広大な学園の片隅に、斗和のお気に入りの場所がある。
古い温室と、その隣にある小さな薔薇園。
斗和は、今日もその薔薇園に備え付けのベンチに座って、いつものように通学バッグからマグボトルとお菓子を取り出した。
「やっぱり時間経っちゃうと、ちょっと物足りないなぁ」
くん、と水筒に入れた紅茶の香りを嗅ぎ、溜息をつく。
今日のお茶菓子は、学園最寄り駅の近くの、話題のパティスリーの焼き菓子詰め合わせ。
こうして薔薇や季節の花を愛でつつお茶をするのが、斗和の好きな昼休みの過ごし方だった。
その出会いは、突然に訪れた。
薔薇園の入口の方から、小路をゆっくりと、見覚えのある学生が歩いて来ていた。
生徒集会の際、講堂のステージ上で生徒会長の傍にいつもそっと控えている、生徒会会計の円蓮先輩だ。
秋の陽射しに、円先輩の綺麗な金色の髪が輝くのを、薔薇を愛でるのと同じ気持ちで、斗和はぼーっと眺める。
円先輩は、斗和の視線に気づき顔を上げると、戸惑ったように首を傾げた。
「あっ……す、すみません、じろじろ見てしまって…!」
斗和は慌ててベンチから立ち上がる、そしてうっかりボトルを倒して紅茶を浴びてしまう。
「あっつ……!」
「大丈夫ですか!?」
円先輩は、駆け寄ってきてポケットから取り出したハンカチを、斗和に差し出した。
「あ、大丈夫、です。ちょっとかかっただけで…」
眼鏡越しの心配そうな視線が、斗和には恥ずかしくて頬を赤くしながらごまかし笑いを浮かべる。
「こんな所で、何をしていたんですか?」
円先輩は、斗和が無遠慮にベンチに広げたひとりお茶会の形跡を見て、また首を傾げた。
ここは、小さな薔薇園こそあるものの、もっと大規模な薔薇園が学園の違う場所にもあるし、そうそう人は来ない。
「薔薇を見ながら、お茶をしていたんです。秋薔薇の季節になりましたから」
斗和にとっては、むしろ人の少ないこちらの薔薇園の方が好都合だった。
好きな品種の薔薇も植えてあったし。
「お茶……へぇ。ああ、その箱、もしかしてあのお店の…」
「はい、駅の近くの。焼き菓子の詰め合わせです」
「お茶かぁ。いいなぁ…」
円先輩は、ほぅと溜息をついた。
忙しい生徒会役員の円先輩にとっては、昼休みも仕事の時間と変わりない。食事もとらず仕事をしている…と、斗和は噂で聞いたことがあった。
こんな所でのんびりひとりでお茶会をするような暇は、円先輩にはあるはずも無い。
円先輩が羨んだのは、斗和の自由な時間なのだろう。
斗和は、お茶会を愛している。
美味しいお茶、可愛いお菓子、ゆったりと流れる時間。
それらを取り上げられたらきっと斗和は廃人になってしまう。
それで、斗和は急に円先輩が可哀想になった。
高い能力があるのも、考えものだなぁ。
なんてぼんやり思いながら、斗和は焼き菓子の箱を開ける。
「円先輩、お菓子、いかがですか?」
「え、いいんですか?」
「はい。たくさんありますから」
ぱあっと円先輩の顔が輝いた。
「ありがとうございます!…あれ、ボクの名前…」
「生徒会の方のお名前くらい、存じてますよ。円先輩、有名人ですし」
可愛らしい顔立ちに、どこかふわふわとした物腰の円先輩は、一部に熱狂的なファンがいるくらい、人気者だ。
思いがけず言葉を交わせて、斗和は嬉しさににこにこと頬を緩ませる。
「あ、自己紹介もせず、失礼致しました。オレ、1年の佐藤斗和と申します」
名乗ると、円先輩は小さく「佐藤くん、」と名前を呼んでくれた。
「で、先輩はこんな学園の端っこまで何しにいらしたんですか?」
今度は斗和が首を傾げた。
薔薇園があるとはいえ、校舎からは随分離れているこの場所に、忙しい円先輩が居るのは不思議だった。
「あ、そうだった。温室を見に来たんです。改修の必要があるか、予算管理の都合上見ておかないとと思って」
はっと、円先輩は温室に目をやる。
その手にはしっかりと、フィナンシェが握られていた。
「円先輩、失礼ですが、働きすぎは良くないですよ…?」
ごはん、召し上がってくださいね?と斗和が眉を下げて言うと、円先輩はふんわり笑って「ありがとう」と答えた。
「今度、お菓子のお礼しますね」
「いいですよ、フィナンシェひとつくらい。それと、1年生相手に敬語もいらないですよ」
斗和はふふっと笑って、この場に完璧なティーセットが無いことを残念に思った。
*****
それから数日、学園は文化祭の準備期間に入ろうとしていた。
「いや…これは無理やろ」
斗和の作ったドリンクリストを見て、クラスの学園祭実行委員長で、斗和の友人であるカタナがうげっと言う顔をした。
「え、なんで?」
斗和は首を傾げる。
「ダージリンとアールグレイとディンブラとニルギリとアッサムと、他にフレーバーティー10種類程度はリストアップしたけれど……まだ足りなかったかな?」
「いやいやいや、こがん紅茶しかない喫茶店、誰が来るとや」
「喫茶店だと思うからいけないんだよ、ティールームかサロン・ド・テだと思えば普通だって!」
「うちのクラスの出し物は喫茶店じゃい!」
「えー……」
斗和がしゅんとした顔をしてみせるも、カタナには通用しない。
「まず飲み物は、コーヒー、紅茶、オレンジジュース!」
「待って、紅茶ってなに、どこの何の茶葉使うの」
「スーパーで売ってるティーバッグ」
「えええええええええ!!!!」
ヤダヤダと斗和が抗議する。
しかし斗和のリストに載っている紅茶は、どれもひと缶三千円はくだらない紅茶ばかりで、カタナとしては承認する訳にはいかない。
「諦めんさい。予算が限られとるっちゃけん」
「予算………予算、ね………」
ふと斗和の脳裏に、数日前に出会った円先輩の柔らかな笑顔が浮かんだ。
「……予算増えないか、生徒会に交渉してくる!」
「あっ、斗和!?」
カタナがリストから顔を上げた時にはもう斗和は、廊下の彼方まで走り去っていた。
*****
「……という訳で、うちのクラスの予算、増えませんか」
生徒会室に単身乗り込んだ斗和は、おずおずと円先輩に訊ねた。
「それは………ちょっと……………ひとクラスだけ特別扱いは…」
「じゃあ、オレが自費で紅茶を買ってそれを振る舞うのも駄目ですか?」
「それもちょっと……文化祭は、あくまでも学校行事ですので……」
円先輩は心底困った顔をした。
斗和は円先輩を困らせたい訳ではなかった。
斗和は、ゲストを心尽くしのお茶会でもてなしたく、わざわざクラスの実行委員のひとりに手を挙げたのだ。
斗和の考える“素敵なお茶会”には、文化祭という舞台は不向きらしい。
そもそも、クラスの他の実行委員の提案する、紙コップでのドリンクの提供も、斗和には面白くなかった。
せっかくのお祭りごとなのになぁ、と斗和はしゅんと視線を落とした。
「……佐藤くんは、紅茶が好きなんだね」
くすりと円先輩が笑った。
重苦しかった空気が軽くなったように斗和には感じた。
「紅茶も勿論好きですけれど。お茶会が、好きなんです。お茶とお菓子と、友達との談笑の時間が」
「へぇ。いいね、楽しそう」
円先輩は優しく頷いてくれて、斗和はしっぽがあればぶんぶん振りたいような気持ちになる。
「文化祭では無理ですけれど、今度個人的にお茶会を開いたら、円先輩をご招待させてください」
「ありがとう。ぜひ!」
円先輩が笑ってくれたから、斗和は文化祭はもう“喫茶店”でいいや、と思うことにした。
*****
「カタナくん、ただいまー!」
クラスに帰ってきた斗和を、カタナはあたたかく迎えた。
「おう、お帰りんしゃい。どげんやった?」
無理に決まっているが、一応結果も聞いてみる。
「うん、予算は増えなかったけど、円先輩をお茶会にお誘いできた!」
「そうか!良かったな!」
カタナはにかっと笑うと、斗和の背中をぱしんと叩いた。
「なら、クラスの出し物に集中してくるんね?」
「うん。ねぇ、喫茶店なら、ホットケーキとクリームソーダは出したい!」
「良かね、純喫茶風にすると?」
ようやく正しい方向に斗和はやる気を出した。
カタナは手元のメニュー案に“ホットケーキとクリームソーダ”と書き込んだ。
*****
文化祭の最終日。
斗和はまたも生徒会室の前にいた。
深呼吸をして、コンコン、と生徒会室のドアをノックする。
「はい、どちら様でしょう…?」
すぐに内側から扉は開かれ、そこにはやはり斗和の予想していた通りの人がいた。
「円先輩、ごきげんよう」
「あ。佐藤くん。こんにちは。文化祭、楽しんでる?」
「はい。うちのクラスの店番が終わったので、今日は円先輩にこれを渡しに来ました」
にこ、と斗和は微笑み、純白に金色の縁取りが施された封筒を差し出した。
「ボクに…?」
「お茶会の招待状です。日程は、複数準備しておりますので、円先輩のご都合がつく日にいらして欲しくて」
視線を地面に落として、斗和は一息に捲し立てた。
「美味しいお茶とお菓子を用意してお待ちしております。ご参加頂けましたら嬉しいです」
「わぁ……」
まるで、結婚披露宴の招待状のようなソレを受け取り、円先輩は目を丸くした。
「ありがとう。予定を合わせて、行けるようにするよ!」
「本当ですか!良かった…」
斗和はふにゃりと笑った。
そんな顔をすると、半年程前まで中学生だったんだな、と思わせる幼さが雰囲気に出る。
円先輩はくすりと笑った。
「あ!それと、円先輩、文化祭で忙しくなさってませんか?ご飯食べてます?」
はっ、と思い出したように斗和は円先輩に訊ねる。
「う。……まあ、忙しいのは、否定できない…………かなぁ…?」
円先輩は気まずげに視線を逸らした。
これは、食べてないかもしれない。
「うちのクラスの喫茶店、来てください!ゴハンもスイーツも、皆頑張って美味しいのを用意してますから!」
斗和は今にも円先輩を自分のクラスに引っ張って行かん勢いで詰め寄った。
「あ…、すみません!つい、馴れ馴れしくしてしまいまして……!」
そしてぱっと離れて、赤くなりうぅーーーーーと唸る。
「とりあえず、ゴハン食べてくださいね!それと、お茶会、オレの全力で準備しますから!楽しみにしててください!…それでは、お邪魔致しました。失礼致します!」
斗和は頬を赤くしたまま言うと、ぱっと駆け出して行った。
「あっ。佐藤くん、廊下は走らないで…!」
円先輩の声を背中に掛けられ、斗和は遠くでピタリと止まると、振り返ってぺこりと頭を下げた。
*****
文化祭も終わって落ち着いた頃。
お茶会に、円先輩が来てくれてから、斗和は完全に円先輩に懐いた。
いつの間にやら円先輩を「蓮さん」と呼ばせて貰うようになった斗和を、クラスメイト達は羨望の眼差しで見つめていたとか。
斗和は、教室の自分の席で、次のお茶会に出すつもりの紅茶をすいすいっとスマホの通販サイトで取り寄せてから、LINEメッセージを“蓮さん”に送る。
『昨日、取り寄せたお菓子が届いたので、後で生徒会室に差し入れに行ってもいいですか?』
素敵なお茶仲間が出来た、と、斗和は満ち足りた気持ちでスマホをバッグにしまうと、花も終わりかけの薔薇園へと、足を向けた。