【イルアズワンドロ】誘惑 うん、と唸る声が聞こえて、入間は顔を上げた。
その視線の先では、教室の隣の席に座ったアリスが、手元の書類を眺めながらなんだか難しい顔をしている。
その手元にあるのは、今入間が見ていたのと同じ書類――つまり、今学期の選択授業の申請書。
出会ったばかりの頃のアリスであれば、「入間様はどの授業を取りますか」と真っ先に聞いてきて、迷わず同じ授業を取ったであろうし、少し前までのアリスならば、例え入間とは離ればなれになってでも、自分の力を存分に伸ばすために必要な授業を潔く選択していただろう。
それが珍しく、今日のアリスは難しい顔で書類を眺めたまま、じっと固まっている。
「アズくん、どうしたの? 選択授業決まらない?」
「――あ……はい、まあ……」
彼にしては歯切れの悪い言い方で答えると、アリスは手元の書類を机の上に伏せた。
困った様な、恥ずかしそうな、どうしたら良いか分からないような――けれど、入間に気遣って貰えたことが嬉しくもあるような、そんな表情で曖昧に笑う。
「珍しいね、アズくんならいつもすぐに決めちゃうのに」
「ええ……今回はその、どちらを取ったものか、という授業がありまして――」
そんなものあっただろうか、と入間は手元の書類に目を落とす。
今期彼らが選択可能なのは、モモノキ先生の応用魔術理論、ダリ先生の魔王史購読、ライム先生の誘惑学上級(女子限定)、イチョウ先生の戦術学入門、それからマルバス先生の拷問学実践の五種類。
「んー、確かに、アズくんならこれだろうなー、って感じの授業はないかなあ。悩んでるの、応用魔術理論か、魔王史購読辺り? 僕も、この中ならどれでもいいかなーって思ってるから、もしよかったら同じのを……」
「あ、いえ……その――誘惑学の、履修許可を貰ってありまして」
「ンッ?!」
囁くようなアリスの言葉に、入間は持っていた書類を取り落としかけ、慌てて捕まえて、その記述を確認する。誘惑学上級、の横に燦然と輝く「女子限定」の文字は先ほどと変わらずそこにあった。
「ンッ?! エッ?!」
書類とアリスの顔との間で、視線を三往復くらいさせてから、改めて、「えっ」と問いかける。するとアリスもまた、なんと説明したものか、と言いたげに言い淀み、指先で頬を掻く。
ここでは言い辛いことかと判断して、その場はそのまま会話を切り上げ、昼休みに裏庭で二人になる時間を作った。
「えっと、それで、どこから聞いたらいいのかな――」
「そうですね――まず、私の家系能力については、以前お話した通りなのですが……」
アリスの言葉に、入間は頷く。
様々な困難に直面する中、自らが持てる武器は全て使わなければならぬ、と考えを新たにしたアリスが、その家系能力のことを入間に打ち明けたのは、暫く前のことだった。――彼の母親を見ていれば薄々想像は付いていたことではあったが――「魅了」と呼ばれる類いの能力について、アリスはまだ複雑な感情を残しているようだったけれど、それでも、己の武器の一つとして修練すべきである、と腹を括ったのだと。
「魅了を得意とする男悪魔というのは、それなりに珍しい部類に入るのはご存じかと思います。アスモデウスの家系でなければ、後はインキュバスの血族と、その傍系くらいなものですから。ですので、男悪魔が魅了だの誘惑だのを学ぼうと思っても、専門の授業がないのです。教えられる者も少なければ受ける者も少ないでしょうから、経営上の判断としては妥当でしょうが、必要な者が学べぬというのも困る、ということで、家系能力や得意魔術が魅了の類いである者に限り、男子であっても例外的に履修許可が下りるのだそうで……私も最近聞いたのですが」
「はあ……なるほどねぇ……それで、誘惑学を……」
なんとなく据わりの悪いような、落ち着かないような気持ちで入間が問うと、アリスもまた据わりの悪そうな面持ちではい、と頷く。
「……使える武器は、多いに越したことはありませんし……」
「アズくんが、必要だと思うなら、取れば良いと思うけど……なんか、嫌そうじゃない?」
「……わ……私だって、所謂その、年頃の男悪魔なのですよ……! 無論、貴族のたしなみとして、女性に礼節をもって接する習慣は身につけておりますし、どこぞのカムイのように下心丸出しで授業に臨むような愚は犯しませんけれども、それでも、多数の女悪魔に男が一人混じって、誘惑学を履修するという状況を想像して下さい――!」
「……嫌、だね」
「でしょう?! せめて個人授業であれば――」
「やっ、そ、それはダメじゃない?! だって、ゆ、誘惑でしょ?! いや授業だし?! 変なことがあるとかはないと思うけど! でも! 無いとは言い切れないというか!! なんか、ダメ、それはダメ!」
理論立てた反論が思いつくより早く、入間は思いつくまま、断片的な言葉でアリスに訴える。するとアリスも慌てた様に頬を紅潮させて、ばたばたと身体の前で手を振ってみせる。
「い、いえっ、ありませんから、個人授業は――!」
「あっ、そ、そっか、でも、あったとしても、それはダメだと、思う……!」
「わ、分かりました、もし可能であっても、個人授業をお願いするのは、止めておきます」
「そうしてください……」
二人の間に奇妙な間が落ちる。
互いに、照れたような、恥ずかしがるような様子で言葉を無くし、芝生に座り込んでいる互いの膝の先に視線を向けたままでしばらくの間言葉を探す。
「……あの」
「な、何、アズくん」
「……いえ……あの……」
アリスは歯切れの悪い様子で、胸元で両手を結んだり開いたりしていたが、そのうちちらりと視線を上げて入間を見た。
「――入間様の矛たる為、一層の努力を惜しまぬ所存では……いるのですが……今回ばかりはその……最善の選択を諦め、次善の策に甘んじることをお許し頂けますか――」
「いやっ、それは僕が許すとか許さないじゃなくて、アズくんが、必要だと思うことをすれば良いし、嫌なことはしなくていいと思うよ?!」
「……ではその。お言葉に甘えまして……入間様はどの授業を選択されるのでしょうか」
アリスはごそごそと懐から選択授業の申請用紙を取り出して、はにかむようにして笑った。