金曜日、深夜に近い時間。
遠慮がちに部屋のドアがノックされ、ミハエルは誰だろうとベッドを抜け出す。
「はーい?」
「リーダー…私です。シュミットです」
小さな声で告げられた名前と声質はきちんと一致していたし、なによりここはセキュリティもばっちりなはずのインターナショナルスクールの寮。
ミハエルは特に警戒もせず、ドアを開けた。
そこには、申し訳なさそうにパジャマ姿のシュミットが立っていた。
「どうしたの、こんな時間に」
「……中に入れていただけますか」
「勿論いいけど」
シュミットを部屋に入れて、ミハエルは首を傾げる。
ベッドに腰掛けると、シュミットに隣に座るよう促して、もう一度「どうしたの」と訊ねた。
「……エーリッヒと喧嘩しました。もう一緒にはいたくなくて」
シュミットは俯いて、力なくそう答えた。
「喧嘩」
ミハエルは鸚鵡返しするように呟く。
まあ仲の良い幼なじみとはいえ、四六時中一緒に居ればそういうこともあるだろう。
しかし、いつも控えめでシュミットを尊重するエーリッヒが、喧嘩になるほど自己主張するとは珍しい。
「そういうことなら、今夜は僕の部屋に泊まってもいいけど。……なんで喧嘩になったの」
ミハエルは、俯くシュミットの頭にそっと触れながらまた訊ねる。
シュミットは、ただ頭を振って何も言わなかった。
やれやれ、とミハエルは溜息をつく。
「そっちのベッドつかっていいよ。眠れそう?」
二人部屋を一人で使っているミハエルは、使っていない方のベッドを指してシュミットの顔を下から覗き込む。
「リーダー………私は……」
シュミットは、泣きそうな声を出して、視線でミハエルに縋った。
気の強いシュミットがこんな風になるなんて。
余程エーリッヒとの喧嘩が堪えているらしい。
「眠れないなら、ギュッてしてあげようか?」
ミハエルは、幼いこどもにするように、シュミットを抱きしめた。
そしてドキッとする。
思っていたよりずっと細く頼りない。
なんだか庇護欲を掻き立てられて、ミハエルはシュミットの頭を撫でた。
「どうしても言いたくないなら言わなくてもいいよ。でも、言っちゃったらスッキリするかもよ?どうする?」
ミハエルに優しく言われて、シュミットは一度唇を引き結んだ後、小さな小さな声で、喧嘩の原因を語り始めた。
「エーリッヒと、恋愛の話をしていたんです」
「うん」
「私には………好きな人がいて。それを言ったら、エーリッヒの目の色が変わって」
「……そっか」
ミハエルはなんとなく気づいていた。
エーリッヒの、シュミットへの恋心に。
だからエーリッヒは、焦ってしまったのだろう。
しかし、シュミットに好きな人がいることは知らなかったので、少し驚く。
と同時に、胸がちくりと痛んだ。
「エーリッヒが………自分じゃ駄目なのか、って言うんです」
シュミットが続けた言葉に、ミハエルは内心、ああやっぱりね、と思った。
「それで、エーリッヒに、ベッドに押し倒されて…キスされて」
「えっ!」
「………抵抗したんです。でも、顎をぐっと掴まれて。唇が重なってしまって」
「エーリッヒ……それは…、」
ミハエルは苦々しく思い眉を寄せる。
シュミットの意志を無視してそんなことをするなんて、と。
「よく逃げて来たね。怖かったよね、よしよし」
ミハエルは、抱きしめる腕に力を込め、シュミットを労る。
シュミットはミハエルの背に腕を回し、小さく息を吐いた。
「そういうことなら、エーリッヒが頭を冷やすまで、僕の部屋にいつまででも泊まるといいよ」
「ありがとうございます」
シュミットが落ち着くまで、ミハエルはシュミットを抱きしめ、頭を撫で続けた。
「…もう大丈夫です。すみません、変な話を聞かせてしまって」
シュミットはミハエルの胸をそっと押し、恥じらうように視線を逸らして身体を離した。
「きみの好きな人って、誰なの」
ミハエルは、好奇心だけでは無い不可思議な感情に負けて、シュミットに訊ねてしまった。
シュミットに好かれているその人が羨ましいと、確かにそう思っていた。
「それは………、」
シュミットはぽっと頬を染めて、口元に手をやり考え込む。
言おうか言うまいか、迷っている様子だ。
「どんな人なの」
ミハエルは質問を変えた。
聞いて何になると言うんだ、と頭の中の冷静な自分が言うが、ミハエルは追求を止められなかった。
………エーリッヒみたいに、「僕じゃ駄目なの?」と詰め寄りたくなるのを自覚して、ミハエルはシュミットにバレないように静かに溜息をつく。
どうやら自分も、シュミットにとって安全な男ではないらしい。
「どんなって………私なんかには勿体無い、すごく素敵な人ですよ」
ミハエルの質問を受けて、シュミットは自嘲するようにぽつりと告げた。
「ふぅん。……きみと付き合えるなら、誰だって幸せだと思うけどね」
ミハエルが言うと、シュミットはまた否定の仕草で頭を振り、
「そんなことありません。私は……我儘で利己的で、その人には相応しくないんです」
と答える。
「随分自己評価が低いんだね。きみらしくもない」
ミハエルが驚いてみせると、シュミットは、ははっと声を出して苦笑して、
「本当ですね。……恋愛って、そういうものなんですかね?」
と首を傾げた。
「きみに好かれてる人が羨ましいよ」
それはミハエルの本心だった。
でも、シュミットは、自分を元気づけるためのお世辞としてそれを受け取った。
「ありがとうございます。……こんな時間に押しかけてすみません。もう寝ましょう?」
「……うん」
シュミットが隣のベッドに入ったので、ミハエルもまたベッドに横になる。
部屋の電気を消すと、カチコチと時計の音がやけに耳についた。
シュミットの気配が気になって、ミハエルはずっとそちらに背を向けていた。
ぎゅっと目をつぶると、さっき抱きしめた細い身体や、好きな人のことを訊かれ頬を染めて恥じらうシュミットを思い出してしまって、ちっとも眠れそうになかった。