沙→主(??)のようなもの「〇一番、調子はどうですか?」
全身を熱い血が巡る感覚で意識が覚醒する。次第に鮮明になっていく思考とは裏腹に、今回はどれ程眠っていたのか、ずっと動かしていない俺の身体は鉛のように重かった。
「調子ィ……? 良いわけねェっつの……」
縛られているわけでもないのに自力で起き上がることもできない俺は、視線だけを近くで腰掛ける女性研究員に向ける。
「検温と記録の準備しますから、少し待っててください」
冷たい声でそう告げた彼女は、俺の世話係だ。
黒髪のショートカットに、しっかり前まで閉じられた白衣。正直、俺の好みからはだいぶ外れている。
俺がこの研究所に管理されるようになってから、二年ほどが経った。とはいっても、起きている時間よりもコールドスリープされている期間の方がずっと長いため、体感としてはほんの数週間だ。それでも、世話係をしてくれているらしい彼女からすれば、それなりに長期間俺と過ごしていることになる。
にも関わらず、彼女は俺を嫌っているようで、まだ一度も笑顔を見せてくれたことがない。元々表情が乏しいタイプなのかとも思ったが、他の研究員の話を聞く限りそういう訳でもないようだ。
膝の上に置いているパソコンに、何かを打ち込んでいく彼女を、視界も思考もぼんやりしながら眺める。彼女の耳に掛かっていた柔らかな黒髪がこぼれ落ちて、その頬を撫でたのがわかった。しかし、それを直してやることも出来ない俺は、小さく息を吐いて再び目を閉じる。
『〇一番』そんなふうに呼ばれるようになってから、俺の生活はガラリと変わった。
グノーシア__俺の使命は、人を消すこと。少し前までは俺もそれに従って、偶然乗り込んだ宇宙船の乗客を少しずつ消していた。
だけど、コメットとかいう女の乗客をコールドスリープさせたのが間違いだったのだろう。彼女に寄生していた粘菌の暴走で、グノーシアの俺まで命の危機に晒されるはめになった。
船長のジョナスと俺だけは何とか死なずに済んだが、その出来事のせいで完全に萎えてしまった俺は、自らのコールドスリープを強行したのだ。
問題は、その後のこと。
次に目が覚めたとき、俺は見知らぬベッドで横たわっていた。両手両足には拘束具がつけられ、四肢を自由に動かすことも出来ない。状況は飲み込めなかったが、マジで、犯されるか殺されるかと思ってヒヤヒヤした。
結論としては、そのどちらでもなく、俺はグノーシアとして生きたまま研究されることになったのだった。
「初めまして、世話係の研究員八番です。八番と呼んでください。よろしくお願いします」
そんな絶望的な状況の俺の前に現れたのが、黒の髪をしたあの女性研究員だ。世話係に女が選ばれたのは、俺が女相手だと手荒なことはしないと研究所にバレていたからかもしれない。どのみち、四肢が拘束されている俺には彼女を消すことも出来なかったわけだけど。
おかげで、俺を連れてきた経緯を淡々と話す彼女の声に大人しく耳を傾けてしまった。
どうやら、この研究所の所長は俺の父親らしい。どこからか息子がグノーシア汚染されたという情報を聞きつけ、息子を利用してグノーシアに関する調査をするつもりで研究チームを作ったのだとか。俺がコールドスリープしてから目覚めるまでの期間は、たったの二ヶ月だと言われている。
「ハッ……相変わらず冷てェ親父だな。昔と何も変わってねーじゃねえか。息子まで研究素材に成り下げんのは引くわ」
「……私は、あなたのことが正直嫌いですが……所長はあなたを大切に思っていると思いますよ」
「そりゃ大切だろーよ、グノーシアを生きた状態で調査出来る機会なんてそーそーねえもんな」
「所長が研究所を設立したのは、グノーシア汚染に効く特効薬を作りたいからと、聞いています」
「あ? 特効薬だァ?」
てっきり俺を解剖してグノーシアの生態でも調査するのかと思ったが、動物学者の父は何故か製薬を主とした研究を行うことにしていたらしい。不思議そうな表情をしてしまったのだろう、自身を八番と名乗った研究員は言葉を続けた。
「……あなたを、普通の人間に戻したいそうですよ」
「__〇一番、〇一番。二度寝してないで起きてもらえますか」
過去の記憶を辿りながら夢の世界へ足を伸ばしかけた俺を、無機質な声が現実へと引き戻した。瞼を開けると、俺を上から覗き込む女性と目が合う。先程まで見えなかった顔も、この距離ならはっきりと認識できる。彼女の顔を見ると、自然と口角が上がった。
俺は正直、こいつの顔が好きだ。
先述した通り、全く好みのタイプではない。大した特徴もなく、幸も薄い。だが、そんな顔であるにも関わらず、彼女の表情を見ると安心感が俺の胸を満たす。研究対象者とされているような環境下で、俺が暴走せずにいるのはこいつの顔が落ち着くからなんじゃねぇかなって思うほどだ。これは恐らく、ストックホルム症候群なのだろう。知識があっても、まんまとそれにハマる自分の無力さは嫌に人間らしい。
「なァ、ハチ〜。お前、ちっとは俺に情湧かねえの? 起き上がる筋力もなくしちまった俺を、可愛く抱き起こすとかよォ〜……」
「しません」
……と、言いつつ彼女は俺の背中を小さな手で支えて、上半身を起こさせてくれる。なんだかんだ、俺の敵になりきれない彼女も見ていて楽しかった。
ハチ。八番目の研究員だからハチ。彼女のことをそう呼ぶようになったのはいつからだったか。コールドスリープされている俺には正確な日付は分からない。
俺の世界は、ここに収容されてからほとんどハチだけになってしまっていた。もちろん、投薬や実験のときなんかは専門の研究員が出てくるが、俺が四肢をある程度動かせる状況での会話を許可されているのは、ハチだけなのである。
所長は、実の息子によくそんなひでぇ扱いが出来るもんだ。
まぁ、そうは言ってもここでの扱いは実験体としてはそれなりに良いものだったりする。実験体としては。
投薬だってマウスで何度かテストしてからされるし、実験も苦痛を伴うものは少なく、認知実験のようなものがほとんどだ。
「俺を人間に戻したい」なんて父親のエゴとも言える理想のせいで、俺は自由を失い、時間を浪費しているわけだが、所長が実の父でなければ、もっとぞんざいに扱われていた可能性は否めない。
「ハチ、俺はいつここから出してもらえんの」
タッチレスの検温機を手に持ち、ハチは俺にセンサーを向ける。検温が終わると、結果をパソコンに入力しながら俺の質問に返事をしてくれた。
「……さぁ。出たいんですか?」
「別にィ? 特にヤりてぇことがあるわけでもねーし。ただ実験動物として飼い殺されるのは納得行かねえな」
「これが飼い殺しに思えるんですね。この状況がそんなに嫌ですか? 無闇矢鱈に傷つけられたりもしてないのに」
「つってもよ……ハッ、結構ギリギリよ。今も、ハチを消してえ。本能を抑え込んで生きろって、何よりも拷問じゃね?」
俺の言葉にハチの視線がより冷ややかなものになる。だけど、言葉に嘘はないためしっかり見つめ返せば、彼女の眉間に深く皺が寄った。
「だったら、そんなこと言ってないで早く私を消せばいいんですよ。今は縛られてないんだから。あなたの言動は前から支離滅裂です」
怒りや苛立ち。そんな負の感情が滲む声にすら、俺は喜びを感じる。それほどまでに、ハチは俺の前で感情を表してくれることがないのだ。
もちろん、出来ることならこいつの笑顔を見てみたいと思うけど。
「へぇ……ハチって、AC主義者なんだな」
「違います」
「でもよ、私を消せばいいのにって、AC主義者としか思えねえ発言だろ?」
純粋な疑問だった。グノーシアを前にして「私を消せ」なんて冗談でも言えるものじゃないだろう。俺のそんな質問に、ハチはまたも分かりやすく顔を歪めた。今日の彼女は、随分と感情豊かなようだ。やはり、こういった刺激は嬉しい。変わらずにヘラヘラしてしまう俺に、彼女の不快感が強まる。
「単純に……許せないんです、あなたが」
「フーン、俺が?」
「グノーシアで、人を消したくせに……親が研究者だからって人間に戻るチャンスを得た。あなたに消された人は、もう戻って来ないのに……」
「……なるほど? それで、なんで俺がハチを消すことに繋がんだよ」
「それは……」
ようやく、彼女の表情から怒りの色が消える。代わりに、視線がうろうろと彷徨った。彼女が見せた動揺に、胸がざわつく。初めて見たはずの、その困ったような、泣いてしまいそうな表情を、俺はどこかで見たことがあるような気がした。
「なぁ、ハチ。俺とオマエって__」
「さぁ、入力終わりました。次は薬飲んでください」
既視感の正体を知りたくて紡いだ言葉は、容赦なく遮られる。だけど、その誤魔化すような言動こそが答えのように思えた。俺は、過去にハチとここじゃないどこかで出会ったことがあるのかもしれない。一体どこで? 女のことなら、忘れるはずないのに。
「もしかしてさ、ハチって汎だったりする?」
「いいから、早く薬飲んでください」
「へぇへぇ……」
手渡されたふた粒の錠剤を飲み下ろす。
この薬は、コールドスリープから目覚めた後に必ず飲むものだ。漢方のようなもので、薬によって体温を上げることで血流の悪さを解消し、体を強制的に通常時に戻すのである。本来、コールドスリープから起床後もこんな薬を飲む必要はないのだが、俺のように短いスパンで冷解凍を繰り返していると、身体の回復機能が衰えてくるらしい。一体この研究所は俺を治したいのか殺したいのか分からないところだ。
「ハァ……で、今日は何すんだよ。投薬か? 実験か?」
「いえ。今日は、外に出てもらいます」
「リアリィ? 外って、外だよな?」
「はい。とは言っても、敷地内の庭ですけど。かなり体力が衰えてきたみたいなので、少しは気分転換を……と所長からの指示です」
「気分転換のためにグノーシアを起こすなんて、危機感ねェな……」
心底呆れる。しかし、これはチャンスだろう。施設の設計は知らないが、外の空気に触れる場所に出られるならば、脱獄も可能かもしれない。
「ちなみに、もしも○一番が逃げ出した場合、私が解雇されるのでやめてくださいね」
「解雇ねェ。むしろ辞めるべきだろ、こんな研究所」
経緯は知らないが、おそらく俺とそれほど歳の違わない女が、一人でグノーシアの世話係に配置される組織なんて、まともだとは思えない。俺が理性的な男じゃなければ彼女なんてひとたまりもなかったはずだ。色々な意味で。
「無駄話はここまでです。行きますよ」
ガチャガチャと金属音を立てながら手錠をはめられる。やはり、手放しでは外に出してもらえないらしい。もちろんそれくらいは想定内だったが。
「庭の周回には私が付き添います」
「周回なんて味気ねえ言い方すんなよ。どうせなら散歩、って言ってくれませんかねェ」
「……むしろ、この状況で散歩って言うと意味変わってきませんか」
俺の手錠に繋がった革製のひもを、ハチが軽く引っ張りジャラリと音を鳴らす。さながら主人とペットのようだ。
「だから散歩がイイんだよ。そういうプレイと思えば、燃えるだろ」
「あー…………」
ハチの口から小さく吐き出された「キモ」の二文字を合図に、俺たちは部屋の外に向かって歩き出す。普段の俺なら軽口を返すであろうその暴言を、今はひっそりと味わった。とんだドMだと思われるかもしれないが、今の俺にとって、ハチから送られる事務連絡以外の言葉は小さな楽しみなのだ。
でもまぁそれも、今日で最後かもしれない。そう思うと、少しセンチメンタルな気分になった。
俺の前を歩く華奢な背中が、なんだか物悲しく見えてくる。
「なぁハチ」
静かなトーンの呼びかけに、ハチの足が止まった。表情を変えないままこちらを振り返る彼女を見て、ふと、少し前乗っていた船で知り合った【夕里子】という女を思い出す。もしかすると、既視感の正体はあの船の中にあったのかもしれない。
そんなことを考えて、ハチの橙色の瞳をじっと見つめた。夕里子の虹彩は、何色だったっけ。
「何ですか?」
つい、考え込んでしまったようだ。問いかける様すら無感情なハチを見て、夕里子の方がよっぽど感情豊かだったかもしれねぇな、なんて、また船のことを思い浮かべた。
「あぁ……お前がもし解雇になったら、俺が養ってやるよって、伝えようと思ってな」
「必要ないです」
「ハハッ、つれねぇ〜! 別に取って食おうってワケじゃねェよ。お前が消えたいなら消すし、消えたくないなら消さねーから」
「……さっきから、何の話ですか? 脱走の意思表示なら見逃せませんけど」
「ちげぇっての! それくらいには、まぁ、お前を気に入ってるってハナシ」
俺にとっては『らしくない』告白じみた言葉を吐いてみる。しかし、若干の緊張を伴った言葉は、残酷にも無視という方法で無かったことにされてしまった。
しばらく無言で歩き続ける。長い廊下を抜けて、階段を登り、何度か扉をくぐった先に、ようやく青空はあった。やはりというべきか、グノーシアである俺は厳重に地下で隔離されていたようだ。
「っとと……」
体感ひと月ぶり、経過二年以上ぶりの直射日光に、視界がぐらつく。セロトニンが分泌されていくのをひしひしと感じつつも、体力の落ちた俺の体はその眩しさを受け止めきれなかった。倒れそうになった俺をハチがすかさず支えてくれる。
「もう部屋に戻りますか」
そこに俺を気遣うようなニュアンスはない。あくまで研究者として、俺が倒れないように配慮しているだけだろう。だけど、腕に触れる彼女の手のひらが温かく、普段はロボットのような彼女の人間味を感じてやけに高揚した。
「ノーウェイ! 戻るわけねぇだろ? 何年ぶりのお日さんだと思ってんだよ」
「二年七ヶ月と十五日です」
「……。……そんな、経ってんのか」
「はい。とにかく、周回しますよ」
「散歩な〜」
「周回です」
散歩をしながら、辺りを見渡す。庭と称されたそこには、花壇や噴水といった華やかさは存在しない。乾いた地面に、緑の雑草だけがまばらに生えている。地下にいた故に、研究所の立地を想定することもできなかったが、故郷に近い場所だろうか。初めて見上げた研究所の建物は、想像よりもかなり廃れている。幼少期に見た研究所もそれほど立派なものでは無かったと思うが、ここはそれより酷いだろう。内装のことを思い出してみるが、確かに片鱗はあった。俺が隔離されている部屋は、かなり頑丈になっていたようだが、外に出るまでの廊下なんかはまるで廃校。とてもグノーシアを囲っている施設だとは思えなかった。
「なぁハチ、この研究所ってまさか惑星とか国から補助金貰ってねーの?」
グノーシアの生捕りに成功した研究所に、どこからも支援案が来ないとは考えづらい。こんな寂れた施設じゃ、研究にも限界があるだろうに。
そんな俺の問いかけに、ハチが珍しく驚きの表情を見せた。
「どうしてそう思うんです?」
「おっ、もしかして良い質問しちゃったかぁ? 惚れ直してもいいんだぜ、ウェルカーム!」
「この研究所は、二年半前に発足したんですが」
「ウップス! 完全スルーかよ」
「グノーシアについて研究してる大手の研究所は、宇宙にいくつかあります。ここは、新しい研究所なので、言ってしまえば、弱小ですね__」
ハチの話を要約すればこうだ。
この研究所は、今から約二年半前に設立された新規の研究施設だ。それ故、立場が弱い。グノーシア研究を主とした研究所は他にもあり、どこも生きて研究出来るグノーシアを喉から手が出るほど欲している。
つまり、弱小の研究所がグノーシアを保持しているとなれば、大手が黙っていないということだ。研究の質を理由に奪われる可能性は大いにあるし、武力行使で強奪されることだって考えられる。
となれば、生きたグノーシアを自ら研究するためには、俺の存在を明かさないのが最も安全だと所長は踏んだらしい。
「ン……? つーことは、ここは非公認で何の後ろ盾もねェ研究所ってことか?」
「そうなります。基本的には所長のポケットマネーで成り立っているらしいです」
「ハァァ〜〜? なんだそりゃ!」
製薬事業なんて、費用が嵩んでしょうがないはずだ。そんな非効率的なやり方、父親らしくない。
例えば、共同研究と称して大手の研究所と手を組めば、いくらここが弱小であれど研究対象の強奪なんてことは起きないだろう。確かに手柄と功績は減ってしまうが、それでも研究の限界と発展を考えれば、非公認で進めるよりは利があるはずだ。
「ウェイウェイ! んじゃハチもしみったれた給料しかもらってねんじゃねえの。いや、そもそも給料とかあんの?」
「ありますよ、さすがに」
「月いくら? まさかこれより少ねえとか言わねーよな」
言いながら、研究員の平均的な月収よりも少なめの数字を指で示す。立てられた二本の指に、ハチの目が瞬いた。
「馬鹿にしてます?」
「お、さすがにンな少なくねぇか」
「その三倍はあります」
「……、……それって……いや、まぁ、いいや」
おそらく、多分、俺と彼女が想像している金額は、桁が違うのだろう。つまり、彼女の月収は、俺が見積った三分の一程度しかないということだ。
そして、彼女の様子を見る限り、その額が少ないということにすら気付いていない気がする。
「こりゃ、意地でも脱獄してやらねぇとな……」
風の音にかき消される程度にそう呟く。俺が思っていたより、ハチは世間知らずなのかもしれない。若い女だとは思っていたが、社会経験も一般常識もないままこの研究所に雇われてしまったのだろう。
一体何がどうしてそんなことになったのかは分からないが……俺を人間に戻したい、という親のエゴに巻き込まれたのは、どうやら俺だけじゃなかったようだ。
「なぁハチ、トイレ行きてーんだけど」
歩いて十数分、俺の少ない体力が尽きてしまう前に、脱獄作戦に移ることにした。とは言っても、これは緻密に練られた作戦なんかではない。トイレに入り、抜け道を探すといった古典的な方法だ。外に出るということがもっと前に分かっていたら、きちんと計画を練ったのだろうが……知ったのはほんの一時間程度前の話だ。そして、俺の今の体力からして、決行可能な時間はそう多くはない。そう考えると、多少強引でアラが目立とうとも、思いついた作戦を決行するしかないのだ。
突然足を止めた俺を、ハチが振り返ってじっと見つめる。怪しまれているようだ。だからそれを見つめ返して、へらへらと馬鹿そうに笑ってやった。すると、彼女は何も考えていないと思ってくれたのか、仕方ないといった様子で手首に付いた端末をいじり始めてくれる。
まぁ、ここまではスムーズに行くだろうと思っていた。問題はここからだ。
「それなら男性の研究員を付き添わせるので……」
これだ。俺は何とかして、付き添いを跳ね除けなければならない。
「ハァ⁉︎ んな待ってらんねェよ! 俺の膀胱はもうクライマックスを迎えてんだっての!」
「そうは言っても、〇一番を単独行動させてはいけない決まりが」
「ハッ! 別にイイけどな。俺の不始末をハチが片付けんのも、インモラルで最高に唆るし。下手すりゃエレクトよ」
わざと煽るように言えば、ハチの表情が分かりやすく不快に寄るのが分かった。とりあえず、彼女がセクハラにきちんと不快感を示せる程度の知識は持ち合わせていることに、少しホッとする。
格闘すること数分。結局、手錠は外さないことを条件で、一人でトイレに入ることを許可された。ハチの表情から察するに、許可を得る段階で俺はかなりの尊厳を失ったのだろうが、そんなこと自由の前にはどうだっていいのだ。
トイレの前にたどり着く。扉を開ける前に、ハチは俺たちを繋ぎ止めていた革紐を、俺の手首に巻きつけた。垂れる紐に邪魔されて、トイレに不便しないようにとの配慮だろう。なんというか、むしろ手首が拘束されて動きづらいような気もするが、これは実は嫌がらせだったりするのだろうか。
「ズボン脱がせてはくれねぇの?」
「キモい」
「すげぇストレートパンチ」
「私はここで待ってるので、終わったら戻ってきてください」
「わあってるっての。あ、でも遅いからって開けんなよ。ハチには刺激強ェもん見るハメになるから」
「分かりました」
「……、……んじゃ、イってきますかねぇ」
ハチの顔を数秒眺めて、両手で扉を開けた。頭でも撫でてやろうかと思ったが、ここに辿り着くまでにハチから俺への軽蔑具合はレベルアップしているし、最後の最後に本気で拒否されたらキツいのでやめておいた。
トイレに足を踏み入れると、俺はすぐに窓の有無を確認する。
「ハハ……ビンゴ……」
なんと壁には、俺が工夫すればなんとか通り抜けられそうな大きさの窓が設置されていた。窓がなければ、天井裏に入り込んでやろうとも思っていたのに。
窓に手を伸ばし、ふと、最後に見たハチの表情を思い出す。彼女は相変わらずの無表情だった。とても、これから「研究対象を一人にする」という規則を破る奴とは思えないほどに。
ハチは、もしかして俺を見逃そうとしているんじゃないだろうか。
トイレをしたいなんて嘘にも、俺が逃げ出そうとしていることにも、気がついた上で、窓のあるトイレに誘導したと考えるのが一番自然だ。
だって、男の付き添いをつけるつけないという押し問答をしている間に、研究員を一人呼ぶくらい簡単に出来たはずなのだから。
彼女は内心、この研究所を辞めたいと思っていたのかもしれない。それとも、俺を逃がしたいと思ってくれた? どちらにせよ、彼女がくれたこのチャンスを逃すわけにはいかない。
もう一度、窓に手を伸ばす。しかし、手錠で繋がれた腕では思うように動かすことができなかった。思わず舌打ちをすると、廊下側から誰かの話し声が近づいて来る。男と思われる低い声。おそらくトイレに入ってくるのだろう。
こんなところを見られたら、脱獄どころではない。俺は再拘束されるのに、ハチは解雇されるという最悪シナリオの出来上がりだ。慌てて一番近くにあった扉を開いて中に入る。用具入れだったらしいそこは、少し動いただけで音が響きそうだ。何とかベスポジを探り、体勢を整えると、そのタイミングでトイレのドアが開かれる音がする。錆びた蝶番の軋む音と共に、二人分の足音が入り込んできた。
「__そうそう、前回は暴れて大変だったらしいんですよ。ほんと、所長の我儘には付き合ってらんないですよね〜」
「くっそー、本施設の推薦なかったらいつでも辞めてやるのにな!」
ビンゴ。やはり男二人組のご来店のようだ。
そしてどうやら俺の父親の悪口を言っているらしい。親子の関わりなんてとうの昔に消え去っているから苛立ったりはしないが、何やら部下に迷惑かけているのは親族として恥である。
とりあえず、この二人が出ていくまで俺はじっとしているしかなさそうだ。
「そういえばあの子、なんで男子トイレの外居たんでしょう?」
「それ思った。ハチ、だっけ?」
当然と言えば当然だが、話題は廊下にいたハチに移り代わっていく。ガチャガチャとベルトの外す音と共に、ハチの名前が聞こえてくるのは若干不快感が募るが、まさか殴りかかるわけにもいかないのでただ息を殺した。
「そういや今日、〇一番を起こす日だよな? ……まさか、このトイレに……」
「…………」
数秒間、重苦しい静寂が訪れる。恐らく、俺がいるかどうか確認するため、個室の方を覗き込んでいるのだろう。物音を立てやすい用具入れに隠れたことを若干後悔していたが、今思えば運が良かったかもしれない。元々ドアが閉まっているから、普通の個室よりも隠れていることがバレにくいだろう。
男たちもざっと確認して安心したのか、再び会話を始めた。
「まぁ普通に考えて、まだ〇一番は地下にいるんじゃないですか?」
「だな。でもそうなると、余計ハチが何してんのか気になるな。でもなぁ……気軽に話しかけられるほどの距離感じゃねえし」
「というか、怖くて話しかけられないですよ。あの子〇一番の世話係に自ら志願したんでしょう?」
「は?」
思わず、声が漏れた。慌てて口を塞ぐが、どうやら談笑中の彼らには聞こえなかったようだ。そのことにホッとしつつも、動揺は止まってくれない。
ハチが、自ら俺の世話係を名乗り出たとは、一体どういうことだ。
「そもそも彼女理系じゃないらしいですよ。調理系の学校通ってたって聞きました。〇一番の世話係やりたくて猛勉強してきたんじゃないかって噂です」
まさか、信じられない。そんな熱烈な想いがあるなら、俺にあそこまで冷たい対応でいられるはずがない。
「それって、AC主義者ってこと? んな危険思想ここに入れちゃダメだろ……」
俺も一度はそう考えた。確かにAC主義者なら、グノーシアに近づきたいというのも納得できる。でも、向けられているのは無関心か軽蔑だけだ。やはり、その線も違う気がする。
突然、これまで知らなかったハチの情報が雪崩れ込んできて処理が追いつかない。どこからどこまでが本当で、どこからどこまでが嘘なのか。改めて、俺はハチのことを全く知らないのだと思い知らされる。
「そういえば……実は彼女、もしも〇一番逃がしたりしたら首飛ぶらしいんですよ」
ようやく出てきた知っている内容に「それは知ってる」となんとなく安心してしまった。世話係をされているのに、ハチについて知っているのが研究員として当然の契約内容だけというのが、何とも悔しい。
「まぁ……そりゃ大罪だしな。普通に仕事続けられる方がおかしいというか」
「と、思いますよね。じゃなくて、死刑ってことです」
__理解し難い言葉に、眉をひそめる。
今、アイツは、死刑って言ったのだろうか?
「俺、所長に頼まれて資料漁ってる時、契約書類見ちゃったんですよ……」
「嘘だろ……さすがに」
「マジです。『契約を放棄した場合、速やかに本人の身体を献体する』って書いてあるの見ちゃって。それってつまり、〇一番を逃がしたら殺すぞってことですよね」
……とても、信じられない。普通に考えて、人権侵害甚だしい。そもそも、グノーシアの世話なんて危険な役目を薄給でやらせるくせに、そんな恐ろしい契約まで結ばせるなんて、あり得ない。だってそんな契約じゃ、誰も働きたがらないからだ。
でも……これまでの話が全部本当だとしたら?
ハチは本当に、俺の世話係がやりたくて猛勉強の末この研究所に近付いて、酷い契約内容すらも受け入れてしまったのだとしたら……?
廊下で俺を見送った彼女の無表情が頭に浮かぶ。あの冷たい視線には、一体どんな気持ちが込められていたのだろう。
「俺、もうこの研究所辞めてぇな……闇深すぎるって……」
「同感です……」
ぐちぐちと文句をこぼしながら、研究員たちはトイレを立ち去っていった。俺は、半ば放心状態で用具入れから出る。右から差し込む日の光が、何だか鬱陶しく感じた。
「あぁ、もう……無理だろ……!」
明るい空に背を向けて数歩歩くと、俺は勢いよくドアを開いた。
「ハチ! 地下に戻んぞ!」
「っ! な、何で……?」
そこには、本気で驚いたように目を見開くハチがいる。反応からして、やはり俺を逃すつもりだったようだ。
「何驚いてんだよ。逃げるとでも思ったか?」
「……それは……」
聞きたいことは、山ほどある。
どうしてこの研究所に来たのか。実は俺のことが好きなのか、それとも付け回すくらい嫌いなのか。なら何で俺を一人にしたのか。俺を助けたかったのか、それとも契約放棄して死にたかったのか。お前は一体何者で、今、何を考えてるのか。
知りたいことが多すぎて、手に負えないくらいだ。だけど、とにかく今は、ハチから離れてはいけないと思った。
「……意外とトイレが短かったのでびっくりしただけです。地下に戻りましょう。次外出するときは、男性研究員も付き添わせますからね」
「へぇへぇ」
ハチが、俺の手首に巻き付けていた革紐を再び手にする。あとは無言で、長い道を辿って地下に戻るだけだ。と、思っていたのだが。
「……〇一番。気分転換は、出来ましたか?」
少し緊張気味に発せられたハチの言葉。パソコンもタブレットも、何も記録する媒体に触れていない彼女のその台詞は、業務に含まれていない日常会話だろう。
「ンー……及第点ってとこだな! 次はもっと楽しませてくれよ?」
「チッ、調子に乗らないでください」
あとどれくらいの期間、彼女が俺の世話係をしてくれるのだろう。俺さえ逃げなければ、ずっと一緒にいられるのだろうか。
だけど、俺が眠っている間に、彼女は二度も年齢を重ねている。そう考えると、思っているより猶予はないだろう。
逃げ出すが先か、特効薬が先か。どちらにせよ、彼女と共にある未来を想像せずにはいられなかった。