till death do us part『今夜だけで良いから』
何度も、何度も、祈るように繰り返し言っていた。
今夜だけ。今だけ、まるで愛しい人のように扱ってほしいと。忘れて良いから、なかったことにしていいから、と。
忘れられるはずがない。
愛しいのはあなただ。
その肌に、その熱に、その愛に、触れてしまったのなら、忘れられるはずがない。
透き通るような白い肌が淡く染まってゆくのを見た。
与えられる快感に耐えるように寄せられた眉、乞うように上擦った声、輝きを失わぬ瞳。
あなたを形作る全てが愛しくて、涙が出そうだった。
『アーサー、どうか信じてくれ』
あなたをお慕いしています。
あなたの願いは全て叶えると言いながら、『今夜だけ』という願いは叶えてやれそうになかった。
この手の内に、一度抱いてしまったのだから。
抱きしめあって、熱を分け合って、そして、心が通じたと思った。愛しい人を胸に抱いて眠る夜のなんて幸福なことだろう。このまま、朝目覚めたら腕の中に彼がいて、彼が起きるまで寝顔を眺めて、温もりを感じて、そのときこの世で一番幸せな男は、まさしく自分に違いない。
そう思っていたのに。
「アーサー……?」
夜中にふと目が覚めて、またすぐに眠りにつく。ままあることで、それ自体は普通のことだ。だけどすぐに気付いた。今夜ばかりは『普通』ではおかしいのだと。
数時間前、もしかしたら数分前に腕の中にきつくきつく抱きしめて眠ったはずの人がいない。いない、と理解したその瞬間、襲ってきたのはとてつもない喪失感だった。
手に入るはずもないと思っていた。そばで見守るだけで充分幸せだと思っていた。
だけど、それでも、手をのばして来たのはあなたのほうなのに。
「アーサー様」
見えないだけで、もしかしたらそばにいるのかもしれないと思い、はっきりと名前を呼ぶ。
まるで聖堂で祈りを捧げるような響きだった。返事などないとわかっていても祈らずにはいられない。
ああ、嫌だ。
これこそ、まさに祈りだ。
「……からかってるのか?だったら大成功だから、出てきてくれ。なあ、アーサー」
いないのはもうわかっていた。ベッドから降りて、机やソファの周りで探るように手を振るが、当然のように空を切るだけだった。
抱きしめあって、熱を分け合って、心が、この心が、通じたのだと思った。
この心臓を動かしているのはあなたなのだとどうかわかってほしくて、切実な思いを伝えたはずだった。
『今夜だけ』
あの人は選択したのだ。一夜の過ちとすることを。ただの王子と騎士で、ただの友人。明日の朝に食堂で会ったら、今まで通りにおはようと笑いかけてくれるのだろう。
『カイン』
愛おしげに名前を呼んでくれる声を覚えている。その指が頬に触れて、口付けをねだる。温かくてやわらかい感触を覚えている。
あなたは忘れられるというのか、あの温度も、感触も、この愛も。
外はまだ暗い。もう一度ベッドに転がり込めば眠れるだろうか。眠れたのなら、この喪失から逃れられるだろうか。
「アーサー……」
「カイン」
逃れられるはずもない。そうやって穏やかに名前を呼んでくれる声を思い出しては、永劫に、きっと苦しむのだろう。これほど魔法使いの長い生を恨めしく思ったことはない。
「カイン、おはよう」
そうだ。今まで通り、朝にはなんでもない顔でおはようと声をかけてくれるのだ。今まで通りに、今まで通りに……?
「アーサー!?」
「? ああ」
「アーサー……!」
振り返ると、部屋の扉がゆっくりと閉まるのが見えた。扉が開いたことにさえ気付かなかったなんて、相当動転していたのだろう。だけどそんなことはどうでも良くて、今までなかった愛しい気配が確かに部屋の中に感じられて、こみ上げる気持ちを抑えきれずに大股で近付いて、見えない体を掻き抱いた。
あたたかい。銀色の髪が頬をくすぐる感触を忘れたくない。誰にも知られてほしくない。もう二度と離れたくない。
「わっ、あはは、カイン、どうしたんだ?」
ようやく見えたアーサーは両手に水の入ったグラスを持っていた。小さく風が吹いて、アーサーが手に持っていたグラスがふわりと机の上に移動する。空いた両手は、カインを抱き返してくれた。
「……いなくなったかと思った」
「ああ、驚かせてしまってすまない。水を取りに行っていただけだよ」
「言ってくれれば俺が行ったのに」
「幸せそうに眠っていたから」
そんなの当たり前だ。世界で一番愛しい人を抱きしめていたのだから。そして、目覚めてもこの腕の中にいると思っていた。
「アーサー」
「ん、んん、カイン、」
アーサーの肩を扉に押し付け、やや強引なくらい強く唇を合わせる。薄く開いた唇をゆるく食んで舌を入れると、アーサーは少し体を強張らせたが受け入れてくれた。すぐ横にはベッドがある。
「カイン、ちょっと待って」
そのままベッドに押し倒すとさすがに抗議の声が上がったが、耐えられそうになかった。
「アーサー様、……駄目ですか?」
持て余す熱を隠さずに耳元で囁やけば、背中をとんとんと優しく叩かれた。髪を梳かれて、子供のようにあやされている気分になる。
「……『今夜だけ』はまだ有効?」
「やめてくれ、そんな風に言うのは……。過ちなんかにはさせない」
「過ちだなんて思っていないよ」
アーサーの手がカインの額から頬、首筋をゆっくりとなぞる。やがて両手をカインの背中に回し抱き寄せた。
「カイン、後悔しないでくれてありがとう」
「アーサー……」
愛をねだることのないあなたに知ってほしい。あなたを求めて止まないこの心を。この腕の中に抱いていてもなお苦しいほど焦がれている。離れたくない。離したくない。
あなたには決して知られたくないと思っていた浅ましさを、今はわかって欲しくて堪らない。
「お慕いしています、アーサー様」
「……何度も聞いたよ」
これから先も、幾度だって伝えるだろう。あなたへ捧ぐこの愛を、ずっと覚えていてほしいから。