うが、今の自分にもそんな気力は残っていないのでムリナールもきっとそうなのだろう、と勝手に決めつけて息を吐く。

     只今の時刻は昼下がり。
     のそのそと顔をあげてゴチ、と鈍い音を立てデスクに顎を乗せたドクターは、次にするべきタスクを思い返していた。
     緊急の物は全て終わらせた。指揮確認は急務では無いがするべきだし、オペレーターからも数件要望もあったのを確認しなければならないか。然しやはり、急ぎでは無いのだから多少は休みたい。せめて息抜き、休憩が欲しい。
     ーーー…と低く唸って、息を吐き出す。激務に付き合ってくれたムリナールも流石に疲れただろう、もう休んでいいと伝えなくては。意向を伝える為に、ムリナールの方へと顔を向ければごきりと首から嫌な音がした。もう身体もバキバキだ、音に気づき此方を見たムリナールに力無く笑いながらもドクターが口を開く──前にノック音が部屋へと響いた。来客だ。

    「はぁーいー…」

     表情と同じく力無い声を絞り出す。
     ゆっくり開いた隙間からするりと音も無く入ってきたファントムに、ドクターはきょとん、とした顔をしムリナールも滅多に見る事は無い男に片眉を上げている。何か緊急の用でもあったか、と姿勢を正してファントムの話を聞こうとすれば、手で制されたのでドクターは大人しく、くったりと身体の力を抜いた。ファントムは一瞬だけムリナールの方に視線を寄越したものの、何事もなかったかのように自身の端末を持ちながら連絡が来ていた旨を告げる。

    「ドクター。彼が近辺に居るらしく、いつ会えるかなどの連絡が来ていたが…」
    「嘘……全然気づかなかったな。うわほんとだ、結構来てる」
     
     急いで仕事用とは分けている端末を確認すれば、確かに差出人が同じ数件の通知と、それよりも少ないが着信の名残。本当に気付かなかった、心配でもかけてしまっただろうか。
     デスクに預けていた身体を起こして一つ伸びをする。椅子の背もたれに体重をかけて床を蹴り、子供がするようにくるくる回転させながら理解者の事を考えていた。彼も望んでくれているみたいだし、会いたいなぁ。

    「どうする? 何と返せば良いだろうか」
    「うーん…一区切りしたし、会ってこようかな」
    「大丈夫か? 疲れているだろう」
    「だいじょぶ! 彼の所でゆっくりできるだろうし、私も会いたいし。君は何か予定ある?いつも通り護衛をお願いしても良いかな」
    「問題無いとも。準備が必要なら、私が返信しておこうか。店は指定させてもらおう、君が行きたいと言っていた店がある筈だ」
    「本当? ありがとう!」

     明るく礼を言うドクターとその場で素早く端末を弄り出すファントムを、大して状況を把握出来ていないムリナールは交互に見やる。その視線に気づいたドクターは、先程伝え損ねた午後の事をムリナールに伝達した。付き合わせてしまったから、と謝意も添えて。

    「午後からはムリナールも休んで良いよ、疲れただろう? 私は最近できた友人に会いに行ってくるから」
    「……友人?」
    「そう。護衛はいつも通り彼に頼むし。直ぐに仕事させてしまったけれど、貴方もロドスに戻ってきたばかりだからね…ゆっくり休んで欲しい。できるだけ、貴方に負担をかけたく無いんだ」

     余りにも申し訳なさそうに言うドクターに、もやりとした物がムリナールの胸の中に落ちていく。それは、護衛を務めるには己では役不足という実力を疑われたような発言の所為か。はたまた、己と言う存在が居るのに真っ先に他の者へ同行を頼んだ故に浮かんだ嫉妬による物か。
     どちらであったにせよ、面白くは無い。気づけばムリナールは、再びファントムと楽しそうに会話し続けているドクターへと同行の意を告げていた。

    「私が護衛を務めよう。話を聞くに、その友人とやらに会いにいく時はずっと彼が同行しているのだろう?彼にも休息が必要だと思うが」
    「え? でも…」
    「今秘書に配属されているのは私だ。それとも、私では不足だと?」
    「そんな事は無い、貴方がいるのはとても心強いよ。ええと、貴方が良いのであれば…一緒に来てもらっても良い?」
    「ああ……その“友人”の顔も、拝んでみたいしな」

     ぼそりと漏らしたその小さな声は、ドクターの耳には届かなかったらしい。
     ファントムに待機を言い渡しているドクターが、「何か言った?」と不思議そうにしている様子をジッと眺めてから、ムリナールは何も言っていないと嘯いた。
     返信を見たファントムの話を聞く限り、先方とやらはもう指定の店とやらに着きそうだと言う。「急いで準備をするから!」と足早に出ていくドクターに、真っ黒なフェリーンも着いて行った。向けられる視線だけでも好意を持っていない事は解るその男を見送って、マグカップに残っていたコーヒーを飲み干して椅子から立ち上がる。
     淹れた当初はあんなにも芳しい香りを昇らせていた筈のコーヒーは、先程よりも更に冷め切っていてムリナールの眉間に皺が寄る。一気に飲み干したそれはただ自身の舌の熱と感覚を奪っていくだけで、到底美味いとは言えぬ物だった。


     
     此方が指定した場所は、随分と小洒落た店で。
     ムリナールは言われるがままに連れて来られたカフェの店先をぼんやり眺めていた。「こっちだよ」と機嫌が良いのか、クイクイと袖を引っ張っているドクターに促されるまま店内に入って行く。ドクターの注文も同じ調子で眺めて、勧められるがままコーヒーを一つ頼んだ。不味いコーヒーを飲み干した後だから、と特に気にする事も無く人気が有りそうなテラス先へと向かう。
     街の様子が目に入る開放的なその場所の隅の席、ドクターが手を振っている先の人物を見てムリナールは呆然とその名前を口にした。

    「トーランド……?」

     何故、この男が此処に居て、ドクターと親しげに待ち合わせなんぞをしているのか。
     何が起きてるのか解らないと言った様子で知己である男を見つめていれば、横にいた筈のドクターがトーランドの居る席にいそいそと空いている席に座っていて。「お待たせー」なんて呑気に言っているドクター視界に入れたムリナールは、唖然としながらその場に立ち尽くしていた。

    「忙しかったんだろう? 体調は問題無いのか、ドクター」
    「それファントムからも言われたよ。大丈夫、君と一緒に居た方がきっと疲れも取れるよ」
    「はー、俺を喜ばせる事ばっかり言うのはこの口か? 俺も会いたかったよ、ドクター♡」

     甘ったるい声で、ドクターに話しかけるトーランド。それを見たムリナールは理解が追い付いていないのを自覚しながらも、「お前は何をしているんだ」と二人がいる席へと気合いで近寄った。酷い表情をしたムリナールを横目にしつつトーランドは、その問いには答えずにドクターとの会話を続けていく。

    「なーんでムリナールくんが此処に居るんだドクター? いつものシャイなアイツは?」
    「ムリナールは護衛だよ。彼がファントムに護衛ばっかやらせたら問題でしょって言うから…着いて来たいって言ったのもムリナールだ」
    「へぇ……ああ、鼻にクリーム付いてるぜ? そんな夢中になって食べるなよ、かーわいいなぁ」

     注文していたケーキを頬張る為にフェイスシールドを普段よりもずらしていたドクターの鼻先を、トーランドの厚い舌がべろりと動いて白いクリームを掬い取っていく。
     その行動に目を剥くムリナールも何のその。擽ったいとドクターは笑い、トーランドも一緒になって表情を緩めている。酷い夢を見ているようだった。それでも問わねばならないだろうと、何とかムリナールは声を絞り出して楽しそうな二人に声をかける。

    「いつから、そんなに仲良くなった…? 接点など……無かっただろう」
    「んー? 接点ならあるだろ。あの日の夜からさ、閣下」
    「んぐ、うん。君が私を追いかけてくれた日だね、もう懐かしく感じるなぁ」
     
     口いっぱいに詰め込んでいたケーキを飲み込んでから、軽い調子でドクターは頷いた。その口元には笑みが浮かんでいる。行ってみたかったというこの店のケーキが余程口に合ったのか、それともそんなドクターを見て目を細めているトーランドが居るから笑っているのか。ムリナールには解らない。然し、ただ仲良くなった訳では無いのだと言えるのは確かだった。
     だって、二人のこんな表情を、ムリナールは見た事が無い。否、かつては見た事があったとしても、今この時に思い出せないのならそれにはもう意味など無いのだろう。
     この二人が仲良くなった原因は、間違い無く自分なのだ。ショックを受ける権利など存在しないと理解はしていても、衝撃の余りショックを受けた事すら隠す事ができずに、ただぼんやりと目の前の二人を見つめる。「私の所為か」そう呟けば、ドクターもトーランドも同じような表情をしながら顔を見合わせて──困った顔をして笑った。
     ドクターは酷い顔をしている男の頬にゆっくりと触れる。少し暗くなった瞳を見て、「困らせたかった訳じゃ無いんだ」と申し訳なさそうに告げた。

    「私が一番好きなのは、貴方だよ。それはずっと変わらない。でも、少し抱えきれなくなった時は彼が居てくれるようになって。トーランドは貴方の事を話しても全部解ってくれるし…私も彼の話を聞くのは楽しいし。ええと、貴方だって、私とトーランドの仲が良いのは嬉しいだろう?」

     ドクターは言う。罪悪感と歓びを織り交ぜた声色で、ムリナールの見覚えのある何かを諦めたような表情で、言葉の最後に男に問いかける。

    「俺もお前の事は大事だぜ?しっかし、俺は色んなもんが混ざっちまってるからなぁ…何と言ったら良いものか。マァ何を思ったとて、ドクターが余す事無く聞いてくれる……心も身体も慰めてくれるから問題無し! ってな」

     トーランドは言う。星を見えなくなった昏い夜空のような瞳を細めて、笑いながらも無慈悲に言い放つ。その表情はやはり、いつの間にかムリナールが見慣れてしまった物だった。

    「えっと、そういう事だから、貴方は普段通り…貴方なりに私達を愛してくれると嬉しいんだけど、やっぱり駄目、かな…怒る……?」

     声を震わせながら己の様子を伺う恋人に、自分は何を言えるのだろうか。何をしても自分が悪い。他人の期待も己の情けなさも全て放り出していたツケが回ってきただけだ。そんな自分が拒否を示した所で──いやきっと、私が拒否すれば更に悲しい顔をして、すんなりこの場で別れるのだろう。我慢して、堪えて、壊れそうになるまでずっと抱え続けるのだろうな。回らない脳みそでムリナールはそんな結論を出した。
     
     耳を伏せて、目の前の薄い身体を抱きしめる。困惑したような声を漏らすドクターに募りに募った想いがムリナールから零れ落ちた。許して欲しい、肉の付いていない肩に頭を乗せて、低く漏れ出た懇願が聞こえたのかムリナールの頭に戸惑いがちに手のひらが乗せられる。己が慰められてどうするのか、とその手を退かすようにぐりぐりと埋めた頭を動かせば、当たる髪の毛が擽ったいのか小さな笑い声が耳に入った。続いて、囁くような声が聞こえる。

    「怒ってないよ。ただ少しだけ、寂しいなあって思ってしまっただけなんだ。ごめんねムリナール、私の方こそ許して欲しい」

     そんなドクターの言葉を聞いて、ムリナールは目の前の身体を抱え込む力を強めた。隙間無く密着して、その暖かさにドクターはまた笑う。「こんなの初めてだ」はしゃいだ子供のようなその言葉に、ムリナールはもうどうしようもなくなってしまった。
     無言でドクターの肩に埋まるムリナールと、きゃっきゃとはしゃぐドクターを飲み物を啜りながらトーランドは眺めている。随分珍しい態度を取るもんだ、もしかして本当に参っているのか? ストローを噛み潰しながらそんな事を考えて、「結局、俺達の関係は認めてくれるんだよな?」やはり無慈悲に言い放った。時間が勿体無いだろ、俺もドクターに会いに来てるんだぜ。

     ──時代はトーランド・キャッシュ。

     抱え込まれて身動きも出来ないドクターは、無慈悲が過ぎる一言に固まってしまったムリナールの頭を、唯一動かせる手のひらでよすよすとあやすように撫で回しながら、昔馴染みって凄いんだな、とトーランドを尊敬の眼差しで見つめ間違った知識をインプットしていた。


     ◼️


     
    「何か私に出来る事は? ……何もしてなかったからこそ、こんな事になっているのは解っている。然し、どう償えば良いか全く浮かばん……」

     何か罰を、と普段とはかけ離れた様子でモゴモゴ喋るムリナールに、どうしたものかとドクター達は頭を捻る。きっと何かをさせてやらねば収まらないだろうな、とドクターがトーランドの方を見やれば彼も彼でウンウン唸っていた。
     そうして耳を伏せて未だにドクターを抱え込んでいる男を置いて、二人でひたすら唸りあって数分後。何かを思いついたのか、にんまりと口元を緩ませてドクターの耳元で囁く。
     
     ムリナールがまだ顔を埋めている為、その頭の無い反対に回り、更に声を潜めて伝えなければいけないのは意外と骨が折れたので。無駄な労力を使ったトーランドはドクターに伝え終えた後、キラキラ輝くその金色の頭を引っ叩いてやった。いつまで埋めてるんだお前は、の意である。その青い瞳にやはり慈悲は無い。
     提案を伝えられたドクターと言えば隣で鳴った素敵な音には目もくれず、ぱちぱち瞬きを繰り返して内容を反芻していた。そして、一言。

    「本気ぃ?」
    「本気も本気! それに…俺達がどれだけ仲良くなったのか、ムリナールくんにも見せてやらなきゃだろ?」
    「うーん、大丈夫か…?」
    「でも、他に罰になるような物なんて思いつかないんだよな」
    「それもそうか。ね、ムリナール…私とトーランドが仲良くしてるの、黙ってずっと見てられる?」
    「……それが、望みなら」

    「ねぇやっぱやめようよ何か泣きそうになってるよ」
    「はいはい頑張りましょうねムリナールくん、まずはドクター離してよちよち歩こうな」

     此処では何だと、皆で仲良く立ち上がる。
     真ん中にムリナールを置いて、右にトーランド左にドクター。二人が楽しそうに先を行き、グイグイ己の手を引っ張って進んで行く物だから、ムリナールも重い足を動かしてその後に続いて行く。
     自分を挟んでキャイキャイ、からからはしゃいで笑うその声はやっぱり聞き馴染みの無い音で。瞳にまで溢れそうな惨めな気持ちを一度閉じる事で、ムリナールは如何にかその惨めさが外へと流れ出るのを抑えるのだった。


     
     二人の要望は単純だった。

     ──トーランドとドクターが行う行為一切を、手を出さずにただ見守る事。

     身体を重ねてようが、自分を除いて楽しくお喋りに興じてようが、彼らがムリナールを呼ぶまでは二人の行いを黙って見ていなければならない。流石にシラフじゃキツかろうと、トーランドが善意で差し出した得意でも無い酒を呷りながら、ムリナールは静かに二人を見つめていた。
     気分が沈むだけで別に面白い訳では無いから出来るだけ視線を外していたい。けれど、どちらも自分の知らない表情をするものだから、気になって目が離せない。そんな二律背反に苦しみながら、ムリナールはまた酒を飲み下した。
     今の二人はベッドの上で軽い会話をして笑い合っている。そこにキスが混ざったり、甘噛みが挟まれたりして。
     そんな戯れを、果たして己はした事があっただろうか。今の二人がその問いの答えだと、ムリナールは自嘲してからキツく瞼を閉じて自身の視界を遮った。また直ぐ開くハメになると言うのに。本当に、情けない。
      
     戯れあって、キスの回数が増えてからどちらとも無く手を伸ばす。そうして互いの熱を分け合うように重なって。
     溶けそうになる、こんな交わりが好きだった。それは恐らく両者ともに。
     気持ち良くて心地良くて、正面にあるトーランドの顔が何かを堪えるようにきゅう、と潜められるのが堪らなくセクシーだとドクターは思っていたし、トーランドはトーランドで、普段は隠されているドクターのその顔が、自分が与える刺激で段々と蕩けていく様を見るのがとても好きだった。
     話していく中で散々零していた、互いの一番にして欲しかった事を、してやりたかった事を与え合っては補っていく。二人にとっては戯れも目合いもその一環である事に変わりは無い。そうしてその一番の男に、貪り貪られては高まる様をたっぷり見せつけて、ゆるりと似通った表情で満足気に笑みを浮かべていた。

     火照った身体を宥めるように呼吸を整えていく。
     トーランドがまるで甘やかすみたいに顔中に唇を落としていくものだから、嬉しいけれどもこそばゆい、とはふはふ息をしながらふざけた顔を作っていれば、とろりとした瞳を向けられる。トーランドに与えられるこんなゆっくり過ごす時間も、ドクターは好きだった。
     
     夢中になりすぎて放ってしまっていたが、ムリナールはどうしていたのだろうか。枕に埋めた顔を上げて、そろりと緊張した面持ちで横を見て──吹き出した。だって、あんまりにもあんまりな顔をしていたので。
     ムリナールのそんな表情を初めて見た! とドクターは薄い腹を抱え笑って、その目尻から涙が溢れる。ヒィヒィ言っているドクターに釣られたトーランドも視線を横にずらして、そしてやっぱり吹き出した。
     ゲラゲラげらげら。二人して散々に笑って、堪えきれなかったトーランドはとうとうドクターの首筋に顔を埋めてしまう。そんなトーランドの頭を撫でてから、涙も拭かずにドクターはもう一度ムリナールを見て、漸く二人の唯一である名前を呼んだ。垂れ下がっていたクランタの耳がぴくりと動いて、鋭い眼差しで此方を見た男は這うような声でゆっくり呟く。

    「……何がそんなに面白いんだ。トーランド、お前はいつまで笑っている」
    「ひひ、ふ、ふっ……!」

     発せられた低い声に反応し更に身体を震わせるトーランドを見て、ムリナールは最後の酒を呷ったかと思えば心底面白くありません、と言うようにその表情を深く険しい物にした。流石のドクターも苦笑いを浮かべたが、「もう少しだけ待ってあげて欲しい」と願い出た。ムリナールは首を捻るも、仕方ないと持っていたグラスを置いて再びソファへとその身体を沈めていった。
     大人しく待てを聞いてくれるムリナールに感謝を述べて、未だに己の上で震える男に、「よかったね」と囁いてドクターは厚い背中を摩ってやる。なんせ首元が冷たくなる所かびしょびしょだったもので。
     
     トーランドは泣いていた。男の表情に笑って、酷い顔をしている男の瞳に見覚えのある熱があったのだ。熱の籠った瞳で、自分もドクターも欲しがるような目で見る物だから。その懐かしさに瞼が熱くなって、気づけば顔を埋めて泣いていた。
     それを宥めながら、ドクターは羨ましいという感情を込めて二人を交互に眺め続ける。

     ──だってそうだろう、私はあんな瞳を見た事が無い。私が見覚えの無い物を彼は知っていて、それを引き出せたから彼は泣いている。

     だから、「良いなぁ」と気づけば口に出していた。かつてのムリナールに宿っていた熱を、現在のドクターが知る術は存在しないのだ。それでも、少しは取り戻せたソレを祝うのが先だろう。ドクターは目の前にあるトーランドの旋毛に唇を落として祝福する。

    「私と貴方の想いは、決して無駄じゃなかったみたいだよ、嬉しいね」
    「……そうだなぁ」
    「あんな熱を知ってたなら、そりゃあ諦めきれないよね…おめでとう、トーランド」

     祝福は寂しさに塗れていて。
     こんなんじゃ祝いにならないか、とやってしまったと言うような顔をしながら思っていれば、濡らした頬をそのままにして顔を上げたトーランドが、少し赤くなった目を丸くして不思議そうな声を出す。

    「何を言ってる?」

     トーランドに何を聞かれているか解らなくて、ドクターも同じ表情を返した。何を言ってるとは、何だろうか。

    「だって、熱が灯ったのなら…私はもう要らないだろう? 君の一番はムリナールで、ムリナールの一番も……うん、そう言う事でしょ。私は邪魔じゃないか」
    「──ふざけるなよ」
    「え」

     先程までずっと泣いていたとは思えない、地の底から響くような低音が聞こえた。
     瞬く間に眉を吊り上げて、此方を睨みつけるトーランドにドクターは心底驚いてしまう。トーランドがこんな表情をした事はあっただろうか。少なくともそこまで長い付き合いでも無いドクターは見た事が無い顔だった。

    「手放すつもりなんてないぞ俺は」
    「いや、だって…えぇ……?」
    「互いにアイツが一番なのは変わらないかもしれないが、同列を作っちゃ駄目なんて事はないだろう?」
    「でも、えっと」
    「俺を捨てるのか、ドクター……理解者だって、言ったのに?」
     
    「……良いの? 私が一緒に居て」
    「寂しさを埋め合った仲だぜ? はい、さよなら…はナシだろ」

     パチンと茶化すようにウインクをするいつものトーランドに、ドクターはほっと息を吐いて胸を撫で下ろす。これ位は許して欲しい、だって本当にトーランドの声も顔も怖かったのだ。
     でもそうか、同列を作っても良いのか。そんな事考えもしなかった、と泣きそうになっていた顔を緩めてくふくふ笑う。そして、今までの事を思い返して浮かんだ例えを、幸せそうに口にした。

    「なんか、人工呼吸みたいだ」
    「…人工呼吸?」
    「そう。私はファントムに支えられていたけれど……掬われたのは君にだよ、トーランド」
    「それはお互い様ってやつだなァ」
    「ふふ、そうやって呼吸を分け与えて。互いにか細く息をしながら、ムリナールにも吹き込む事が出来たんだから上出来じゃない? ハッピーエンドってやつだ、きっと」

     なるほどな、とトーランドは意外にもしっくり来たその言葉を口で転がす。
     キスをする口実にもなるか? なんて多少邪な考えを持って身体を起こせば、直ぐ横に大きな影が立っていてギョッとした。いつの間にやら近づいていたムリナールが、ドクターの側へとしゃがみ込んで──自身の唇を、弧を描いているドクターの唇に合わせていた。
     ぱちくり、と目が大きく開かれる。ムリナールの離れた顔を目で追ってから、ドクターはそっと自分の指をまだ熱の残る唇に押し当てた。初めてキスをされた、と思う。自分からは数回した事はあれど、彼からは初めてではなかろうか。驚きのまま、呆然と名前を呟けば耳馴染みの良い低い声が返ってくる。

    「ムリナール…?」
    「……私なりに、愛せば良いのだろう? 私も漸く、分け与える事が出来そうだと思ったんだ…その、本当にすまなかった」
    「…もしかして、今の人工呼吸のつもりだった?」
    「いや、普通のキスだが…確かに、仲間外れは癪だな。顔を貸せ、トーランド」
    「んん? 俺もか?」
    「お前にも、悪かったと思っているんだ……言えなかっただけで」
    「ふーん? じゃあ、俺にも人工呼吸とやらをしてもらおうかね」

     顔にかかる髪を丁寧に指で掬ってから、挑発するように尖らせているトーランドの唇にムリナールは自身のそれを重ねてやった。薄く開いた隙間に舌を捩じ込んで、そのまま絡め合う。
     自分の頭上で行われている二人の貪り合うような口付けを見て、ドクターは納得がいかないと言わんばかりにボソリと呟いた。

    「ソレ、人工呼吸の息を超えてるだろ」

     何だよ、私も混ぜろよ。
     ふてくされたドクターに、仲良く顔を見合わせた二人が優しく宥めるようにその額と旋毛に唇を落とすまで、そう時間はかからなかった。


    ⬛︎


    「お? ドクターは何を食べてるんだ?」

     明るい声が聞こえて、ドクターもムリナールも声が聞こえた方へと顔を向ける。そこには、扉を開けてカラカラ笑うトーランドがそこに居た。
     トーランドがロドスに顔を出す機会も増えたなぁ、とドクターは思う。ムリナールがいるからか、自分がいるからか。そのどちらもであれば良いな、とドクターは思っているし、ムリナールも入職はそう遠くはないのだろう、とうっすら思っているのだ。当の本人は笑いながら気ままにロドスに滞在している。何はどうあれ、三人で居るのが一番落ち着くのだから仕方が無い。

    「おかえり、トーランド。ムリナールがケーキ買って来てくれたんだ、食べる?」
    「ムリナールが? ケーキ? …明日は天災が起きたりしないよな?」
    「天災トランスポーター達は何も言ってなかったよ」
    「……失礼がすぎるだろう」

     額を抑えながら言葉を絞り出せば、くしゃりと笑うドクターと愉快気に白い歯を見せるトーランドが其処に居て、ムリナールはため息を吐いた。疲れ切ったが故のソレでは無く、安堵のような、胸を撫で下ろすような深い息。
     この二人がこんな表情を見せるなら、それでよかった。
     眉を寄せ、沈んだ面持ちでジッとケーキの箱を睨め付けるムリナールを見て、ドクターは突撃した。トーランドも近寄るなりその広い肩に腕を回す。

    「なーんでそんな顔するかなぁ」
    「そうそう! 今日は三人で色んな事を楽しむ日、だろ?」
    「因みに今日はたこパをします」
    「……お前さん、ケーキ食って無かった?」
    「多分そんなにお腹に入らないから、二人とも沢山食べてね」
    「たこ焼きおかずに米食いたいんだけど、米ある?」
    「バケモンか…? あるよ」
    「さっすが」

     側から聞けばアホなやり取りをしてるとしか思えない二人が、控えめな位置でハイタッチをしてる様を見てムリナールは笑う。断じて、「そのハイタッチの位置は悪意があるだろ!」と言ったドクターの声に笑った訳ではない。
     目の前の二人が笑っているから、釣られて己も笑うのだ。なればこそ、自分はコレを守らなければならないのだろう。

     いつの時代も、覚悟が定まった者は強いと決まっている。
     愛しげに目尻を下げたムリナールは、流石に言わねばなるまいと柔らかな声色ではしゃいでいる男に告げてやる。

    「流石に炭水化物二連は太るぞ、トーランド」
    「表情と言葉が合ってねぇな……」
    「あれはお前が太っても私は構わないぞって言う慈愛の笑みだな…強すぎる」
    「…米はやめとく」
    「そうしな……」

     こんな調子の三人が、三人の誰かの部屋では無くロドス艦内全域で頻繁に見られるようになるまで。意外と遠くは無い筈である。 



     三人分の呼吸と体温
    (あ、ファントムも呼ぶ?)
    (……何故?)
    (いや私達の為にいっぱい頑張ってくれたの彼だけど)
    (確かに)
    (私は彼に嫌われているが)
    (うーん、嫌いっていうか……)
    (コイツいつドクターと別れんのかなって思ってただけだぞアイツ)
    (………ねぇムリナール顔覆っちゃった)
    (しょうがない奴だなぁ)
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    Replies from the creator

    白い桃

    DONEカリオストロとか言う男なに?????????
    どすけべがすぎるだろあんなん好きになっちまうよ……
    尚私は巌窟王さんが一人来るまでに何人かカリオストロが重なれば良いかなあと思ってガチャに挑んだんですが……
    結果は250連でカリオストロ7人、巌窟王が1人でフィニッシュとなりました
    おかしいって…二枚抜き二回とかくるのおかしいって……だいすきなのか私のこと…ありがとう……
    伽藍の堂の柔らかな縁注意!

     ぐだお×カリオストロの作品となっております
     
     伯爵や他キャラの解釈の違いなどがあるかもしれません

     誤字脱字は友達ですお許しください

     ぐだおの名前は藤丸立香としていますが、個人的な感覚によって名前を“藤丸”表記にしています
     (立香表記も好きなんですが、作者的にどうも藤丸のがぐだおっぽい気がしてそのようになっております)

    以下キャラ紹介

     藤丸立香:カリオストロの事が色んな意味で気になっている
     カリオストロ:絆マフォウマ、聖杯も沢山入ってるどこに出しても恥ずかしくない伯爵。つよい。最初以外は最終霊基の気持ち
     蘆屋道満:藤丸からはでっかいネコチャンだと思われている。ネコチャンなので第二霊基でいてほしい、可愛い
    21966

    白い桃

    DONEドクターがとっても好きなイグセキュターと、そんな彼に絆されたけど自分もちゃんと想いを返すドクターのお話。

     
     先導者の時もカッケーとは思っていましたが、そこまで推し!って程じゃなかったんです。
     イベントと聖約イグゼキュターに全てやられました。めっちゃ好きです。天井しました。ありがとうございました。
    その唾液すら甘いことその唾液すら甘いこと


     ラテラーノに暮らすサンクタは、その瞳まで甘くなるのだろうか。
     否、もう一つ追加する箇所があった。瞳だけではなく、声まで甘くなるのだろうか、とロドスのドクターはラテラーノにおわすであろう教皇殿に抱いてしまった疑問をぶつけたくて仕方がなかった。何故かと言われれば、自身の背後に居るサンクタ──イグゼキュターの視線もその声色も、入職当初とは比べ物にならない位に、それこそ砂糖が煮詰められているのか? と言えそうな程に熱が込められているからなのだけれど。
     
     教皇に問い合わせれば執行官とかのクーリングオフとかって受け付けてるのかしら。若しくはバグ修正。他の子達に聞かれたら大不敬とかでぶん殴られそうだな。なんて余計な事を考えながら、手元の端末を弄っていれば後ろから「ドクター」と名前を呼ばれたので振り返る。
    9032