ほぞを噛む ────ヒーローが、いつでもピンチに駆け付けるとは限らない。
「…………。あー」
遅かったか。
崩れかけたビルの奥、蹴破った扉の向こうにはがたがたと震えながらも必死で構える術師がいた。見覚えはない。準一級だと聞いている。足元には、数度見かけた覚えのある一級呪術師。血塗れでうつ伏せて、ぴくりとも動かない。
術式を構えたまま放つことも出来ないでいる男の肩を、ぽん、と軽く叩いた。それでなくとも血と泥で汚れた汚い顔がぐしゃりと歪んで、塩辛い水でどろどろになる。
崩れ落ち、丸く小さく床に伏せた体から、獣の咆哮が聞こえた。絶望と怨嗟で濁る呪詛の行く当ては、最早何処にもない。仇ならばこの手が討ち果たした。喪った命もまた、返ることはない。
「……伊知地? 僕。至急応援呼んで。……ああ、呪霊は祓ったよ。でも、怪我人いるから。あと、硝子にも連絡入れといて」
一人送る、そう言うと、スマホのスピーカーから小さく息を呑む音がして、一拍遅れで頷く声が聞こえた。
とん、と画面をタップして通話を終える。
古びた廃墟から外へ出ると、空を見上げた。木立の隙間、よく晴れた青に薄く雲が広がっている。気持ちの良い天気だ。凄惨な死の現場には似つかわしくない。
「はぁ………………京都、いこ」
ぷつりと、口の中で、皮の弾けるような音を聞いた。
直後広がる腥い塩気に眉を顰めて、ふと、彼女の顰め面を思い出した。
今日の授業は全て終わり、生徒達は寮へと戻っていった。
それでなくとも敷地の割に人の数は少ない。静まり返った校舎の中、職員室の自席で溜め込んでいた書類仕事を捌いていると、ふと、背後でがらがらと扉の開く音が聞こえた。
こんな時間に、誰だろうか。
振り返って確認をするその前に、がばり、と背中から伸びた長い腕に体を拘束される。
「う、た、ひ、め♡」
「な……五条!?」
「なに、まーだ仕事してんの? 相変わらず要領悪いね〜」
余計なお世話である。
会って早々の憎まれ口に思わず舌打ちをくれつつも、肩から首に絡む男の腕を軽く叩いた。
きつく抱き竦められて、振り返ることも出来ない。
「うるっさいわね。わかってんなら邪魔すんなっての。離して」
「やだ」
「やだ、じゃねえっつーの。仕事中なんだってば」
「じゃあ、ちゅーして」
「はあ!?」
「歌姫が、僕に、キスして。そしたら離す」
普段であれば、ふざけるなの一喝で拳を振り上げる場面である。
突拍子もない身勝手な言動なんていつものこと、連絡も寄越さず訪ねてきたり嫌がっているのに所構わず甘えたことを言うのも珍しくはない。何でどうしてと問い詰めて、まともな返事が貰えたことだって一度もない。それがまた腹立たしくて、毎度大声でがなるのだ。
けれど、今はどうも、いつもと同じではないようだから。
私はペンを置いた。
肩を抱く手に自分の手を重ねて、離して、とゆっくり繰り返す。
「やだ」
「馬鹿。この格好じゃ、どうにもなんないでしょ」
「……」
「離して、屈んで。こっち向いて」
ほら早く、と急かすと、五条はゆるゆると腕を解いた。
オフィスチェアに腰掛けた私の前に黙って膝を突いた五条は、何となく、人懐っこい大型の犬のようだった。ご褒美目当てに、大人しく待てをしている。
私は奴の目隠しを下にずらした。
その拍子にぱらぱらと、上に持ち上げられて後ろに流れていた髪が落ちて垂れる。さらりとした白い髪の隙間から、伏せた睫毛がゆっくりと持ち上がり、煌めく青が私を捉える。
じ、と強く見据えられ、私もまた深く覗き込んだ。
顎の輪郭に手を添えて緩く持ち上げると、五条は素直に上を向いた。いつもこのくらい、聞き分けがいいといいのだけれど。
両手で頬を包み、鼻先を寄せる。
閉じたままの唇を、薄く、形の良いそれにやんわりと押しつける。
触れて、合わせて、すぐに離れた。
「……目くらい、閉じなさいよ」
「やだね。勿体ない」
「何がよ。…………で、満足?」
「はっ。なわけないじゃん、こんな、子供騙し」
「……」
「もっと、烈しいのがいい」
ちょうだい、と五条が強請る。
射掛けるような眼差しの強さに反して、決して、自分から私に触れようとはしない。あくまで私からがいいらしい。妙なところで徹底している。
私は眉を顰めた。
「痛むんじゃない?」
「何が」
「……あんたがいいなら、別に、いいけど」
口開けて、と指先で下唇を突く。
五条は目を細めて、薄く口を開いた。が、やはり、目を閉じてはくれないらしい。眇めた瞳の奥の熱量に内心たじろぐのを悟られまいと、余裕ぶって、再び男の唇に唇を寄せる。
かさついた柔らかい口唇を食むようにしてから、ぬる、と舌先を伸ばした。並びの良い歯列を恐る恐る探って、さらにその内側に潜り、上顎を擽る。
頬の内側をそろりと舐めた途端、ひくり、と五条が肩を揺らした。やはりな、と思う。
気づかなかったふりで、私は、分厚い舌を絡め取った。
久し振りの口付けは、鉄錆びた潮の味がする。
けれどもそれも、夢中で貪り合う内に、お互いの甘さに掻き消されて消える。私の稚拙な舌使いに、時折五条がぴくりと震える。ああ、もう、だから言ったのに。堪えるような仕草が気掛かりでつい動きを止めると、集中しろとばかりに甘噛みされた。そして、じゅる、と吸い付かれる。これではどちらが主導かわかったものではない。
「っは……あ、ふ」
「…………歌姫」
「ばか、これで、も、いいでしょ……。ん」
「っ」
「おかえり、五条。……あんたが、何ともなくて、良かった」
今度は無傷で帰って来いよ、そう言うと、胸に深く抱え込んだ五条が小さく肩を跳ねさせて、その後じわりと重く息を吐いた。
うん、と頷く声は掠れていた。
おずおずと腰に巻きつく腕の力に私もまた息を零しつつ、白い旋毛に頬擦りをする。
「今日、すぐ帰るの? うちで寝てく?」
「……どっちかっていうと、朝まで寝かせたくないんだけど……」
「それは嫌。明日も仕事だもの」
休みの日に出直して来いと口ではそう言ったものの、多分、私はこいつの我儘を今夜も聞いてしまうのだろうなと思う。
狡い男だ。
普段はどれだけ拒んでも無理矢理自分の思い通りに事を進めてしまうくせに、こういう、肝心な時に限って私に逃げ道を用意する。本当に必要な時くらい、素直にそう言ってくれたらいいのに。野生の獣じゃあるまいし、傷付いている時は黙っていないでちゃんと教えて欲しい。気付かず突き放すような真似はしたくない。
まあ、それでも、そんな時には必ず私のところに戻ってくるのだから、何処かに雲隠れされるよりはいいのかもしれない。
「帰りましょ、五条。支度するから、ちょっと退いて」
「じゃあ、最後にもう一回」
「あんたね……」
図に乗るなよと罵りつつ、口を尖らせて瞼を閉じた五条の額にキスをした。
秋の気配が深まるにつれて、日の出の頃も遅くなった。
早朝、と称すには些か暗い部屋の中でむくりと体を起こす。枕元に転がしたスマホを見れば、眠りについてから二時間ほどが経ったのだと知れた。少し短いが、元々眠りは浅い方である。寧ろよく寝た方だ。短時間ながら久し振りの熟睡で、随分頭が冴えた気がする。
「……何で、いつもばれちゃうのかな」
隣で眠る彼女を振り返り、小さな鼻の先をつんと突く。普段は男心なんて砂の一粒ほども理解してくれない鈍感の癖して、妙なところで気が回る。僕が隠しておきたい都合の悪いことばかりお見通しなのだ。まったく、厄介なお姫様である。
自他ともに認める最強たるこの僕に、無事で良かった、無傷で帰って来いなんて、そんなことを言うのは歌姫くらいのものだ。本当に、彼女の前ではてんで格好が付かない。
くたりと寝入る歌姫に上掛けをかけ直し、僕はベッドを降りた。脱ぎ捨ててそのままにしていたシャツを拾い、袖を通す。
すると、ばさり、と布の翻る音に、布団に丁寧に包んでおいた歌姫が小さく呻き声を上げた。
「……いく、の?」
「まあね」
始発で出ないと間に合わないからと告げて、体を屈め、寝ぼけ眼の彼女の瞼に唇を当てる。
「おはよ。でも、もう少し寝てたら? まだ時間あるでしょ」
「ん」
歌姫はむずかるように震えると、僕の頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「わ」
「……ふらふら出かけて、どれだけ遠くに行ったって、別に全然、構わないけど。でも、最後はちゃんと、戻ってきなさいよ」
「藪から棒に何さ」
「だってあんた、放っておくと、糸の切れた風船みたいにふわふわ飛んでいっちゃいそうなんだもの。心配なのよ」
「……」
「あんたの死に水は、私が、取りたい」
その代わり、いくらでも待っていてあげるから、そう言って僕を睨む。
思わず苦笑した。
うんと言え、という圧が凄い。
「ふふ、何それ。プロポーズ?」
「そういうことにしてもいいわよ」
「……いいの?」
「いいの。口約束じゃなくて、確約が欲しい」
茶化したつもりなのに、酷く生真面目に返された。
こんな時に巫山戯るなと苛立ちは滲ませつつも常のように声を荒げることはせず、歌姫は続ける。
「いいから、約束しなさいよ。何があっても、どんな姿でも、最後は絶対、私のところに帰ってくるって」
眦を吊り上げて、歌姫が迫る。
それがどれだけ難しいことなのかわからない君ではあるまいに、それでも、今ここで誓えと言う。
僕は、笑った。
笑ったつもりだったが、失敗したかもしれない。顔が引き攣り強張って、上手く、舌が回らない。
ゆっくり息を吸って、吐く。
ぎこちなく腕を伸ばして、柔らかい体を抱き締めた。
慎ましい君の珍しい我儘は、いつだって、僕にばかり優し過ぎる。
「約束、する。次会う時には、全部、用意しとくから。……そしたら、サイン、してくれる?」
「あら、本気?」
「勿論。ていうか、歌姫こそいいの? 後でやっぱ無理とか言っても僕、多分、離してやれないよ」
万が一、僕が君との約束を破ることになった、その後も。死すら、僕から君を奪うことを許しはしない。
冗談混じりに嘯けば、馬鹿ね、と心底呆れたように歌姫は鼻を鳴らした。
「そのくらいじゃなきゃ、私が困るのよ」
「……」
「言ったでしょ。いくらでも、待っていてあげる」
女に二言はないわと言い切って、僕の頬を突いた。
「約束。忘れないでよ」
「うん。絶対に」
「なら、いいわ。……いってらっしゃい」
「……うん。いってくる」
おやすみを言う代わりに、口付けた。
唇に触れるだけのキスに歌姫は嬉しそうに目を細めて、ほっとしたように息を吐く。
ゆるりと瞼が閉じた後に柔らかな寝息が規則正しく続くのを見守ってから、僕はそっと部屋を出た。
────必ず、君の元に戻ろう。
この先何があろうと、どんな手を使おうと。たとえこの身が朽ちて、命果てたのだとしても。
それでも。
君が、待っているのだから。