次にこの家を訪れるときは情けない。非常に情けない。
クリプトはベッドに体を沈み込ませながら目を閉じた。このままどこまでも沈んでいけそうなくらい、体が重い。頭も重い。ついでに節々が痛い。いつものように作業に没頭していて、気付いた頃にはこの有様だった。
短納期の仕事で無理をした自覚はある。疲労で抵抗力が落ちた隙を突かれたといえばそれまでだが、あれだけ準備準備と常日頃言っておいて準備の基本である自己管理ができてないだなんて、情けないとしか言いようがない。なんとかデータは納品できたものの、シャワーを浴びることはおろか机の上に溜め込んだエナジードリンクの空き缶を捨てることも出来ずに、ベッドに倒れ込んで何時間経っただろうか。体のありとあらゆる機能がバグを起こしていて時間の感覚がない。
ピ、と混濁する意識を突く通知音。重い瞼を持ち上げて携帯を見れば、ミラージュからのメッセージだった。
「よお、クリプちゃん。仕事は終わったか?どうせ家に缶詰でロクなもの食べてないんだろ。ウチに夕飯食べに来いよ。お疲れのハニーのためにダーリンがなんでも作ってやるぜ。」
数日会えていない恋人の声が聴こえてくるような気がして、少しだけ頬が緩む。しかし体は泥のように重く、メッセージを読む眼球運動さえ億劫で。瞼がゆるゆると落ちていけば、咎めるようにくぅ、と腹が鳴る。情けない、改めてクリプトは自省する。指摘通り、ロクなものを食べていなかった体は空腹を訴えていて、恋人の作る料理に黙っていられなかったようだ。
「すまない、まだ外には出られない。ハックを行かせるから飯だけピックアップさせてくれないか。」
悩んだ末にクリプトは恋人の作る食事だけは確保することにした。我ながら強欲だ。食に関して大した欲などなかったはずなのに、すっかり胃袋を掴まれてしまっている。久々の逢瀬を期待していたであろうミラージュには悪いが、体調が回復したらあまりしない外デートでもして埋め合わせをしよう。とにかく今は、寝ていたい。
そのまま返信を待たずに、ミラージュの家の位置情報を与えたハックをオートで飛ばして、クリプトは再び目を閉じた。
ヴヴヴ、という震動音で意識が浮上する。どうやら眠ってしまっていたらしい。震える携帯を手に取ると時間はさほど経っていなかったのだが。
「ぇ…」
画面に表示された着信者と先に送られたメッセージを見て、思わず声が出てしまった。小さく掠れたその声が聞こえたとしたらとんだ地獄耳だが、まるで家主の在宅を察したかのように玄関のドアがノックされる。なぜ、どうして、どうやって。様々な疑問が脳裏を過ぎるが、熱暴走でバグを起こした脳では答えに辿り着けず。着信を訴え続ける携帯が静まる気配はない。クリプトは散々躊躇って、ようやく通話ボタンを押した。
「悪い、ハックに着いて来ちまった。」
鼓膜にダイレクトに響く恋人の声。思いの外申し訳なさそうなそれを聴いてしまったら、もうダメだった。クリプトは観念したように入り口のセキュリティを解除した。
「俺の勘は当たるんだよな。」
キッチンで持参したタッパーやスープジャーを広げながら、ミラージュは上機嫌に鼻歌を歌っている。対して自分の迂闊さを呪って、クリプトは眉間に深い皺を刻んでいた。
まさかハックに着いて来られるとは。ある程度の速度で、人目を避けて狭い路地を蛇行するハックを追い続けるなんて、一般人なら不可能だろう。しかしミラージュもレジェンドだ。その体力と行動力と、本人曰く勘とやらを甘く見ていた。このセーフハウスは誰にも教えていなかったのに、こんな単純な方法で知られてしまうなんて。布団から目だけ出してミラージュの背を睨みつけていると、湯気の立つスープボウルを手に振り返った彼がヒッ、と悲鳴を上げた。
「おっかない顔した病人だな!愛しい恋人が来たんだ。もっとニコニコしろよ!」
「お前のせいで引っ越すことになるかも知れないのに笑ってられるか。」
「デコイとクローク使って来たって言ったろ?大丈夫だって。」
いつもヤツらを気にする俺を被害妄想の変人呼ばわりするくせに、こういう時だけ察しがいいというかなんというか。幸いハックも異常を検知した様子はなさそうだし、とりあえず当面は監視の強化に努めるに留めよう。投げやりな思考になっている自覚はあったが、今は正常な判断ができる自信がない。何かあった時は色を付けて引越代を請求してやればいい、とクリプトは文字通り思考を投げやった。
「おっさんのために胃に優しいもん持って来て正解だったぜ。食べれるだけ食べて寝ちまえよ。」
ベッド横に跪いたミラージュが持って来たのは、どうやらスープのようだ。鶏肉と香味野菜の香りに鼻腔を擽られて、忘れかけていた空腹感が戻ってくる。戻ってはきたが、身を起こすのが辛い。どうしようかと迷っていると、仕方ないなと笑って背中を支えながら、ベッドボードにもたれかかるように身を起こさせてくれた。ここまではよかった。
「はい、あーん。」
なんだこの茶番は。ミラージュはスープを掬ったスプーンを持って、クリプトに口を開けるように命じる。まるで小さな子供にするように。
「何のつもりだ。」
「何ってあーんはあーんだろ。ママにされなかったか?」
今日はお前を目一杯甘やかすと決めたんだ、とミラージュは笑う。小僧のくせに母親の真似事だなんて、随分と悪趣味なヤツだ。
あーんされたことがあるかどうかなんて覚えていない。なんせ母親の顔さえあやふやなのだ。もしかしたら赤ん坊の頃にされているかも知れないが、覚えていない以上、それはないに等しい。はずなのに。
「ほら、早く口開けねえと。お前の口のまわりがベチャベチャになっちまうぞ。」
伏し目がちになったクリプトの視界に、スープを載せたスプーンがずい、と映り込む。こうなったミラージュは頑固だ。やりたいことをやりたいようにできるまで、テコでも動かない。クソガキめ、と罵りながら、クリプトは渋々口を開けた。
待ってましたとばかりに滑り込んできたスプーンから口の中に温かさが広がる。細かく割いた鶏肉と柔らかく煮た野菜、底の方には押し麦も入っているようだ。優しい味がする。じんわりと体を内から温められる感覚に、クリプトはほ、と息を漏らした。素朴なのに旨味はしっかりと感じられる。素材の味だけでできたこれは何というのだろうか。
「チキンブロスって言ってさ、鶏の手羽元を煮て骨から旨味を引き出してんだ。だからコンソメとか使って油っこくしなくても美味い。俺も小さい頃に風邪を引くとよく食べさせられたもんだぜ。」
クリプトの疑問を察したようにミラージュは料理の説明をはじめる。なるほどウィット家の回復食か。どうりで店で出すには優しすぎるが、家で出されたら温かさが身に染みる、そんな味がするわけだ。
いい家庭で育ったんだろうな、とクリプトは時々、恋人のことを眩しく思う。人懐っこい笑顔も明るい性格も、ちょっとお節介なところもすべて、そこで培われたのだろう。何もかも自分にはないものだ。羨ましさは感じない。ただこうやって触れられる度に、その温かな家庭に間接的に包まれるような気がして、少しだけ目の奥が熱を持つ感覚に戸惑ってしまう。
「喋ってばかりいないで手を動かせ。食べさせてくれるんだろう?」
ベラベラと喋り続けていた恋人には、これが自分の形を保つための虚勢だと見抜かれてしまっているだろうか。わざと不満気な顔を作ったクリプトに、どこまでも優しい顔でミラージュは笑う。見抜かれてしまっていたとしても、コイツになら、いい。
人間とは単純な生き物で、三大欲求に忠実にできている。腹が満たされれば眠気が襲ってくるというのは、老若男女天才ハッカー様も同じだ。うつらうつらと船を漕ぎはじめたクリプトを見て、ミラージュはこっそり笑みを深くする。
「おねむなぼうや1名様〜お布団の中にご案内〜。」
起こした時とは逆に、背を支えながらベッドに寝かせれば、また眉間に皺を寄せている。寝ぐずる赤ん坊のそれか?とバカなことを考えたが、どうやら違うようだ。
「折角来てくれたのに…悪い。」
ポツリと、申し訳なさそうに呟かれた言葉に、ミラージュは目を丸くする。病で気が弱くなっているのか、随分と素直なことで。ハの字に下がった眉の上、長い右前髪を除けて額に手を当てれば、まだ熱い。食後に薬は飲ませたが、効果が出るのは一眠りした後だろう。
「今日はお前を目一杯甘やかすって言ったろ?気にすんな。」
「しかし…」
尚も言い募ろうとする口を枕元にあったメガネッシーで塞ぐ。クリスマスにサンタクロースからもらったそれはクリプトのお気に入りのようだ。やんわりと押し付けてやれば、大人しく抱いて寝る体勢に入ってくれた。子供っぽい仕草が可愛いなんて言ったら怒るだろうか。
「…おい、何をしている。」
「何って…添い寝?」
いそいそとベッドに潜り込み、ネッシーのぬいぐるみを挟んでぴったりと寄り添えば、折角可愛かった恋人の顔が顰められる。ミラージュの家の一人寝には無駄に大きなクイーンサイズのベッドとは異なり、クリプトの家のそれは簡素なシングルベッドだ。男二人の体重を受け止め切れず、スプリングが悲鳴を上げている。狭い出て行け熱が移るだろ、等々と文句を垂れる口も、ポンポンと胸のあたりを一定のリズムで叩いてやれば、本格的に眠くなってきたのか静かになった。
「お前…熱が下がったら覚えてろよ…」
「ああ、どんなお礼をしてくれるか今から楽しみだ。」
「お礼な…」
蕩けるような目をしたクリプトがゆるりと片方の口角を持ち上げる。そのままゆるゆると瞼が落ちてきて、綺麗にに並んだ睫毛が封をした。厚めの唇が開いて、訥々と話しはじめる。
「まずお前の顔を…360度全方向から撮影する…虹彩と指紋と…できれば静脈も…」
眠りに落ちる寸前の低く掠れた声は柔らかく、耳心地が良い。小さく消え入りそうなそれを聞き逃さないように、ミラージュは耳をそばだてる。
「それから…ウチのセキュリティ…ラッシーに…お前のデータを登録して………」
「クリプちゃんそれって…」
堪らずミラージュが身を起こして声をかけたが、恋人はもう健やかな寝息を立てて夢の中だった。
なにやらすごいお礼をしてもらえるかも知れない。秘密のベールに包まれた恋人が、またひとつ、それも特別なベールを脱いでくれるような。そんな喜びで感極まって、ミラージュは眠る恋人を起こさないようにそっと抱きしめた。次にこの家を訪れるときは、ラッシーとやらに歓迎されることを願おう。