We're getting married「結婚する」
確かにアーサーは、突飛なことを言い出す面があった。好奇心や冒険心が強いのだ。冷静で賢いアーサーの、そういう情熱的なところをヒースクリフは気に入っていた。とはいえ、今聞こえた言葉は、いくらなんでも聞き間違いとしか思えなかった。
「アーサー」
ヒースクリフは手袋を外して、アーサーと自分の間にあったひとり分程度の席を詰めた。革張りの古いソファが鈍い音を立てる。アーサーの右手をとり、その手を包む黒い手袋の中へ自身の指先を差し入れると、手袋はゆっくりと外れ、やがて床へ落ちた。あらわになった白い指先とよく整えられた爪に手を重ねる。
パンテーラの白と青のスーツは冷徹と品格を、黒い手袋は沈黙と権威を示していた。そしてもちろん、革製の手袋は指紋を残さないために。いくら法執行機関がろくに機能していない街とはいえ、仕事中にこれを外すことはまずない。
──そういえば。
ヒースクリフはふと、留学中にアーサーから届いた手紙に、自警団のことが何度か書かれていたことを思い出した。しかし、 ヒースクリフが街へ戻る頃には若者たちの群れは解散したのか、潰されたのか。すでになくなっていた。この街で、法とはパンテーラ。パンテーラが法だ。裁判所も、警察も、保安官も、ましてや自警団なんてものは、この街には必要ない。不要だ。
ファミリーの装いを揃えることは敵への威圧と身内の連帯のためだが、アーサーの身に付けるものはヒースクリフが特に見繕ったものだった。金の刺繍の施された黒いシャツはまさしく黒豹の優美さで、アーサーの薄い皮膚に殊更よく似合っている。
ヒースクリフはアーサーの左手の手袋も抜き取って、サイドテーブルへと放り投げた。次はネクタイとジャケット、さてどちらにしようかと考えながら、穏やかに尋ねる。
「もう一度言ってくれる?」
アーサーの青い瞳は薄暗い照明の中でもきらきらと輝いていた。宝石だったらさぞや高値で取引されることだろう。けれど、もし本当にこの宝石が手に入ったのなら、自分の手で飾り立て、きっと手放さない。
「ヒースクリフ」
ふたりきりなのだから愛称で呼んでくれればいいのに。そんなヒースクリフの気持ちを知ってか知らずか、アーサーはヒースクリフの手を握り返し、そして、決意を固めた口調で冒頭の言葉を繰り返した。
「結婚する」
どうか許して、ヒースクリフ。アーサーはヒースクリフの手の甲に口付けをして、結婚の秘跡の許しを請うた。
ここで下手に反対したら、アーサーのことだから、今夜にもカジノにオープンカーで突っ込んで、ドライブスルーで結婚してしまうかもしれない。それよりは、わざわざ許可を求めている今の状況は余程ましというものだ。それとも今のうちに街の牧師を全員始末するのは……、さすがになしか。
──仕方ないな。ため息をひとつついて、ヒースクリフはアーサーのジャケットに手をかけた。
*
「結婚する!」
そうですか。ミスラはさして興味なさそうに空返事をした。
結婚、結婚……。結婚とは何か、ネロが持ってきた何かの、何だろうこれは。何かの肉をつまみながら、ミスラは考える。結婚。ああ、彼女もいつか、そんなことを言っていた。ふたりの人間が、誓いあうこと。誓いならミスラもベンティスカファミリーに入るときにさせられた。でもそれとはまた違うらしい。
まあ、あの人がしたのだから、カインも結婚くらいすることもあるだろう。自分もボスも未婚だが、組織の中には他にもしている者がいる、はずだ。何を誰に誓うのか。何の意味があるのか。ミスラは本当に、そういうものには全く興味がなかった。
「あー、その、相手は?」
ネロはとりあえず、何か話を続けなればならないと思いそう返事をした。ミスラはきっともう何も言わないから、放っておけばカインの結婚宣言のみでこの話は終わるだろう。別にそれでも構わなかったが、結婚なんていうのは一応、人生の一大事である、はずだ。ネロもそこまで興味はなかったが、お人好しな男だった。
「パンテーラファミリーのアーサーだ」
おいまじか!なんでまたそんな奴と……。否定的な声を上げそうになったネロは、咄嗟に呼吸を止めて、吸い込んで、そして飲み込んだ。
パンテーラファミリーといえば、忘れもしない『ベンティスカの悪夢』の引き金となった組織だ。(その上、オズがベンティスカを抜けた直接の原因こそが、まさにカインの結婚相手である『アーサー』なのだが、ネロはそこまでのことは知らなかった。全知全能の人間などいない。アーメン)
カインとアーサーの出会いは、ボスの命令でキルシュ・ペルシュを探していたときのことだと言う。その一件が片付いた折に、とある酒場が組織を超えた交流の場として開かれたことはネロも知っていた。ミスラに手土産を持って行くと良いなんて気軽にアドバイスしてしまったものだから、子羊のソテーを作らされたのだ。ソテーなんてものは温かいうちに食べるべきであるから、手土産には向かないというのに。どうせ手土産にするならもっとふさわしいものは山ほどある。
「バンッ!」
「えっ、何」
「相手は銃を持っていた。だけどアーサーは怯まなかった」
尋ねてもないのに詳しい説明の始まったカインと結婚相手の『アーサー』くんとの馴れ初め話は、いつの間にかふたりの大冒険譚になっていた。途中、冷めても美味しい手土産のレシピに考えを飛ばしてしまったネロは、どうやら重要なところを聞き逃したようだった。(ちなみに子羊のソテーだって冷めても美味しい自信はある)
「それで俺達は協力して、ことの真相を突き止めることになったんだ」
ミスラはとっくに姿を消していて、残されたネロは、カインの語る本当かどうかわからないスパイ大作戦に耳を傾けるしかなかった。