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    ナチコ

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    ナチコ

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    全然終わってないし途中から始まってる9巻軸とらふゆ

    ##とらふゆ

     玄関のドアに鍵の差し込まれる音がした。
     リビングのソファに背中を預けてぼんやりしていた一虎はハッとして立ち上がり、廊下に出る。
     少し荒っぽくドアの閉まる音も聞こえた。一虎が玄関に辿り着いた時、スーツ姿の千冬が、よろめくように靴を脱ぎながら部屋に上がるところだった。
     千冬の動きは危なっかしい。前のめりに転びそうになった様子に気づいて、一虎は咄嗟にその体を腕で抱き止めた。
    「酒臭ぇ……」
     思わず一虎は眉根を寄せる。千冬の体からは、頭から浴びたんじゃないかと思えるほど強い酒の臭いがした。
    (酒だけじゃない)
     他にも、一虎のよく知っている臭いが混じっている。血と汗の臭い。
     それから――千冬と暮らすようになって覚えた、硝煙の臭い。
     またか、と声には出さずに一虎は思った。
     また千冬は、誰か人を殺したか、あるいは殺すように命じて、そばで見ていたのか。
    「気持ち悪ぃ……」
     千冬はすっかり酩酊している。こんな状態で、よくも一人で帰ってこられたものだ。自分の車は誰にも触らせないから、おそらくタクシーを乗り継いで帰ってきたのだろうが、マンションの入口から自力でエレベーターに乗ってこの部屋まで辿り着けただけでも奇蹟だと思える。それくらいの、酷い泥酔状態だった。
     とりえあえずソファまで運んで寝かさせて水を飲ませて、という一虎の算段は全部無駄になった。千冬が何度も嘔吐くような声を漏らし始めたので、慌ててトイレに連れて行く。千冬は床に座り込みながら便座の蓋を上げ、便器に縋るようにして中に胃の中のものを吐き出した。
     繰り返し嘔吐する千冬の様子はひどく苦しげだ。
     一虎は一緒になって座り込み、そっとその背中を掌で摩った。
     きっと空きっ腹に酒を入れたのだろう、酒臭い液体が尽きるとあとは吐き出すものもないらしく、千冬はひたすら辛そうな声だけを何度も漏らしてから、トイレの内壁にぐったりと体を預けた。
     少しは落ち着いたらしいタイミングを見計らって、一虎は一度千冬から離れてキッチンに向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して再び戻った。
     千冬は壁に凭れたまま目を閉じている。顔色は蒼白く、目の辺りが黒ずんでいる。精神的にも身体的にも疲弊しきっていることが見るからに伝わる風情。
    「口濯げるか?」
     一虎がペットボトルのキャップを外して手渡そうとすると、瞼を閉じたままの千冬が受け取ろうとするものの、仕種が覚束ない。空を掴んだり、ペットボトルの結露で指を滑らせたりで、危なっかしいことこの上ない。
     仕方なく、一虎は千冬の顎を摑んで上向かせ、慎重に唇の中に水を流し込もうと試みる。
     千冬は水を飲む気がないのかその気力がないのか、ほとんど唇の端から零れ落ちて顎や首筋かスーツを濡らしている。
    「あーあ……」
     だめだこりゃ、と一虎が呟いた時、千冬がふと濡れた唇の両端を持ち上げた。一虎は首を捻る。
    「何笑ってんだよ?」
    「……冷たくて気持ちいい……」
     譫言みたいな声音だった。
    「頭からかけてやろうか?」
     一虎は心からの親切で言ったつもりだったのに、千冬は可笑しげに喉を鳴らしてさらに笑った。
    「ひでぇな、一虎クン」
     千冬は笑っているのに表情は荒んでいる。それを見ていると、一虎はどうしたらいいのかわからない気分になった。
     悲しいわけでも腹が立つわけでもない、微妙な感覚。
     もどかしい、というのが一番近いのか。
     それ以上かける言葉もみつけられず、一虎はひとまずトイレットペーパーでびしょ濡れの千冬の口許を乱暴に拭ってやった。千冬は大人しくされるままになっている。それから千冬の体を引っ張り上げ、引き摺るようにリビングに運んだ。千冬は一虎に凭れてソファまで辿り着き、どさりと体を投げ出して座った。
     動く気力もないらしい千冬の体から、一虎は濡れた上着を剥ぎ取る。濃い色のスーツのあちこちに、より一層濃い色で染みができているのは水だけではなくやはり血液の飛沫だ。
     ついそれに目を留めてしまった一虎を見て、千冬がまた笑う。
    「……わかってんでしょ。今日も一人、やってきました。名前も知らねーし顔もろくに覚えてねえ……ってか、オレの前に出てきた時には、もう御面相なんてわからねえくらいになっててさ」
    「……」
     笑ったまま喋る千冬を、一虎は黙って見守った。
    「慣れちゃったのが、怖いっすよね。目の前で泣き喚いてビビってションベン漏らして『殺さないでくれ』って縋りつく相手を蹴り飛ばしてさ。地べたに這い蹲る頭をこう――一発」
     千冬は右手の人さし指と親指で拳銃の形を作り、まるで目の前にその相手がいるかのように、指先を跳ね上げた。ごく軽い仕種だった。
    「最初の頃は、何とかして助けられないか、せめて半殺しとか腕の一本くらいで逃がしてやれないか、必死に頭働かせてたけど……今はもう、ああ、嫌な仕事だな、さっさと終わらせたいなって、あっさり引き鉄引いて……我に返ってそういう自分を思い出す瞬間が、一番キツい」
     千冬の表情から笑みが消えた。握った拳を額に当てて俯いている。
    「東卍はデカくなりすぎた。おかげで自分の殺した相手がどこの誰で、何やって消されなくちゃいけなかったのかすら、オレにはわかんねえんだよ」
    「……」
    「あの頃の、場地さんがいた頃の東卍を取り戻したくて動いてるつもりなのに、それを疑られないためには自分が汚ねえことやらないといけない。オレ自身が東卍を貶め続けてるんだ。もう何のために何やってんだか……どうしたらいいんだよ……」
     ふと、千冬の声音が気弱なものになった。気弱な松野千冬なんて、一虎は出会った頃――生意気そうな顔で場地の隣に立っていた頃には想像できなかった。
    「オレ、どうしたらいいんですかね、一虎くん」
     千冬はもうボロボロだ。
     数ヵ月前、出所する自分を迎えに来た千冬を見た時は、こんなふうになっているなんて一虎は思いもしなかった。
     ただ強い目で、強い意志で、「あの頃の東卍を取り戻しましょう」と言った姿に、興奮と安堵の相反した気持ちを同時に抱いた。
     十年間外界と隔てられて過ごしてきた一虎にとって、『あの頃の東卍』を知っている松野千冬という存在だけが、自分を現実と繋いでくれる唯一のものに思えた。
    (でもこいつはもう、限界だ)
     一虎なりに今の東卍について調べて、千冬の言うとおり組織があまりに大きくなりすぎたことは痛感している。
     トップであるはずのマイキーがどこにいるかすらわからない。稀咲だの半間だの初代東卍と関わりもなかったような輩が我がもの顔で構成員に指図をして、邪魔者は容赦なく始末して、利益になりそうな相手は取り込んで、たとえ一瞬でも東卍に関わった人間はその蜘蛛の巣から逃れられない造りになり果ててしまった。
     千冬が少しでも稀咲たちに造反する気配を見せれば、即座に消されるだろう。
     だから言われるまま決して意に沿わない汚れ仕事に手を出し、そして平然と振る舞わなければならない。不満も不安も表に出すわけにはいかない。
     その反動で、家に帰ってきた千冬は虚勢も張れずにトイレで反吐をぶちまけて泣き言を言う始末だ。
    (……可哀想にな)
     自分が憐れむ筋合いではないことはわかっていても、一虎はそう思ってしまう。
     疲れ果てて眠れるようならまだ救いはあるのに、千冬がほとんど眠れていないことを一虎は知っている。家には着替えに帰っているようなものだ。それから、老いた愛猫に餌をあげるため。ペケJは最近ほとんど眠ってばかりで、千冬が帰ってきても顔も見せず、多分いつも通り脱衣所のカゴの中で大人しくしている。
    「――酔い覚ましにコーヒーでも飲むか」
     一虎は千冬にかけてやれる適切な言葉をみつけられず、ただそう訊ねた。千冬はソファに深く凭れ、天井を仰ぐように頭を上向けている。
    「いや……酒、持ってきてください」
    「オマエ……」
     まだ飲む気かと窘めようとして、一虎はそれをやめた。これ以上の深酒が体に悪いことなんてわかっていても、それ以外に千冬の心を慰めてやれるものが思いつかなかったのだ。
     だから一虎は棚にしまってあるウイスキーで水割りを作り、千冬に渡してやった。
    「一杯だけだぞ」
     ちびちびずっと飲むより、一気に落としてしまった方がいい。そう思って水割りは濃いめにしてある。千冬はグラスを受け取って、一気にそれを煽った。
     グラスを唇から離すと千冬は深すぎる溜息を吐き出し、項垂れた。
     一虎は千冬の隣に腰を下ろして、あっという間に空になったグラスを相手の手から取ろうとするが、千冬はなぜかぐずるようにグラスを手放したがらなかった。
     無理矢理取り上げようと引っ張ったら、千冬ごと一虎の方へずるずると倒れ込んできた。
    「……」
     一虎はどうにかグラスを相手の手から奪い取って、テーブルの上に置いた。
     それから、力をなくしたような千冬の体を両腕で抱き込む。
     そうする以外、今の自分にできることがないような気がしたのだ。
     ぎゅっと軽く力をこめた一虎の腕の中で、千冬がわずかに身動ぐ。自分に慰めるように抱きしめられるなんて嫌だっただろうかと、一虎は瞬時に悔やみかけたが。
    「……オレ、くせーでしょ。酒とかゲロとか血とか……」
     千冬はただ、それを気にしているらしかった。
     一虎は千冬を抱く腕にもう少し力をこめた。
    「くせーけど、いいよ」
    「……一虎クンて変わってますね……」
     千冬は大人しく一虎に凭れている。口調が少しあやふやだった。眠たそうな声音にも聞こえる。
     このまま寝てしまえばいいのにと思って、一虎は千冬の後ろ頭をそっと撫でた。ツーブロックの下の刈り上げの手触りが気持ちよくてそこばかり撫でていると、くすぐったいのか千冬が微かな笑い声を上げて小さく肩を揺らした。
     その笑い方がただ楽しそうなものだったので、一虎はわずかながらにほっとした。
    「こんなんなってんの……誰にも……アンタには特に、見られたくねーんだけどな……」
     くぐもった千冬の言葉を聞いて、一虎は返事に困って何も言えない。
     オレには特にって、どういう意味だろうか――と考えるが、わからない。場地を奪った人間なんかの前で弱っているところを見せたくない? それとも、かつての東卍を取り戻すための同士の前では強がっていたいから?
     どちらなのか知りたかったが、一虎は結局言葉を飲み込んだままでいる。
     うまい言葉が浮かばない。何を言おうとしても、「それをオレが言える立場なのか」とか、「どの面下げて?」とか、十五歳の頃の自分に嘲笑される。
    (千冬がこんなんなってんのも、東卍がクソみたいな組織になったのも、原因の一端はオレだ)
     でも、だからこそ、何かしてやりたい。
     おこがましいとわかっていても、千冬を助けてやりたいと思う。
     せめて今だけ、この部屋にいる時だけでも。
    (何も考えずに眠れるように)
     大丈夫かと訊ねれば大丈夫だと強がる人間の頭を、強制的に空っぽにさせる方法。
     それについて考えながら、一虎はぐったりと自分に凭れている千冬を見下ろした。
     一虎の視線に気づいたのか、千冬はすぐに顔を上げて、取り繕うような笑みを見せた。
    「ああ、いい加減重たいか。すみません、クッション代わりにして――」
    「いい、何の代わりでも」
    「え?」
     千冬の頬に片手を当てる。
     きょとんと、妙に無防備に自分を見上げる相手の方へと、一虎は顔を近づけた。
     一虎がその唇に唇で触れても、千冬は動かなかった。驚く様子も嫌がる様子もなく大人しくしている。
     じっと身動ぎもしない千冬から少しだけ唇を離し、一虎は間近で相手の顔を見た。
     千冬の瞼は吐いたからか酒のせいなのか腫れぼったく、微かに赤くなった目で見返された時、一虎はぐっと喉の奥だか胸の奥だかが締まるような、おかしな感覚を味わわされた。
     もう一度一虎が顔を近づけると、千冬は当たり前のように目を閉じる。
     何度も唇を合わせるうち、先に舌を使いだしたのは、どちらからだったか。
     気づけば互いに舌を絡め合ったり、舌と唇で相手の唇を食んだりと、深いキスに耽っていた。
    「……ん……」
     千冬が少し苦しげな、それ以上に心地よさそうな声を漏らす。
     一虎が薄目でその表情を見ると、千冬の方は瞼を閉じてキスに没頭している様子だった。
     唇をずらして頬や耳許に触れながら、一虎が少し力を籠めて両腕で背中を抱くと、千冬が素直に体重をすべて預けてくる。
     一虎は千冬を抱いたまま、ソファの上に仰向けに倒れ込んだ。千冬が何か言おうとするのを黙らせるように、その後ろ頭に掌を当てて、自分の肩口辺りに顔を押しつけられる。
     千冬は文句を言っているのか、苦しくて声を上げているのか、それとも笑っているのかよくわからない感じで、肩を揺らした。
    「寝ろ」
     一虎がそれだけ言って頭や背中を摩っているうち、千冬はすっかり大人しくなって、静かな寝息を立て始めた。
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