高杉晋作の妻は吉田松陰が嫌い 「雅子さんって松蔭先生のことどう思ってるんですか?」
ここのマスターの話が唐突なのはいつものことだが今日もまた唐突だった。
「どう、とは?」
「最近調べてて知ったんですけど高杉さんって松蔭先生に失望されて絶交を言い渡されてるらしいじゃないですか」
「ああ…」
私が晋様の妻になる前の話ではあるけれどそれは事実だ。
「だから普通はあまりよく思ってないんじゃないかと思って…」
それを聞くなんてあまりにもデリカシーがなく、酷な質問だと思いながらもそっとマスター様に顔を近づけた。
「…このことは晋作様には内緒ですよ?」
その言葉にこくこくとマスター様は頷き小さく息を吐く。
「率直に申し上げまして…嫌いです」
「ーー、」
マスター様は何も言えないようで息を呑んだ気配がした。
「間接的に見れば松蔭様のおかげで結婚できた…とも言えなくはありませんが晋作様の家もうちの家も、あれがなくとも縁談を進めていたでしょうし…ですから松蔭様のおかげで彼と結ばれることができた…と、そんなわけはないのです」
そう淡々と私は言葉をこぼす。彼には伝えられない真の言葉を。
「…晋作様やその同志の方々…松蔭様からすれば教え子たちに絶交を言い渡すのも酷いと思いますし、何より彼は…晋作様は深く悲しんだと聞きます…それが私はとてつもなく羨ましい」
「え、」
「…羨ましいのですよ。私は…生前は、彼の方が先に逝ってしまったけれど私は彼に傷一つ残せていない…それなのに松蔭様は彼の傷の一つとして残っている…それが羨ましくて仕方がない…だってきっと彼は私がいなくても生きていけるのだから」
そう私が告げるとマスター様は何故か驚いたような顔をしていた。
「どうしたんです、マスター様」
「い、いやあ…雅子さんが言うことを否定するわけじゃないけど…高杉さんは雅子さんに先に死なれたら生きていけないと思うよ?」
「…そうでしょうか」
「そうだよ、だって!」
「そうだとも!」
ーーと、
いつから話を聞いていたのか晋様が颯爽と姿を現す。
「あなた…いつから」
「ああ、ごめん。でも別に盗み聞きするつもりはなかったんだよ?」
「……」
恨みがましく見れば困ったように晋様は笑った。
「それよりも、だ!…雅、君は相変わらず自信がないな」
「あなたのことだけです」
「それが一番僕には堪えるんだが…」
そう言ってはあ、と彼はため息を吐いた。
「僕は!君がいないと生きていけない!これは胸を張ってそう言える!」
そう、高らかに晋様は宣言した。これにはマスター様も呆れて声も出ないようだった。
「…そんなはずはありません」
「あるとも!」
「だったら何故妾を作られたのです」
「だからおうのとはそう言うんじゃないんだって!妹みたいなものだし」
「……」
じと、と睨んでも晋様は言葉を覆しては下さらない。
「僕が悪いんだが…どうやったら伝わるもんかなぁ…」
がしがしと頭を掻いて困ったように晋様は顔を歪めた。
「私のために優しい嘘を言っていただかなくてもいいのですよ?」
「は?」
途端、低く晋様の声が音を出し思わずびくついてしまう。
「嘘で僕が綺麗とか可愛いとか言うと思っているのか?」
「…阿国さんにはよく言っていたと聞きましたが、」
「あれは阿国くんだからね、戯れさ。だが…僕は雅に伝えた言葉で嘘を吐いたことは一度だってないよ。いつだって本気で可愛いと思ってるし可憐だと思ってるし本気で愛してる」
「っ…」
「僕はきっと君に先に死なれたら屍のようになってしまうだろう。後追い自殺したかもしれない」
不謹慎な言葉に声を上げそうになるそんな私を人差し指で晋様は制する。
「君がいないと息だって出来ないんだ。…君と出会う前の僕が思い出せないくらいに」
「ーーー」
最高級の口説き文句だった。何か言おうとして、声に出そうとして声にならない声しか出てくれない。
「雅?」
俯く私を覗き込むようにして、そして晋様は優しく私の手を握る。そんな彼に私が出した言葉はーー、
「馬鹿なんですかあなたは!」
だった。
「ばか!ばか!本当にばか!人前でそんなっ、ばか!ばか!ばかです!ばか!」
顔を真っ赤にしてばかを連呼する私におかしそうに晋様は笑う。耐えきれなくなって、私は彼の手をすり抜けて走っていく。目指すは部屋。彼が帰ってくることなどこの時の私は忘れてしまっていた。
***
「く、ふふ…ははっ!」
「あ、あのー…追わないんですか?」
雅子が走り去った後藤丸は遠慮がちに声を掛けるがおかしそうに晋作は笑っている。
「追うさ。追うとも。追わないわけがない。しかし…なあ?君」
にたにたと笑って、獲物を定めた獣のような瞳を晋作はさせる。
「僕の雅は可愛いだろう?」
そう最大級の惚気と共に部屋を去り、スキップしていく。雅子が吉田松陰が嫌いという話だけにはならなくなってはいたが当人が幸せそうならいいかと思い藤丸は合掌する。
「ごちそうさまです」
-了-