神様、もう一度だけ秋の空に、もうすぐ冬になる気配を感じた。
夕暮れが澄んで冷たい空気になって、染まる空がツンッと冴えた色を濃くする。
また巡ってきた千冬のいない季節を数えて、あれから何年経つだろうって、生きていたらどんな姿になっていただろうって、思い描いて……描けなくて、失敗して。そんな事をあと何度繰り返せば、体中が痺れるほど苦しくなる事が無くなるのだろう。
( 千冬 )
思い出せば寒い季節の名前をしたヤツだった。
千の冬なんて、冷たそうな名前なのにオレにとっては人肌ぐらいの小さな温もりをずっとずっと分け与えてくれた存在で、たぶん唯一あの頃のオレを照らしてくれた光だった。
『 場地さん、場地さん 』
オレの何を気に入ったのか、犬ころのように後ろを着いて回る奴だった。
面倒臭え、親切な……そして、誰より何より…大切な存在になっていった。
千冬もオレの事を同じように想ってくれていたんだと思う。
踏み絵なんてくだらない儀式でオレがズタズタに踏みにじった信頼を、それでも千冬はオレに向け続けてくれた。こんなどうしようもないオレの事なんて、見捨ててくれたら良かったのに。
あの血のハロウィンの抗争で、千冬はオレと一虎の間に飛び込んでオレをかばった。まるでオレが刺されるのを知ってたみたいなタイミングだった。
一虎の握っていたナイフは運悪く千冬の急所を……深く突き刺した。
崩れ落ちた千冬の黒いトップクが急激に色を変えていく。足元のブーツにまで血が流れ落ちて、倒れこんだ廃車の上はみるみる血で染められていった。
『 かずとらあああああっっ!!!! 』
目の前が真っ赤になって、オレは人生で初めて怒りに我を忘れた。
気が付いた時は一虎をぶちのめして、止めに入った芭流覇羅のメンバーをぶちのめし、マイキーの渾身の蹴りを受け止めていた。その衝撃でやっと我に返った。
『 場地!目ぇ覚ませ!! 』
『 場地!千冬がっ! 』
マイキーの声に重なったドラケンの怒声に振り返ると、三ツ谷に抱えられた千冬の顔は土色に変わっていた。
『 千冬!千冬!!! 』
三ツ谷に代わって抱き止めて、空ろな眼を覗き込む。
冷たくなり始めた体が腕の中で懸命に息を継いでいた。
『 ば…じさん… 』
『 しっかりしろ! 』
『 よかっ…た…オレ……今度は…まもれ…た… 』
『 もうしゃべんな!助ける!絶対死なせない!おい、千冬!!千冬っ!! 』
呼んでも返事は無かった。瞬きがゆっくりになり眼球がうろうろと動く。時折、意識を失いかけながら……それでも、千冬はオレを見て笑った。くしゃっと鼻の頭にシワを寄せて無邪気に。涙で千冬が見えなくなるくらい泣いたオレを見て。
『 …また、あえたら…はんぶんこ…し…、…さい 』
『 ちふゆ… 』
『 やく…そ…く 』
それだけ言い残して、がくりと脱力して重くなる細い体。揺さぶっても呼びかけても答えない。動かない瞼が硬い。完全に呼吸が止まって、腕の中にあった微かな命の兆候が消え去った。
『 千冬っ!!!! 』
刺した一虎と、千冬を抱き締めたオレがその場に残って一緒に逮捕された。
嫌だと喚いても引き剥がされて、ストレッチャーに乗せられて運ばれる千冬が、最後に見た姿だった。
失った命の重さを何かと比べることなんてできない。
幼さゆえの愚かさを許して欲しいなんて言えない。
ずっとお前と一緒に生きていく。
胸の真ん中にお前を抱いて。
警察から身柄を引き渡されるとお袋は度重なるオレの愚行に精神を病んだ。見かねた父親は実家のある田舎に引越しを決めた。
『お前も一緒に来い』
逆らう事は許されなかった。散々繰り返した親不孝を、もう一度繰り返す事は出来なかった。
団地を後にする時、千冬の耳で光っていたピアスを貰い受けて、自分の左耳に宿した。
そんな事で千冬を永遠に傍に感じられるんじゃないかなんて、思ってしまうほど、オレはぼろぼろだった。
生きていくのがしんどくて、でもお前が守ってくれたこの命を無駄にしちゃいけないって……。
無理やりでも前を向いて歩き続けた。
あれから15年。
オレは高校を出て親元を離れると千冬と暮らした町に帰って来た。
田舎暮らしは平和で、穏やかで、決して悪いものじゃなかったけど、どこか胸にぽっかり空いた穴を埋めきれない自分がいた。
夢だったペットショップは諦めた。今は仕事とは別に、週末は動物保護のボランティアを手伝っている。
仕事はアルバイトで入った現場で出会った足場屋の親方に拾われて、そのまま足場屋を続けていた。一人暮らしも長い。いっぱしの人間に少しは成れたような気がしている。
東卍のメンバーとは勿論再会して、あの頃と同じ付き合いを続けていた。こっちに戻って良かった事は皆が千冬の事を普通に話題に上らせている事だった。忘れないでいてくれている人間がオレの他にもいるってだけで、それだけで……千冬が生きた証を貰えたようで嬉しかった。
現場が早くに引けたその日、オレは夕焼け空を見上げながら晩飯を買い込んだスーパーの袋を提げて堤防道路を歩いていた。飼い主と嬉しそうに散歩する犬たちを横目で眺めながら、すっかり冷たくなってきた風を頬で感じる。この季節が来たんだと、懐かしい面影を思い出そうとしていると不穏な怒鳴り声が耳に入った。
どこだと見回すと、橋の下の河川敷に学生服の集団がいた。
異様だったのは、一人だけが違う色のブレザーを着ていて、そいつを他の全員が囲んでいる事だった。
最近めっきり減ったケンカの風景をどこか懐かしいものを見る気分で足を止めて眺める。
( 一対……何人だ?何人相手してんだ? )
袋叩きにあってると言っても過言じゃなかった。
それでも、そいつからは戦う意思が感じられた。
こんな時代にとんがったヤツだな。
ガキのケンカに手出しは無用だ。ただ万が一にでも命の取り合いにまで及ぶようなら話は違う。
目を凝らしてみれば、こちらに背を向けている色の違うブレザーの奴は派手な金髪姿だった。
そいつが怒声と一緒に殴られ、蹴りを返し、違う方向からまた別の奴に蹴られてる。
脳裏を過ぎったのは覚えのあるシーン。
ドキンと心臓が跳ねる。
まるで千冬と始めて出逢ったあの日みたいだと、そう遠い記憶を重ねてしまったからだ。
繰り返される執拗な蹴りとパンチに耐え切れず、土埃を上げて倒れた金髪はすぐに起き上がって別の奴の懐に飛び込んでいった。それでも数に勝る集団に適うはずは無い。
たちまち掴まって押さえつけられて腹を殴られていた。
「っち!」
卑怯な奴らは許せない。舌打ちして頃合だと見切りをつけた。もうこれ以上は駄目だ。加減を知らない馬鹿はケンカと殺人の区別が無い。
オレは堤防の道路を蹴って、土手の草の上を駆け下りた。
「一人相手に束になんねーとケンカもできねーなんて、みっともねーな!!」
「んだと、コラァ!!!」
押さえつけられて殴られながらも精一杯の威嚇を回りに撒き散らしていた金髪にもう一度拳を叩き込もうとしていた男の襟首を掴んで後ろに放り投げた。不意をつかれた所為か、それとも元々なってねー体なのか、男はあっさり地面に転がった。
「なっ!?」
「なんだてめぇ!」
仲間が倒されたのを見てイキッテマスと体中に書いてあるような奴らがオレを一斉に見る。
それを無視して、金髪を押さえてた奴を上段蹴りで沈めて、もう一人が殴りかかってきたとこを腹に拳を軽く入れた。
金髪はオレが背中合わせになると何が起こったわからないと気の抜けた声を出してた。
「……へ…?」
「怪我ねぇか?」
その背中越しに問い掛ければ、忌々しそうにぼそりと返される。
「ねぇよ」
ウソだとすぐばれる強がりを言った金髪が、やっぱり遠い日の相棒に重なって少し笑った。
「ガキ一人に、大勢でなんて卑怯すぎるんじゃねーか?」
取り囲む人数は多くは無いが、少なくも無い。
随分忘れていたケンカの高揚感が蘇ってくる。
「通りすがりだけど、加勢すんぜ」
「おい、やめとけ。ボコられて終わりだぞ」
「ばーか、誰に口聞いてんだよ」
「は?知らねーし」
「いいから、いくぞ!」
声を掛けて背中同士をぶつけ合って前に飛び出した。
まだ骨ばった、子供じみた背中。
あの頃に帰ったみたいに、思う存分暴れた。
残りの人数が少なくなると、集団は脆いものだ。
次々に、オレが地面にのした仲間を放り出してばらばらと逃げていく奴らを捕まえて殴るのも面倒でそのままにするとあっという間に勝負はついた。
「アンタ、つえーな。なんか格闘技やってた?」
声変わりをしたばかりみたいな金髪の声に振り返る。
そう言えばまともに顔を見ていなかった。
どんなツラした奴なんだ……。
夕暮れの橋の下は暗かった。
ただ、そいつの背中に真っ赤な空があって、こちらを探るように大きな目だけが野良猫みたいに白く光ってた。
「 ちふゆ… 」
息が。
止まるかと思った。
遠い、遠い記憶がざわめいて、一気に逆流して、オレは思わずその名前を小さく口にした。
「は?」
怪訝そうに顔を顰めて幼さの残るうなじをこちらに向けてると、金髪は草むらに落ちたカバンを拾い上げた。
記憶の中よりずっと小さくて細い背中だった。
さっき見せた生意気そうにツンと上を向いた鼻と猫みたいにな目。金髪の髪は精一杯の虚勢を表すようにしっかりとリーゼントにセットされていた。
出逢った頃の千冬と重なる。
似てる、信じられないくらい似ている。
いや、そのままの姿だった。
「じゃあな、オッサン。ありがとな」
拾い上げたカバンを小脇に抱えた金髪はそれだけ言うとさっさと歩き出そうとする。
その姿があんまり衝撃的だったから、反応が遅れた。我に返ったオレは咄嗟に言い返す。
「おまっ、オッサンって、オレはまだ二十代だぞ!」
「二十代なんてオッサンじゃん」
平然と言われた言葉に胸をごっそり抉られた。千冬にそんな事いわれるなんて。いや、千冬は千冬でも千冬じゃないっつーか。仮にもピンチを助けてやったのに。
髪をかきあげて溜息を付く。調子が狂う。
「なあ……お前」
「なに?」
「名前は?」
たぶん中学生の男に名前を聞くなんて、新手の変態だと思われただろうか。ひやひやしながら返事を待つとぼそりと金髪は口を開いた。
「……ちふゆ」
懐かしい名前をその口から聞いた途端に、オレは全てを理解した。
本当だ。バカなオレでも解った。すとんと、その意味が胎に落ちたんだ。
ああ、なんだ。
そう言う事か。
「……」
「おっさんは?」
「場地、圭介だ…」
喜びと苦しさと、苦々しくて甘い、複雑な感情にひくつきそうな喉を懸命に押さえ込んで。どうにか告げた名前。
それを聞くと、千冬は小さく首を傾けて笑って見せた。
「またな……、場地さん」
顔をくしゃっと歪める、生意気そうな笑い方がそっくりだった。
間違うはずが無い。
オレが、千冬を見間違えるはずなんてない。
ああ、千冬だ。
こいつは千冬だ。
千冬が生まれ変わってそこに存在している。
同じ生き方をなぞって、また目の前に現れてくれた。
そう直感で解った。
誰にも理解してもらおうなんて思わない。
例えばそれは、この目の前の『ちふゆ』にマイキーが出逢っても決して解らないだろう。
それは切り分けた片割れを見つけるようなものだったから。
背中を向けて歩き出す千冬を見送る。
夕焼けが色濃く世界を染めて、オレはただ立ち尽くすしかなかった。
( だって…オレはお前にもう一度……近付く事は許されない )
自分をかばって死んでいった千冬に、もう一回なんて許されない。
一目逢えただけで奇跡だった。
生まれ変わって……あの魂が、またこの世に存在してくれただけで、充分だ。
「幸せになれよ…今度は、オレのいない世界で…」
願いが叶うなら。
存在しない何かに祈ってもいい。
彼を幸せにして下さい。
オレなんかの手が届かない場所で。
この世の誰より、彼を幸せにしてください。