深海魚海の底を見たことはあるか。
海水浴で潜る深さではなく、もっとずっと深く。音も届かず、光もなく、一片の体温すら存在しない。水圧で缶はひしゃげ、人間の肺もぺしゃんこに。そんな海の底を見たことはあるか。
そこは、生命にとって絶望的な環境だ。
まず、水圧と低温に適応しなければならない。暗闇の中でも獲物を取る術を身に着けなければならないし、獲物にならないための術も。生物の本能である生殖の難易度も格段に上がる。
海の底で生きられるのは、そこで生きるために進化した生き物たち。
僅かな光を掴み取るために目は大きく―もしくはごくごく小さく、望遠鏡のように。
時にはチョウチンアンコウのように発光器を備え、獲物を確実に捉えるために口は大きく。
水圧に耐えられるように、皮膚や骨格は柔らかく退化させて。
暗く冷たい海の底で、それらは進化を、或いは退化をしながら生き延びる。
そこまでして、そんな場所で生きたいのか。
いや、違う。
きっと、そこでしか、生きられないのだ。
「えーっと、虎杖悠仁です」
緩やかな緊張とはにかみを浮かべて頭を下げたのは、自分より少しばかり背の低い子ども。
桜を連想させる髪の毛が揺れて、その下から黒い刈り込みがちらりと覗く。
地毛だろうか、染めているのだろうか。
素朴な疑問をそっと棚に仕舞い、俺は子どもに手を差し出した。
「俺は日車寛見だ、岩手で弁護士をしている」
子どもは頭を上げてぱちぱちと瞬きをして、差し出された手を見やった。そして、三白眼に人懐っこさを滲ませながら手を握り返す。
硬さがあって、それでいて子どもらしいあたたかさがあって。不思議とほっとする手をしている。
握手を交わすと、子どもは曖昧なはにかみではなく、ようやくそれらしい笑みを浮かべた。
「岩手、じゃあお隣の県なんだ。ここに来るまでどれくらいかかるの」
「そうだな…車で大体二時間ほどだったか新幹線に乗れば一時間もしないけれど」
「そっか、お隣って言ってもちょっと時間掛かっちゃうんだなぁ…」
折角笑顔を見せてくれたというのに、子どもはまた申し訳無さそうに眉を下げる。
いかん、一回りほど下の子どもに気を遣わせてしまった。
俺は内心慌てながら慎重に言葉を探した。
「元々君のお爺さんには世話になったんだ。最後に挨拶も出来なかったし、これくらいさせてくれ。それに俺は弁護士だ。困った人を助けるのが仕事だ」
だから。
かちりと視線が合う。
鳶色、琥珀色の瞳。
誠実そうで、底まで見えそうなほど澄み切ったその瞳。それを曇らせたくはないと、その時の俺は不思議と必死になっていた。
「だから、気にしないでくれ。俺が好きでやってるんだ」
真っ直ぐ一言訴えかけると、子どもの瞳がひらりとひかる。
「…そっか」
子どもがぽそりと呟き、しばし、瞳に瞼が下ろされた。
人を寄せ付けない見た目に反し子どもは繊細で、心の機微に敏感なようだ。迷惑を掛けるくらいならと判断すれば、きっと一人で全部やってしまうのだろう。
だから、この子どもの祖父は俺に託したのだ。
「うん…そっか、それならやっぱり、お願いしようかな」
子どもの言葉に、ぱっと後ろから光が指す。その光に驚いていると、子どもがにこりと音が聞こえるほと満開の笑みを咲かせていた。
「ありがと日車さん、これからよろしく」
目映いばかりの純粋な笑みは久々にお目にかかるもので、俺は単純に、
眩しいなと思った。