ネイル 瓶に入っているときは闇のような黒色に見えていたが、実際に塗ってみれば乳白色を含む灰色のようだった。
瓶の中、小さな刷毛にたっぷりと乗せた液体をフチでしごき、余ったものを爪へとのせる。
根本から先端へ。
親指が終われば人差し指へと、順番に。
それは丁寧に、丁寧に、成されていく作業だ。
「動かしちゃだめだよ」
「わかってます。でもどうしたんです? ネイルなんて」
「ん? これ? これね、硝子にもらったんだ」
「……家入先生ですか」
自分でも硬い声が出たことがわかった。
先生のこととなると僕は狭量だ。好きな人が楽しそうにしているのだからそれでいいはずなのに、自分のいない話をされるとどうにも面白くなくて、それを隠すこともできないでいる。
けれど先生はそんなこと気にもしていないようだ。
「二度塗りすると綺麗になるって言ってたけど、なんか面倒くさいいよね」
なんて軽口を叩くばかり。
「こっち終わり。次、右手出して」
用済みとばかりに投げ捨てられた左手をソファーの上に置き、求められるままに僕は右手を差し出す。
こっちはやりにくいだとか、こんな面倒なことよくできるよねだとか。聞こえてくるのはそんな言葉。
ネイルに関する知識なんて先生が持ってるわけもないもので、それはつまり僕の知らない五条先生と家入先生ふたりの親密さを内包しているもので。
───つまんないな。
せっかくふたりきりだというのに、そんなことばかりが頭の中をよぎっていく。
正直言うと、もう先生の話も聞きたくなかった。
「先生」
ぼすり、と頭を首元へと埋める。先生の肌はあたたかくって気持ちいい。
「くすぐったいよ」
「先生」
「あと少しだからいい子で待ってなよ」
くつくつとのどの奥から聞こえる声、愉快そうに揺れる肩。
ぐるぐると腹の中に溜まっていくくらい感情を押しとどめながら、僕は時間が過ぎていくのを待つ。
面倒臭いと言いつつも先生はきっちりと爪に色を乗せていく。もともと器用な人だから、仕上がっていく爪はそれは綺麗なものだったけれど、どうにも波立つ気持ちを抑えられなくて、僕は先生の肩に頭を預けたまま目を閉じていた。
どれくらいそうしていただろうか。
「さあ、終わり。乾くまではこのままだ。動くなよ?」
と、声がかかる。
やっと終わったのだと気を抜いていたところにトンと胸を押されて、僕はソファーに背をついた。すぐに起きあがってもよかったけれど、耳に残る「動くなよ」の声に、そのままの姿勢で五条先生を見上げる。
「憂太はさ、隠さないよね」
「なにがですか」
「感情の話」
先生は僕の上から退くこともなく、話を続ける。
「好きなことも、嫌なことも。憂太はさ、僕に対してはストレートに感情をぶつけてくるよね。真希やパンダや棘に対してとか、それから硝子や他の術者に対しても丁寧なのに」
「あまり考えたことないですけど」
「そういうとこだよ。わりと遠慮なく言ってくるだろ」
並べられている言葉は不平の意味を持つものなのに先生は笑っていて、嗜められているのか、揶揄われているのかもよくわからない。
「ええと、ダメなことだから治したほうがいい意味ですか?」
わからないなりに咀嚼してそう尋ねると、返ってくるのは「僕は楽しいけどね」という言葉だった。僕は首を捻る。
「楽しいんですか?」
「そう。理由を考えるとね、優越感あるよ」
「理由?」
優越感なんて言われると、ますますわからなくて、僕は困る。
「自覚してないだろうけど、憂太が僕にそうするのって、敵意を向ける相手へのやり方と同じだろ」
瞬間、息をのんだ。
「そういうザラザラした剥き出しの感情、見せても僕が引かないって根っこのところでわかってるだろ」
「そんな、こと……」
「もちろん敵意を持たれてるとは思ってないよ。でも、それくらい油断なく僕のこと想ってくれてるんだろ。そういうの見せられてさあ、高揚しないわけないじゃん」
僕は目を見開く。その様子すらも先生にとっては愉しいものらしく、静かな笑い声が先生の喉の奥から漏れ聞こえてきた。
「もう一度、手、見せて」
言われるままに指を差し出す。色のついた爪は自分のものではないもののように見える。
「初めてにしては綺麗にできたかな」
その爪に、五条先生は、ふう、と息を吹きかける。
「ねえ、憂太。手、出しちゃだめだよ」
重ねられる言葉。
僕の上から降りることもなく、不敵に笑って、先生は少しのためらいもなく自分の服を脱ぎ、床へと落としていく。
一枚、それからもう一枚と。
次第に露わになっていく肌へ伸ばそうとした手は
「だめ。よれちゃうだろ」
そう言って嗜められる。
思わせぶりな視線を送られ、焦らしながら肌を晒され。
なのに触れることを嗜められるこの状況で、先生はその白い肌を倒して僕の服の上から擦り寄せてきて。
そして言い放つ。
「準備してきたって言ったらどうする?」
もう、止まることはできなかった。
先生の頰に、深い灰色の色がつく。乾き切らないネイルが先生の肌を汚す。汚してしまう。
いいや、ちがう。
五条先生は自分を、汚させたいのだ。
僕の手で、汚させたいのだ。
口ばかりの静止を破られても、先生は笑うばかり。
「駆け引き、憂太は弱いよね」
力任せに押し倒し、体勢を入れ替える。
そのまま白く透き通る肌に貪りつく。
「僕に優位を取られるよ」
上機嫌に発せられる声音。
けれど、決して行為を止めようとはしない唇。
「ダダ漏れだ」
僕はその愛おしくも憎らしい口を、唇を重ねることで閉じさせた。