デリヘル呼んだら千冬が来た/千冬視点② しかしながら。
「ちっ、千冬、まって、またイく……」
「タロウです。いいですよ、気持ちよくなっちゃってください」
今までどんな客相手にもしたことがないくらい丁寧に、ねちっこく、焦らして、いいところを探して、触ってみたら、一虎は素直というかチョロいというかで、むしろ不安になってきた。
(もっとオラついて、荒っぽくしてくると思ってたけど……)
風俗を使っておきながらそこに従事する人間を下に見るクソ客はたまにいて、やたら偉そうに触れだの咥えろだの命令してきたり、こっちの体をモノみたいに扱おうとしてくる場合もある。そういう時はこっちこそ力尽くで扱いたりわざと歯を立てたり、尻に指なんて突っ込もうとしてくる相手にはさり気なく手首を捻りあげて、おかげで『タロウ』の評判は最悪なわけだ。
(かといって、M男って感じでもねえよな)
逆にそういう『タロウ』の塩対応に興奮して、痛くしてくれとか足とか尻で踏んでくれとか言葉で嬲ってくれとかいう系統の客もいる。繰り返し指名してくれるのはそういうのばっかりだ。服従するのを喜ぶタイプ。千冬にとってはそっちの方が扱いが楽だったが、相手がヒィヒィと無様な喘ぎ声を上げのたうちながら悦ぶ様子を見るほど気分は平坦になっていった。
一虎はそのどちらでもなかった。多分『これ、千冬じゃないか?』という疑いと混乱から脳と体がフリーズして千冬のされるままになり、だが与えられる快楽には逆らえず腰や腹を震わせて、だがあからさまに大声で喘ぐようなことはなく押し殺そうとしている様が、千冬の胸や腹の奥を、ザワザワさせた。
(何だこれ……楽しい)
こんなにも、相手を堕としてやろうと思いながら仕事に励んだことはなかった。いつも行為は苦痛というほどではないが退屈ではあり、肉欲丸出しの人間って滑稽だよなと妙に白けた気分でプレイに臨んでいたが――一虎が相手だと、楽しい。次はああしてやろう、こうしてやろうとやりたいコトが次から次へと湧いて出て、しかも期待していた通り、いやそれ以上の反応を一虎がしてくれるものだから、そのたび愉悦を感じてしまう。
一虎が欲望丸出しの目で自分を見るのもたまらなかった。いつもは他の男からそんな目で見られるたびにゾッとして、うんざりして、相手が何か薄気味の悪い生き物にしか感じられなくなってしまっていたのに。
一虎は自分からも触れたいという意図を持った手や眼差しをたびたび千冬に向けてくるが、そのたびやんわり躱すと、露骨にがっかりした顔になるのが可愛かった。一虎もとても愛想がいいというタイプではなく、子供の頃のギラつきを消した表情は気怠げでもあって、その上もともとの造りが無駄に端正だから、黙っていればやたらと格好いい。いつもホテルだの自宅だののドアを開けて姿を見せる相手に向き合い、精一杯の営業スマイルを浮かべつつ、千冬は一虎にこっそりみとれていた。
(この人ほんと、かっこいいよなあ)
あくまで見た目は、の話だが。
(顔がめちゃくちゃ好みなんだよ……)
自分にそういう『好み』があるなんてことを、千冬は初めて自覚した。女だろうと男だろうと目を惹かれることがほとんどないまま生きていた。女の子に言い寄られると気持ち悪くて、男はストーカー染みた輩以外ならギリ応えられたものの、恋人が出来てもいつかどこかで気が重く、タケミチや仲のいい友人連中と遊んでいる方がよっぽど楽しかった。アッくんや八戒、あとD&Dのふたりなんかは顔がいいので「すげぇイケメンだよなー」と思うことはあるが、パーちんの家のポチを見る時の気持ちとさほど変わらない。
しかし一虎の顔は、見れば見るほど何か得した気分になった。ついでに言えば体も好みだ。十年間、どんなふうに過ごしたのかは知らないが筋肉で引き締まっていて、手脚は長く、抽んでた長身というわけではないのに異様にバランスがいい。惚れ惚れする。そしてムカつく。みとれる自分にムカつく。
それを顔や態度に出さないようにするため、一虎の頬を優しく両手で包んで引き寄せて、愛情を込めたようなキスをしたりする。
(……今まで言い寄ってきた相手も、こういう感じだったら、好きになれたかもしれないのに)
千冬はそんなことを考えてしまっては、ハッとした。
いや冗談じゃない。コイツは、惚れる相手じゃない。
相手を色恋で落とそうとするには、自分もその気になる演技をすべきだと思うからそうしているだけなのに――まるで恋人同士のように触れ合ううちに、いつの間にかこっちの頭までバグりかけてしまっていた。
(誑かしてやるんだった)
弄んで金を巻き上げて、自分の厚意を無下にしたことに対して、復讐してやる。
それがまったくもって逆恨みではないことはわかっていた。でも一虎から指名が入ると嬉しくなって、「これは仕事なんだ」とか「仕返しだから」とかいちいち自分に言い訳しなければ、自分の方が足許を掬われそうな気がして、千冬は何だか不安になってきた。
◇◇◇
昼間、自室のテーブルで資格試験のテキストを開いていたら、ドラケンから電話がきた。
特に用はないけどと言いつつ、自分が店に紹介した責任を感じているのか、「そういや、仕事どうだ」と訊ねてくるので、本指名の客はほとんどついていないとか、つくとしてもMしかいないとか、自虐交じりに包み隠さず報告した。隠したところで、店長はドラケンの知り合いなのだ。店に聞けばどうせバレる。
「そんでも昼職よりは金になるから、助かりますよ。空いてる時に勉強もできるし」
『妙なヤツにつきまとわれたりはないんだな?』
「おかげさまで。ドラケン君が紹介してくれたとこ、客層良いし、やっぱちゃんと金絡むおかげで変な勘違いとかもされずにすむし」
勤め始めたのはヤケクソでしかなかったが、そういう読みが当たったのは助かった。ただのカフェだってバイト代分しかサービスするつもりはなかったのに、なぜかそれ以上のものを求められ、人目があるからと無下にもできないのは面倒でしかなかったのだ。
『そりゃよかったけど。そっちの客だって、料金以上のもんを求めるヤツがいないとも限らないってのは気に留めとけな』
「でもこういう商売なら、多少はそういう感じで客引っ張るのもアリ……じゃないすかね?」
ついついそんなことを訊ねてしまったのは、千冬に後ろ暗いところがあるせいだ。まさにその料金以上のものを一虎に求めさせようと目論んでいるつもりなのだから。
『――オマエ、色恋営業はやめとけよ?』
何か察したのか、ドラケンからズバッと言われて、千冬の胸に見事に刺さった。
『本指取れないのに焦って色恋営業かけて、結果的自分が落ちてボロボロになるって嬢、珍しくねえぞ』
「や、そんな器用なこと、やろうとしたってできませんよ、オレ」
千冬は笑い声を上げてみるが、電話の向こうからは微かに溜息をつく気配がする。
『器用じゃねえからマズいんだろ、まさかとは思うけど、客といい感じになったりしねえだろうな』
千冬はぎくりとなった。
「そんな、全然、そういうのは……」
『……』
しどろもどろになる千冬に、ドラケンは黙り込んだ。
(駄目だ、この人、こういうのの察しがよすぎる……)
それとも自分が露骨すぎるのだろうか。誤魔化しても無駄な気がしてきたので、千冬も小さく溜息をついた。
「実はちょっとだけ、魔が差したりはしなくもないですけど」
『客は止めとけ』
ドラケンの返事は、またしても端的だ。
『本番なしったって、肌合わせりゃ情が湧くだろ。でもその場限りのもんだ。客とつき合って幸せになったヤツ、一人も見たことがねぇ』
「……一人も、かあ」
まあ、そりゃそうだよなと、千冬も思う。思ってから、「いやオレは別に一虎君と本気でいい感じになってるわけじゃないし」と慌てて自分に弁解を試みる。
『マジになりそうなら、ほどほどのとこでやめとけよ』
「そういうんじゃないですよ、全然」
また笑ってあっさり返事をしようとしたのに、うろたえていたせいか、妙に依怙地に聞こえる声が出てしまった。どうもうまくない。
『鼻の骨折ったヤツからもらった慰謝料含めりゃ、目標金額には届いたんだろ』
ドラケンにも千冬の狼狽が伝わっているのだろう、「そういうんじゃない」という返答なんてまったく信用していないという調子で言われてしまった。
「でもそういう金は、場地さんの夢叶えるためのとこに含めたくないですし。あと無理言って紹介してもらったのに、ろくに売り上げ出せねえまま辞めるとか、そういうドラケン君に恥かかすような真似もしたくねえし」
『――あのな。千冬がこっちをどう思ってんのかは知んねえけどよ』
窘めるように、ドラケンの言葉が続く。
『オマエは場地が可愛がってた後輩で、マイキーにとっても同じだっただろうし、そうなりゃオレだって放っとけねえんだよ。てか、オレにとっても可愛い後輩なんだ。あんまややこしい相手に引っ掛かってくれるなよ?』
「……ハイ……」
真面目な声音で言われてやっと、千冬はドラケンが責任感だけではなく、純粋に自分を心配してくれているのだということに思い至った。自分が店で問題を起こしたり、働きぶりが芳しくなければ、ドラケンの顔に泥を塗ることになってしまうかもしれない――などと考えていたことを、いささか恥じる。
「……ズルズルやらずに、じきスパッと辞めますんで」
『そうしな。長々居座ることもねえだろってのは、元々店には言ってあるからさ』
親身なドラケンの言葉がやたら胸というか胃に沁みる。千冬は改めて礼を言ってから、ドラケンとの電話を切った。
「……これで相手がよりによって一虎君だとか、言えねえよなあ……」
ややこしい相手といえば、これほどややこしい相手もいないだろう。
千冬は携帯電話をその辺に放り投げてから、部屋の天井を仰いだ。
「ほんとオレ、何やってんだろ……」
目論見通り、一虎は完全に千冬の色恋営業にハマっている。なのにそれを素直に喜べないなんてバカバカしすぎだ。
(そりゃ、十年も塀の向こうにいたんだ、人肌恋しかっただろうよ。ちょっと優しくされたら、簡単に落ちるに決まってる)
別に相手が誰だって結果は同じだっただろうと千冬は思う。
オレじゃなくたって、と。
「あー……」
呻き声を上げながら、千冬は床の上にひっくり返った。
(マジでもう、やめよう)
ドラケンの言うとおり、金なら貯まった。これ以上バイトをする必要はない。あとは頑張って勉強して資格を取って、よさげな場所を探して開店の準備をして、夢に向かってまっしぐらだ。余計なことなんて考えてる場合じゃない。一虎のことも――「羽宮さん」のことも、忘れてしまえ。
(そもそも何でオレ、一虎君落とそうとかバカなこと考えたんだよ?)
どうかしていた。一虎には完全にしらを切り通すしかない。二度と客として会わないし、知人として顔を合わせたとしても絶対にその話題に触れさせない。全力で誤魔化してみせる。いける。多分やれる。だって一虎も、男のデリヘルを呼んでたなんて他の人たちに知られたくないだろう。
(痛てて……)
また胃の辺りに妙な痛みを感じ、寝返りを打ちながら腕で腹を押さえつつ、千冬は何が何でもしらばっくれようと決意を固めた。
(で、やり直そう)
出だしで転んだから引き摺っているのだ。再開からやり直しだ。まずはちゃんと、知人とか昔馴染みってだけじゃなくて、友人関係になろう。そう、友達だ。対等な関係だ。長年一虎の存在を生きる上での励みにしていたなんてことはキモいのでそれも死に物狂いで内緒にして、うまいこと、ごく自然な流れで、徐々に親しくなって。
(オレが先走ったのが悪かったんだ。何の説明もなしにいきなり一緒に働こうとか、普通わけわかんねえだろ)
千冬にとっての羽宮一虎ほど、一虎にとっての松野千冬は重くない。
そこを自覚するところから始めて、ペットショップ開店の目処が立ったところで、改めて誘ってみよう。
そう決意すると、千冬はどうにか転がっていた床から起き上がり、再びテキストと向き合った。
◇◇◇
なのにほんの数日後、一虎に『タロウ』であることがバレた。
今まで客と街中で顔を合わせたことなんて一度もなかったのに。よりによって同じ日に、同じ場所で、鉢合わせるとか、どんなタイミングだよと笑いたくなる。
「たしかにオレは、男性向けのデリでキャストやってます。一虎クンとこも何度か行きました」
店を介さずサービスしろとか脅してきたクソ客を脅し返して追い払った一部始終を一虎に見られてしまったのだ。これじゃ誤魔化すのも無理がある。どうしうようもなくて、千冬は一虎に向けて降参のポーズで手を挙げるしかなかった。
(もう、どうでもいい)
何かもう多分、そういう運命なんだろう。一虎と自分は徹底的に噛み合わない。最初から最後まで、きっと。
(ぜーんぶ、どうでもいいわ)
一虎はずっと、ぽかんとしている。まあ、無理もない。
「でもバレちゃって気まずいのでまあ、これでお終いにしましょう」
千冬がそう告げた時も、意味がわからないというふうに、目を瞬いていた。
「お終いって……」
「そりゃ、夜にキャストとしてアンタの家に行くのも。昼にこうやって話すのも」
「えっ!?」
何で一虎がそこまで驚くのかは、千冬には理解できない。だってどう考えたって気まず過ぎる。
(そもそもリピあったのがおかしいだろ?)
デリヘル呼んだら知り合いが来た、なんて事故は、そうあることではないにせよ、絶対に起きないとも言えない。だが二回目、三回目と続くのはおかしい。だから千冬はなかったことにするつもりだった。そうしなければ、友人関係が始められないから。
でも一虎の方に、そんな気はなかったようだ。終わりを告げて立ち去ろうとする千冬の腕を、慌てたように掴んできた。
「ど、どっちかだけでも、っていうのは」
挙句そんなことを訊ねてくる。
(そうか、なるほど)
自分はもうちょっとデリヘルのキャストとしての仕事ぶりに自信を持ってよかったのだろう。一虎は千冬の想像以上に『タロウ』にハマっているのだ。『千冬』との気まずさなんて、問題にもならない程度には。
(……それでも一応、デリヘル一択ではないのか)
そこがちょっとだけ救いだった。昼間はいいから夜だけでも客とキャストとして会ってくれと言われたら、千冬は情けなくて泣き崩れていたかもしれない。いや、自分がそんな殊勝なタイプではないのはわかっている。多分泣くよりもぶん殴っていたはずだ。
「――どっちかだとしたら、一虎君、どっちがいいです?」
即答は回避されたにせよ、一虎がどちらを選ぶのかは、わかっていたつもりなのに。
「え。……えー……、……」
悩んで言葉に詰まり、目を閉じる一虎を見て、千冬は落胆した。
(あ、オレ、まだ期待してたんだ。この期に及んで)
徐々に距離を詰めていこうとやり直しを決めた矢先、一虎と出会った偶然に、運命めいたものを感じた自分が滑稽だ。声をかけたりなんてしなければよかった。
(はい、お終い)
ようやく今、完全に見切りをつけることができた。よし、もう、お終い。きっぱり、はっきりと、終わりだ。
「じゃ、今後は町中で出会っても他人のフリで」
一虎に向けて笑顔を作れたことは、自分で褒めてやりたい。でも捨て台詞のようにそう言ってから、急に虚しくなった。
「――ま、元々他人か」
勘違いしていたのは自分だけだ。
「オマエが最初にオレを迎えに来たんだろ、千冬」
なのに一虎の言葉を聞いて、自分の独り善がりや勘違いを見透かされた気がして、体の底が冷える。
「そうですよ。それで、アンタが逃げたんですよ、一虎君」
だから言い返したのは最後の見栄、死に物狂いの取り繕いだった。
頼んでないとか、勝手なことをされて迷惑だったとか言われたら、自分はどんな顔で、どんなことを言い返せばいいのだろう。
身構えたけれど、でも一虎はもう何も言わず、黙り込んだ。
千冬はなぜか今日一番、ここで泣きたくなった。
「それじゃ、まあ、お元気で」
精一杯、平然としたふりでそう告げて、一虎に背を向ける。
(まだだ、まだ)
早足にならないよう、千冬は細心の注意を払ってその場から離れた。
一虎は追ってこない。別れてから十秒、一分、三分、そろそろいいか。
「……っ」
もう泣き顔を見られる心配もないくらい一虎から遠ざかっても、千冬は歯を喰い縛って涙を堪えた。こんなんで泣くとか、バカバカしい。男がそうそう泣くもんじゃない、みっともない。
堪えて堪えて、堪えきるつもりだったのに、なぜか自分の住むアパートの外階段を昇る途中で急に我慢が利かなくなった。ご近所さんに見られたら奇異に思われるに違いない、千冬は階段を駆け上がり、玄関ドアの鍵を開けて、部屋の中に入った。
「にゃぁ」
主人の足音を聞きつけた黒猫が、いつもどおりぬるりとどこからか現れて出迎えてくれる。
「……ペケぇ……」
靴を脱ぎもせず床に膝をつく千冬の体に、ペケJが体を擦りつけてくる。千冬はペケJを抱えて抱き締めた。嫌がりつつもしばらく大人しくしていた愛猫は、五秒くらいで我慢の限界が来たのか千冬の顔を両手で押し退け、ベッドの下に逃げ込んでしまう。
千冬はポケットから携帯電話を取り出して、デリヘルの店長に電話をかけた。急で悪いが今月一杯で辞めたい、と告げたら、露骨にほっとした声音で「いいよいいよ気にしないで!」と言われて話は終わった。今月一杯でと言わず、今予約が入っている分でと言えばよかった。
「――はいはい、お疲れお疲れ」
千冬はそのまま前向きに床へと倒れ込んだ。
これで完全に一虎との縁は切れた。もうドラケンやパーちんの店に気軽に行くのもやめよう。そうすれば、どうせ周りは気遣って、一虎がいるところに千冬を呼ばないだろうし、千冬がいるところに一虎を呼ばない。会おうとしない限り会いようもない。
(『タロウ』でもないオレに会いに来るワケねーしさ、一虎君が)
そう考えてから、千冬は一人で笑った。
(卑屈すぎてウケる)
こういう自分は嫌だ。みっともない。格好悪い。立て直そう。あとは一人で、場地と自分の夢を叶えるために邁進あるのみだ。
今度の今度こそ。