カチッ。
時計の針が日付変更を示して重なった瞬間に、エーリッヒはほとんど無意識でスマホを手に取った。
電話の着信音を期待していた。
電話がなくとも、メッセージのひとつくらい。
………いや、日付変更の瞬間に、というのは期待しすぎか。とエーリッヒは溜息をつく。
0時ちょうどどころか、今日中に連絡が来るのだろうか───
ブブッとスマホが突然、メッセージの着信を告げて振動した。
「!」
エーリッヒは飛びつくような勢いで、メッセージを確認する。
«お誕生日おめでとうエーリッヒ!»
そのメッセージと共に表示された差出人は、ミハエルだった。
エーリッヒは深く深く溜息をつく。
すいすいと画面を操作し、当たり障りのないお礼メッセージを返して、メッセージアプリの差出人欄に並ぶ名前の羅列を見詰める。
シュミットと迎えない誕生日は、本当に久しぶりだった。
ある年から、必ずシュミットは日付が変わる瞬間には隣に居てくれるようになった。
おめでとう、とキスをくれるシュミットが隣にいない誕生日なんて、エーリッヒにとっては全く祝う価値などなかった。
ブブブッ
またメッセージの着信があった。
エーリッヒはこんどこそシュミットかとハッとする。
«聞いたよ。今日、誕生日だって?ハッピーバースデー»
祝いの言葉と共に、添付してあった写真。
無数のアルコールの缶と、空のワイングラスが並ぶテーブルに突っ伏すようにした、シュミットの寝顔の写真だ。
カッとエーリッヒの顔は朱に染まる。
よりによって、差出人はブレット。
それを見た瞬間にエーリッヒはチッと舌打ちをし、ほんの一瞬の逡巡もなく電話を掛けた。
相手は直ぐに出た。
『ハロー?』
「今からそちらに行きます。あなたの部屋ですよね」
挨拶もせずエーリッヒはブレットに告げる。
『おいおい、何を苛苛しているんだ?クールにいこうぜ』
電話の向こうでブレットは苦笑した。
エーリッヒの態度があまりにも予想通りだったせいだろうか、それとも、普段温厚なエーリッヒらしくなかったからだろうか。
「うるさいです。勝手にシュミットの寝顔を撮らないでください」
エーリッヒが荒々しく言うと、ブレットは、
『なんの権利があってそんなことを?』
とエーリッヒを煽ってきた。
「僕は、恋人が他の男の家で酔い潰されて寝顔まで撮られて、平気でいられるような人間ではありません」
『恋人?シュミットは、もう別れたと言っていたが?』
「別れていません。シュミットがヒステリーを起こして馬鹿なことを口走ったようですが、僕は承諾していませんから」
エーリッヒは通話しながら上着を着込み、部屋を出る。
シュミットとふたりで住んでいる部屋のある高層階までのエレベーターがなかなか来ず、エーリッヒはまた苛立ち舌打ちをした。
「これ以上シュミットに何かしたら、僕はあなたの身の安全を保証しませんよ」
『脅迫か?傷害沙汰は御免だぜ?』
「だったら、今すぐシュミットから離れて大人しくしていてください。運転するので一旦切りますね」
こわいこわい、とブレットが言い終わらぬうちに、駐車場に到着したエーリッヒは通話をブチッと切った。
愛車のエンジンを掛けるとやや乱暴な運転で、近所のブレットのマンションに向かう。
ほんの数分がとてつもなく長く感じた。
ブレットのマンションのエントランスに車を横付けし、エーリッヒはまたブレットに電話をかける。
「あなたの部屋、何号室でしたっけ」
『もう着いたのか?早いな』
「シュミットは起きました?」
『いいや、まだ寝てる』
「起こしてください。いま、すぐ!」
オートロックのために中に入ることができず、エーリッヒはエントランスの扉を睨みつけ立ち尽くす。
『シュミット、起きろ。……起きろって。俺が刺されたらどうするんだ』
「シュミット!起きて、降りてきてください。帰りますよ!」
エーリッヒはブレットの隣に居るはずのシュミットにも聞こえるように、声を荒らげた。
『…エーリッヒ』
気まずそうな、少し弱々しい、シュミットの声が聞こえた。電話を変わったようだ。
「シュミット!」
『………何しに来た』
「迎えに来たに決まってます」
『なんで。お前、もう俺に愛想を尽かしただろう?』
「なんでそんな勘違いしちゃったんです?そんな訳ないでしょう」
エーリッヒは宥めるように語気を和らげて語りかける。
『勝手にヤキモチ妬いて、勝手に別れるって騒いで、勝手に出て行ったのに?』
「妬いてくれるのは嬉しいですよ。あなたには、嫉妬する権利も僕を束縛する権利もあるんですから」
『エーリッヒ……』
「愛してますシュミット。だから、帰りましょう」
『……ああ。すぐそっちに行く』
「ええ。待っています」
電話の向こうでシュミットがブレットに、急に押しかけて来て悪かった、もう帰るよ、と詫びている声をマイクが拾った。
エーリッヒはほっと胸を撫で下ろす。
『エーリッヒ?』
電話口から再びブレットの声が流れてきた。
「ブレット。シュミットの寝顔の写真はくれぐれも削除してくださいね」
『……ノーと言ったらまた脅迫するのか?』
「しますよ」
『だが、勝手に酔い潰れて寝たシュミットが無防備すぎるのが悪いとは思わないのか?』
「そうだとしても、です。シュミットには後でよーく言い聞かせておきますから……あ」
エントランスホールにシュミットが現れ、駆け寄って来るのを確認し、エーリッヒは微笑んだ。
「では、ブレット。僕のシュミットがお邪魔しました」
『またいつでも来ていいと伝えてくれ』
「伝えません」
プチッ。
通話終了ボタンを押すと、エーリッヒはもじもじとしながらばつが悪そうに隣に立つシュミットの肩を抱く。
「心配しました」
「……すまない」
「今日、何の日か、覚えてますよね?」
「お前の……誕生日……」
「そんな日に、ブレットの部屋で酔い潰れて。悪い人だ」
「……………悪かった」
ふ、とエーリッヒは眉を下げ、シュミットの赤い目元にキスをした。
「帰りましょう」
「うん」
シュミットの肌はしょっぱかった。
泣いたのだろう。
プライドの高いシュミットが、酒の力を借りて。
「エーリッヒ……誕生日おめでとう」
助手席に乗り込むと、シュミットはそれ以外にもなにか言いたげな目をして、そう告げてくれた。
「ありがとうございます」
笑いかけて、エーリッヒはエンジンを掛け、アクセルペダルを踏む。
「帰ったらまずお風呂に入って、ブレットの匂いを綺麗に落としてください。…そのあと、お仕置きをします」
「……うん」
シュミットの返事には色がついていた。
期待の色だ。
(全く、この人は……)
エーリッヒは運転をしながら横目でシュミットを盗み見る。
きゅっと引き結ばれた唇を早く味わいたかった。
「お仕置きのあとは、…そうですね、お酒はもう十分飲んだようですから、ハーブティーでも淹れて。ゆっくりお互いの誤解を解きましょう」
「うん」
「それから……、最後に。プレゼントにあなたをいただきますね」
「…………身体がもたない」
シュミットは両手で顔を覆って天を仰ぐと、消え入りそうな声で言った。
暗い車内でも、耳が真っ赤なのは想像だけで知れた。