more than you could ever know　始まりは、“今日の夕飯はシチューだって”と書いた紙を、簡単な魔法を使ってアーサーのポケットに忍ばせたことだった。

　朝食も摂らずに城へ戻ると言う主君がもしその紙きれに気が付いたのなら、魔法舎へ早く帰って来てくれるかもしれない。そんな子供じみた考えで、本当はシチューじゃなかった夕飯を、ネロとカナリアに頼み込んでシチューにしてもらった。もし駄目だったら自分が作ればいいと軽く考えてもいた。

　軽い考えで、軽い気持ちで、独りよがりな思いだったのに、アーサーは予定よりも早く帰ってきた。

　もし今日は気が付かなくて、後日しわくちゃになって何がなんだかわからなくなってしまった紙を見付けたらどうしようとか、洗濯のときに宮女が見付つけてしまうかもとか、そんなことを食堂に向かう道すがら、ようやく思い付いたときのことだった。

　後ろから肩を叩かれて、振り向くとアーサーが立っていた。

「アーサー！帰って来られたんだな」

　もしかしたらアーサーは、カインの忍ばせた紙片には気付いていなくて、なんの関係もなく、たまたま公務が早く終わっただけなのかもしれないと思ったけれど、もしそうだとしても、カインは嬉しかった。

「今夜は帰って来ないかと思ってたから、顔を見れて嬉しいよ」

　喜びを隠さず出迎えたカインに、アーサーは何も言わずにカインのポケットを人差し指で2回つついたかと思うと、そのままカインを追い抜いて一人で食堂に行ってしまった。

「アーサー？」

　疑問に思いながらも先ほどアーサーが触れたポケットを探ると、自分では入れた覚えのない小さな紙片が出てきた。

「ただいま……」

　整った文字でそこに書かれた言葉をそっと声に出して読み上げたら、そのごくごく短い文字列がとても愛しいものに思えてきて、もう見えなくなってしまった主君を慌てて追いかけた。

　食堂に入ると、アーサーはすでに席に付いていて、カインと目が合うと、少年らしい悪戯っぽい笑みを返した。

「おかえり、アーサー」
「カイン、ただいま」

　その日から時々、手紙とも言えないような些細なやり取りを続けていた。署名すらない、取るに足らない内容ばかり。それでもカインは筆を取るとき、毎回初めての恋文を書くように緊張して、返事をもらえれば舞い上がるほど嬉しかった。

　“花壇の花が咲いてる”とカインが書けば、アーサーは“白い花が綺麗だった ”と返してくれた。“明日は雨”と書いたら、次の日には虹の絵が返ってきた。なんでもよかった。それこそ天気の話なんて、何度も、何度も、何十回もした。

　明日には忘れてしまうような取るに足らない言葉たちが、まるで自分とアーサーを繋ぐ絆のようで、楽しくて、くすぐったくて、幸福で、愛しかった。

　手のひらほどもない頼りない紙片は、アーサーが文字や絵を書くだけで宝物になった。

　だけどやっぱり、独りよがりだという気もしていた。カインにとっては宝物だけど、アーサーにとってはどうなのだろう。面倒に感じていないだろうか。それとも、何とも思っていないかもしれない。日々繰り返される挨拶と同じように、気に留められることなく通り過ぎて行ってしまうもの。もしそうだったら、寂しい。

　好きです、と。

　たぶん、きっと、もしかしたら、この言葉だけ伝えられたのなら、終わることができるかもしれない。些細で独りよがり、そしてどうしようもなく愛しい、あなたが知るよりも遥かに幸福なこの往復が。

「……やめよう」

　書いて、塗りつぶして、ぐしゃぐしゃにして、だけど捨てることができなくて、窓を開けた。小さな声で呪文を唱えると、紙片はふわりと魔法の風にのって窓から出て、白い花びらへと姿を変えて舞い上がった。

　言葉はまだ伝えられなくとも、この花びらだけでもあなたのところに届いたのならば、それだけで、今はただそれだけで充分だ。

　そう自分に言い聞かせて、散ってゆく花びらを見送った。