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    みこう

    @mikou0213
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    みこう

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    1月の新刊①
    怪我をきっかけに一時的に目が見えなくなった茨がスローライフを強制される話

    光の奔流 コズミックプロダクションに所属する、AdamおよびEdenのメンバーである七種茨が暴漢に襲われたというニュースが流れたのは、夕方の情報番組が終わった頃の事だった。時間帯が時間帯のためまだ騒ぎにはなっていないが、朝になればそれはもう大々的に報道されるだろう。そして取材の電話が事務所に殺到するのだと、ありありと思い浮かぶ展開に頭が痛くなる心地を覚えながら、茨はすっかり暗くなった視界を閉ざして溜息をついた。
     茨の頭を悩ませているのは、なにも暴漢がどうのというわけではない。多方面からの恨みを買っている自覚がある茨であるが、今回の襲撃は完全に巻き込まれ事故だからだ。
    それが起こったのは、ウィンターライブを終えて少し、ESの建設がもうすぐ終わるという時分のこと。建設自体は問題なく進み、いよいよ本格始動かという時になって、煌びやかなアイドルに嫉妬する人間が表れた。事が起こってすぐ逮捕された犯人は『アイドルならば誰でも良かった』と供述していたそうだから、茨に対して遺恨がないことはおそらく間違いないだろう。
    事件自体はすぐに解決したものの、事件については連日のように面白おかしく取沙汰されることになるだろうと、茨は予測していた。なにせたまたま被害に遭ったのがトップアイドルユニットのメンバーで、所属事務所の副所長も務める青年実業家。エンタメから経済まで幅広いコーナーで取り扱える上に注目度も高いため、次の大きなネタがみつかるまではいいように使われるだろう。
    「内服で様子を見ましょう、一週間後にまた来てください」
     マスコミ対策に頭を悩ませていた茨は、己の様子を見ていた壮年の医者が発した言葉を無感動に聞き流す。隣で聞いているはずの凪砂の様子も気にかかってしまい、半分も耳に入ってはいなかった。
    むしろ自分のことより凪砂のことを心配してしまうのは、茨が襲われた時に彼もすぐ近くにいたからだ。その時は同じスタジオで撮影しいて、さあ帰ろうという時に不審者の影に気付いた茨が、咄嗟に迎えの車の中に凪砂を押し込んで庇った。刃物の類であればいなして取り押さえる自信があったし、素手でやりあうとしても自分ならば簡単に負けないと判断したうえでの行動だったのである。それが、怪しげな液体が入った瓶を投げつけるという、予想外の行動をされたから不覚を取っただけの話で。犯人が使用した薬品は幸いにも酸や気化性の毒といったものではなかったが、運が悪い事に目をやられた。医者は菌がどうの視神経の炎症がどうのと言っていたが、治らない怪我でないなら細かい事はどうとでもなる。抗生物質は欠かさず飲むようにと念を押されながら、茨は小さくため息を零した。
     先ほどから、凪砂に握られた右手がいやに熱い。

    「お医者様が言うには、併発している病気もないから炎症が治まれば視力は戻るみたい。一週間もすれば視力は戻るだろうって」
     凪砂に手を引かれて事務所へと戻った茨は、暗闇の向こうでジュンや日和に説明する凪砂の言葉をぼんやり聞いていた。茨の眼は完全に視力を失ったわけではなかったが、眼球運動に痛みを伴うと知った凪砂によって包帯を巻かれたせいで、ろくに光も通さない。どのみち見えないので構わないのだが、なんだか重病人にでもなったようでひどく落ち着かなかった。
    「治らないとかじゃなくて良かったっすねえ」
    「うんうん、茨はこの機会に少し休むといいね」
     凪砂の説明が終わるとあからさまに安堵の息を零した二人から、やけに明るい言葉がかけられる。わざと前向きな言葉を選んだのだろう、内容に反して声音は心配の色を帯びていた。
    「この大事な時期に、なんという不覚……! お三方には迷惑をかけてしまい、この七種茨、忸怩たる思いであります」
    「茨が庇ってくれなければ、被害に遭うのは私だった。だから、そこは恥じなくていい」
     今では脳を通さなくても勝手に飛び出す謝罪を口にすれば、右側からムッとした凪砂のお叱りが飛んでくる。目の前で相方が被害に遭った彼からすれば、自分だけが無事という状況に複雑な気分を抱いているのかもしれない。茨が重きを置かない部分に価値を見出しがちな凪砂は、握ったままの右手に僅かに力を込めた。彼いわく、不安を抱えた時はいつもこうして日和が手を引いてくれたからだという。茨には理解できない感覚だ。
    「しかしですね、Edenにとって今は大事な時。たかが一週間、されど一週間。新規の仕事を入れられないのは痛手であります」
     凪砂の言葉に曖昧な返事をしつつ、茨は大仰に肩を竦めて見せる。凪砂や日和あたりには気付かれているかもしれないが、茨は己が仕事を継続するのが困難な状況になったことで、常以上に苛立っているのだ。
     ウィンターライブで上層部の無能どもが恥を晒し、おまけに自分たちも盤石だったはずの優勝を逃したことは記憶に新しい。事実の究明にEdenも関わったことを公表しているため致命的なレベルの汚名をかぶる事は無かったが、それでも怪我は負った。とはいえ、現在はその立ち位置を利用して話題が新鮮なうちに事件当事者という形で情報番組への出演を多く入れており、メディアへの露出はむしろウィンターライブ前より増えている。事件の流れや究明に協力した意図を、TrickSterに友好的な目線から語る事でイメージアップを図っているのも大きいだろう。同年代トップクラスのアイドルとして近寄りがたいイメージを作り上げてきたが、その内情は汚い手段を許さない清廉潔白なリーダーの元、自分たちを下した相手にも敬意を持って接する誇り高いユニットである──という印象も植え付けた効果は上々だ。
     そういったイメージアップを狙える大事な時期だというのに、肝心の仕事を割り振る立場である己が動けないなど冗談もいいところだ。EdenやAdam、そしてEveは茨がプロデューサーを務めており、他者にほとんど触らせていなかったことが裏目に出ている。
    「アルバムのレコーディングも終わっているし、今入ってる取材なら、ぼくと凪砂くんだけでもEdenの代表ということで通せるね」
    「元々Adamはテレビには積極的に出てないですし、一週間くらい何とかなるんじゃないですかあ?」
     内心は大荒れの茨をよそに、日和を中心にしてEdenのスケジュールが組み直されていく。目が見えないだけで声は無事なのだから、ラジオや取材などは継続して行えるだろう。そう訴えてもみたが、それを良しとしない凪砂によって茨の仕事は全てキャンセルされ、最終的にEveや凪砂個人の仕事として分配されたようだ。
    「閣下、自分は問題なく働けますが」
    「駄目。一週間で治る確証がない以上、茨の参加は認められない」
     諦め悪く後ろから声をかけてみたが、結局は頑として譲らない凪砂に茨が折れる形となり、ひとまず一週間のオフが確定してしまったのだった。

    「──お世話になっております。先日ご連絡いただいた件ですが……」
     急なオフが決定した翌日、茨はスマートフォンを片手にソファに腰かけていた。マスコミ対策に都心から少し離れたペンションへと一時的に居を移しており、日当たり良好のそこは凪砂が手を引いて強制的に腰かけさせた場所だ。
    何を隠そう、このペンションは茨が経営する会社で所有している保養所の一つである。建物のグレードにはこだわって選んだこともあって、ソファの座り心地も茨が直々に買い付けたAdam専用ルームの物と比べても遜色がない。
    「ええ、はい。その件については後ほど詳しい資料をお送りしますので──」
    そんな快適な空間で、茨は元気に業務連絡に対応していた。電話の相手は茨が所有する企業の取引先で、どうしても茨が話をしなければならない相手ということもあり、オフとは言いつつも仕事に勤しんでいるところだ。
     普段と違うところといえば、茨の隣には凪砂が腰かけていて、茨が愛用しているノートパソコンと睨めっこをしている事だろうか。見えないため本当に睨めっこしているかはわからないが、少なくとも画面を見ている事だけは確かだ。
    「茨、雑誌社から特集を組みたいっていうメールが来ているけれど」
     茨が電話を切ると、一息ついたタイミングを見計らって凪砂から声がかけられる。茨は相手の誌名や担当者、企画の内容を凪砂に読み上げてもらって確認すると、適していそうなユニットの名前を上げた。コズプロの事務所から転送されてきたメールを凪砂が読み上げ、その内容をもとに茨が仕事の割り振りを判断するという一連の流れは、オフが決まってすぐに決まった各々の役割分担だった。
    「……ねえ茨、これは休んでいることになるのかな」
    「休んでますよ、少なくとも体は」
     茨が口頭で出した指示を打ち出してメールを返しながら、凪砂は不満を滲ませた声で問いかけてくる。最初はパソコンの類も使い慣れていなかったが、ものの数時間ですっかり慣れてしまった今は、話している今もタイピング音が途切れることはない。
    「私、しっかり休んでほしかったのだけど」
    「こればかりは仕方ない事です、急な事だったので代理の準備が不十分でしたから」
     そうだけど、と小さく零した凪砂は、電話を終えて放り出された茨の右手へと軽く触れてきた。甲から手首にかけて何度も行き来する指先は僅かに冷たく、こうして視界が閉ざされていると人間に触られている気がしないなとぼんやり思ってしまう。
     凪砂の不満はもっともなのだ。怪我をしたのだから休養しろというのは当然であり、その間の業務は別の者に任せるのが普通である。怪我を負ったのが凪砂であっても、コズプロの社員だったとしても、茨は間違いなくそう告げていただろう。そしてそれは、茨自身とて例外ではない。
    アイドル活動は身体が資本なのだから、資本を無駄遣いするようなことはせずに体調を崩した時はきちんと休養を取る気でいた。こういった時に備えて代理の者も定めていたので、本来であれば茨とて療養に専念していただろう。しかし、今回は間が悪いことにコズプロ内部は上層部の入れ替えでゴタついており、茨の業務を任せられる人間はその対応で既に手一杯の状態だった。代理を任せる予定の人材は自分のいいように扱える駒の中でも聡明で聞き分けのいい者をと、選り好みしていたのが仇となった結果である。
    仕方なく他の者に割り振る作業と並行して、どうしても茨の決裁が必要な案件には凪砂を通して対応する羽目になってしまったというわけだ。
    「茨の会社は仕方ないとしても、コズプロの事は私に任せてくれてもいいのに」
    「何を仰います! ただでさえ閣下には迷惑をかけているというのに、その上このような雑事でお手を煩わせるなど、もっての外であります」
     一通りのメールに返信し終わったのか、ノートパソコンを閉じる音が聞こえる。凪砂は茨の言葉を聞き流すことに決めたようで、ローテーブルにパソコンを置いて立ち上がった。ソファの座面が動いた事でそれを察知した茨は、僅かに聞こえる足音を頼りに彼の向かう先を追いかける。
     この生活が始まってすぐ、視界が明瞭だった頃は意識していなかった細かな音まで耳が拾う事に気が付いた。例えば少し浅い呼吸音、緩やかな体捌きに相応しい僅かな衣擦れの音。フローリングを滑る足音はいつもの通りひどく静かで、凪砂の生活音がこんなにも身近に感じられることを新鮮に感じてしまう。それに気が付いて以来、ついつい彼の動きを耳で追ってしまう癖のようなものがついた。会話があまり得意ではない凪砂の表情や仕草から彼の言わんとしている事を読み取ろうとしていた名残なのか、声以外の情報から凪砂を知ろうとしてしまう。
     少し離れたところで立ち止まる。歩数からして、対面キッチンの向こう側に回ったのだろう。戸棚が開かれて、耳を澄まさなければ気が付かないだろう小さな音を立てて取り出されたのはマグカップか。置かれた音は二つ、おそらくこの生活が始まる前に購入した茨と凪砂それぞれの物だろう。
     カップを置いてからしばらくガタガタと音が響いて、袋同士が擦れる音も響いた事から、おそらく戸棚の中を物色している。このペンションに来てから身の回りのことは彼に面倒を見られているが、どうやら彼の優秀な脳はいまだに物の場所を把握していないらしい。興味のない事は一瞬で忘れてしまうことを思えば、わずかでも記憶に引っかかっているのは大した進歩というべきか。もっとも茨が何もできないため、凪砂以外にやる人がいないというのも大きいのだろうが。
     しばらくして目的の物をみつけたらしく、パッケージを破く音が聞こえる。ざらざらと細かい物体の転がる音も聞こえて、もしやコーヒーを淹れるつもりなのかと思い至った。このペンションにはインスタントなど置いておらず、あるのは茨がこだわって揃えさせた豆しかないのだが、果たして凪砂は豆から淹れることができるだろうか。
    「閣下、飲み物でしたら自分が」
    「うん、大丈夫」
     思わず声をかけたが、聞いているのかいないのかなんとも不明瞭な言葉しか返ってこない。おそらく豆の入った袋に書いてある文章を読むことにリソースが割かれているのだろう。しかし、凪砂の求める情報がそこにないことを茨はよく知っていた。なぜならインスタントと違い、豆の状態で販売されてスペシャリティコーヒーは挽き方や淹れ方が書いていない物が大半である。人によって好みやこだわりが強いのだから当然なのだが、そんな些末なことを凪砂の耳に入れたことがないので、彼は知る由もないのだろう。
     求める情報が得られないとすぐに理解したらしい凪砂が、小さく息を吐くのが聞こえた。
    「……茨、コーヒーってどう淹れるの」
     しばらく逡巡したのちに、茨に聞くのが最適解だと判断したらしい。
    「それでしたら、やはり自分が」
    「それはいいかな。口頭で教えてほしい」
     遠慮がちに問いかけられた言葉を聞いて腰を上げようとしたが、それはすぐに凪砂によって制される。かたくなに自分で淹れたがるが、もしやコーヒーの淹れ方に興味を持ったのだろうか。立ち上がりかけの中途半端な姿勢でいたが、凪砂がそう言うのならと腰を下ろす。いったん興味を持ってしまえば満足するまで止まらない事は既によく理解しているので、茨にできることと言えば彼の興味を正しい方向に誘導することくらいか。
    「では閣下、背面にある戸棚に道具が収納してあるはずですので、まずはそちらをお出しください」
     自分の記憶を思い起こしながら、凪砂が正しい手順でコーヒーを淹れられるよう口頭で誘導する。保養所は会社の名義で所有してはいるが、空いている時は茨も利用することがあるため、当然ながら備品であるミルの収納場所も把握済みである。
     凪砂は茨の指示に従って戸棚を開き、中に揃えられている物品をあれこれ触ってみているようだ。見えていなくてもそれくらいなら手に取るように想像できてしまうのは、そこに収納されているのが凪砂にはおおよそ必要ではないだろうと茨が判断したものばかりだからだ。
    「茨、ここに入っているのは初めて見るものばかりだね」
    「今後もお目に入れる予定などなかったのですがね!」
     ヤケクソになって笑う茨をよそに、凪砂は小さく笑いを零す。
    「茨はたまに、面白そうなことも私に教えてくれないことがある」
     呆れたのか、揶揄うつもりなのか、どちらとも判断がつかない笑い方だ。凪砂に知られたくない事や知る必要のない事は基本的に茨の方で情報をシャットアウトしているため、普段から似たようなことは思っていたのだろう。それらに対する不満も籠められているのかと思ったが、声音はどちらかと言うと軽い。不満というよりは、少しだけ拗ねているというのが適切なのかもしれない。
    「これは失礼! お飲み物の用意など下僕である自分の務めですので、閣下のお手を煩わせる必要もないかと思っておりましたが、浅はかな判断でした!」
    「うん、ところでどの道具を使えばいいのかな」
     茨の口から自動的に飛び出す謝罪を九割ほど聞き流した凪砂は、さほど意に介していないような口調で話題を再開した。
     戸棚に入っているのはコーヒー用のミルだけではなく、ペーパードリップ用の器具が一式と簡易コーヒーメーカー、あとはジューサーやミキサーなどなど、嗜好品に関係した調理器具が並んでいる。自分の視界が良好ではない状況で凪砂に全ての手順を正確に指導するのは困難だと判断した茨は、使用難度が比較的低いコーヒーメーカーの特徴を伝えた。ミルは本格派ぶりたい社員のために置いてある物で、そちらを今わざわざ選ぶ理由などない。豆を挽くところから全て自動でやってくれるコーヒーメーカーに任せさえすればどうとでもなるのだ。普段凪砂に出すものは茨が手ずから挽いてドリップした物であり、本音を言えばそうしてほしいのだが、背に腹は代えられないというもの。少しばかり凪砂の好みから外れた味になるだろうが、彼に任せて到底飲めたものではない代物を作り出されるよりは遥かにマシである。
    「……動いた」
    「ええ、すべて自動でやってくれます! ですので、次からは自分にお任せいただいても問題ないであります」
    「怪我が治ったらそうしてもらうね」
     相変わらずこちらの提案をかわすことにかけては一級品な彼の言葉を聞きながら、茨はソファの背もたれに身を預けて小さく息を吐いた。
     先ほどから妙に落ち着かない気分なのは、もう性分というやつなのだろう。経営やプロデュース業、そしてアイドル活動と様々な活動に着手してからというもの、ここまで緩やかな時間を過ごした記憶が全くないのだ。アイドルとしての仕事が入っていない時でも経営の仕事を片付けている事が多いし、特に手掛けている中には年中無休の飲食業もあるのだから、何をしている時も常に頭の中に仕事があった。それが無くても凪砂の動向に気を配るという最重要任務があり、彼が一声かければ日本各地どこにでも飛んで所望の品を確保に走った。最近は今までに調達した本の中でも用済みになった物を方々へ寄贈の声かけをして回ったところだ。学術書や専門書の類は値の張るものが多く、特に凪砂が希望するような深い知識の得られる資料というのは引き取り手などいくらでもいる。押し付ける先を探すところから発送にかかる手間まで全て茨が担うのだが、かつて希少価値の高い品を調達するよう命じられて国外に飛んだ時のことを思えば、片手間で済ませられる作業であるだけマシだろう。
     そんなこんなで、茨は本当に常に動いていた。五分より長く一つの場所に滞在しないという都市伝説が囁かれるくらいには動いていた。だからなのか、早くも体力や気力を持て余している自覚がある。
     さてどうしたものかと考えていると、凪砂の足音がこちらに近付いている事に気が付いて顔をそちらに向けた。
    「茨、ブラックで良かったんだっけ」
    「閣下が手ずから入れてくださるとは、感激のあまり涙で前が見えません! 今は物理的に見えてないのですが!」
     どうやら茨の自虐ネタがウケなかったのか、凪砂の返答はない。改めてブラックで良い事を伝えると、彼は無言でマグカップを差し出してきた。お礼を言いながら手を伸ばせば、指先につるりとした陶器の感触と共に熱が触れる。軽く指を動かしても感触は平坦なままで、取っ手は凪砂が握っているのだろうとすぐに察した。淹れたてのコーヒーを渡す時に取っ手を持ったまま差し出してくるあたり、さすがは乱凪砂といったところか。細やかな気遣いが苦手なのは既に十分知っているので、いちいち指摘するような無粋な真似はしない。
    温度を気にせず側面を鷲掴みにして受け取った茨は、隣に凪砂が腰かけるのを肌で感じながらマグカップに口をつけた。
    「さすがは閣下、店で提供しているコーヒーと遜色がない仕上がり! 初めて使用した器具でもここまで完璧に使いこなしてしまうとは!」
    「……そうかな? 私は茨が淹れてくれるものの方が好きだな」
     ブレンドから抽出方法まで全て乱凪砂仕様なのだから当然だと思ったが、そういった部分をひけらかすのは趣味ではないので、茨は黙ってコーヒーを飲み込んだ。
     そこからの時間は、たまに転送されてくる茨宛てのメールに返信するくらいしかやることがなく、極めて退屈な時間だった。最初は色々と気を使っていた様子の凪砂も、本を読んでいて構わないと伝えてからは、ここへ来る前に調達してきた本に夢中になっている。紙の擦れる音を一定のリズムで響かせながら本を読む凪砂と、その音を聞くくらいしかやる事がない茨の姿は、傍から見れば異様な光景だろう。なにせ二人とも体の大部分は微動だにしないのだ。
    (……思った以上に退屈だ)
     凪砂の気配を隣に感じながら、茨は小さくため息を落とした。時間が解決するというのなら焦ってどうにかなるわけでもなく、ただぼんやりと座っているしかないのは理解しているが、だからといってこの時間を有意義に過ごす妙案があるわけでもない。背を預けている革張りのソファの手触りだとか、そういった普段は気にかけない部分に思考を巡らせるしかないが、時間の無駄としか言えない行為だ。
    (口述筆記……いや、閣下に時間を使わせるわけにもいかないし、音声入力の方がいい。今のうちに台本を作り置きしておくとか……)
    「──ねえ、茨」
     今後受けるだろうインタビューに備えていくつか台本を作って置こうかと思案していた茨は、唐突に呼びかけられたことで思考を途切れさせる。てっきり読書に集中しているとばかり思っていた凪砂は、声をかけると同時に茨の袖を軽く引っ張って己を主張している。
     目が見えない茨に対する配慮だろうかとも思ったが、隣にいるのが明らかな状態で自身の居場所を知らせる必要などない。おそらく無意識か、構ってほしい心理の表れか何かだろうと判断し、特に触れる事もせず茨は顔をそちらに向けた。
    「どうされました?」
    「今日の晩御飯なんだけど、これとこれ──ええと、ポトフとビーフシチューだったら茨はどちらが良い? 材料は両方に対応できるよう揃えてあるから、好きな方を作ってあげる」
    「……は?」
     凪砂の言葉に耳を疑った茨は、取り繕うことも忘れて思わず素っ頓狂な声を上げる。一度言い直した言葉の内容を考えるに、最初は手元のレシピを指していたのだろう。そして今の茨は何も見えていないことを思い出して、改めて料理名を伝えたといったところか。彼の言葉から一連の行動を推測した茨は深いため息を落としかけたが、口にグッと力を入れて耐えた。凪砂がレシピ本を読んでいたこともそうだが、何よりも、彼が料理をする気でいることに動揺を覚えてしまう。料理など、冗談ではない。
    「閣下、心配には及びません。こちらの施設は保養を目的としており、料理などの家事に煩わされる事もないようケータリングサービスも充実しております! ええ、ええ! 閣下が気を揉む必要はどこにも──」
    「うん、でもね、私がやってみたいから」
     伝家の宝刀『やってみたい』を振りかざされ、茨は完全に閉口した。それを出されてしまっては大人しく凪砂の望む通りに事が進むよう配慮するしかない事を、彼はよく知っているはずだ。普段から遠慮なく使ってくる言葉であるが、病人のお世話という大義名分を得てからは更に遠慮がない。
    「……つかぬ事をお伺いしますが、まさか買い物もお一人で……?」
    「ううん、さっきメールを返すついでに茨の部下の人にお願いしたんだ。用意してほしい物があれば届けてくれるって言うから」
     余計なことをしやがってと思ったが、凪砂のお願いに一番弱いのは他でもない茨であるので、人の事は言えないと判断して黙り込む。
     どうしたものかと悩んでいると、閉口してしまった茨の様子を不思議に思ったのか、凪砂が首を傾げる気配を感じた。袖を摘まんだままの指先が軽く袖を引っ張るが、その力加減は先ほどよりも少し弱い。
    「茨、もしかしてどっちも嫌だった? まだ材料をもとに献立を組み立てるといった応用ができるほどの経験はないから、違う料理が良いなら材料から指示してほしいのだけど……」
    「いえ、そんな滅相もない。閣下にお作りいただけるのでしたらどちらでも……と言いたいところでありますが、厚かましくもポトフを希望させていただければ!」
     声音もどことなく気落ちしたものを感じて、茨は捲し立てるように言葉を紡ぐ。できる事なら料理をしないでほしいというのが本音だが、その二択で言えばまだマシなのはポトフの方だろうと判断する。なにせ凝り性の凪砂がどこから作り始めようとしているのか、今の茨では事前に察知できないのだ。もしデミグラスソースから作りたいと考えていたとしても、それに気付けるのは手遅れになった後と言っていい。ならばと思い材料を鍋にぶち込むだけでも作れる料理を希望すれば、茨の思惑を知ってか知らずか、凪砂は満足そうに息を一つ落として笑った。
    「うん、任せて」
     穏やかな微笑みを浮かべているんだろうなと思いながら、茨も小さく頷いて見せる。口元がわずかに緩んでしまうのは、きっと凪砂につられたからなのだろう。

     凪砂が茨の世話を焼き始めて、二日目の朝。昨夜は入浴の世話まで焼きたがる彼をなんとか説き伏せて衣類の着脱だけに留めてもらうまでにひと悶着あったものの、それ以外はこれと言った大きな騒動もなく一日を終えた。二つあるにも関わらず同じベッドで寝はしたが、それまでの流れから共に寝たがることは予想できていたため、そこに関して言えば『何も起きていなかった』の範疇に納まるだろう。
     二日目とはいえ生活には未だ慣れず、今日も朝から凪砂の用意したトーストを居心地悪く思いながら口にしたところだが、現在進行形で別の問題が茨を悩ませている。
    「お世話になっております、コズミックプロダクション所属の乱凪砂です。七種はただいま体調を崩して──」
     そう、横でソファに腰かけながら電話の対応をする凪砂のことである。
     彼は最初の一日で茨のサポートを完全に習得してしまったらしく、たまにかかってくる電話であれば対応できるまでになってしまった。もちろん仕事の割り振りなどはまだ茨が関わらなければならないが、それでも茨が対応している間に必要な情報を探す手際はかなり良くなっており、教えてくれるまでの時間は遥かに短縮された。
     初日は事務所内のゴタゴタを優先していた茨の部下たちも上手く仕事を分担し直したようで、今日の業務が開始される頃には当初の予定通り茨が不在時の代理として上手く機能し始めている。さすが選りすぐりの部下たちだと鼻が高くなる反面、急激にやる事が無くなってしまった茨は完全に手を余らせていた。
    (やろうと思えばできちゃうんだもんなあ……)
     電話は茨の体調を窺うものだったようで、凪砂はそこから一言二言やり取りして通話を切った。彼はそういう事務仕事をあまり好まないと記憶していたが、だからといってできない訳ではない。それこそが、今の茨を悩ませている事であった。
     世の煩雑な物事を肩代わりするという対価を支払うことで成り立つ凪砂との契約は、ならば茨がその対価を差し出せなくなった時にどうなるかという問題を内包している。今回は完全なイレギュラーであるが、万が一にもこれが治らない怪我だった場合、茨は凪砂を引き留める手立てを全て失っていたことになるのを改めて突きつけられた気持ちだ。
    (今は世渡り下手でも閣下がやる気になれば習得できる分野で……そうなったとして、俺が差し出せる対価はなんだ)
     今は茨の青年実業家としての名も広まっているが、経営に関する知識などは結局ほとんど独学。泥船が沈まないように必死に補修しながら実地で学んできた手法が山ほどある中で、専門的に学んできたと言える分野はほとんどない。そういった実践に即した習得は、凪砂ならば一足飛びにやってみせるのだ。
    ならば、【七種茨にしかできない】と言える部分はどこだろうか。
     考えが上手くまとまらないのは、きっと一時的な視野の欠落によって精神的に不具合が出ているからだ。そう結論づけた茨は、包帯の下で静かに瞼を落とした。
    「茨、寝ちゃった?」
    「……起きておりますが、なぜ寝たとお思いに?」
    「静かだし、それに包帯越しでも瞼の動きって案外わかるんだよ」
     黙りこくった茨の様子を伺う凪砂がこちらに身を寄せたのか、座面の沈み方がわずかに変わる。
    「起きてたということは、お喋りが少ないだけなんだね。なんだか新鮮」
    「いくら舌から先に生まれたと言われる自分でも、二十四時間しゃべり続けているわけではありませんよ」
    「うーん……声量が関係しているのかもしれない。ちょっと声を抑え気味のように思うから」
     茨が大人しいと感じた原因を探っているのか、凪砂の掌が頬に触れる。ほんのりと冷たいそれが表面を滑る感覚に、茨の背中が一瞬だけ震えた。
    凪砂が茨に対して口数が減ったと感じてしまうのは、常日頃から茨が声を張っているからだろう。聞こえる音が小さくなると、必然的に印象も薄くなるというものだ。
    「日和くんと一緒に秘密基地を作った時のことを思い出すな。あの時もこうして、一緒に身を寄せ合って内緒話をしたんだ」
     頬に触れていた手が滑り下りて、首筋を撫でる。そのままの流れで腰に手を添えたと思うと、力を込めて彼の方へと引き寄せられた。
    (こちらが何も見えてないと思って、やりたい放題してくれますね……)
     普段ならば自然に距離を取ったりできたが、今は彼が近くにいる事しか察知できていなかったから完全に油断していた。抱き寄せられた茨は抗議しようと思い顔を上げたが、頬に彼の髪が触れる感触を感じて動きを止める。これは想定していた以上に、顔が近い。
    「え、閣下……?」
    「ねえ茨、私やってみたい事があるのだけど」
     戸惑う茨の目の前、吐息が触れる距離に凪砂がいる。腰に沿えているのとは逆の手が茨の頬を撫でて、いつも目を合わせようとする時と同じ姿勢なんだろうなと頭の片隅で考えた。こちらを見透かすような瞳をしている凪砂の視線は、今は包帯という障害物に阻まれて茨の元まで届かない。
    「やってみたい事……ですか。今の自分では閣下のお望みを叶えられるかはわかりませんが……お聞かせいただいても?」
    「私はこの時間を茨とわかり合うために使いたいと考えていて、茨の気が乗らないなら会話は無くても良いから、触れてもいい?」
     こちらに合わせて声を潜ませた凪砂の言葉に、茨は小さく口を開閉させて返答を探した。平たく言うと交流の時間を持ちたいという提案は、凪砂らしいと思うのと同時に、これ以上の時間の無駄があるだろうかとも思う。わかり合いたいと思った事など一度もなく、かえって迷惑とすら感じるくらいだ。さてどう断ろうかと悩んだのは一瞬で、うんともすんとも言っていないのに凪砂が急に触れてきたことで思考が一時停止する。彼の体温を額に感じて反射的に肩を震わせた茨は、相手が凪砂とわかっていなければ拳が出ていたところだと内心で悪態をついた。
    「……父のことを、思い出すんだ。人の気配だけを感じる静かな部屋で父と共に過ごした、あの日々を」
     額を合わせた姿勢のまま静かに語られる凪砂の言葉が、茨の腹に直接落ちてくるようだった。重くて、熱くて、これ以上腹に留めておけば胃が焼けてしまうような不快感を伴う言葉が、凪砂の口から落とされ続けている。
    「かつて私は父から与えられる物だけを受け取っていたけれど、こうして父のことを理解できなくなった今は、もっと私からねだることを知っていたら……と考えてしまう」
     不快感に苛まれながら、場にそぐわない“もしも”の話を始めた凪砂が今なにを言いたいのかを考える。話題が飛びがちなのは彼の癖ではあるが、それでも会話の中で話題を変えたならそこには意図があるはずだ。
     それはおそらく経験から得られる反省、それに基づく行動のアップデート。過去の出来事を思い返した凪砂は、そういえば改善するべき箇所があったなと気が付いた──といったところか。
    「……自分から与えられる物では不満ですか? お言葉ですが、普段から閣下が希望されるものは可能な限り提供させていただいておりますが」
    「私が求めているのは茨が『見える』ものであって、それは物理的なものでは補えないこと」
    「なるほど、公開しているプロフィールでは不十分でしたか」
    話を逸らそうとしたが、今回の凪砂は求めているものがハッキリしているようで、結局は本題に戻されてしまった。できることならずっと不足に気付かないでほしかったし、気付く必要も無かったはずだ。これは茨が自ら開示している情報だけではなく、自分から不足分を求めて、そうやって自分の中に七種茨という人物を留め置きたいという彼の欲求の発露だろう。
    (本当に、時間を割く価値なんてありはしないというのに)
     亡き父を理解するためにアイドル活動を生命の主軸に置いた、乱凪砂という一人の男。そのままアイドル活動だけに集中してくれと思うのは、七種茨を理解するのに歌や踊りを用いるのはいかに役不足かを茨自身がよく知っているからだ。もっと低俗で、世俗の醜悪な部分を煮詰めたそれを理解するのに、凪砂が発する天上の音楽を用いるのは勿体ないにも程がある。
     おそらく彼もアイドル活動だけでは理解できないと考えていて、だからこそ別の手段を用いて今のうちに深く理解しようとしているのだろう。理解されるのは迷惑だと思っている筈なのに、彼の意図を推測できても拒めない理由が、茨にもよくわからなかった。
    「……お好きに。どのみち自分は、やる事がありませんので」
    「ありがとう」
     茨の許しを得た凪砂は合わせていた額を離すと、そのまま静かに身をかがめたようだ。彼の髪がわずかに鼻先をかすめて、ヘアオイルを使い忘れている時の香りに気付いた茨は小さく眉を寄せた。
    「茨の鼓動は、日和くんより少し早いね。……人間の心臓が一生のうちに脈打つ回数は一定らしいけれど、実際はどうなんだろう」
    「それに関しては否定的な意見もあるようで、自分もその説は信じていませんね。人間の身体がそこまで杓子定規に作られているのであれば、臓器移植において拒絶反応のリスクなども軽減されていて然るべきでしょう。相性が重要になるのは細胞などの構成が異なるからであり、構成が違うのであれば能力やその限界も違うのが道理というもの」
    「……なるほど、私たちは同じように見えて、少しずつ違う。材料を型に流し込んで造る人形ではないのだから、寿命の上限まで全て一定とは言い切れないという理屈はわかるよ」
     茨の心臓に耳を当てて、夢見心地のようなぼんやりとした声で凪砂は言葉を朗々と落とし続ける。その話に適度に相槌を打つうちに茨の心は次第に落ち着きを取り戻し、先ほど感じた胃の不快感も軽減されていくのを感じた。凪砂の父とかいう不愉快極まりない男の話を聞かされるよりは、この建設的とは言えない会話をしている方がよほどストレスがない。
     凪砂が本などから得た剥き出しの知識を、茨が噛み砕いて理解しやすい状態にして彼へと返す。その一連の行為は彼とユニットを組んでからずっと続いているもので、最初こそ手間取りはしたが今はそこまで苦労しない。それは凪砂が茨に何を求めて問いかけているのかを理解したことが大きいだろう。
    人と違った生い立ちの影響で感性も少しズレている凪砂は、一般家庭で育った人間なら当たり前に理解できるような事でも疑問に思ってしまう事が多い。彼の質問には今のようにどこぞの研究を元にしたものも多いが、結局のところ凪砂が一番必要としているのは違う視点に基づく返答であり、その真偽や正確性は問わない。それを理解したからこそ、茨は誰よりも彼の求める言葉を返すことができる。
    理解しやすい言葉を選んで、なぜそう思ったのか理由も添えて、彼に渡してやるだけでいい。茨自身も特殊な生い立ちにあり、凪砂が見たことのない物ばかりを見てきたのだから、彼とは違う価値観からの視点を示してやるのは今では茨の得意分野である。
    凪砂が表から見ているものを茨は裏から見ていて、だからこそ凪砂が持ちえない返答を渡してやれる。
    「……うん、やっぱり違う。日和くんの心音が波の音なら、茨は葉擦れの音。忙しないわけではないけれど、生命を謳歌している音だ」
     そうやって抽象的な表現を多用するから他者との会話が難航するのではと思ったが、茨は口に出さず静かに聞いていた。突拍子もない行動に振り回されることは多々あれど、自分は彼の言いたい事を理解できなかった事は無いので、改めて指摘する必要もないだろうとの判断だ。
    「あ、ちょっと」
     しかし凪砂が思考に集中してると思い込んでいた茨は、言葉が途切れたタイミングで服の裾から掌が入り込んできたことに気が付いて声を上げた。
    「……駄目?」
    「いえ、駄目というわけではないんですけど、理由をお聞きしても?」
     脇腹から背中にかけて優しくなぞる指先を捕まえて咎める茨の言葉も、凪砂にとってはどこ吹く風のようだ。心臓に当てていた耳を離してじっと見上げてきていることなど、見なくてもわかる。どうせ首を傾げているんだろうと予想し、茨はこっそり余裕の笑みを浮かべた。普段は顔面の造形の良さに押し切られる事が多いが、今はそれに惑わされる視覚も無いのだから突っ撥ねることなど簡単なはずである。
    「茨の肌、直接触ると細かい傷が残っているのがわかるね」
    「そうですね、それがどうかされました?」
    「どのくらい傷があるのかなって」
     凪砂が言う細かい傷というのは軍事施設にいた頃のもので、己の生い立ちを知っている彼ならば、どこでどう負ったものかは改めて言わなくても予想できるだろう。それを一つずつ確かめて何がしたいのかと身構えた茨だったが、呑気に放たれた言葉を聞いて思わず脱力した。人によっては安っぽい同情を向けるだろうその傷に、凪砂はおそらくホクロの数を数えるのと同じ感覚で触れていた。この傷は他より浅いね、などとのたまいながら、またしても無許可で触れているのはもう諦めた方が良いのだろうか。
    (ああもう、クソったれ)
     一番腹立たしいのは、それくらいの感覚で触れられるのが最も気が楽なことだった。その傷はもう茨にとっては勲章でもなんでもなく、ただの足跡でしかない。意図して同情を誘うならまだしも、打算も何もなく同情や労りの言葉をかけられるのはまっぴら御免だ。
    だから、そういった押しつけがましさを感じない凪砂の指先を、茨は受け入れた。触れるのを許可を出したのは自分なのだから、凪砂が感情を押し付けてこないのであれば好きにさせてやろうと思ったのだ。
    「閣下、自分なんぞの体に触れて楽しいですか?」
    「……楽しいと思わなければ触れてはいけない?」
    「いえ、お聞きしただけです」
     本当に心底から不思議そうな声だったので、茨はそれ以上の追及をせずに身体から力を抜いた。背もたれに寄り掛かってリラックスした姿勢になるのはいつぶりかと思ったのは僅か数秒で、茨が観念したのをこれ幸いと凪砂の指先が色々な所に触れてきた。
    下腹部、そこは訓練中に誤ってナイフの切っ先が刺さってしまった痕。腹部、同じくナイフの傷跡。胸郭、そこは傷こそ残っていないが肋骨を折った記憶がある。
     軍事施設に長く所属した茨の体に残った傷は多く、それでなくとも人より怪我をしてきた自覚はあった。八つ当たりで壁を殴って関節を痛めるといった、不注意による怪我も含めればそこそこの数になるだろう。そしておそらく、凪砂はそれを見ている。彼の視力や観察眼がどこまで読み取れるのかはわからないが、年表を読み解くように茨の感情を観察しているのは指先からでも伝わってきていた。
    「今までは茨の言う事だけやってきたから気付かなかったけれど、私はもっと早く、茨のことを知ろうとするべきだったんだろうね」
     茨の肋骨を下から順に指で辿っていた凪砂は、ふと思い立ったように動きを止める。
    「茨の肋骨が少しいびつな事も、今まで知らなかった」
    「骨折した際、医者にかかるのが嫌で逃げ回っているうちに少し変形してしまっただけです。生まれつき希少な骨格というわけではないですし、閣下が興味を抱かれる価値はないかと」
    「……わからないよ、番組の企画で茨が人間ドッグを受ける事になるかも。そうなった時にフォローするためにも知っておいた方が良いと思う」
    「そもそも企画を受けませんし、万が一そういう事になっても揉み消しますね」
     凪砂が言うような企画も探せばあるだろうが、少なくともそれは高校生に参加させて楽しい企画ではないだろうから、余計な心配もいいところだ。そんな茨の感想に何やら満足した様子の凪砂は、小さく笑いを零しただけだった。
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