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    raindrops_scent

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    raindrops_scent

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    息の仕方を教える#息の仕方を教える

    「すみません、九条先生いらっしゃいますか」
     たった一文なのに、必要以上の勇気を握りしめていた。手の中にあるタブレットは、汗ばんだ手で持っているせいで取り落としそうになる。緊張しているのは、先輩医師を呼び出すという事態にもだったが、ずっと探していた症例の学会発表があると知って以降、逸る胸の鼓動を止められずにいた。どうやって参加しようと悩んでいたところに降りかかった声は、まさに鶴の一言だった。
     ひょこりと顔を出した天は、きょろ、とその大きな目を瞬かせる。
    「何? 誰、って、キミか」
    「お疲れ様です。今お時間大丈夫ですか」
     そう問いかけると、めんどくさそうな顔をする。どうやら、タブレットを持参したことでなんとなくの検討はついているらしい。
    「長くなる?」
    「九条先生のお返事次第です」
    「はぁ……」
     腰に当てていた手を額に当てて、深くため息をついた天は細く白い腕に巻き付けられた機能的な腕時計を見て再度ため息を吐く。
    「わかった。五分あげる。五分でキミの要望をプレゼンして。その五分でボクをその気にさせて」
     事前に聞いていた話であれば、この対応は限りなくグレーだろう。けれど、自身の手腕によってはその気になってくれる可能性がある。
     手のひらの汗で、タブレットが滑りそうだった。
    「この学会に、ご一緒させていただきたいんです」
     口火を切ると、後は考えるまでもなくするすると言葉が簡単に出て来た。
     ひたすら時計を見つめている天と、とにかく伝わるように要点をかいつまんでなんとか乞い願う自分は、側から見ればどう見えているのだろう。
    「以上です」
    「すごいね、五分ぴったり。……最後に一つ聞いていい?」
    「はい」
    「ボクが参加するって、誰に聞いたの」
    「八乙女先生です」
    「…………そ」
     何を言われるのかとタブレットを抱きしめていると、天はカレンダーを振り返る。
    「キミ、今どこの実習?」
    「整形です」
    「……まぁギリギリ、ってところかな。今日からボクの家に帰って、叩き込むよ」
    「! それって」
    「いいよ、連れてってあげる」
     にこりと笑みを浮かべた天は、テキパキと予定を組み上げる。中々のハードスケジュールだったが、行きたいと望んだのは自分だ。
    「無理だと思ったならやめていいけど」
    「いえ、いえ。よろしくお願いします」
     頭を下げると、やめて、と短く制止をうける。人目につくからだろうが、少し焦った天の声に溜飲が下がる。汗ばんだ手は自身の頑張りを表していて、誇らしさすらあった。
    「とりあえず、今日の夜から始めるから」
    「お願いします」
     挑発するような目は、一織を試している気がした。



     それからの日々はあっという間だった。天の教えは当然のように厳しかったけれど、理路整然としていて明快だった。体はもちろんきつかったけれど、なんとかやっているつもりだった。それが崩れたのは、三日目だった。
    「それで、」
    「ごほ、ッ……こほ、……。すみません」
    「いいけど……。風邪?」
    「いえ。咽せただけです。すみません、続けてください」
     身に覚えのある息苦しさに、ついそう返してしまう。隣にいる人は、専門医だというのに。
    「……今日はもうやめようか。疲れてるみたいだし」
    「いえ、まだ大丈夫です。本当に、咽せただけなので」
     今日の分のノルマ、と言われた箇所にはまだ到達していない。昨日の帰りが遅かったせいで、昨日の分のノルマも追加されている。ずるずると後回しにされれば、間に合わなくなってしまうかもしれない。それだけは、避けたい。
    「…………わかった。でと、体調悪いなら早く教えて」
    「はい」
    「じゃあ続けるよ」
     見定めるような視線が痛かったけれど、気がつかないふりをして天の言葉に耳を傾けた。
    「今日はここまで。……あまり顔色が良くないから、今日は復習せずにお風呂に入って休むこと」
    「えっ」
     開こうとしたタブレットを取り上げられて、顎を掬われる。ざらついた喉の感触はいつもと同じだったけれど、天のお眼鏡には叶わなかったらしい。教えてもらって泊めてもらっている立場上、天に強く出ることは当然ながらできない。些か不服に思いながら、タブレットを取り上げられて物理的に阻まれてしまう。諦めて着替えを抱えて風呂場へ向かう。
     天には喘息のことを伝えていない。カルテを見られていればバレているし、三月と仲がいいからそこから知られている可能性だってある。だけど、天にこれ以上迷惑をかけるのはごめんだったし、所謂特別扱いのようなことをしてほしくなくて、言い出せないまま三日経っていた。
    「けほ……、けふ、っこん」
     押し殺したはずの咳が、なんの気無しに息をしたはずみで続いて出る。お風呂場は音が響いてしまって、バレてしまうのではないかと思うと気が気ではない。
     吐息に混じる微かな喘鳴に眉を寄せつつ、いつもよりも手早くお風呂から上がる。この時間だけは一人きりだから、いつもこのタイミングでピークフローを測っていた。天に指摘されてなんとなくわかっていたことだったけれど、やはり数値は良くない。
     ざらつく喉を酷使しつつ、もう少しだけ、と自分の体に鞭を打つ。どうしても、行きたいのだ。
    「お風呂、先にいただきました」
    「上がった? ちょっと。まだ髪が濡れてるんだけど」
    「えっ?」
    「そこ座って。乾かすから」
    「いえ、自分で、」
    「キミ、自分の扱い雑なんだもの。任せられない」
     さらりと批判されて、天が座っていたソファに座らせられる。ぜぇ、と主張を始めた気管支に、せめて寝室に行くまでは耐えてくれ、と願う。普段使いの吸入をすれば、少しは落ち着くはずなのだ。
    「お待たせ」
    「、すみません」
    「別にいいけど」
     轟音が耳元を騒がしくする。天の細長い指が髪と髪の隙間を縫って、さやさやと頭を撫でてくる。心地よい手つきにダメだと思いながらこくりこくり船を漕いでしまう。
    「まだ寝ないで。お布団まで頑張って」
    「ぅ……、はい」
     ほら、と促されて、ぽやぽやと暖かさに眠気を誘われながら、冷たいシーツと布団の間に体を滑らせる。ぶる、と背中が震えて、その拍子にぜ、と荒れた喉がわずかな悲鳴をあげる。天はお風呂へ向かったのか、気がついていないようだった。ほっとしながら吸入だけをして、布団に身を倒す。
     疲れた体は横になっただけで休息を得たと判断するらしい。考える間も無く瞼が落ちて、息苦しいと思いながらも眠気には勝てずに眠りに落ちた。



     三月からずっと前に相談されていて、一織が喘息なのは知っていた。最近調子が悪そうだと聞いていたから、本当は一織の申し出は渡りに船だった。だけど、一織は隠すつもりなのか、それとも三月の勘違いなのか、しばらく判別がつかなかった。だけど、今日の講義の途中で一織が隠していることがわかった。とは言え、まだ尻尾が見えたばかりだから、と軽く見逃して、一織が寝付いた頃に寝室を覗くと、やはり微かな喘鳴が聞こえる気がする。
    「起きないでよ」
     そうことわりを入れながら、持って帰ってきていた聴診器を忍ばせる。苦しそうな呼吸音をしているけれど、その割に寝顔は穏やかだ。本人が慣れているのかと考えるとあまりいい傾向ではない。
    「……まったく」
     世話が焼ける、と零すと、返事のように咳が漏れる。
     頑張りすぎないで、と願いながら、頑張らざるを得ないのを理解していた。汗ばんだ額は、少し温い気がした。



     忙しい日々を乗りこなしながら、時折喉元を掠める違和感に背筋を凍らせる。だけど、足を止めることだけはできなくて、日々少しずつ状態は悪化していく。だけど、まだなんとかなる範囲だと思っていたし、数値もそんなに驚くほど悪いわけではなかった。
     天もあの日以降追求してくることはなかったし、てっきり諦めたのだと思っていた。そもそも、自身の体調になど興味がないと思い込んでいた。
     そして、とうとう学会が明日という日。
    「ぜっえ、ごほ、ごひゅ、は」
     まだ大丈夫だと思っていた気管支が、とうとう悲鳴を上げていた。季節柄や疲労、ストレスに、この体は何より敏感だ。病院を出る前から怪しかったけれど、天の家に辿り着いてもう大丈夫、と思ったのがよくなかったのだろう。
     いつもと違って、先にお風呂に入りなさいと言われて、天が上がってくるのを待って寝室で最後の追い込みだと資料を読み込んでいると、みるみる呼吸状態が悪化してしまった。
     だけど、明日が当日なのに何もしないという選択肢は取れず、資料片手に風呂上がりの天の元を尋ねるや否や、ベッドへと押し込まれてしまった。
     熱を測られて、どこから取り出したのかパルスオキシメーターを取り付けられると、一気に天の顔は曇ってしまった。
    「すみ、ませ……っごほっ……っ」
    「喋らないで。相当苦しかったでしょう、これ」
    「さっき、ひゅ、、まで、くるしく、けふっ、なかった、ん、ですけど……っげほっ、ごほん……ほんと、です」
    「こら。ボク手握るから、これで答えて。いいね」
     冷たくなった手の上に重ねられた手は、温かくて血色が良い。声を出さない、出せない時の対応は皆同じなのだと思いながら、差し出された手を一度だけ握りしめる。
    「寮、明日誰かいる?」
    「……っこんッ、ぜぇ、……ぜ、」
     すでに力が入りにくい手で二度握る。過保護な兄たちはいつだって忙しい。走り回っている姿を院内で見るたび、いつか自分もあんなふうになれるのかと憧れた。
    「……きた、げほ、ぃ、」
    「なに?」
    「いきた、げほごほっ……いで、す」
     横になるのが叶わず、天の胸元を借りているせいでいつもより天を近くに感じる。耳に伝わってくる天の鼓動は健やかさの証で、それが今は辛い。
    「だめだよ、今意識保つのだって精一杯でしょう。ボクも明日残るから、今から病院行ってネブライザー……!」
     寝耳に水、とはこのことだろうか。慌てて強く天の手を握って、震える喉をこじ開ける。自分のせいで天にまで迷惑をかけるのはなんとしてでも避けたかった。
    「わが、まま、……っぜぇ、すみませ、……わたし、っごふ、大丈夫、なので……」
     最後まで声を出すことができず、大きく咳き込んでしまう。意思が伝わったか不安だったけれど、天の深いため息が耳を叩く。
    「ひとりには、出来ないよ」
     呼吸がひどいのは自覚があって、専門医の天ならそういうだろうなと思っていた。だけど、天もまた学会を待っていたのだろうから。二度握りしめると、天の顔が歪む。
    「ひ、……ひゅーっ、、いって、」
    「……っ、」
    「だいじょうぶ、……なので」
     声を出すのも息をするのも辛かったけれど、このまま心配をかけさせたままでは翌朝になってやっぱり、なんて言われかねない。力の入らない手を無理矢理支えにして、引きずるように体を動かす。ベッドに移ると、もう動けなかった。
    「はぁ、……わかった。ボクだけ明日行く。そして、今日はもう一緒にこのまま寝る」
    「……?」
    「一晩で、その熱だけどうにかしよう。体力尽きちゃう」
    「す、みませ、……」
     いいよ、と頭を撫でられて、いつも仕方ないなと笑ってくれる兄の姿を思い出した。

    「入るよ」
    「かぜ、だったら……げほ、うつ、し、ます」
    「多分疲労による発熱と喘息発作でしょう、移っても今更だよ。疲労だって、頑張ってたからだもんね、頑張らせすぎちゃったかな。……うわ、布団あつ」
     狭いベッドに入り込んできた冷気に、こほん、と止まりかけていた咳がこぼれ落ちる。眉を寄せる天の顔は先程自分が行かないから、と言って以降変わらない。
    「明日、2時間毎に連絡できる?寝てたら起きた時でいいし、ひとことでいい。……心配なんだよ」
    「で、きます」
    「いいこ」
     優しい声が降り注いで、ことんと意識が落ちる。息苦しさは変わらなくて、それでも疲労で落ちた意識はそう簡単に回復しなかった。



    「ぜっぇ、ごほごほ、ひゅ、」
     2時間おきに連絡をすること、と朝方もう一度約束させられて、早めに寝たのに下がっていなかった熱に、天は病院に連れていくか最後まで悩んでいた。大丈夫です、と昨日よりも明瞭に話せるようになったのを示してなんとか納得してもらったけれど、坂を転がり落ちる石のように時間が経つにつれて呼吸状態は悪化していた。
     そろそろ連絡をしなければと思うけれど、一度手放してしまったスマートフォンを掴むのが難しくて、ぴこぴこと賑やかな通知を見せるスマートフォンをただ眺めている。手を伸ばして掴んだつもりでも、酸欠になってしまっているのか、感覚が掴めずにいる。
     意識もあまりしっかりとしていなくて、ダメかもしれない、なんて弱気が顔を出す。
     一度静かになって、しばらくするとコール音が鳴り出す。
     心配させているのがわかって申し訳なくなって、動かない手で画面を操作する。
     何か言わなければ、と思うのに、口から吐き出されるのは苦しげな呼吸音と意味をなさない単語だけだ。天が電話の向こうで狼狽しているのがわかって申し訳なかったけれど、今の自分に天を落ち着けるだけの技量はない。
     十数分ほど経っただろうか。薄く開いた目に映る通話画面は変わっておらず、学会は大丈夫なのかと心配になる。不意に扉が開く音がして、まさかと思う。電話口から聞こえる音はあまり変わっていなかったから、流石にそんなはずは、と思いながらも意識は扉の外へ向いていく。
     がちゃりと寝室の扉が開いて、光が差し込んでくる。眩しさに目を閉じると、聞き覚えのある声が耳元でする。
    「聞こえるか、和泉弟」
    「や、とめ、っぜ、ぇんせ、」
     背負っていたらしいバッグから見覚えのあるものを取り出すと、問答無用で口元を覆われる。横に置かれたまま放置されていた通話中のスマホに向かって返事をした楽は、大丈夫だと告げて、二、三やりとりを終えて通話を終えてしまう。
    「ひどいな……」
     場所を聞いていたのか、指には昨晩つけられたものと同じものをつけられて、体温計も無遠慮に突っ込まれる。抗うつもりも元気もないから、されるがままだ。
    「……ひゅ、」
    「…………、ダメだな、病院行くぞ。立てないよな? ちょっと我慢しろよ」
     少し気管支が広がったかどうか、くらいの気持ちで、少し楽になった気もしたけれど、楽の言葉を聞く限りあまり変化はなかったのかもしれない。
     楽に車に乗せられると、そのまま救命に通される。ひどい呼吸音は外に響きっぱなしで、それが少しだけ恥ずかしい。
     病院に着いた安心感か、それとも先ほどのネブライザーの効果なのか、少し体が楽になった気がする。
     零れ落ちそうだった意識が元に戻ると、苦痛の最中に戻されてしまう。
    「ひっ、ぐ、ぜほ」
    「ん、酸素上がってきたか」
    「ふ、ひゅ、げほげほ、っぜ」
     口元に吹き付けられる空気をただ取り込みながら、勝手に滲む視界の中楽を探す。
    「……ん?」
    「す、ひゅ、くじょ、せんせ、ごほ、は」
    「ああ、無理に話すな。冗談抜きでこれ以上酸素下がったら挿管するからな」
    「……ひゅ、」
     真剣な顔でそういう楽は、近くに寄せたカートを片付けない。上体を起こされているためによく見えるが、自身が救命にいた頃に何度か使ったセットが一揃いあって、肝が冷える。やると言ったら、やるのがこの先輩だ。
    「ふ、……ぜ」
    「熱も下がってねぇな」
    「、きのう、から、さがって、こほ、ませ」
    「ついでに血液検査入れとくか」
     流れるように決められて、すぐさまスピッツと翼状針が届けられる。普段は勉強のためにその手技を診るけれど、今は頭を持ち上げるのも辛くて難しい。
    「起きてるか」
    「は、ぃ、ごほ」
    「ならいい」
     閉じそうになる瞳をこじ開けて、酸素を取り込めるよう躍起になる。ここ数時間の記憶が苦しすぎて、息ができるだけで楽になった気分だ。
    「……しばらく休んでいいぞ。酸素安定し始めたしな」
    「ぅ、はい……」
     ようやく出た許しに、一気に体が弛緩する。もういいか、と諦めて、意識が落ちる。
     次に目が覚めた時に、天が待っているのは、まだ知らない。


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