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    hkmnsht_

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    何とか間に合わせようとしている悠脹
    (大分まずい進捗)

    #悠脹









     何もかもが遠ざかっていく。
     目がひどく熱い。喉の奥も引きちぎれそうなほどに痛む。けれど身体のことはもはやどうでもよかった。ひたすら空虚の底へと落ちていく中で、耳鳴りのような残響が止まない。
    (脹相)
     ――九十九。
    (〝呪い〟としての君はここで死んだ)
     ――九十九。
    (生きろ――今度は〝人〟として)
     ――どうしてだ、九十九。
     他にもう何の音もない。光すら。ただ落ちていく感覚だけが意識をこの身に留めている。
     問うたところで応えがあるはずもなく、暗闇に焼かれている瞼には、解かれた結界の狭間から最後に見えた九十九の姿が映り続けたままだ。
     結局這いつくばっていることしかできなかった俺が、何を喚いたとて加茂憲倫の注意を引けたとは思えない。構わずに術式を放ったところで、あの運命を断ち切れる望みは正直皆無に等しい。それでもあれが、あそこだけが、俺に残された最後の意味であるはずだった。
     弟のために。
     悠仁のために俺ができる、あれが、唯一の。
     永遠のような、しかし時間にしてみれば何秒と経っていなかったのかもしれない。
     宿敵の命を奪うことも優しい女の命を掴むこともできない役立たずのまま放り出された指先に、コツ、となにかが当たる。何かを思うより先に、手がそれを握り締めていた。
     その瞬間、視界が一気に開け、あまりのまばゆさに脳が揺れる。ほぼ同時にやってくる鈍い音、それを証明する重い衝撃が全身を覆う。
     ほんの一瞬だけ飛んだ意識を掴み直したときには、もう何もかもが塗り替わっていた。
    「……、……」
     ふっ、ふっ、と自分の浅い呼吸だけが部屋を満たしている。
     天井を見上げている。白い天井、円盤型の照明が中央部につけられている。薨星宮に再現されていた部屋とは異なる、あれは木材で出来ていたし、電灯も四角い覆いがしてあって紐が釣り下がっていた。
     視界の端を何かが掠めて反射的にそちらへ目をやると、薄いカーテンがゆったりとそよいでいた。透ける布を炙る空の向こうからは徐々に夜の気配が迫っている。
     のそ、と身を起こす。動作が緩慢なのは状況への理解が追い付いていないためだ。あれほど全身に及んでいた痛みは、今やその残滓すらどこにも感じなかった。
     胸元から滑り落ちた布が膝上で波打つ。いよいよもって理解が追い付かない。ここはベッドの上だ。俺は誰かによってここへ寝かされて、あまつさえその誰かは丁寧なことに俺に布団まで掛けていったらしい。
     己の身体を見下す。両手の中は空っぽで、傷ひとつ無くなった手のひらは咄嗟に掴んだはずの何かの形さえ覚えていなかった。
     代わりに、戦闘の余波でむき出しになっていた上半身は清潔なシャツで覆われ、掛け布団をめくった中にあった下半身はゆったりとした――しかし身に馴染むあの下履きではない――ズボンに包まれていた。
     天元によって開けられた結界の穴から放り出されて、おそらく俺は高専の敷地のいずこかへと着地した。背中からほぼ無抵抗に投げ出されることを着地と呼べるかはともかくとして、薨星宮から帰還したのは間違いない。
     俺の意識は、少なくともその帰還直後まではあったはずだ。
     かつてないダメージが蓄積していたのは確かだ。しかしたったあれだけの衝撃で、ここまで処置されてなおその経過を全く覚えていないほど意識を飛ばしていたとは考えにくい。
     そもそも、高専側に『俺』をここまで手厚く看護する人間がいるだろうか。
    しかしいくら周りを見渡せども、何の変哲もない、ただの部屋にしか見えない。きちんと整頓されていて、それでいながらどこか馴染んだ気配を感じる。普段から『人』に使われている部屋だ、と直感した。――高専内の施設とは思えない。
    (……そうだ、悠仁は今、どこに――)
     少なくとも死んではいないことは分かる。しかし所在を詳しく探るとなると、膿爛相たちのいる忌庫を探したときのように流石に意識を集中しなければならない。
     まして悠仁達は、確か秤とやらの協力を仰ぐため栃木に行くと言っていた、土地勘がない上にそれだけ距離が離れていると、大まかな方向は分かるがそれ以上のことは――
    「……?」
     いや。
     悠仁だ。術式に集中して程なく、弟の気配を掴み取った。近い。近いというか。

     すぐ、そこにいる。

     ――がちゃん、ばたん。
     壁を隔てた向こうで、微かな振動と共にそんな音がする。またぞろ近くなる気配。もはや術式も不要だ。足音がしている。とん、とん、と床を踏む慣れた自然な足運び。
     足音はすぐに止まった。
     ドアノブが回る。もったいつけるわけでもなく、当たり前のように内開きのドアが押し込まれていく隙間から、力強く咲き誇る花弁を思わせる頭髪がひょこりと覗いた。
     ああ良かった、弟が、悠仁が、無事でいてくれたのなら、ただそれだけで。
    「ゆ、」
     やっと覚えた安堵とともに口にするつもりだった名前は、しかし、音になる直前に固まった舌の根で盛大に躓き、一転、腹の底へと転がり落ちていった。
    ドアが開く。大の大人が、問題なく身をくぐらせられるほどの幅まで。
    「……脹相!」
     左端に傷を刻む口元が、俺の名前を形作る。額から右眉へと流れる傷以外にも細かな傷をあちこちに残す顔は痛々しくも、かつての張り詰めた鋭さはいくらか和らいでいて、それどころかどこか穏やかささえ見て取れた。
     大股の足運びは、ほんの二、三歩ほどでドアとベッドまでの距離を詰めてしまった。
     俺を窺うためだろう、片膝でベッドに乗り上げてくる。その途端、ぎいっと呻いて傾くマットに合わせて自然と俺の身体もふらっと傾く。といっても、自分の平衡感覚と腹筋で問題なく元の体勢に戻れるくらいの、ごくごく些細な揺れに過ぎない。
     そのはずなのに、気付けば、上体を丸ごと厚い胸板に抱き留められていた。
    「……⁉」
    「ほら無理せんで。今起きたとこなんだろ?」
     背中に回った逞しい腕はそのままに、もう片方の手のひらが固まった背に添えられる。幾度となく拳を握っただろうその手は硬く分厚く、そしてじんと沁みるように熱い。
     勢いで鼻先を埋めた首筋に走る血管の太さ。ほんの少しだけざらついた角張った輪郭に、がっしりと編まれた筋が隆々と広がる肩幅。知らない、どれも、何もかも。
     ただ己の術式は雄弁に、疑うまでもないだろうと言わんばかりに語ってくる。
     この『男』が、オマエの弟なのだ、と。
    「……、……ゆうじ……?」
    「うん」
     おはよ寝坊助、と『何もいない』目元を緩めるのを、呆然とした気持ちで見つめていた。

    ■■■

    「とりあえず先に言っとくと、オマエ、術式の影響で記憶とんでっから」
    「術式……」
    「ちなみに俺今二十五歳ね」
    「なっ」
     成長した悠仁の姿からある程度は推測できていたが、それでも想像をはるかに超える歳月が己の脳から消えていることに驚く。
     しかし、十年という時間の経過さえ衝撃としては序の口にも満たなかったのだと、この直後に思い知ることとなった。
    「んでここは、俺とオマエが今住んでるマンション」
    「は、」
    「ここがオマエの部屋な。俺の部屋はこの向かい」
     思考が追い付かない、という経験を、もしかすると初めてしているのかもしれない。
     悠仁は今、何と言った。
     訊き返そうにも舌も唇も固まってしまっていて、赤鱗躍動でも上手く動かせそうにない。瞬くことも忘れてしまった眼球には、至って平静な弟の精悍な面立ちが映っている。
     とりあえず必要な話をすることを優先したらしい悠仁は、俺の反応を見つつも経緯の説明を続けた。
    「昨日俺らで一級案件の任務に行ったんだけど、俺がちょいヘマやらかしちゃってさ。呪い掛けられそうになったところを、オマエが庇ってくれたの。やった呪霊は祓除したからもう大丈夫なんだけど、今度はオマエが目ぇ覚まさなくて……」
     それから俺を高専まで連れ帰り、家入という医者に診せたらしい。これまでの被害状況から記憶操作に関する術式と推察されており、それを受けて昏倒した俺にも呪いの影響で何かしらの記憶障害が生じている可能性が高いと診断された。
     記憶が混濁している状態の俺が、高専の医務室で目を覚ました場合にどんな挙動をするかは分からない。しかしとりあえず「弟」がいれば何とかなるだろうということで、悠仁が俺を引き取り、自宅まで連れ帰ってきたとのことだった。
     処理しきれない情報が多すぎて逆に冷静になっているのか、それとも現実逃避しているのか。自分でももはやよく分からない。
    「実際、どのあたりの記憶まであんの?」
    「俺の認識だと、ついさっきまで薨星宮で加茂憲倫と戦っていた。……より正確に言うなら、天元を守り切れず、俺だけ結界の外へ放り出された直後だ」
    「あー……」
     結構前だな、と悠仁が独り言ちる。とうに知られているだろうと分かってはいても、己の不甲斐なさを伝える口はそれなりに重く感じた。
     何を言うべきか考えているのか、俺から外した視線を斜め上に彷徨わせるかたわら、無意識だろう、己の腹にそっと手を置く仕草を見せる。
     それを何となく目で追って、じっと見て、――気づく。
     俺が顔を上げたのと、悠仁が伝えるべきことを定めたのはほとんど同時だった。
    「脹相さ。覚えてる? 獄門疆の裏と……九十九さんの研究ノート」
    「!」
     先程――あくまで自分の感覚だが、落ちていく最中に指先へ何かが触れたのを思い出す。
     九十九が魂についての研究した記録がある、というのは事前に聞いていた。加茂憲倫はあの場で殺す算段ではあったが、確実なことは言えない。そのときに絶対避けなければいけないのは、獄門疆「裏」が奴の手に渡ることだ。万が一のときは誰かが獄門疆「裏」を持って離脱する、という話も当然ながら打ち合わせていた。
     その際に九十九は、自身の研究記録も共に持ち出してほしい、と確かに言い添えていた。とはいえ、あの場で、奴さえも含めて生存する可能性が一番低かったのは俺だった。それが自分にも課せられうる任であるとの認識は、正直なところ無かった。
    「あれ、ほんと助かったんよ。俺らみんな」
     悠仁の言葉が正面から真っすぐに届く。
    「ありがとな、脹相」
    「……そうか」
     何もできなかった、敵討ちも、守ることも、己の命を使うことさえも。そんな無力感が払拭されたわけではない。
     だが、俺を見る悠仁に安堵が浮かんでいるのが分かった。そういう表情をさせられるくらいには、多少マシな顔つきになったのだろう。
     ――ならば俺も兄として、弟の憂いは少しでも拭ってやらねばなるまい。
    「悠仁。少し触れても構わないか」
    「? ……応」
     許可を得て、その腹に手を伸ばす。
     ぎょっと身を硬くする気配を感じたが、今だけは構わずに手のひらを添えた。
     布越しにじんわりと沁みてくる温もり。呪力は滞りなく流れ、今やなめらかに混ざり合い、しかし確かに『ここにいる』と伝えてくれている。
    「……、……脹相。あの、さ」
    「いいんだ」
    「でも、」
    「いい」
     いつから、何故、という問いに意味はない。どれほど時間が経とうと、どんな状況を経ようと、俺は兄なんだ。だから。
    「――オマエの中で生きているのなら、それで」
     ぐ、と一度喉を鳴らした悠仁は、しばらく瞑目したあとに、「やっぱオマエ、脹相だよ」と力の抜けたような顔で至極当たり前のことを言った。

    ■■■

     悠仁に促され部屋を出る。左手に玄関があり、説明された通り向かいの扉の向こうが悠仁の部屋だろう。廊下を右手に行くと広い空間になっていて、ここが居間だと説明される。
     俺が知る住居というものは、渋谷まで待機していた連中の隠れ家と、薨星宮で天元が構築していた空間だけだ。前者は当然ながら人の営みからは程遠く、後者も天元によって都度構造が変えられるので一般的なものとは言い難い。こたつが暖かいのはよかったが。
    「こっちが洗面所と風呂。トイレもこっちね、ちゃんと別だから」
    「俺もトイレを使っていたのか」
    「えっ⁉ あ、あー、まあ、どうだろ、そこまではあんまワカンナイデス」
    「ふむ……?」
     使い方は後で詳しく説明する、と言われて、居間に視線を戻す。
    台所は居間の方を向いている開放的な形状で、カウンターキッチンというらしい。綺麗に掃除されているが、ところどころに染みや油のこびりつきといった使用感が見てとれる。
     居間の中央には低いガラスのテーブルとソファが置かれている。正面にはやけに大きいテレビと、その周りに俺には名称も用途も分からないような機器が備え付けられている。
    「そっちもテーブルあるけど、飯食うのは基本こっち」
     台所のカウンターの傍に置かれた脚の長いテーブルを指して悠仁が言う。こちらは木製でより丈夫そうなつくりだ。小ぶりな陶器の瓶がいくつかあって、あれは調味料らしい。
    椅子は二脚が向かい合って配置され、うち片方は半端に引かれたままになっていた。
    「今日は休み取れたんだけど、明日は午後から任務は行かんといけんくてさー。飯の用意はしとくから、俺がいないときでもちゃんと食えよオマエ」
    「やはり俺も飯を食うのか」
    「食ってる食ってる。一日三食きっちりな」
    「無駄じゃないのか」
    「そのやりとりは五年前にもうしましたー」
    「む……」
     ない記憶を突かれると閉口するしかない。
     渋谷で悠仁と呪霊を狩っていた数日間でも飲食物を口にすることはあったが、生きる上でそれが必要となる悠仁に付き合う意味合いのほうが強かった。薨星宮でも茶や酒が出されれば飲む程度で、自分にとって必要な行為であるという認識は今もない。
     そんな俺に一日三回の食事を定着させるとは、いったいどんな経緯があったのやら。
    「……やっぱ、環境も全然違うし、すぐには慣れないよな」
     うろうろと部屋を見渡す俺が落ち着かないように見えたのだろう、その言葉に振り返ると悠仁が眉尻を下げていた。
    「なるべく泊まりなしで戻ってこれる任務回してもらうように頼んでるんだけどさ」
    「……悠仁、俺に気を遣うな」
     術師としての練度が上がれば、困難な任務を下される機会は必然的に増える。悠仁ほどの実力となれば尚更だ。無論、高専連中の良いように使われることは許さないが、悠仁自身が望んでのことであれば俺が口を出すことではない。
     寧ろ、本来悠仁がこなすつもりだった任務を俺のせいで制限しなければならないのだとしたら、そちらの方がよほど問題だ。
    「俺を理由に何かをやめたり、変えたりする必要はまったくない。何処へでも向かってくれればいい。それが悠仁のしたいことなら」
     十年もの時を経ていようとも、俺が俺なら、同じことを思う。
     悠仁は俺をじっと見つめている。
     改めて立って並んでみると、その成長はさらに瞭然としている。目線を合わせるのに、顔を上げなければならないのは今や俺の方だった。さすがに首が痛くなるほどの差ではないものの、つい先日までは少し下にあったことを思えば劇的な変化だ。過程が抜けているのは俺の頭のせいなのだが。
     と、悠仁のまなじりが柔らかくほどけ、ふ、と薄くなった唇が緩やかに弧を描く。
    「オマエと一緒にいてーの、俺が」
     まるで身構えていなかった耳の奥へその言葉の響きが届いた瞬間、どういうわけか脊髄が勝手に痺れあがった。
     反応を示したのは神経系だけではない。思わず両手を頬に添える。異様な熱さだ。どうやら顔面や首筋の血管が瞬間的に拡張しているらしい。
     これも件の術式の影響かと急ぎ赤鱗躍動を発動させてみる。すると特に問題なく使用できたので、余計に原因が分からない。
    首を傾げつつとりあえず血流を操作して、気づくと悠仁が顔を覆って俯いていた。
    「すまん悠仁、急に血流がおかしく……もう元には戻せたと思うんだが」
    「ウン……かゎ、いやはい、もうダイジョブデス」
     何も大丈夫ではなさそうだ。確かに、偉そうなことを言っておきながらこのような様では説得力もあったものではない。もう一度頬に手を添えてみるが、伝わってくるのはいつも通りの低めの熱だけ。血液は滞りなく流れ、今は問題なく制御できている。
     もしかして、記憶が退行した脳と、経験をそのまま残しているだろう肉体との乖離現象が起こっているのだろうか。
     たとえ十年前の状態になろうともある程度戦える自負はある、悠仁の任務の手助けくらいはできないかと提案してみるつもりだったのだが。
    突然このような状態になる可能性があるなら、やはり大人しくしておくべきなのだろう。
     ままならない状態に肩を落としていると、不意に妙に明るい音色と共に「風呂が沸いた」と告げる女の声が聞こえてきた。
    「悠仁、これは……?」
    「あ、あー、そういやさっき沸かしといたんだった。ちょうどいいや、脹相オマエ先入っちゃえよ、な?」
    「悠仁が先に入るといい。先程まで外に出ていたんだろう」
    「いいって、オマエが入ってる間に飯の支度しちゃいたいんだよ。それに俺、いつも飯食った後でゆっくり入ってっから」
    「……分かった」
     そういう習慣だというのなら、ともあれ今は合わせておくより他にない。
     簡単に器具の使い方や道具の配置などを教わり、風呂場に入る。脱いだ衣類は籠の中へ、と言われたので放り込んでおく。十年後の俺は洗濯もできるのだろうか。いや、できるようにしたはずだ。他でもない悠仁と暮らしているのであれば。
     身体を洗い、ちゃんと湯に浸かれと言われた通り、湯船に身を沈める。あたたかい。薨星宮では、九十九は風呂を利用していたようだが、俺は結局不要ということにしていた。
    加茂憲倫の襲撃がいつあるか分からないからだと思っていたが、もしかすると、人の営みを送ることへの抵抗感もあったのかもしれない。肌から得られる感覚は心地が良いのに、どこか据わりの悪さが拭えないでいる。
     ――これ以上悠仁とは生きられない。
     九十九に吐露した己の言葉が、口を噤んでいる今もまだ耳の奥で木霊している。
     怒涛のごとく押し寄せる「事実」に流されるままになってしまっていたが、心持ちを完全に切り替えることができたのかと言われると、素直に頷くことはまだできない。
     十年後の自分が、悠仁と暮らす家。
     別の世界に来てしまったわけではない。ふりかえり方を忘れてしまっているだけで、ここは、自分がいつか辿ってきた道の先にあるのだ。
     頭まで湯船に沈める。息苦しく、ごぼごぼとやかましく、全身が茹だるようで、瓶の中とは似ても似つかない。
     ぐるぐると回る頭の中がぼやけてくるまで、しばらくそうして揺蕩っていた。

     食事はなんと悠仁の手製だった。弟の手料理というものを口にする日が来るとは全く思っておらず、料理と悠仁の顔を視線で往復していたら早く食えと苦言を呈された。
     覚束ない箸使いで口へと運び、おそるおそる噛み締めた瞬間に溢れ出た何もかもを、俺は今忘れてしまっているのだと思うと猛烈に自分が情けなくなった。一生忘れない、と誓ったに違いないのに。
     俺の悔いを差し置いて、舌と喉は円滑に咀嚼と嚥下を繰り返す。掠れた唸り声でうまい、となんとか呟くと、悠仁は「そ」と短く返して自分の分の食事を食べ進めていった。
     食後は、片付けの仕方を教わる。悠仁は流しに置いておいてくれればいいと言うが、疲れて帰宅するだろう悠仁に要らない仕事を残しておくわけにはいかない。兄として。
     食器の仕舞う場所は決められているらしく、この皿はこの棚、このコップはこの引き出し、と説明を受けながら、後ですべて確認して覚えておこうと心に決めた。何がどこにあってどう運用されているのかを把握することが、当面の俺の仕事である。
    「明日の午前中にちっと買い出し行っとくかー。冷食とかも足しときてぇし」
    「午後は任務なんだろう? 休んでいなくて良いのか」
    「午後っても夕方からだからヘーキ」
     悠仁をあまり疑いたくはないが、状況が状況だ。俺を気遣って、大丈夫でなくても平気であるように振る舞っている可能性は大いにある。
     とはいえ、さすがに意固地を張る場面でもない。そうか、と言うに今は留めておく。
     脹相も疲れただろうし今日はもう休むか、との提案にも反論せずにその通りに乗っておくことにした。俺が起きている間は悠仁も気が休まらないだろう。シャツ越しにも分かる発達した広背筋がぐっと伸びをする後ろをついていく。
     悠仁は右側の部屋の戸に手をかけた。それに倣って俺も向かいの戸に手を伸ばす。
    「あ?」
    「?」
    「……あ! あ〜いや何でも。おやすみ!」
    「ああ、おやすみ」
     もしかすると、今の俺の行動は悠仁の中にある習慣とは違うことだったのかもしれない。
    しかし早々に自室へと引き上げた後ろ姿を改めて引っ張り出す気にはなれず、少しの逡巡の後、結局大人しく部屋の中に戻った。
     一人になると、後回しにしていた感情がぞろぞろと這い出てくる。
     悠仁と一晩を過ごした記憶は、今の俺にはあの廃墟と化した渋谷にしかない。
     呪霊を狩る日々、目的はあるが終わりは知れず、その後どうしていくかも定かではない中で迎える夜は、季節のことを差し引いても寒く感じた。俺にとっては封印されていた期間の比にはならないものの、真っ当に生きる人間である悠仁はまた違った感覚だっただろう。
     あのときは傍にいるのが精一杯だった。寄り添ってみても、話しかけてみても、どこか身体を強張らせたままの弟の姿。今、壁を経た向こうにいる悠仁は、身体の力を抜いて穏やかに眠れているだろうか。
     ふと、ぎぃ、ぎし、と微かに何かが軋むような音が聞こえた。自分が布団から身を起こしたときにも聞こえた音。つまり、悠仁が寝具へ横になったというだろう。
     少しほっとしながら、薄暗がりの部屋の中、勇ましかった十五歳の頃よりもさらに大きく逞しく成長した厚みのある体躯が、寝具のばねを軋ませながら横たわる様を思い浮かべる。
     ――どき。
    「?」
     胸の上に手を置く。乱れた脈の余韻が手のひらを弱く打った。
     たまにとはいえ、自分の肉体の制御ができなくなるとはかなり由々しき事態だ。
    記憶に関する術式であると想定されているものの、本体である呪霊が祓除済である以上、確たる検証がされているわけでもない。何か別の効果が発現している可能性は否めない。
     休んだところで快癒するとは思えないものの、今のところそれ以外に打てる手が思いつくわけでもない。悠仁に要らぬ気遣いをさせないためにもと言い聞かせて、自分も早々に布団へ入ることにした。 

    ■■■

     目を覚ますと外は明るくなりつつも、まだ少し夜の名残が部屋の隅に塗り残されていた。
     物音はなく、悠仁はまだ眠っているようだった。時計を見ても何時から活動を始めるのが一般的な感覚かは分からないため、ぼうっと時間が過ぎるのを待った。
     やがて、ガチャ、と戸が開く音がして、もう一度同じ音がするのと同時に、この部屋の戸からいかにも眠たげな顔が覗く。
    「おはよー……。やっぱ起きてんのな」
    「おはよう悠仁。もしかして起こしてしまったか?」
    「んにゃ、目覚ましで起きたから。とりあえず顔洗って歯ァ磨くか」
    「ああ」
     今の俺には習慣というものがないので、何はともあれ悠仁に倣っておく。渋谷で寝起きしていたときも公園の水場などが生きていれば顔を洗うこともあったが、こうしてちゃんとした洗面所で悠仁と並んで支度をしていると、何だかふわふわとした気持ちになる。そして当たり前のように髭を剃る姿を見て、悠仁は大人になったのだなと改めて胸を打たれた。
     そんなに凝ったことはできないと前置きしつつ、悠仁が作ってくれた朝食はやはり震えるほど深く臓腑に染み入った。大袈裟だと言われようと、咀嚼するごとに喜びがこみ上げてくるのは紛れもない事実だ。
     とはいえ、味わいすぎて悠仁がとっくに食べ終わってもまだ頬張っていたので、いささか時間をかけすぎてしまったなと反省した。その際、正面からじっくりと見つめられていると何故か食べづらく感じる、というのは新たな発見だった。
     昨晩教えてもらった通りに使用した食器類を片付け、ソファに腰かけて一息つく。
     と、悠仁が端末を弄っているので何をしているのかと尋ねると、今日買うものをまとめているのだと返ってきた。
    「あんま買い込んでも冷凍室入らんけど、ある程度はストックはしておきたいしなー……。あとトイレットペーパーとかゴミ袋……洗剤も詰め替え用買い足しとくか。切れたときのがやばいし」
    「あまり把握できていない手前、口を出すのもなんだが……ずいぶん大荷物にならないか」
    「おう、だから車で行くよ」
    「運転できるのか」
    「ふふん」
     やたらもったいつけて目の前にかざされた四角いそれには、確かに悠仁の名前がしっかり印字されていた。
     器の知識によれば、十八歳にならないと運転免許証の取得はできないのだという。公的な身分証明書としても利用できる、ある種の『大人の証』だ。相変わらず人の社会に馴染みは覚えていないが、悠仁が大人になっているという事実はこんなにも胸を打つ。
    「あー、でも移動は車で行けるけど、買いモンするときは普通に人の目があるから……髪型変えたり、マスクつけたりはしてもらうことになる」
    「え?」
     少し言いづらそうに伝えてくる悠仁だが、それを聞いた俺の脳裏に浮かんだ疑問は、それよりも遥か前の段階のものだった。
    「俺も行くのか?」
    「うん。あ、いや別に無理して行かんでもいいけど」
    「いやそうじゃなくてだな、俺も外に出ていいのかと思って」
    「ああ、全然大丈夫。結構前からオッケー出てるから」
    「監視や呪力を抑制する拘束呪具もなしにか?」
     その瞬間、悠仁の眼光が恐ろしく鋭くなり、俺の首辺りを強烈に刺し貫いた。
    反射的に手を添えてみるが、当然そこには何もない。
    「悠仁?」
    「要らん。てかもう俺が許さんし」
    「……そう、か?」
    「そうだよ」
     一体何があったのかは不明だが、悠仁が不要だというのなら不要でいいのだろう。気にはなるが、ただでさえ夕方から任務があるのに午前中にもあれこれ用事を済ませようとしているのだ、余計な負担はかけたくない。そもそも俺が思い出せばいいだけの話でもある。
     家の中の在庫を確認しながら買うものをまとめていき、ついでに悠仁に言われるがままの格好に着替えて支度を済ませる。
     時計を確認し、店の開く時間を確認してから二人で連れ立って家を出る。太陽の位置がまだそれほど高くない外の空気は涼しくもどこか湿り気を帯びていて、暦の上ではもうすぐ梅雨が明けて夏が来るのだということにふと気が付いた。
     悠仁の車は紺色でぴかぴかとしていた。種類に関しては全く分からない、周りと比べるとそんなに大きくはなさそうに思える。ただ高さはあるようで、それなりの体格を自負している俺でも難なく乗り込むことができた。
    「シートベルトできる?」
    「すまん、どれだ?」
    「これこれ。こっから引っ張ってこっちね」
     運転席から身を乗り出した悠仁が、俺に覆い被さってくる。違う、座席をまたいだところにあるシートベルトを引っ張り出すために身体ごと腕を伸ばしているだけだ。
     分かっているのに、その太い首筋が鼻先に触れそうなほど近くにあるだけでまた身体の反応がおかしくなってしまって、咄嗟に強く目を瞑ってなるべく顔を背けた。
     心臓がどきどきする。不整脈とは、こんなにも容易に生じるものなのだろうか。
    「……思ったよりも日常トラップがつれーなコレ……」
    「……?」
     低い呟きが聞こえてゆっくり目を開ける。悠仁は問題なくシートベルトを引きだして俺にかけ、とっくに自席に座り直していた。
     ほっと息を吐きつつも、自分の身体のままならなさが歯がゆくて顔を上げられない。俺が不甲斐なくも術式の効果を跳ね除けられないばかりに、要らぬ手間をかけてしまっている。
     車を発進させた悠仁を横目に、いつの間にか固く握りしめていた手をほどく。手のひらのやたらじっとりと湿った感触は、しばらく拭えそうになかった。
     ほとんど悠仁について回るだけの買い物は特に問題もなくすんなりと済んだ。
     大の大人が二人がかりで両手に抱えるほどの量を買い込んだが、トイレットペーパーなど嵩張るものも多いので重量はそれほどでもない。とはいえ、車で来たのはやはり正解だったなと思った。
    「あ、っ」
    そろそろ車へ戻ろうかというところで、思わずといった響きと共に悠仁が立ち止まった。
    「どうした? 何か買い忘れか」
    「あーいや。うーん。なんつーかその……今すぐいるもんじゃないけどみたいな……いざとなればコンビニにもあるしっていうか……」
    「後回しにするといざというときに切らしてしまうかもしれんぞ。ここにあるなら今買っていけばいい。荷物なら俺が見ていよう」
    「……ゴメン、じゃあちょっと待ってて! ぱぱっと買ってきちまうから!」
     気にせいだろうか、一瞬奥歯にものが挟まったような表情をしたかと思ったが、踵を返した弟の足運びは軽快であっという間に見えなくなった。まあそれは単純な足の速さ以上に、すぐ紛れ込めてしまうだけの人間がここに集まっているからでもある。
     改めて、人々の営みというものをぼんやりと眺める。
     瓦礫もガラス片も飛び散った血も肉塊もどこにもない、ざわめきだけが建物の間を満たしている。俺が初めて見る光景は、悠仁にとってはきっと当たり前のものだった。
     九十九は俺に人として生きろと言った。人の世とはすなわち、悠仁のいる世界だ。
     そこは果たして、人の形をしてさえいれば生きていけるところなのか。うなじで一つにまとめた髪に触れる。大判のマスクは顔の半分以上を占めて鼻の根近くまで覆い隠している。俺が異形だからではない。かつての俺の選択の先に今があるからだ。
     十年後の俺は、この苦悩をどう抱えて弟の隣に生きているのだろう。
     出口の見えない自問は、悠仁がなぜか手ぶらで帰ってきたことで一旦保留となった。
    「売ってなかったのか?」
    「ポケットに入るサイズなんよ。ほら、そんなんで袋もらうと嵩張るっしょ」
     悠仁の履いているズボンは濃い緑色のゆったりとした意匠で、ポケットがたくさんついている。今は特に荷物が多いので、手ぶらで済ますに越したことはないだろうと納得した。
    「てか結構いい時間になったし、バーガーでも買って帰らん? あっちにドライブスルーの店舗あるんだよな」
    「俺はよく分からんから悠仁に任せる」
    「おっけ、じゃあ車戻るか」
     崩れる寸前の立体パズルのようになってしまった後部座席の様相を二人してハラハラと伺いつつ、また悠仁の運転で車を走らせる。
     ドライブスルーとやらと経て家に到着したときには、ちょうど昼食時になっていた。
     重くはないが質量はやたらとある荷物を袋の強度を気に掛けつつ家へと運ぶ。戦闘よりよほど楽な動作しかしていないはずなのに、ふう、と肺を押し潰したようなため息が漏れた。
    「片づけは後でいいや。先に飯にしよ」
    「そうだな」
    「脹相は~……これとこれな」
     がさがさと紙袋から取り出された包みをいくつか手渡される。
     食べたことはあるのかもしれないが、当然ながらその記憶はない。知識はあったし、車から注文する際に貼りだされていたメニュー表からも概要を掴んではいる。
     包みを剥くと、丸いパン生地に具が挟まれている一面が顔を出す。これに齧り付くだけか、簡単だなと思って口を開けてみると、縦の幅が口に入りきらなかった。
    「?」
     更に口を大きく開ける。首を傾けてみたり包みを回してみたりするものの、結局どうにもならない。俺で無理なら俺より口の小さい人間はいったいどうしているというのか。
     そもそもこういうものかもしれないと気を取り直して、とりあえず口をつけた。唇にパン生地が当たって侵攻を阻むので、齧りとれた部分はごくわずかだったが。
     咀嚼すると少量でも濃いソースと肉の味が広がって、俺としては昨晩と今朝に食べた悠仁の手料理には及ぶべくもないが、そもそもこれはそういったものではないのだろう。食べ進めるのには何ら問題ない味だと言えた。
     もう一口齧り付くと、今度は口の端にソースが付いてやたらと汚れる。しかも先程よりも食いちぎれ多量が更に少ない。
    「んむ……っ」
     それでもなお食べ進めれば、今度は口をつけている方と反対側からずるずると具が滑り落ちていく。――チッ、厄介な。口に物を含んでいなければ実際に舌打ちしていたところだ。
    ふと視線を感じて顔を上げると、なんと既に食べ終わっている悠仁が、頬杖を突きながら俺の悪戦苦闘を観察していた。
     慌てて口の中のものを嚥下する。
    「っ、悠仁、テレビでも見ていてくれ」
    「いやいや、俺のことは気にせんでいいから。どうぞどうぞ」
     今の俺でも分かる。面白がられている。
     しかし他にどうすることもできず、いったいこのざまの何がそんなに関心を引くのか終始悠仁の視線に晒されながら、何とか食事を終えた。朝食の時ともまた違い、いろんな意味で手強い時間だった。
     一息ついたあとも一仕事残っている。山のように買った品物の格納だ。
     何はできずとも荷物を抱えてひたすら悠仁の後ろをついて回る。二度聞くことがないように、それぞれの場所はきっちりと記憶しておくためだ。
     ――もっとも、忘却術式が時限性で一定期間が経過した際にまた記憶が飛ぶ、といったような性質を持っていた場合にはどうしようもないが。
     床下の収納に詰め替え用と銘打たれた余剰分のボトルを仕舞い込みながら自分の懸念、というより見解を呟くと、フラグを立てるなと叱られた。次は気をつけよう。

    「端末の使い方はもういけるよな? なんかおかしいなとか違和感あんなって思ったらソッコー連絡しろよ、絶対だぞ」
    「メッセージも送ってみせただろう、問題ない」
    「夕飯もちゃんとあっためろよ。自分の分だけだからって横着はナシな」
    「分かった。ほら悠仁、そろそろ時間だぞ」
    「うー」
     俺がたびたび不器用を晒してしまっているせいか、やたらとそわそわしている悠仁の背を玄関へ押しやる。本当に行きたくなくて駄々をこねているのならともかく、俺の不甲斐なさで足を引っ張ってしまうわけにはいかない。心を鬼にすべきだ。
     家のことは安心して任せておけ、と言える立場ではないことは理解している。悠仁が帰宅する頃には、すべて思い出して安心させてやりたいものだ。
    「ん、じゃあ……いってくっから」
    「ああ、気をつけてな」
     三和土に降りた悠仁が振り返ると、そう高い段差でもないので俺と同じ目線になる。こんなに近くで真っすぐ悠仁の瞳を見るのは初めてかもしれない、と澄んだ色彩を眺める。
     すると悠仁もじっとこちらを見ていて、何かあったかと首を傾げると「あっ」と音にならない声を漏らして慌てた素振りで距離を取った。
    「悠仁、」
    「何でもない! いってきます! ちゃんと鍵は閉めろよ!」
     がちゃんばたんと一瞬で開き即閉められた扉の向こう、忙しない足音があっという間に遠ざかってやがて聞こえなくなった。
     言われた通り、玄関の鍵を閉める。そして指摘する声がないのをいいことに、そのまましばらく、そこで立ち尽くしていた。心臓はやはりどきどきしていたが、今はそれよりも。
     ――悠仁との間にある、色んな約束事を俺は取りこぼし続けている。
     具体的に何かはやはり思い出せない。しかし、眠るときや買い物、そして今にしても、悠仁の行動の端々に「いつもの俺」の姿がぼんやりと見え隠れしている。
     焦ったように取り繕う悠仁の姿に、申し訳なさが募る。無自覚とはいえ、今の俺は弟に「当たり前」を損なわせ続けているのだから。
    (外には出られないにしても、このまま何もせずにいるわけには……)
     大人しく家の中で過ごし、一日三回の食事と一度の風呂をこなしさえすれば、最低限安心させることはできるだろう。だがそれはただの営みの模倣であって、俺が悠仁と築いてきた「生活」とは異なるはずだ。
     術式を解いて記憶を取り戻すのが最優先として、それ以外に、悠仁のために今の俺にできることはないか。何か。
     うろうろと家の中を歩き回ってみる。俺が暮らしている家でもあるのだ、どこかに俺の習慣の名残があったりはしないだろうか。だが、共有スペースにはそういった個人的なものは悠仁も俺もあまり置いてはいなさそうで──
    (……そうだ、自室があるんだった)
     随分しばらくぶりにも感じる自分の部屋へ戻ってみた。電気をつけて改めて眺めると、悠仁の部屋がどうかは分からないが、物があまりない印象を受ける。
     あるのはベッド、簡素な机に椅子、それに本棚。小さなクローゼットがついていて、着替えなどはすべてそこに押し込んでいるらしい。まあ俺だしな、と納得する。
    「ん?」
     一瞬素通りしかけた思考を引き戻す。──本棚?
     特段なんの装飾もない、本を仕舞うことさえできればいいといった風情の本棚が壁際に鎮座している。目を引く要素はないが、何ぶん物が少ない部屋なので存在感は大きい。
     上部には金具が取り付けられて天井との隙間を埋めている。いくつかの棚で仕切られた中身はすべて本で埋め尽くされている、というわけではなく、まだ何段かは空のままだ。
     しかし、最下段には隙間なく書物が詰め込まれていた。その上の段にも何冊か収められており、どうやら下から順に並べていっているらしい。ここは俺の部屋として充てがわれているのだから、つまりこれらは俺の所有する書物ということになる。
     この十年の間に趣味に目覚めて読書あるいは書物の蒐集をするようになった、という可能性もあるが、自分と「本」というものの間柄がいまいち上手く繋がらない。
     よく見ると、時々色は違えど、どれも同じような形式であるらしかった。背表紙は無地で何も読み取れず、仕方なく下から二段目にある一番新しそうなものを手に取った。
     水色の紙に線が引かれた表紙。器の知識が「これはノートだ」と指摘する。ノートと言えば俺が直接知るのは九十九の研究記録だが、あれには大きく「秘」の文字が書かれていたのに対し、これには単純に数字のみが書いてあった。
     表紙をめくる。表紙にあったような感覚で白い紙に引かれた薄い線に沿うように文字が書き連ねられている。上部に日付。その下に文字が続く。
     文章を目で追い、この状況を鑑みて、たぶん、おそらくだが。
    「……俺の日記か……?」
     俺は文字が書けたのか、という感想が真っ先に来る。
     読めるのだから書けるだろうとは思っていたが、これまでにその機会はなく、その上書いた覚えのないそれを見るのは不思議な感覚である。上手いか下手かの判断はつかないが、読み進めるのに苦労はしなくて済んだ。
     日付は三週間ほど前のもので、次のページをめくるとその翌日の日付になっていた。書くことがないのか二、三行だけだったが、隣のページの日付はまた次の日のものになっていて、どうやら日付が変わったらページを変える、という規則で書き連ねているらしい。
     一番新しい日付は、三日前のもので終わっていた。生憎、俺が記憶喪失になるきっかけとなった任務に関することは書かれていなかった。文章を読むに、眠る前か日付が変わる際に一日を振り返るかたちで日記をつけていたようなので、おそらく三日前の時点では任務を受ける前だったのだろう。
     しかし、得るものはあった。この日記を一番古いものから順に読んでいけば、自分がどういう変遷を辿ったのかある程度掴むことができるだろう。
     日記という今の俺にはない習慣をいつ頃から始めたのかは定かではないが、もし俺が日記をつけているとしたら、弟の――悠仁のために何かできないか試行錯誤し、その記録をつけているに違いない。そうして積み重ねていった先に、悠仁が見る「いつもの俺」がいる。……はずだ。
    (せめて、もう、あんな顔をさせないようにしたい)
     少しでも、今のオマエが見ている「俺」になれるように。
     本棚の最下段の、一番端にある一冊を引き抜いた。

    ■■■

     がちゃん、ばたん。
     はっと顔を上げると、窓の外はとっくに明るくなっていた。今自分の顔も同じように白くなっているのが感覚で分かる。
     今すぐにでもベッドへ駆け込むべきかと逡巡したが、すでに間に合わなかった。後から思えば、ドアの下からつけっぱなしだった部屋の明かりが漏れていたのだろう。
     気まずさにぎこちなくなる首で何とか見上げると、腕組みした悠仁がじとりとこちらを睨めつけていた。
    「弁明は? オニーチャン」
    「……面目ない……」
     仮にも留守を預けられた初日だ。空回りにも程がある。
     しかし俺がいくらやらかしていようとも、悠仁が夜通し任務をこなして今ようやく帰宅したという事実に変わりはない。いくらでも叱責は受けるからどうかまずは休んでくれと懇願し、渋々といった体で部屋に引っ込んでいく弟の姿を見送る。
     地の底まで深く落とした肩を悠仁が起きてくるまでに拾い上げておけるかどうか、今は少し自信がなかった。

    「んで、何で起きてたん」
     昼前には起床した悠仁と冷凍食品を温めた昼食を摂っているときにそんなふうに切り出されたので、危うくパスタの麺を噴き出すところだった。
     今なら少しは理解できる。まだすべてに目を通せているわけではないが、悠仁は俺に人並みの生活を送らせることにかなり重点を置いていたらしい。日記は同居を始める前から付けられていて、その当初から食事や睡眠、風呂などに関して度々指摘されていた旨の記述が残っていた。
     正直、この家で目覚めたときから最低限の生命維持活動しかしていないので呪力はほとんど減っておらず、よって食事や睡眠がなくとも何の問題もない。だが俺は今ただ生きているのではない、悠仁と暮らしているのだ。俺は俺の人のような営みを守らなければならなかった。
    「もしかして寝れんかった?」
    「いや違う、つい、その、忘れてしまっていて」
    「何で?」
     自分の日記を読んでいたからだ、とそのまま伝えようとして言葉がつっかえた。読み進めた範囲の日記の書きぶりからして、他者に見られることは想定していなさそうだった。
    俺は悠仁に必要なら自分の何もかもを差し出せるが、求められなければあえて言わないでおくこともある。薨星宮に残ると決めた時もそうだ。
     よって、悠仁が日記のことを知らなかった場合、仮に見せてくれと言われたら見せる以外の選択肢はない。もしかすると俺がまだ目を通していない範囲に、悠仁の目に触れるのを避けるべき内容が書かれている可能性は否定できなかった。
    「……本を、読んでいたんだ」
     しかし、あの物の少ない部屋で眠らずに一晩を明かした理由を一から考える猶予はない。悠仁の問いに不自然な間を空けずに返すには、こう誤魔化すしか思いつかなかった。
    「へえ、オマエそんなに本好きだったん?」
    「分からん。少なくとも『今の俺』は、書物を読むということはしたことがなかった。本棚があって驚いたくらいだ」
    「ああアレね。この家の前に俺達高専の寮に住んでたんだけどさ、オマエの部屋にあんまり何もないもんだから……本棚くらい置けばって言ったら何日かしたらホントに置いてあってちょっとビビったんよな」
    「そうなのか」
     知っている。それが日記を書き始めたきっかけのひとつらしい。
    「そっか、まあ身体が何ともないのに家にいろって言われても暇だもんな。むしろ俺が置いてってやるべきだったよな、映画とか」
    「悠仁が気にすることじゃない、自分でできることは自分でするぞ」
    「オマエはそりゃそう言うだろうけどさ……まあいいや、その代わり飯食ったり休憩したりはちゃんとしろよ」
    「ああ、気を付ける」
     
     そんなやりとりをしたのが数日前。
     依然として俺にかけられた術式は解けておらず、記憶は戻らない。任務に復帰できず悠仁に負担をかけ続けていることへの焦りはある、が、今の俺には当面の目標があった。
    「ん……これなら大丈夫、か……?」
     小皿を片手に唸る。何度も繰り返していると味覚が麻痺してきて善し悪しの判別がつかなくなるらしい、というのを今まさに身を以て体験しており、そろそろ傾げすぎた首がこのまま固定になりそうだ。
     件の日記には、まだすべてに目を通しているわけではない。合間に読み進めてはいるが、今の優先事項はこれだった。
     ――この家の家事を担うこと。
     薄々感づいてはいた、というより悠仁と共に暮らすにあたって俺が思い至らないはずがないと思っていたのだ。一つの家に住み続けるということは、その環境を守っていく必要がある。家には役割があり、使われるたびに何かが消耗していくのだから、適宜それを人の手で補っていかなければならない。
     人間として生きてきた悠仁はその点では紛れもなく先達で、ごく自然に何もかも自力でこなしていってしまう。弟に立派に生きていく力が備わっていることは喜ばしいことだが、兄たる俺がそれに寄りかかり続けることを良しとするわけにはいかない。日記には、そんな俺が悪戦苦闘した軌跡がしっかりと書き綴られていた。
     かつての自分の目を覆いたくなるような失敗の記録のおかげで、再び経験のないところから始めたにしては再習得が早かったように思う。今の状況を鑑みて、掃除と洗濯の二つに絞ったことも要因のひとつだろう。
     洗濯も自分の衣類やタオルで練習を重ね、ついに二日前、帰宅した悠仁に頼んで悠仁の分も洗濯させてもらった。本人ははじめ遠慮していたが、未だに記憶が戻らず家に籠もるしかない俺のことを気遣ってくれたのだろう、自分の衣服を預けてくれた。なおこれは縮ませることなく無事に洗い乾かし、しっかりと畳んで今は悠仁の部屋の前のかごに入れてある。
     そして三つ目の家事として習得のため目下勤しんでいるのがこれ、――料理だ。
     記憶を失った初日の俺が振る舞われた悠仁の料理にいたく感激したように、過去の本当に初めての俺もまた、初めて口にしたそれに如何に歓喜したかを熱烈に書き綴っていた。
     自分も悠仁に作ってやりたい、と思ったのはそのすぐ後だったらしい。そして、そこから延々と続く試行錯誤が始まった。日記に残された失敗経験の八割ほどがこの料理に関連することであることからも、苦戦のほどが窺える。
     自室の本棚には、実は日記以外にも市販されているらしい書籍がいくつかある。その大半は料理に関するものだ。とはいえ必要な前提を忘れてしまっている以上、今のところは日記の副読本として記述が出てきた際に該当の頁をめくる程度ではあるが。
     俺が完成を目指しているのは、かつての俺が初めて悠仁に振る舞った料理だ。
     白米を炊き、ソーセージを焼いて、巻き焼いた卵を添え、味噌汁を作ったと記してある。その日記のページにはあまり上手いとは言えない食卓の絵まで描き添えてあったので、自分の中でよほど大事な記録となったのだろう。
     今、また悠仁は多忙になっている。俺に洗濯物を預けたその日に遠方の祓除任務に出かけていき、昨日は結局帰ってこられなかった。今日の夜には帰れそうだと連絡が入っていたので、ならばと気合を入れてキッチンに立っている。
     もちろん、今日に至るまで何回か同じメニューの練習をしている。失敗したものは自分の食事として消費すれば問題ない。初めは米を炊くどころかソーセージを焦がさずに焼くことさえ加減がわからず難儀したが、味も見た目もとりあえずおかしくはない程度にまで仕上げられるようになってきた。
     味噌汁も、味見しすぎて最早これ以上どうすればいいか分からなくなっているが、出汁の味がないとか、塩気がきつすぎるとか、そういった極端な振れ方はしていない……はずだ。
     鍋の火を消し、つけていたエプロンを外す。余談だが、このエプロンは悠仁から貰ったものらしい。ひらひらとうねる布が肩紐や前掛けの縁につけられていて、料理するのに必要な装飾にはあまり思えなかったものの、料理に熟達している悠仁がくれたものだ、きっと何かしら意味があるのだろう。
     米は炊けているし、ソーセージも卵も焼いた。特に卵はここ数日で一番綺麗に巻けた。悠仁に出すものとしては、まあまあの及第点ではなかろうか。
     あとは悠仁が帰宅したときに、温めて出してやるだけだ。
     そう考えていると、ふと端末が受信音を鳴らした。
     見ると悠仁からのメッセージで、帰宅がどうやら夜半を過ぎるらしい旨が何かを謝罪する絵とともに送られてきていた。
     わかったきをつけてかえってこい、と打ち返しておく。本当は漢字に変換したいが、探している間に時間が経ってしまうので、待たせないようにしようとするとだいたいこうなってしまう。まあごく短い内容だ、読めはするだろう。
     さて。
    (となると、何か食べて帰ってくるだろうな……)
     今の家には冷食しかないからか、それとも前からの習慣か、俺と食事を共にするタイミングとは外れた時刻に帰宅する際には、悠仁は外で何か食べてから帰ってきていた。
     夜分遅くにものを食べるのは良くないとも聞く。無理に家で食べることにこだわるより、身体に負担のないようにしてくれたほうがよほどいい。
     今作ったものは、冷ましてから冷蔵庫に仕舞っておけばいいだろう。明日、自分で消費してもいい。これは何も奇跡的な成功ではなく練習を重ねた結果の着実な成果なのだから、また作ってやればいいだけのことだった。
     それよりも湯の支度をしておこうと思い立つ。栓と風呂蓋が閉じていることを確認さえすれば後はボタンを押すだけなので、俺にもできる仕様なのが何とも助かる。
     昨日から雨天が続いているので生憎干したてではないが、一番新しいタオルと部屋着も用意する。と言っても、風呂場にある棚から取り出すだけなので本当に大したことではない。
     疲れていて先に眠りたいというのならそれも仕方ない。しかし、できる限り一息くらいはついてほしかった。
    何なら頭も体も悠仁が許すのなら俺が隅々までしっかり洗ってやるのだが、一度提案してみたら食い気味に拒否されたので口出しは控えている。成長して自立心が芽生えればこそ、兄に己の裸の世話などさせたくないという心理が働くものなのだろう。寂しくはない。
     と、玄関の方で物音がする。時計を見るといつの間にか日付が変わるかどうかといった深い時間になっていて、なるべく早く休ませてやらねばと玄関へと顔を出した。
    「おかえり、悠仁」
    「ただいま~……」
     どこに出しても心底誇らしい立派に育った体躯も、今ばかりは少し萎れて見える。結局丸二日を要した任務は、想像以上に悠仁を疲弊させたらしかった。
    「荷物を預かろう。風呂が沸いているぞ、入れそうか?」
    「えマジ? 神じゃん……入る……」
    「着替えとタオルも置いてあるからな」
    「神……」
     いよいよもって意識が危うい。とにかく一刻も早く休ませようと脱衣所に押し込んだ。
     悠仁はいつも風呂上がりに好んでいる銘柄の飲料水を飲むので、用意しておいてやろうと預かった荷物を持って居間に戻った。ついでに、もうすっかり冷めていた食事を冷蔵庫へと片付けておく。
     万が一湯船に浸かりながら意識を飛ばしてしまっていると危険なので、それとなく聞き耳を立てる。幸いにも適度な物音を挟みつつ風呂場の引き戸が開く音がしたので、自力でちゃんと上がれたらしいとほっとした。
     蒸し暑さを感じる季節ではあるが、あえて少し熱めの湯を張っておいた。どうやら目論見が当たったらしく、程なくして出てきた悠仁はあちい!と言いながらもさっぱりした顔をしていた。無論居間のエアコンは湯冷めしない程度の涼しさに設定してある、抜かりはない。
    「お疲れ様。いつものも冷えているぞ、水分はきっちり摂れ」
    「何もう至れり尽くせりじゃん。マジであんがと」
    「泊りがけの任務明けだからな、当然だろう。ほら、タオルも貸せ。濡れたまま寝ると風邪を引く」
    「あー……洗面所のドライヤー無いなと思ったら……」
     手招きすると、ふらふらとした足取りでソファまでやってくる。素直な弟の姿は殊更可愛かったが、それは兄の胸の中にだけ留めておくべき事実だ。
     ごくごくと良い音を立てて動く大きな喉仏は、傍目から見ても爽快さを抱かせる。つくづく良い男に育ったなと感じ入りつつ、あっという間に空になったペットボトルと入れ替わりでドライヤーのスイッチを入れた。
     ちなみに、俺に悠仁の髪を乾かしてやった経験はない。しかし日記に書かれており、悠仁はドライヤーの熱風をあまり好まないが、タオルで拭いてやりながら適切な距離から風を送る分には心地いいようだった、という当時の自分の記録は承知している。
     その通りにしてみると、何とも言えない喉の奥から漏れ出るような呻き声と共にソファへと沈み込んでいくので、記録を残すことの大切さが改めて身に染みた。
    「……むり……ねそう……」
    「寝ていいぞ。部屋まで連れて行ってやる」
    「それはヤダ……」
     そう言って、弛緩していた身体をずりずりと億劫そうに起こす。
     ちょうど悠仁の髪も概ね乾いたようだったので、名残惜しく思いながらもドライヤーを引き上げた。
    「飯はちゃんと食ったのか」
    「ふぁ……、……ぃさんぁ、用意してくれたの食った……」
     俺の言葉に返しつつも、大きなあくびをしてだいぶ眠そうにしている。
     確か今回同行した補助監督だったか。就任してまだ一年目の新人なのだと悠仁から聞いている。もしかするとそれも任務が長引いた一因だったかもしれないが、仮にそうだとしても悠仁はそのせいにはしないだろう。
     ならば俺も兄として、弟の気遣いに倣うだけだ。今やるべきことは他にもある。
    「荷物、洗濯物だけ出しておくぞ」
    「あんがと……」
     応酬はひとまず成立しているが、果たして聞いているのかいないのか。
     洗濯物を選り分けたらもう担いででも自室に連れていこうと決め、悠仁の鞄を洗面所へと持っていった。
     
    「脹相! ちょーそー‼」
    「どうした悠仁⁉」
     深夜帯にはいつも隣人に配慮して声を控えめにしている悠仁らしからぬ声量に、取る物も取り敢えず居間へと戻る。まさか任務で何か術式による攻撃を受けたのか、今俺が満足に活動できない状態でそんなことがもしあったとしたら――
     果たして、悠仁はキッチンにいた。より厳密に言うなら冷蔵庫の前で、先程仕舞ったばかりの味噌汁の入った椀を両手で包むように捧げ持っていた。
    「なんっ、え、これ、これもしかして、脹相が作ってくれたん⁉」
    「あ、ああ……」
     あれほど眠たげにしていたのに睡魔をどこに放り投げてしまったのか、瞳にらんらんと光を灯して興奮した面持ちで俺と手にした器を見比べている。
     悠仁の目に触れないように隠した、というわけではなかったので見つかったこと自体はいい。食事はもう摂ったようなことを言っていたが、もしかすると満足な量ではなかったのかもしれない。
     だが、次に来る言葉に対してはこう窘めざるをえなかった。
    「なあなあ、これ俺が食っていい?」
    「悠仁、もう夜遅いからせめて明日に」
     深夜の飲食が健康にどの程度の影響を及ぼすかに関しては、知識がなく正確な判断ができない。とはいえ、一般的に「良くない」という認識が通底しているのであれば、相応の理由があるはずだ。悠仁の手料理ならまだしも、ようやく及第点に至れたかどうか程度の俺の作ったものに、それほど急いで食べなければならないような要素はないだろう。
    「やだ、俺が食っていいんなら今食う。絶対食う。食うまで寝ない」
    「……」
     眠すぎて言動がおかしくなっているんだろうか。こんなにあからさまに駄々をこねるのは初めて見た。
     絶句しているのか感心しているのか自分でも判別がつかない俺を尻目に、冷蔵庫から皿を取り出しては器用に手に乗せていく。仕舞いやすいように握っておいた米まできっちり見つけ出すと、なぜか鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌でテーブルまで運んで行こうとする。
    「……悠仁、食うならせめて温めてくれないか」
     冷たいままではさすがに味の保障ができない。
    「応!」
     元気のいい返事がいっそ場違いなほどだ。いそいそと電子レンジに皿を放り込んでいく後姿を眺めつつ、箸や飲み物を用意するために引き出しを開けた。

     ぱちん、と大型の呪霊をも一撃で粉砕できる両手を行儀よく合わせる。
    「いただきます!」
    「ああ、召し上がれ」
     思いもよらない形にはなってしまったが、こんな遅い時間帯になるということさえ除けばこうするつもりで作ったのだ。悠仁が食べてくれるのが嬉しい反面、ちゃんと口に合うものになっているかという緊張が今更ながらこみあげてくる。
     箸先はまず、卵焼きに向かった。一口大に切ってあるそれを摘まんで大きく開けた口腔に運ぶその瞬間を、気づけば固唾を飲んで見守っていた。
     ああ、もしかしたら。
     悠仁が自分の作った食事を食べる俺の姿をよく見ていたのは、こういう気持ちだったからなのかもしれない。
    「……ん! めっちゃ美味い!」
    「大丈夫か? 甘すぎてはいないか?」
    「超ばっちり、ちょうどいい感じ! あ~これこれ、これだ~……」
     文字通り噛み締めるように卵焼きを咀嚼し、次はソーセージに箸を伸ばす。健康的な前歯が弾力のある皮を躊躇いなく噛み切り、小気味いい音を食卓に響かせた。
     握り飯は単なる塩にぎりで、何か具を詰めておけばよかったと口に謝罪が上りかけたが、口いっぱいに米を頬張る姿を見るとどうにも野暮に思えて言葉を引っ込めた。
     味噌汁の椀を傾ける瞬間が一番緊張したが、悠仁は今日一番の笑顔を見せてくれた。
    「ほんとに全部美味いよ。ほんとに……、……あんがとな脹相、大変だったろ」
    「何のことはない。悠仁の口に合ったのなら良かった」
    「……うん」
     自分が手ずから作ったものが、一口ずつ悠仁の口へ運ばれ、咀嚼され、嚥下される。
     食べたものは腹の中で溶かされ、体内を駆け巡り、肉体の一部や力へと変換されていく。
     俺が作ったものが、悠仁の身体に、力になる。
     日記に決して書き切れなかっただろう喜びが、今また胸中に湧き起こる。それと同時に、少しだけ理解できた気がする。悠仁と共に暮らす、ということがどういうことなのか。
     たとえ忘れようとも消えない己の過ち、それでも、一生抱えながら生きていくだけの価値が、このささやかな営みにどれだけ溢れていることかを。
     かたん、と箸が置かれる。
     米粒ひとつ残さず綺麗に平らげられた器を前に、悠仁は始まりと同じく、ぱちん、と指先まで美しく伸ばして両の手を合わせてみせた。
    「ごちそうさまでした」
    「……ああ、ありがとう、悠仁」
     弟の双眸は、俺の返答にきょとんと瞬いてから、何かを滲ませるように柔らかく綻んだ。

     ■■■

     後は、記憶が戻りさえすればいいのだが。
     あれからまた数日が経過し、俺は相変わらず呪術師としては戦力外のままだった。
     悠仁のために食事を作ってやれるようになったのはよかったが、それは元々任務をこなしながらやっていたことだ。マイナスが相殺されただけでプラスに転じたわけではない。
     ますます夏が近づき、悠仁の多忙さもいや増してきている。元気そうに振舞うものの疲労が拭いきれない姿を見るたびに、もどかしさがこみ上げてくる。
     俺に呪いをかけたのは一級相当の呪霊であるという。既に呪霊本体の祓除が完了していてなおここまで尾を引くとなると、当初の見解である「時間経過による解呪」は期待できないと見ていい。解呪するのに明確な手順あるいは条件を要するのであれば、当該呪霊について改めて検証を行う必要があるかもしれない。
     しかし、共に任務へ赴いた悠仁はこのところ自宅と派遣先の往復で、家にいる間は体力と気力の回復に努めている状態だ。ただ、日記に伊地知という名の補助監督は悠仁も懇意にしており信頼できる旨が書かれていたので、実は端末を介して接触はしている。
     通話は現在端末に制限がかかっていて文字のみのやりとりではあるが、こちらの現状を把握しているらしく、情報の提供をしてくれた。しかし、当時同行した補助監督は伊地知ではないため詳細までは不明、同行した補助監督は別件で負傷し療養中だという。
    件の呪霊が観測された場所は廃病院。心霊スポットとして名が知られており、冷やかし半分で訪れた若者が何らかの記憶を喪失した状態で発見される事案が多発し、高専へ祓除依頼が回されてきたらしい。
    失う記憶の範囲は一貫性がなく、数日程度で済んでいるケースもあれば、最も深刻な事例ではほとんど幼児期まで退行している者もいる。死亡例は確認されておらず、人間を殺さず害している行動から知性を持つ可能性が指摘され、特級案件への格上げも考慮された結果、一級術師として登録されている悠仁と俺が派遣されることとなった。
    資料から読み取れるのはこの程度だ。しかし俺とて、この資料にすべての情報が記載されているとは思っていない。少なくとも高専側では、呪霊の影響が受け保護された人間たちの来歴、および奪われた記憶についての情報も把握しているはずだ。
    俺は十年分の記憶を失っているが、逆に言えば、薨星宮での出来事までは覚えている。
    何故「そこ」が切れ目だったのか。それが分かれば、解呪の糸口になりそうなのだが。
     唸っていると、律儀に働いていた洗濯機が脱水まで完了した旨を訴えてきた。
     今日は久々に晴れている。ここしばらくは、悠仁が任務に着ていく服を最低限かつ最優先に洗っていただけなので、洗いたかったものがかなり溜まっていた。本日二回目の洗濯だったが、一回目に劣らずの量を洗濯機に詰め込んである。
     また明日からは雨の予報となっている。貴重な晴れ間を有効活用したいと、他に洗濯できそうなものを探して部屋をうろつきまわった。
    「……そういえば、シーツは洗ってなかったな」
     衣類以外にも寝具は洗濯しておくべきだ、という過去の自分の記録を思い出す。せっかくなら洗い立ての方が悠仁もよく眠れるに違いない。
     記憶を失ってから初めて足を踏み入れる部屋は、きちんと整頓されていた。というより、この頃の多忙で荒らす余裕もない、と言った方が正確かもしれない。
     薄手の掛け布団を回収し、シーツと枕のカバーを剥がしにかかる。よく見ると俺の部屋のものと揃いの模様で色違いになっている。まとめて購入したのだろうか。
     と、剥がしたシーツを丸める際に、ぽろっと何かが落ちるのが見えた。ベッドの上は何もないように見えたのだが、隅か枕の陰に隠れていたのに気づかなかったらしい。
     落ちた時の音はしなかった。足元をぐるぐる見まわすと、黒い箱がひとつ転がっているのを見つけた。ああこれだな、と膝を折り、箱を手に取った。
     ――かさ。
     蓋がきちんと閉まっていなかった箱から、渇いた軽い音と共に何かが零れ落ちる。ひとつふたつと出てきたそれは正方形をしていて、中央部が円状に盛り上がっている。
     何だろうか、と思ってしまったのが、もしかすると運の尽きだったのかもしれない。
     脳というものは勝手に働くもので、反射的に浮かべた疑問に対する答えが見つかるや否やそれを知った俺がどう思うかなど配慮もせず、意気揚々と目の前に掲げてみせるのだ。
     なお、答えは器から得た知識の中にあった。
     通称ゴム。コンドームとも呼ばれる、男性器に装着して使用する避妊具である。
    「………………………………」
     俺は今、猛烈に己の短慮を悔いている。
     悠仁は二十五歳。一般的な見解というものを俺が述べるのも滑稽な話だが、あえて言うのなら、その年齢の男はいわゆる適齢期というヤツだろう。男女で番い、子を成し、人間という種としての繁殖の中核を担う層だ。
     もちろん、俺は弟にそのように生きよと言うつもりは毛程もない。大事なのは弟が幸せに生きること、ただそれだけであって、人間社会における役割など真実どうでもいいことだ。
     ただし、その弟本人が望んでいることであれば、当然ながらその限りではない。
    (……いるのだろうか、)
     悠仁に、これを使いたい相手が。――番いたい誰かが。
     箱が開いているということは、少なくとも一度は使用している証左である。この間、俺が家に籠らざるを得ないせいもあってか、来客は一度たりともない。
     日記の中にはそれらしい記述は見当たらなかった。しかし、たとえ同じ家に暮らしていたとしても、兄が弟の何もかもを把握しているというのは思い上がりも甚だしいだろう。俺の知らない交友関係など、いくらでもあったはずだ。
     早く記憶を取り戻さなければ、任務に戻れず悠仁に負担をかけてしまうと思っていた。
     それも誤りではないだろう。しかし、俺はもっと根本的に、弟の大事な何かを損ねてしまっているのではないか。
     あまりに不甲斐ない有様に、全身の血液という血液が己を苛み始めた。末端は冷たく凍えていき、心臓がひどく軋み、頭はガンガンと痛みを訴える。術式を使おうとして、やめる。俺はこれを受け止めるべきだと思うからだ。
     木偶の坊と化した足が不意に震える。ポケットの端末にメッセージが届いていた。今日は夕方頃に帰宅できそうだ、と文字だけなのに嬉しそうな様子が伝わってくる。
     いつもと同じ言葉を返しながら、俺は自分のすべきことを考えていた。

    「悠仁、疲れているところすまないが、少しいいか」
    「ん? どしたん」
     ソファでだらりと弛緩している悠仁の隣に腰かける。食事と風呂を終えてもまだ日が変わらない時間を堪能しているところだ、休んでいてほしい気持ちは決して小さくはない。
    しかし、そんな目先の気遣いで誤魔化し続けてはならないのだととうに痛感していた。
    「詫びたいことがある」
    「えっ何、オマエなんかしたん」
    「今日は晴れていたから、洗濯をしようと……無断でオマエの部屋に入った」
    「ぶっ」
     まだ前置きだというのに、盛大にソファから盛大に転げ落ちていってしまった。どうやら本題に入る前に謝罪すべき事柄が増えてしまったらしい。
    「……すまん、勝手に部屋に入ってしまって」
    「い、いや……俺も入るなとは言ってなかったし……てかあの、洗濯ってあの、何を」
    「ああ、ベッドのシーツを洗ってやろうと思って」
     ヒクッ、とソファに這い上がろうと座面に添えた手が、いや全身があからさまに跳ねた。
     常ならぬ悠仁の余裕のない反応に、確信を深める。喉の奥に引っ込んでしまいそうになる言葉を無理やり舌に乗せて、続けざまに吐き出した。
    「それで……こういうものを見つけた」
     悠仁の目の前に箱を置く。手のひらに収まるほど小さく、吹けば飛ぶほど軽い、黒いパッケージに数字が書かれているだけの分かりづらく無機質なそれ。
    「違うんです‼‼‼」
     さらに続けようとした言葉は、今まで聞いたこともない悠仁の悲鳴で何故か遮られた。
    「違うんです‼ マジで‼ 脹相が今そういう状態ってのは俺も全然分かってて‼」
    「悠仁?」
    「前の名残であって今は使ってないっつか当面使うつもりもないんで‼ そういうのはやっぱちゃんとせんといかんし、いや確かにここ最近そろそろヤバいなみたいな時もあるけど、脹相の記憶が戻ってからどうですかってお伺い立てるべきであって」
    「……悠仁」
      

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    DOODLE※本誌バレ ※死ネタ ※捏造
    残された者と残さなかった者のお話。
    死んだひとはお墓に宿るのか思い出に宿るのか、というお話のような。自分でも何を書いているかよくわかりませんが、どうしても今書かねばならないと思って書きました。死ネタですので閲覧ご注意ください。
    空っぽの夕焼け(悠脹)俺と脹相が再会したのは、全てが終わった後だった。

    九十九さんに会いたいかと聞かれて、俺はそれが何を意味するかが分かった。連れていかれた先は、ひどく寒くて暗い部屋だった。俺は浅い息を吸い込んでから九十九さんに聞いた。脹相は何か残さなかったか、と。彼女は首を振った。脹相は最期まで俺を呪わなかった。
    脹相は彼のふたりの弟と同じように葬られた。俺は九十九さんの隣に立って、その様をずっと見ていた。命尽きるまで戦ったのだろうと分かる傷だらけの身体が火に抱かれ、骨になって、小さな壺に収められて、森の中に建てられた小さなお堂の中に収められるまでを、ただ静かに、目に焼き付けるように眺めていた。
    涙は出なかった。脹相の身体が灰になるときも、つめたくてかるい壺を胸に抱いた時も、脹相が収められたお堂の前に立った時も。俺は涙を流すことも、お堂に手を合わせることも、目を瞑って心の中で語り掛けることも出来なかった。俺はそれがなぜかわからなくて、お堂の前に立ち尽くして自分の中に押し寄せるさざ波のような音をずっと聞いていた。もう日が暮れるよと先生が俺の肩を叩いてくれたとき、俺はひとつだけわかったことがあった。
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