切り取る一瞬<君の一秒 一時期、写真を撮ることにのめり込んだ事がある。
指先一つで目の前の景色を切り取り、美しいと感じたままの形で手元に残すという行為を通じて、父の気持ちを想像することができるのではと考えた。
何度でも撮り直しのできる機械では意味がないと思い、茨に用意してもらったのはフィルム式の一眼レフ。何かの不注意でフィルムを落としてしまったら最後、それまでに撮った写真が全てダメになってしまう不便さが妙に気に入ってしまったのである。
鳥を、草木を、海を撮る。発掘に行く時もバッグに入れて必ず持ち歩いていたそれだが、ある時を境に、何故か急に色褪せて見えるようになった。
カメラの機能に不具合が生じたわけではない。己の目に違和感があるわけでもない。何のきっかけもなく、不意に『これは違う』と考えるようになってしまったのだ。何故だろうと思い、茨に問いかける。返ってきたのは、写真を極めてしまってこれ以上は追求する必要性を感じなくなったからでは、という言葉であった。
茨の言葉は、おそらく半分は正解で半分は不正解だ。写真を極めたとは感じなかったが、これ以上は追求する必要を感じないのは事実だった。
今日も今日とて写真を撮る。生命の一瞬を切り取るそれは、確かに美しいと言える。だがそれは、自分が生み出すものではないのではないだろうか。そう思い、フィルムの最後の一枚は茨を撮って終わりにすることにした。彼で最後にしようと思ったのは、今まで一度も撮ったことがないなと気付いたのと、茨がいる景色こそが自分にとって日常的に目にするものだと気付いたからだ。
シャッターを切る。茨の一瞬を手にする。
「……あ」
小さく上げた声に気付いた茨が顔を上げたので、なんでもないよと首を横に振る。ただ、己が写真撮影に対して感じていた不足に思い至っただけなのだ。
不足の正体は、木々のざわめきや川のせせらぎといった、生命の一秒。目の前で動いていた美しいものを己の手で静止した状態に変えてしまうことは、殺してしまうことと同義のような気がした。
ああ、自分は眼前の景色ではなく生命を愛したのだ。父が凪砂を殺して剥製にするといった、凪砂の時間を止めてしまう行為を行わなかったのも、似たような意図があったのではと思う。不変よりも変化を、不動よりも活力を愛した──そういうことなのだろう。
それに気付いた凪砂は、これはもう必要ないなと感じてカメラを置いた。
「……茨、これはもういらない」
「アイ・アイ! それではいつも通り所定の期間は保管させていただき、その後はこちらで処分しておきますので!」
必要ならば処分する前に行ってくれと伝えられるが、おそらく持つことはもうないだろう。最も魅力を感じるのは、そこではない。
(……手元に留め置くのも魅力的ではあるけれど。私の茨は、やっぱりこちらの方がいい)
目の前まで駆け寄ってきて、元気に敬礼をしてカメラを持っていく茨の背中を、凪砂は愛おしそうに眺めていた。