証 ――間抜けなツラしてんなぁ。
口をぱっかりと大きく開き、気持ち良さそうに床で爆睡している武道を見下ろ した万次郎はそんな感想を抱いた。
本日は休日、それも社会人となり互いに忙しい日々を送る武道と自分の休みが 珍しく重なった貴重な休日である。ため込んでいた家事やらなんやらはさっさと 終わらせて、久しぶりに二人並んでバブを走らせよう、と以前から話をしていた。
武道はカレンダーに付けた丸を見る度に楽しみっすね、なんてにこにこしていた し、自分だって口には出さずともこの日を心待ちにしていた。
しかし、買い出し担当を決めるじゃんけんに敗れた結果、両腕に買い物袋をぶら下げて、今日はどのルートを走ろっかな、などと考えながら帰宅した万次郎を迎えたのは、アパー トの床で大の字になり爆睡している武道の姿であった。
そんな所で寝ているとは思わないので一瞬ぎょっとはしたものの、口を大きく開いたまま呑気に眠る顔を見みれば、間抜けなツラしてんなぁという感想に落ち着く。
ひとまず武道のことは放っておいて買ってきたものをしまうか、と キッチンに向かった万次郎は、綺麗に洗われて乾かされている食器たちに目をとめた。おそらく、武道なりに家事を片付けようと動いてはいたものの、ちょっと一息、なんて腰を下ろしたところで睡魔に負けたのであろうことがうかがえた。
武道は先日、店長に昇進したらしく随分と忙しそうにしていたし、ただでさえ夜勤だなんだと不規則になりがちな勤務時間は以前よりもっとめちゃくちゃになった。
お陰で一緒に暮らしているというのに、ろくに会話もできない日が続くことすらあったのだ。丈夫が取り柄の男とはいえ、さすがに疲労がたまっていたのだろう。
帰宅後の作業を一通り終え、畳まれた布団の山から薄手の毛布を引っ張り出してきた万次郎は武道にそれを被せ、傍らに腰を下ろした。時刻はまだ午後1時を回った程度だ、多少の昼寝くらいは 許してやろう。決して器用とは言えないこの男が毎日頑張っていることは、自分が一番よく知っている。
それにしてもまぁ、随分とよく眠っているものだ。普通、すぐ近くで人が動いていたら、気が付いて目を覚ましてもいいだろうに。
安心しきったようにぷぅぷぅと眠る武道をぼんやりと眺めていた万次郎はなんとはなしに、彼に覆い被さるようにして横からぎゅうと抱き着いてみた。
別にまだ起こすつもりも無かったが、なにぶん手持ち無沙汰であったので。
布越しに感じる、愛する人の温さと柔さは万次郎の気持ちを落ち着かせた。
そのまま身体の力を抜き、武道の腹に頭を預けてみる。高さは少々微妙であったが、ふにりとした感触は悪くなかった。不摂生な生活と好物のポテチの結果として多少ふくよかになったのであろうその腹回りに、次にポテチ食ってんのを見たら、タケミっち、また丸くなっ たんじゃねぇのなんて揶揄ってやろうと考える。
きっと、眉をへにゃりと下げて、今も昔もバッキバキのマイキー君にはわかんないんスよ、なんて口を尖らせ るのだろうその顔を思い浮かべて、くつくつと笑みを溢した。
武道の眠りは深いようで、腹に頭を乗せられたというのにぐぅと呻きだかいびきだか判断のつかない音を一つあげたくらいで、何事もなかったかのように胸を小さく上下させ続けている。その規則的な動きと甘やかな体温につられるようにして、万次郎もくぁと欠伸を溢した。
ちょっとだけ、自分も一緒に寝てしまおうか。1、2時間もすれば、二人のうちどちらかはきっと目を覚ますだろう。二人並んでバイクを走ら せるのは、それからでも遅くない。万次郎はゆるゆると重くなる瞼に逆らうこと なく、意識を手放した。
ぱちり、と目を覚ます。
随分とぐっすり寝た気がする。ぐぅっと猫のように背を丸めて伸びをし、目を擦った万次郎はしかし、周囲の様子に動きを止めた。
暗い。真っ暗である。いくらここ最近は日が落ちるのが早くなったとはいえ、これではまるで夜の様相ではないか。慌てて時計を見やると、時刻は午後9時を示していた。
嘘じゃん、それは。
一方の武道は万次郎の下でいまだ寝息を立てている。 どんだけ寝てんだ、こいつ。
自身のことは棚に上げ、万次郎はがくぜんとした。
いくらなんでもさすがに寝過ぎた――昼寝による多少の予定の変更は認めたが、 デートの予定そのものを変更するつもりなどまったく無かったのだ。万次郎にとって、本日二人でバイクを走らせるのは確定した出来事である。行くと決めたなら行くのだ、なにがなんでも。
「オィ、起きろタケミっち」
そう声をかけ、やや乱雑に武道の肩を掴んで揺り動かせば、
「ハイッ⋯えあ、おはようございます、まいきーくん⋯」
とやや寝惚けたままの男は飛び起きた。
「おはようなんて時間じゃねぇよ⋯もう夜だ、夜タケミっちが起きないから、すっかり寝過ごしちまったじゃん」
「へ、あぁ⋯ほんとだ、夜っスね、めっちゃ夜だ⋯スイマセン、ついうっかり寝ちゃって⋯いや、というか、途中起きたっちゃ起きたんだけど⋯なんか、マイキー君も一緒に寝てるし、もう少し寝てもいいかなー、なんて思っちゃったというか⋯」
「はぁなにそれ、オレのせいっていいたいワケ」
「いやいやいや、そんなこと言ってないってただその、なんていうか、こういうのもありだなぁってオレが思っちゃったって話ですよぉ⋯」
「ふぅん⋯まぁ、確かに悪くはなかったけどさぁ。次はちゃんと起こせよな。一緒に走るの、タケミっちだって楽しみにしてたじゃんか」
「それはその通りです⋯」
「でもまぁ、過ぎちまったもんはしょうがねぇし⋯よし、今から出るぞ、タケミっち後ろ乗っけてやっからさ、支度しろよな」
万次郎はさっと身を起こし、バブのキーとヘルメットを手にとった。
「えぇ、今からっあぁもう、ちょっと待ってよぉ〜」
武道のそんな情けない声と、どたばたと騒々しい支度の音を背に聞きながら、万次郎は玄関へ向かう。
なんてことのない日々だ。予定通りにはいかないし、武道は口答えするし、明日は仕事。けれどまぁ、悪くはない。
武道が繰り返した末に掴んだ未来でこうして共に生きていることに、時おり、なんとも言葉にしがたい気持ちになる。嬉しいような、申し訳ないような、けれどやっぱり嬉しいような。
そんな万次郎の心など知らぬように、ようやく支度を終えたらしい武道がヘルメットを手に近付いてきた。
「ねぇ、マイキー君。こんな時間から走りに行くなんて、若い頃みたいでわくわくするね」
「若い頃って、オレらまだ充分若いじゃん。タケミっち、おっさんみたいなこと言うね。腹もぷにぷにになってきたし」
「オレの腹のことは放っておいてくださいそうじゃなくて、出会った頃みたいでどきどきするねってはなしだよ」
「出会った頃みたい、ねぇ⋯どうタケミっち。あれから、今はいい未来」
突然そんな問いを向けられた武道はぱちぱちと瞳を瞬かせると、へらりと笑って告げた。
「もちろん最っ高の未来ですオレらの日々がその証拠っスよ」