すこしまえ 下ろしたての服に着替えて、二人、街を行く。
着慣れない服はどこかむずがゆい。けれど、敬愛する入間の服を選ばせていただけることも、己の服を選んでいただくことも、アスモデウスにとってはたまらなく光栄で──胸の踊ることだった。
週末のマジカルストリートはどこもかしこも賑やかで、ショーウィンドウも道行く悪魔も、鮮やかに入間の背景を飾っている。
〝二人きり〟の緊張は、あっという間にお出かけの楽しさに紛れてどこかへいってしまった。魔んじゅうに、ソフトクリーム。街角のあちらこちらで手招きをする誘惑に、ふらふらと吸い寄せられるのだって入間と二人なら楽しい。冷たいアイスが溶けて、コーンのおしりをふやかしてしまう前に、アスモデウスは最後の一口を唇に押し込んだ。
「あ、あれなんだろう?」
入間が指で示す先には、何やら悪魔だかりができている。楽しいことが待っているに違いない、と二人で店先を覗き込めば、そこには。
一抱えもある巨大パンケーキと格闘する大柄な悪魔がいた。彼は鬼気迫る表情で魔狐色に焼けたパンケーキに噛みついては飲み込んでいる。けれどパンケーキは無くなるどころか、なぜだかますます大きくなっていくように見えた。──後ろの看板には、デビデビ⭐︎大食いチャレンジとド派手な蛍光色で書いてある。
「どうやら、倍増の魔術がかかっているようですね」
挑戦者だって、それなりの速度で食べているはずなのだが、生地の増えるスピードがいささか早すぎる。大きな身体の彼は、とうとうパンケーキに押し潰されてしまった。
「わぁすごい、美味しそう!」
見上げるような体格の悪魔が下敷きになるのを目の当たりにしたばかりなのに、入間は〝食べても食べても減らないおやつ〟に青い瞳をきらきらと輝かせている。アスモデウスは流石ですと笑い、大食いチャレンジの待機列に向かうことにした。
入間は通りから見える挑戦者席に座り、傍に控えたアスモデウスが概要を読み上げる。
「熱を加えると六十六倍に膨らむムクムク草を練り込んだ特製パンケーキに、時間経過で体積を増す倍増の魔術をかけるそうです。最初のサイズは皆同じだそうですが、自分の身長を超えた時点で失格なので、体格の大きいものが有利なルールになっていますね」
「うん、美味しそうだね!」
「はい。ソースやクリームはかけ放題で、パンケーキを全て食べ切れば挑戦成功です」
店中に漂う卵とバニラの甘い香りを嗅ぎながら、卓上に並んだ色とりどりのソースを眺める入間の触覚がふよふよとご機嫌に跳ねている。
今回の挑戦者は小さい上にどうにも緊張感がない、と店員だけでなく、観客にも若干小馬鹿にしたような空気が漂い始めていた。けれど、彼らは悪魔学校食堂大食いチャレンジ六連覇の実力をまだ知らないのだ。
「魔術がかかると、どんどん膨らみますので、スタッフとしては開始直後の短期決戦がおすすめです」
店員の声掛けと同時に、テーブルの上へ、座布団ほどもある魔狐色のパンケーキがドンと供された。甘く香ばしい香りが、ふわりと入間の鼻をくすぐる。
「ご準備はよろしいですか、ではスタートです!」
「はい! いただきます!」
焼きたての、ふっくらもちもちの巨大パンケーキに入間がかぶりつく。しっかりと小麦の味がする、噛めば噛むほど甘いもっちりとした生地だった。
「美味しい!」
丸い目をきらきらと輝かせて、まろい頬を魔リスのように膨らませて。入間はもぐもぐと幸せそうに咀嚼を続ける。ああ、もちもちがもちもちを食べている!
「感想を述べる余裕まで……流石イルマ様です!」
アスモデウスが、入間を褒め称えながらも自然な動作でス魔ホを取り出し、主人の勇姿を撮影しようとした瞬間。入間の、アクドル顔負けの完璧なウインクがばちこんっとアスモデウスを射抜いた。シャッター音が聞こえるまで口を動かすのを止めたから、パンケーキは急激に膨らむけれど、それでも入間の反応の方が早かった。パッとソースの容器を手に取って、生クリームやカスタードもたっぷり乗せて──。
我に返ったアスモデウスが、入間の上半身ほどに膨れ上がったパンケーキに慌てるのとほぼ同時に、もぐもぐ、ごっくん。入間はペロリと、全てを胃袋に収めたのだった。
本日一人目の成功者に店内は沸きに沸いたが、ご馳走様を告げた後、入間とアスモデウスは大食い会場をそっと抜け出した。陽が高くなったからか、マジカルストリートはますます賑わいを見せている。
「まだ何か召しあがりますか?」
「ううん、今度は一緒に遊べるのがいいな。色々調べてきたんだよ」
入間はふにゃりと笑って、行こう! とアスモデウスに手を差し伸べた。炎の悪魔は、その長いまつ毛をぱちくりと羽ばたかせた後、紅の爪先でおそるおそるその手を取り、花の綻ぶように笑う。
「……はい」
「え、えっとね、魔メの木迷路っていうのがあって」
アスモデウスの手は、わずかにひんやりとして、すべすべしていた。入間は、なぜだか急に体温の上がるような心地がして、手に汗をかきやしないかと、これまで考えたこともないことが気になってしまう。
「……アズくん、手を繋ぐの嫌じゃない?」
「とんでもない! この混雑ですし、はぐれないように気を遣ってくださったのでしょう?」
「そ、そう。はぐれたらいけないもんね!」
きゅっとアスモデウスの手に力がこもるのに勇気づけられながらも、入間は、己に迷子の前科があることを思い出して、密かに肩を落とした。
(理由がなくても、こうして手を繋げたらなあ)
あれ? なんでアズくんと手を繋ぎたいんだろう。今は楽しくって、緊張で潰れそうなわけじゃないのに。
クワンクワンで花が咲くように、ぽんと生まれた欲に入間は首を傾げる。けれど時を同じくして、巨大魔メの木迷路の入り口に辿り着いたので、ささやかで確かな〝欲望〟はひととき忘れられることになった。
通路であり、壁であり、迷路そのものでもある魔メの木は今も成長を続けていて、悪魔がいようがいまいが好きなように蔓を伸ばす。そのため、中には雲に届くような蔓だってある。羽を使わずに空へ登れる貴重な経験にはしゃいだ後、二人は、魔薬の調合体験へ向かった。店員監修の元、様々な薬を作れるのだという。
魔女のような三角帽子を被り、大釜に怪しげな素材を入れかき混ぜていくのだが──完成まで何が出来るかわからないミステリーコースを選んだら、なんと出来上がったのは〝その日一日転ばなくなる薬〟だった。
解説を聞いた途端、二人でパッと顔を見合わせて笑うものだから、店員の方が驚いていたくらいだ。やはり、魔薬にしてもしょぼい効果なんだろう。
店を出ると、入間はお土産になったガラスの小瓶を陽に透かした。透明なガラスの内側で、淡い桃色の魔薬が揺れている。
「まさか、転ばなくなる薬ができるなんて」
「思いもしませんでしたね」
くすくすと、また二人思い出して笑う。あの時は最悪なことばかり起こると思っていたけれど。入間は晴々とした気持ちで言葉を続けた。
「あのときはごめんね」
「私の方こそ、身の程知らずでした」
左右に首を振り、穏やかな眼差しで告げるアスモデウスの手に、入間の丸い指が触れる。悪魔の紅い爪先が入間の手をふんわりと包み込んだ。
「……この薬、飲む?」
「いえ、必要ありませんので」
「僕も、あの日には必要だったけど。これって取っておけるのかな?」
「市販薬ならともかく、手製となると難しいでしょう。……アホクララに飲ませてやりたいところですが、この量では足りないでしょうね」
「あは、そうだねえ」
入間の脳裏に、転ばないことを面白がってあちこち突撃する、元気いっぱいなクララの姿が浮かぶ。効果が切れた後には、かえって怪我をしちゃうかもしれない。遊びの天才に怪我は似合わないし、いつだって笑顔でいてほしいと入間は思う。
「……また調合しに来ようか」
「はい! 次回は、三人で」
今は二人、頷きあってきゅっと手を握る。オトモダチがシンユーになる、すこしまえのことだった。