どこにも行かないで とある春の夕暮れ、歌姫は呪術高専東京校の学長室にいた。
歌姫と向かい合っていた夜蛾は口を開いた。
「いよいよ明日から京都か」
歌姫は唇の端を上げ、頭をゆっくりと下げた。
「はい。先生、長い間本当にお世話になりました」
「お前なら京都校でも上手くやるだろう。楽巌寺学長にも宜しく頼んであるから、何かあったら頼りなさい。……寂しくなるな」
「私も寂しいです。他の皆にも宜しく伝えてください」
「うむ。……お前がいなくなると、色々と心配だ」
それを聞いた歌姫はふふっと笑いを漏らした。
「心配することなんて何もないじゃないですか。後輩たちも皆、立派に活躍してますし」
歌姫とは対照的に、夜蛾は頭痛がするかのようにこめかみの辺りを押さえた。
「お前がいなくなった後の『あいつ』が心配だよ」
✴︎
「では、失礼します」
学長室を出ると、歌姫は寮の自室へ帰ろうと歩き出した。
歌姫はこの4月から呪術高専京都校に教師として着任する。辞令が降りたのは突然だった。1ヶ月ほど前に連絡を受け、あれよあれよと言う間に明日はもう京都へと発つ。もうあらかた荷物は送ってしまったから自室はほとんどもぬけの空だ。
寂しくないといえば嘘になる。なにしろ突然決まったことだったから、きちんと心の準備もできないままにあれこれ手続きを進めなければならなかった。呪術師としての人生をスタートさせた東京校との別れを目の前にすると、やはりなんともいえず胸に込み上げるものがある。学舎の中を歩きながら歌姫は少しだけ感傷に浸った。
人に恵まれてきたと思う。東京校で関わりがあった人たち——仲間の術師や補助監督、窓の人員——はみんな、歌姫の京都への異動を驚き、別れを惜しんでくれた。特に高専の後輩である家入硝子は残念がり、いつでも東京に帰ってきてくださいね、という言葉をかけてくれた。今日、東京での最後の夜は、その硝子と酒を飲みながらゆっくりと語り明かし、少し眠ったあと明日の午後には京都へ向かう予定だった。
窓の外はもう日が暮れかかっている。西の方の空は赤と青とが混ざり合った幻想的な色を見せていた。窓際で立ち止まりその不思議な青さを眺めていると、ふともう一人の生意気な後輩の顔が浮かんだ。
——あいつとは辞令が出てからまともに話さなかったな。
「あいつ」とは五条悟のことだ。歌姫が京都を行くことが決まってから、五条とは一度だけ顔を合わせた。その時、五条は不機嫌そうに「なんで京都なわけ」と責めるように歌姫に突っかかってきた。上からの辞令なんだからしょうがないだろうと歌姫が返すと、五条は眉を顰めて踵を返し、さっさと歌姫の前から姿を消してしまった。
いくらそれほど仲が良いわけでもない単なる先輩後輩の関係とはいえ、もう少し何か言うことがあるだろうと歌姫は腹が立った。あいつが別れを惜しんでくれることなんか期待はしていなかったが、せめて労いの言葉くらいかけても良さそうなものだ。
五条と会ったのはそれっきりで、硝子からも特に彼の話は聞かなかった。別にいい。あんな無礼で可愛くない後輩とは京都に行ったらほとんど縁が切れるだろう。それより早く硝子に会いに行こう。そう思って窓のそばから立ち去ろうとすると、いきなりぐいっと何者かに右腕を引っ張られた。
歌姫の体は大きくよろけ、目の前に真っ黒な色が広がった。おでこがごん、とその腕を引っ張った人物の肩のあたりにぶつかった。歌姫は額を押さえながら、状況を把握しようと顔を上げる。すると、サングラスをかけた白髪の男の顔が目に入った。
「五条?」
歌姫の腕を引っ張ったのは、五条悟だった。
ついさっきまでぼんやりと頭に浮かんでいた男の登場に、歌姫は狼狽した。五条は何も言わず、歌姫の腕を掴んだまま歌姫の顔を見つめている。一体五条がどんな表情で歌姫のことを見ているのか、真っ黒なサングラスのせいで読むことができない。
「五条。何か用なの?」
歌姫は沈黙に堪えきれずにそう声をかける。言い知れぬ圧のようなものが五条から滲み出ている。歌姫はもしかしたら身の危険なのかと五条の腕を振り解こうとした。しかしがっちりとした五条の腕は歌姫の力ではびくともしない。
「歌姫」
ようやく、五条が口を開いた。その声色に歌姫はぞくりと背を震わせた。
「何よ。悪いけど私、あんたに構ってる暇ないんだけど、明日京都——」
「知ってる」
五条は歌姫の言葉を遮った。心なしか、五条はさらに手に力を込めた。そして歌姫の左腕にもそっと自らの手を添える。歌姫はまたぞくっと背が震えるのを感じた。
五条の青い瞳がサングラスの奥で揺れた気がした。
「行くな」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。五条はふっと息を吐くと、もう一度その言葉を口にする。
「行くなよ。京都」
その声は真剣で、切なげで、少なからず歌姫の心を打つものがあった。
「五条。あんた何言って——」
「逃げよ」
「は?」
「一緒に逃げよ。今から」
歌姫の腕に置かれていた五条の手が、歌姫の背に回った。
柔らかく歌姫の体を抱きしめながら、五条は「逃げよう」とだけ繰り返した。