しんいちろうくんおたおめ。 夜になってもうだるような暑さで、世の中はやれ夏休みだのビアガーデンだのと楽し気で、毎日クーラーの利いた職場である事以外何の喜びも感じない、家との往復。
花火に興じているリア充を避けてシャッター商店街の近くを通りかかった日だった。
うぅ、とうめき声が聞こえてぴゃっと飛び上がった。オカルトの類は苦手だ。走って逃げようとした、が、もし何かしらの事情で動けない人間だったらという考えがかすめた。
聞こえなかったふりをしたい。でもここで家に帰って、転んだお年寄りが脱水症状で亡くなったなんて事件に発展すればオカルトどころか祟られかねない。
一目確認して、誰か倒れてたら警察を呼ぼう。
スマホを片手に声の方に近づくと、そこに倒れていたのは若い男だった。
すらりと手足の長い、目を瞑っているがそこからもわかるほど整った顔立ち。
頭からだらだらと血が流れているから、原因は明らかだ。
「ちょっと、大丈夫っスか!?」
頭のケガは体を動かすな、とどこかで聞いたため呼び掛けるにとどめる。
「警察…いや救急車か?
お兄さん、自分の名前言えますか!?
ねぇ!!」
喧嘩だろうか、酔っ払ってどこかにぶつけたのだろうか。
「けい…さつ…よぶな…」
かすれた声だが、はっきりと主張した。
よかった、意識がある。
武道はそこでやっと一息ついた。
しかし再び意識を失った男を見て、途方に暮れた。
「目、覚めました?」
知らない声だ。そしてぬるい空気に屋外であることを察する。
ぼうっと声の主を眺めれば、ぴょんぴょんと飛び跳ねた黒髪に大きな目が印象的な少年だった。
「わりぃ…お前誰だ…」
「いや、通りすがりっス。
お兄さん頭から血を流して倒れてて、丁度ベンチがあったんで寝かせました。
血はぬぐって、コンビニで買ってきたガーゼで止めてあるだけなんで…ちゃんと病院行ってください」
まくしたてる自称通りすがりの少年をただただ見つめる。少年は居心地悪そうに身じろぎして、それじゃあと立ち上がった。
「わかんねぇ」
ぽつり、と口を突いて出る。
「オレ、誰だ…?」
少年は立ち去れず、ひたすら困った顔をしていた。
男はスマホや身分証を所持していなかった。
血で汚れてしまった白いTシャツに作業着のようなズボン。首からシンプルなチェーンネックレスをかけているが、手掛かりになるようなものはない。
年のころは二十代、顔が非常に整っており高身長。
やくざ者のようには見えないが、事件性しか感じない。
正直関わりたくない。応急処置しただけでも恩を感じてほしいくらいだ。
だけど男は見た目に反して図々しく、いったん手を出したなら最後まで面倒見ろと武道を羽交い絞めにして離さなかった。
それだけ元気なら大丈夫だろ!と叫びたかったが、力で抵抗できないので(そして仮にもケガ人であるし)諦めて家に連れ帰ることになった。
「うわ汚っ!!」
玄関を開けるなり男が叫ぶ。ゴミ袋と散乱したゴミを押しのけて、適当に座ってくださいと促すと「無理無理無理無理…なんかガサガサ言ってる!ガサガサ言ってるぞ!?」とゴミ袋を指さして騒ぐので、お隣さんに壁ドンされた。
「汚部屋って初めて見た…実在するんだな」
変な感心をする男。それより何か思い出してほしい。せめて名前とか。
「明日オレ仕事休みだからいいけど…、一晩だけです。
一晩泊まったら出てって下さいね」
「ひでぇな、自分の名前もわからないのに放り出すのか。
あ、そういやお前の名前聴いてなかった」
正直無視して眠りたいが、布団は男に貸してやると決めたので、自分の寝るスペースを作る。その前にシャワー浴びたい。怪しさ満点の男だが、目を離したら通帳や印鑑を盗まれるだろうか。逡巡の末、どろどろの汗と匂いにまみれて寝るのは嫌だと結論が出た。
どうにでもなれ。
「オレの名前は花垣です。
明日までの付き合いですんで恩返しでもない限りは覚えてなくて結構です」
つん、と横を向けば、男は気を悪くすることもなくおう、とはにかんだ。
無駄に器の大きさを感じてちょっと腹が立った。
結局のところを言えば、男はすぐに出ていかなかった。
病院へ行けと言っても保険証がないとごねるし、記憶喪失なら警察に行けと言っても警察だけは嫌だの一点張り。
怪我はなかなかよくならず、膿んでいるかもしれないから本当に病院に行ってほしい。
「ねぇ、都知事いつ代わったの?」
テレビを見ながら男が尋ねる。いつって、いつだっけ。
「オレ覚えてんのしんたろーなんだけど。
ちょっと親近感あってさ、多分名前似てるんじゃないかな」
「じゃああんたはしんたろうさんなのか?」
「うん…なんかしっくりくるかんじ」
しんたろうはいつの間にか武道の生活の一部になっていった。
部屋が汚いと片付けられて、二人が寝られる分のスペースができた。家事力は大差ないものの綺麗好きなようで、飲みかけのペットボトルを放置する武道とは雲泥の差がある。
地元を出てからは独りぼっち。テレビとどなるご近所さんとしか会話をしない日々だった。しんたろうは今のところニートであるものの、家のことをしてくれているし不満はない。
可愛い女の子だったら最高だけど、贅沢は言うまい。
なんだかんだで愛想がよく、いつの間にか知り合いが増えて「しんちゃん」なんて呼ばれている。やっぱり世の中顔面のよさがものを言う。
嫉妬を口にすれば、女にはモテないなんて誤魔化しをいうものだから武道はますますすねた。そのうち恋人でもできて出ていくだろう。それを想像した時、猛烈に寂しくなった。
少年だと思っていた花垣は実は年上の二十五歳だった。
中学生くらいだと思ったのに。押しに弱く、駄々をこねたらあっさり折れた。
なんだろう、こういうことをするやつが身近にいた気がする。
自分はずっと、はいはいって我儘聞いてやってたような。
あいつら、大丈夫かな。寂しがってないかな。
あいつらって誰だ。
そんな感じで頭がグルグルして、何か思い出しちゃいけないような、警告のようなものが点滅している。
「大丈夫、しんたろう君」
武道が心配そうに声をかけてくる。年上と判明するや、武道は兄貴風をふかし始めた。
といってもかわいいもので、しんたろうをたまに子供扱いする程度。
イラっとする場合もあるが少し新鮮さもあるのだ。
いつも誰かの先頭に立って、いつも誰かを見守って。
そんな立場だったように思う。楽しいこともいっぱいあったはずだ。
それでもちょっとしたことで、偉かったねとかありがとうとか、武道にそう言われると胸が詰まる。
ずっと誰かに労ってほしかった。
そんな思いがかすめるのだ。
武道の傍は居心地がいい。気負わなくていいし、何かになる必要がない。
何かって、なんだ。
『激化の一途をたどる東京卍會の一般人を巻き込んだ事件の数々に迫ります――』
電気の無駄だからつけっぱなしにするなと怒られるものの、暇つぶしがこれしかない。
TVはワイドショーとテレフォンショッピングしか放送していないから内容はないに等しいのだけれど。
東京卍會。何か引っかかる。
「ただいまー! お給料入るから奮発して発泡酒6本入り買ってきたよ!!」
汗だくの武道のはつらつとした声に、思考はかき消された。
しんたろうが作った野菜炒めをつまみに発泡酒をぐいぐい煽る。
顔色の変わらないしんたろうに比べ、武道は首まで真っ赤になった。
「オレねぇ、クズなんス。
ダチを見捨てて逃げて来た。逃げて逃げて…だっせー」
誰かと飲むなんて数えるほどしかない。職場の先輩に付き合わされれば前後不覚になるほど酔うこともできない。心を許せる友達もいないのだ。本音を吐露するまで酔うことが初めてだった。
「だっせーかもしんねぇけど、死ぬよりゃマシだろ」
しんたろうは飲むペースを調整して、さほど酔ってはいない。このまま寝落ちするだろう武道のことも考えて、なんだかんだ世話を焼いている。
「だって…オレは!!
オレのせいで…みんな奴隷になっちまったのに、誰もオレを責めなかった。
だけど、恨まれるのが怖かった…いい奴らだから、あいつらに恨まれたら苦しくて…
苦しくて。
結局、一番に謝りたいのは…あいつらなんだよなぁ…」
かくん、と首が落ちていびきをかき始めた。
武道はいいやつだ。
悪いのは武道たちを奴隷にした東京卍會とかいう暴走族だろう。
東京卍會。
聞いた気がする。ニュースで。いや、それよりずっと前に。
自分のチームなら弱い者いじめなんかしない。いや、でも代替わりして『堕ちた黒龍』って呼ばれて――。
『黒龍』。
「ぐっ…」
頭が、痛い。
何かを思い出しそうで、吐き気をこらえながら玄関からまろび出る。
手すりにすがって、そしてそのまま。
堕ちる、落ちる。真っ逆さまに。
あぁ、どうしたんだっけ。
そうだ。
殴られた。
目の前にはケースケがいて、そんで、後ろから。
夢を見ていた。
ずっと続いてほしい夢。
誰かに殴られて、数秒間の間の夢。
なぁ、●●●●…
翌朝目が覚めると、しんたろうは姿を消していた。
「薄情者…」
二日酔いで頭が痛い。だから涙が止まらないのもそのせいだ。
武道は職場に連絡を入れ、その日は休むことにした。
了