インクに滲む「退屈だろう」
アーサーがそう声を掛けると、カインは「まさか」と目を細めた。
「あんたと一緒にいるのに、退屈だったことなんてないよ」
「……本当に?」
なんだか卑屈っぽい返事になってしまった気がして、不安な気持ちのまま視線を送ると、カインはアーサーの目を見つめながらいっそう笑みを深くした。
「俺のことは気にせず、続けてくれ」
促されるままに、そしてその視線から逃れるように、アーサーは机の上の本に目線を戻した。さきほどまで空白だったページは、アーサーの手書きの文字によって今は半分程度が埋まっている。
パンケーキを焼くときのフライパンの温度や、余ったシチューをグラタンにする方法。それに、月が満ちては欠けること、美しい石の名前、夕焼けの色。子どもの頃から、新しく学んだ知識を本にまとめることが好きだった。
今日は、空飛ぶ本の捕まえ方を書いている。店主には少し申し訳ないけれど、“空飛ぶ本”という、その響きだけでわくわくしてしまうし、捕まえ方にしてもそれぞれの魔法使いの特色が出ていて興味深い。
「なあ、その本って俺のことも書いてあるのか?」
楽しげに尋ねてきたカインに、もし、書いていないと言ったなら、彼はどうするのだろうと考える。がっかりするだろうか、笑い飛ばしてしまうのだろうか。
でもきっと、嘘だとすぐにばれてしまうだろう。カインは人の機微に聡いから。
「……書いてあるよ」
「それは嬉しいな。どんなことなんだ?」
「そうだな……、私が城に戻ったばかりのころ、騎士の仕事について教えてくれただろう。そういうことや、剣の構え方に、それから、……いろいろあるよ」
「そうか。いろいろあるんだな」
カインは嬉しそうに笑った。アーサーが個人的に書いている本に過ぎないのに、そんなに嬉しそうにされると、くすぐったくて、まぶしくて、アーサーはまた目を逸らした。
城で共に過ごした時間は決して長くはないけれど、たくさんのことをカインは教えてくれた。
幼い頃は、次は何を書こうと毎日心を弾ませながら補充していたインクは、長ずるにつれて無機質な書類にばかり使われるようになっていた。北にいた頃のように雪原を駆け回ることも、深い森を探検することもない。
そんな、静かになった日々の中でも、心を揺らす確かなものたち。騎士の仕事のこと、剣の構え方、切り傷に効く薬草、魔法を使わない火の起こし方。
それから、ベーコンが好きで、残念ながらポトフは苦手。チキンやラクレットのような、肉類は全般好き。ケーキはあまり食べない。貝はトマトスープにする。ちなみにトマトは生よりも火を通したもののほうが好き(ただしこれは予測)。誕生日は8月。靴を集めるのが好き。片付けは苦手。いつもきっちり上までボタンを留めているのに、寝巻きのときは……なんて。
新しく出会った者の特徴や人物評を書き記すことはあるけれど、いつからか気付けばカインのことばかり書いている気がする。単純に、一緒に過ごす時間が長いということもあるけれど、それだけではなく、カインのことを、つい考えてしまうからだ。
好きな食べ物は、魔法舎の全員分を書くためのページがある。カインだけが特別なわけではないけれど、それでもカインの項目が一番長い。まるで日記だ。もともとそういう側面がなかったわけではないけれど、もう、自分でも気付いてしまうほどに、どこを見てもカインのことばかり。
好奇心は旺盛なほうだった。興味の向くまま駆け出して叱られることも少なくなかった。知りたいと思う気持ちを止めるのは難しい。
「俺にしか教えられないことがあればいいのに」
それもきっとカインにとっては何気ない一言なのだろうけれど、そういう小さなことのひとつひとつに、アーサーの心はかき乱されてしまう。
『俺にしか教えられないこと』だなんて、いかにも思わせぶりなセリフだ。でも、自分だけが特別なのだと思い違いもできないほどに、カインは誰に対しても優しい。自分に向けられるものは、その心根のごくごく一部分でしかなくて、たまたま王子だったから、少しだけ多く分け与えられているだけなのだろう、と。
そう思うと、悲しく、そして、恋しかった。
この感情こそ、まさにカインにしか教えられないものなのだと、気付け、気付けと、どんなに願っても、どうしようもなくて、ただどろりとしたインクに溶けて消えてゆく。
「……カインにしか教えられないもの、私はあると思うよ」
「例えば?」
「うーん、酒の飲み方とか?」
「あはは!そんなの誰にだって教えられるだろ」
誰でもいいことなら、なおさらカインに教えてほしい。些細なことでも、カインから教えてもらったことなら、大切な思い出になるはずだから。
それでも、もし、それでも、カインにしか教えられないことを、カインが真に望むのなら、それはきっとアーサーの望みでもあるのだろう。
もしも本当のことを言ったら、カインはどんな顔をするだろうか。
言ってみたい。
言ってしまいたい。
どうか、恋を教えてくれないか、と。