タイトル未定(きつねの神様🎈と人の子🌟) ——街外れの、そのまた外れの山の中。
ぽっかり開けた空間に、人々に忘れ去られた祠が一つ。
ひとたびうっかり迷い込めば、悪い狐に化かされて、酷い“いたずら”に遭うのだとか。
行きはよいよい、帰りはこわい。
鈴の音一つ聞こえたら、振り返らずに帰ること。
恐ろしい御狐様と、目を合わせることの無いように。
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人による手入れが行き届いていない、街外れの小さな山。その中腹辺りに一箇所だけ、がらんとした空き地があった。そこだけ丸く切り取られたかのように木が生えていないその空き地の奥には、こぢんまりとした祠のような木造の建物が一つ、寂し気に鎮座している。長い間放っておかれているのか、苔むして今にも崩れてしまいそうな屋根の下、縁側で一人の青年が片足をぶらりとさせながら辺りの木々を眺めていた。赤、黄、橙。冬支度を始めた樹木たちが、その葉を色とりどりに染め上げている。
「何度見ても紅葉は良いものだね。色鮮やかなその様は、そこに在るだけでヒトを笑顔にしてくれる」
そうだろう?と丁度手元に羽を休めにやってきた雀に話しかける。首を傾げてチュン、と鳴いたその鳥は話を分かっているのかいないのか。
「——最も、ここを訪れる人間なんて滅多にいなくなってしまったのだけれどね」
紫色をベースに水色のメッシュが二束という独特な髪色をした青年は、しかしその奇抜さも些細なものに感じられるほど特徴的な外見をしていた。とてとてと離れ行く雀を愛おし気に眺める青年の頭の上には、髪と同じ色をした獣の耳が一対ぴょこんと生えている。狩衣のような衣服の腰のあたりからはふさふさとした尻尾が顔を覗かせ、時折吹く風に合わせて気まぐれにゆらりと揺れていた。
青年の名前は類といった。遠い、ずっとずっと遠い昔、自分と親しくしてくれていた誰かがそう名付けてくれたのだという記憶がある。最近ではその人間の顔さえ鮮明に思い出すこともなくなったが、呼びやすくて良い名前だと思ったことだけは覚えていた。
類がこの場所にやって来てから数百年は経っただろうか。元来人懐っこい性格であった類は、しかしこの長い年月の中で次第に人と極力関わらないようにする方針へと変わっていった。自分は直接人間と関わらない方が良いのだと分かってからは、この祠からひっそりと人の営みを見守ることにしていた。
そうでなくとも、時が経つにつれてこの小さな山を訪れる人間は少なくなっていた。珍しく迷い込んだ人間に対して、姿を現すでもなくただ風を吹かせたり木の実を降らせたりしてもと来た道へと戻るよう誘導し始めたのはいつからだったか。突然起こる訳の分からない現象に恐怖する顔を見る度に胸の辺りが苦しくなったが、それでも自分が直接姿を現して怖がられるよりはましだった。
ふと、自分の指先が一瞬透けたような気がして思わず手をさする。神様として祀られている類にとって、己の存在を知る人間の有無は自身の存在に関わる重要な問題だった。参拝する人間が居なければ、ソレを神だと信仰する人間がいなければ神は神たり得ない。人々に忘れ去られたカミサマは、そのままそこで朽ち果てるか、何が何でも人間を己の手中に引き込まんとする悪しき存在に成り果てるか。
どこまでいっても人間が、人間の見せる笑顔が大好きな類にとって、後者の選択はあり得なかった。願わくは自分もその人間の輪の中で一緒に笑ってみたいものだったが、それがかなわぬ夢だということはとうの昔に理解していた。だから今日も狐の青年は、一人祠で時を過ごす。淡い夢物語などあり得ないと諦めながら、ひっそりと終わりの時を待つ。自分で選んだ道だというのに、消えゆくことを恐れている自分がいるのに気が付いて、まったくもって滑稽だと類は静かに苦笑を漏らした。
——ピン、と。例えるならば張り巡らせた糸に何かが引っかかったような感覚に、類の耳がピクリと反応する。類が己が領域としている範囲、つまりこの山の中に誰かが踏み込んできたようだった。日が傾けば辺りはすぐに暗くなる、迷い込んできたのならば早く帰してやらねばと、今まで座っていた縁側からふわりと飛び降りる。
「今回はどんなヒトだろう」
久しぶりの来訪者に、類の頬が思わず緩んだ。時折現れる迷い人は、類にとって最も人間に近づける絶好のチャンスでもある。時代時代を経て、服装が変わり、話し方が変わり、それでも変わらない無意識の行動や反射的行動があったりして。類はそんな人間の様子を観察するのが好きだった。
類が気配のする方へと姿を消して移動すると、そこには年端も行かぬ子どもの姿があった。木漏れ日を浴びてきらきらと輝く金糸の先は僅かに桃色がかっている。しかし類はその特徴的な髪色よりも、その子供が纏う気に目を奪われていた。
「——っ」
思わず息を呑む。十を数えるか数えないかといった年齢のその子どもから発せられる気配は、太陽のように暖かく輝き、星のように煌めいていた。幼さゆえの純粋さもあるのだろうが、そこにいるだけで周りを明るくし、本人も人のために尽くすことを厭わない、そんな素質が見て取れた。そこまでの輝きを見たのは久々で、ついその一挙一動に注目してしまう。
当の子どもは山の斜面にしゃがみこんでドングリを拾い、集めたそれらを何やら真剣な表情で選別していた。一つ拾っては一歩進み、また一つ拾っては一歩進む。そんな動きを何度となく繰り返し、やっと目標の数が集まったのか子どもが満足そうに頷いた。ポケットから取り出したハンカチを広げると、選別を勝ち抜いたドングリ達をそこに置き丁寧に包む。それを大事そうに抱えながら勢いよく子どもは立ち上がり——勢いが良すぎたのかバランスを崩した。
「うわ、っと、あっ?!」
その子どもは両腕をバタバタと動かしたが体勢を戻すことができず、崖のようになっている方へと倒れ込む。危ない、そう思った時には類の身体は勝手に動いていた。素早く崖の下へと回り、風を吹かせて落下してくる子どもの勢いを弱め、そして何とか己の腕で抱き留める。
人の子に直接触れるなど久々の出来事だった。いつもであれば風を起こすのみで、怪我をしないように地面に降ろせればそれでよかったのに、どうして受け止めてしまったのか。いつもの自分と違う行動を、類はその子どもが纏う気の所為だと結論付けた。あまりにも綺麗な気をしていたから、きっと少しでも汚してしまってはいけない気がしたのだと。そこまで考えて、はたと今自分が実体化している事実を認識した。落ちてくる身体を受け止めたということはそういうことだ。
「……しまった」
姿を見せるつもりは無かったのに。そうぽつりと呟いた類の言葉が合図になったかのように、腕の中で子どもが身じろぎをした。衝撃に備えてぎゅっと瞑っていた目を、まつげをふるりと震わせて恐る恐る開く。丁度視界の中に狐の耳と尻尾が見えたのだろう、大きな目をさらに大きくぱちりと開き、そのまま何度か瞬きをした。怖がらせないように薄く笑みを浮かべた裏でどう誤魔化そうかと必死に考えを巡らせる類をよそに、子どもが不思議そうに口を開く。
「……こす、ぷれ……?」
続いて呟かれた言葉に、今度は類の方がぽかんとする番だった。子どもが発した言葉がそのまま頭をぐるぐると巡り、数周回ってやっとその意味を理解して目を見開く。一瞬遅れて類の口元に自然と笑みが浮かんだ。
「フ、フフフ……コスプレ、コスプレか。いいねぇ、そういうことにしておこうか」
「……! おぉ、やっぱりそうなのか! すごい完成度? だな!」
誤解してくれているなら都合が良いと類が肯定の意を示すと、子どもはぱぁっと顔を明るくさせた。すごいすごいと素直に賞賛するその様子に、類の心の柔らかい部分が擽られる。
「お褒めに与り光栄だよ。——それで、君はこんなところで何をしていたのかな?」
立てるかい、と子どもを慎重に地面に降ろし、類が問う。すると子どもは思い出したというようにハッとした表情を浮かべた。
「そうだった! ドングリ……!」
抱えていた包みをそっと開き、中身が無事であることを確認すると子どもはほっと胸を撫で下ろした。そして、あ、と類の方に向き直る。
「ええと、助けてくれてありがとう……ござい、ます」
「そう畏まらなくていいよ」
慣れない敬語を一生懸命使おうとする様子を微笑ましく思いながら、敬語はいらないと類が返す。子どもは分かった、と頷くと、そうだ自己紹介、と慌ただしく姿勢を正した。
「待った」
類が思わずといった様子で人差し指を子どもの口元に翳す。それだけでピタリと縫い留められたような気分になった子どもが、口を噤んだまま不思議そうに類を見上げた。
知らないとはいえ神である自分に簡単に自分の名を明け渡そうとするのはやめてほしい、と類は内心頭を抱えた。名前というのはその存在を構成する重要な要素であり、それを知れば様々な呪いが掛けられるくらいには厄介な代物だ。どう説明しようかと迷いながら類が口を開く。
「えぇとほら、知らない人には名前を教えてはいけません、とか、習っただろう? 駄目だよ、簡単に名前を教えてしまっては」
「……でも」
お兄さんの名前も知りたいし、それなら先に自己紹介をしなければと思って。そう言って困ったように眉を寄せる子どもの姿に、類は少し考えてから分かったよ、と渋々頷いた。小さくため息を吐いて、本当はこれも良くはないのだけれど、と続ける。
「——それでは、下の名前だけ教えてもらおうかな」
「!! オレの名前はつかさ! 司だ! えぇと、お兄さんは」
「司くんか。フフ、格好良い名前だね。僕の名前は類、だよ」
「るい……!」
何が嬉しいのか目をキラキラと輝かせて喜ぶ司の様子を、類は目を細めて眺めていた。自分の名を誰かに教えるなんてこといつぶりだろうか。これはいけない、と類は内心気を引き締める。久しぶりの人間との交流に、つい思い描いていた淡い夢が実現可能なものだと錯覚してしまいそうになった。浮かれて人前に姿を現して、痛い目を見るのは自分自身なのだ。今日のことは特例で、明日になればきっとまたいつも通りの日々なのだと自分に言い聞かせる。そうでもしなければ、すぐにでも目の前の素直な子どもに要らぬちょっかいを掛けてしまいそうだった。
「るい、さっきは本当にありがとう! 今日はさき——あ、さきというのはオレのかわいい妹なんだが、さきにきれいなドングリを持っていってやろうと思って、それでこの山でドングリを探していたんだ!」
「へぇ、妹さんがいるんだね」
「あぁ、かわいくて優しいじまんの妹だぞ! でもさきはからだが弱いから、昨日からまた病院に入院しているんだ……。外に遊びに行きたがっていたから、すこしでもその気分を味あわせてやりたくて」
「……そう」
やはり優しい子だ、と類が微笑む。妹の話をしている時の司は暖かな気を発していて、その妹のことを本当に大切に思っているのだということが伝わってくる。
「ここでオレがけがをして帰りでもしたら、さきを余計に不安にさせてしまうところだった。本当にありがとう!」
「フフ、どういたしまして」
最後に大きく一礼をして、司は元気に帰っていった。それを見送る類の尻尾が、ゆっくり振られる手と同じように左右に揺れる。足の先から身体中を充実した気が巡り、頭のてっぺんで溢れたそれが耳をふるりと震わせた。
「……楽しかったな」
久しぶりの人間との交流は新鮮で。ここ最近人間の困った顔や警戒するような顔ばかり見ていた類にとって、自分の言葉に一喜一憂しクルクルと表情を変える司の様子は見ていて飽きないものだった。もっと見ていたい、とさえ思う。それは高望みしすぎだろう、と類は気分を切り替えるように首を振った。そしてそのまま祠への道をのんびりと歩き始める。一度きりの出逢いだとしても、今日のことは己が消えるその瞬間まで忘れることはないだろう。理由はないがそんな風に確信して、そうであることが類には何故か嬉しかった。