WGPの、レースがしばらくない時期がぽんと降って湧いた。
練習はもちろんある、しかし、オフの日も作ろうと思えば作れるスケジュールだ。
シュミットはそわそわとそしてうきうきと、日本国内の旅行雑誌を数冊買い込んでエーリッヒに持ち掛けた。
「なぁ、休みを取って、旅行に行かないか」
エーリッヒはちょっとびっくりした顔をして、シュミットの手から本を一冊受け取り、ぱらぱらとめくる。
「どこに行きたいんですか?あまりまとまった休みは取れませんよ」
「近場でいいんだ。ほんの二、三日でいい」
シュミットは別の雑誌の、付箋が貼ってあるページを開いてエーリッヒの眼前に突きつけて
「この、“都会の喧騒から切り離された隠れ宿”に行きたい」
と主張する。
「へぇ!いい雰囲気ですね。温泉宿ってやつですね」
「美しい景色を見ながら露天風呂に入れるそうだ」
「でも………日本の温泉は…」
一旦は興味を示したエーリッヒが、顔を険しくする。シュミットは首を傾げた。
「温泉、嫌いか?興味無いか?」
「いいえ、嫌いとかでは。興味はあります。でも……」
エーリッヒは、ぽん、とシュミットの両肩を叩くように手を置き、真面目で困った顔をして言う。
「日本の温泉は、裸で入らなければならないんですよ。水着の着用はできないんです。つまり、あなたの裸を他の男の目に晒すことになります」
それはしたくありません、とエーリッヒは到底引き下がりそうもない様子。過保護だ。
だがシュミットだって簡単に引き下がりはしない。
「じゃあこっちは?こっちのこの旅館は、部屋に露天風呂が付いてるらしい。ここならいいか?」
シュミットは別のページを開いて指さし、エーリッヒの目を見た。上目遣いのサービスに、甘えるような声音で
「なぁ、お前とふたりきりになりたいんだ」
ととどめを刺す。
確かに寮生活、しかも何事もチーム優先の生活をしていて、ストレスが無いわけではないエーリッヒに、このおねだりは効いた。
「………一泊しかできませんからね?」
「十分だ!ありがとうエーリッヒ!」
許可を得て、シュミットは嬉しさに笑んだ。
さて、いざ休みを取るとなると、前倒しで片付けないといけない仕事が出てくる。
それをなるべく急いで片付けていると、ミハエルに不思議がられた。
「どうしたの、ふたりとも。そんなに仕事詰め込まなくても……」
「いえ、来週、二日程休みを取るので」
シュミットは書類から顔を上げ、機嫌よく答えた。
あっ!とエーリッヒが焦った顔をしたのを目の端に捉え、シュミットはなにかまずかっただろうかと不思議に思う。
「休み、ね。いいけど。なんでまた急に」
「エーリッヒと、一泊で温泉に行って来ます」
「シュミット!」
「温泉!」
エーリッヒの小声の叱責のような声をかき消す程大きな声で、ミハエルはきらきらと目を輝かせた。
「いいなぁ!僕も行きたい!」
エーリッヒがこそりとシュミットの耳元で「ほら…こうなるから僕、黙ってたんですよ」と溜息混じりに言った。
「あなたも行けばいいでしょう?なにも私たちと一緒に行く必要はない」
シュミットはしれっとしてミハエルにそう言うと、エーリッヒに「ちゃんと断ったぞ」との意思を込めた目配せをする。
「えー。ふたりで行くつもり?僕を置いて?」
不満げなミハエル。
しかしシュミットも、ふたりきりを譲るのは嫌だった。
「ふたりで行きます。泊まるところは内緒です」
とにっこり言って、ミハエルを拒絶した。
「さぁ、そろそろ練習走行の時間ですね。コースに出ましょう」
エーリッヒはミハエルの気を逸らそうとしたのか、そう声をかけた。
ミハエルは、残念そうにシュミットをちらちら見てきたが、シュミットはそれをツンと無視すると、さっさとコースに向かってミハエルたちを置き去りにした。
旅行当日となり、シュミットはわくわくと心を踊らせていた。
初めて乗る電車。エーリッヒがシュミットと二人分の切符を買って渡してくれる。
がたごと揺れる窓から外を眺めて、だんだん増える緑に期待感を高める。
「ずいぶん遠くまで行くんですね。これでは移動でだいぶ時間を取られてしまうのでは?」
と、旅のプランを立てている時にエーリッヒに言われたが、シュミットは「そのくらいの方が日常からかけ離れていて面白いだろう?」とエーリッヒを説得した。
電車を二度も乗り換え、ほとんど人のいない車両のボックス席を陣取る。
外は田んぼや畑の田園風景だ。
シュミットはそれを興味深く飽きず見ていた。
ふと視線を感じ、エーリッヒを見る。エーリッヒは外を見ず、シュミットの顔をじっと見ていた。
「…何だ?」
「いえ……楽しそうで、可愛いなって」
くすりと笑うエーリッヒが愛しく、シュミットは
「ああ、楽しいさ」
と向かいの席のエーリッヒに笑いかけた。
たっぷり三時間以上の電車移動を経て、小さな駅で二人は降りる。
「んーっ、腰が痛い…」
箱入りのシュミットの身体には、クッション貼りとは言え電車の粗末な椅子に超時間座っているのは酷だった。だが、それをも上廻る旅への高揚を感じつつ、シュミットはエーリッヒを早く早くと急かして駅からの道を歩く。
初めこそそんな調子だったシュミットだが、そのうちに道は木々の間に飲み込まれ、ぽつりぽつりといた通行人すらいなくなってしまい、本当にこの道か?と不安になり始めた。
「エーリッヒ、地図はあるか?」
シュミットが訊ねると、そっとエーリッヒがシュミットの手を取る。
「大丈夫。この道で合ってます。行きましょう」
ぐっと力を込めて引っ張られ、シュミットは目をぱちぱちする。
なんとなくその手を離すタイミングを掴めず、しかしふたりきりの旅なんだし、周りに人はいないのだから、とシュミットは思い切ってエーリッヒの手をぎゅっと握り返した。
「ふふ。こんな風に手を繋いで歩くの、すごく久しぶりですね」
エーリッヒが嬉しそうにするから、シュミットは恥ずかしくなり視線を伏せた。
林の切れ目が先に見えてきた。
きっと目的地はもうすぐ。
惜しく思いながら、シュミットは静かにエーリッヒと繋いでいた手を振りほどいた。
「あと少しですね。疲れていませんか?」
「大丈夫だ」
エーリッヒに労られ、シュミットは笑顔を向ける。
そうして、ようやくたどり着いたその宿の門を潜ると──見覚えのある黒塗りの高級車が、駐車場に停まっているのが真っ先に目に入った。
「…………やられた!!!!」
ナンバーを確認すると確かにそれはミハエルが普段から使っている車だ。
シュミットは頭を抱え、エーリッヒは呆然とその車を見つめる。
せっかくのふたりきりの旅が台無しだ!
しかし今更キャンセルなど出来るはずもない。
シュミットは渋々玄関へ歩みを進める。エーリッヒもそれに続く。
だが、女将に出迎えられ、部屋に通され、シュミットの機嫌はそれですっかり治ってしまった。
古い日本の建物、畳張りの部屋、外にはプライベートな露天風呂。何もかも面白く美しい。
「エーリッヒ、早速風呂に入ろう!」
ミハエルが邪魔しに来る前に、とシュミットはエーリッヒを振り向いて言った。
「そうですね。………脱ぐの、お手伝いしますよ」
エーリッヒはにやりと、シュミットの衣服に手を掛ける。
「すけべ」
シュミットもにやりとしてから、エーリッヒに顔を向けて目を瞑る。
エーリッヒはシュミットの合図をもちろん正確に汲み取り、そっと優しくシュミットの唇を啄んだ。