蕩けるより恋は疾く会社帰りの手元に紙袋を下げながら、月島基は駅から十数分の道のりを歩き、マンションのオートロックを解除してエレベーターを上がり──今まさに、自宅の玄関の前へ辿り着いたところだった。
廊下に面したキッチンの窓には灯りが見えて、同居中の恋人が在宅であることを伝えてくる。
月島よりもひと回りと少し年下の大学生であるかの人──鯉登音之進は、世間の女性たちが浮き足立って迎えるバレンタインデーの渦中ど真ん中にいるような華やかな容姿をした青年で、例年この日ともなればそれはもう莫大な数のチョコレートを持ち帰っているはずだった。
今年はいくつだろうか、と、嫉妬でもなくそう思いながら、月島は玄関の鍵を開けるべくドアに手を伸ばす。カチリ、と鍵が合うよりも先に、ばたばたと室内から足音が聞こえ──扉が開くと、件の華やかななりをした男が月島を迎え入れた。
「おけり」
目を細めて嬉しそうに笑った鯉登の背後から、微かに甘い匂いがする。貰い物のチョコレートだろうか、と気にもとめずに「帰りました」と言えば、鯉登はいつになくそわそわと指先を握り──「うん」と、少し、甘えたように月島を見た。
かわいい。
素直にそう思うのは長年の懸想からくる愛情によるもので、最近になってようやく、発露を許された感情であった。
鯉登はいつだって月島の前で憎らしくも可愛くて、こうして仕事を終えくたびれた男の前ではにかんで見せる顔などは、とにかくこの人が世界のなによりも可愛い、と、そう思わせるに充分な愛らしさをしているのである。
お前に恋をしているからかもしれん、と言われたある夜のことを不意に思い出し、月島は噛みしめるように唇を結んだ。
「…どうした、ぼうっとして」
「──いや。…かわいいなと…」
「…私が?」
「他に誰がいるんですか」
眉を微かに寄せてそう言えば、鯉登は頬をぱっと赤らめて「そうか」と短く呟く。見目の麗しさへの賛辞などさんざん言われ慣れているだろうに、こと月島を恋人として見るときの鯉登ときたら、本当にいたいけで堪らなかった。
今すぐ抱きしめてしまいたい感情を隠して靴を脱ぎ部屋に入ると、洗面所へ立ち寄って手を洗う。流石に背後へと着いてくることはせず、鯉登はリビングルームへぱたぱたとスリッパを鳴らして戻っていった。
足元に一旦置いた紙袋を通勤鞄と共に持ち直して後に続けば、キッチンと続きのリビングは甘い匂いが一層に漂っている。よほどの量を貰ったのだろうか、と首を傾げていれば、ソファに座った鯉登がとんとんと隣の座面を叩いて月島を呼んだ。
「何ですか、犬みたいに」
「お前もよく手を叩いて私を呼ぶだろうが」
「いつの話してるんです、それ」
言葉を交わしながらもどっかりと鯉登の隣へ腰を下ろすと、彼は躊躇もなく月島の膝へ跨り、ネクタイに指をかけて額を合わせてくる。足元に置いた紙袋ががさりと音を立て、中身の安否を少しだけ考えたけれど──目の前で羽ばたく長い睫毛を目にすれば、優先順位は簡単に決まった。
唇を合わせ、柔らかく張りのある弾力をやさしく吸う。ほのかな甘さに目を細めると、鯉登はそっと唇を離して吐息だけで「つきしま」と呼んだ。
「…今日が何の日か知っているか?」
知ってますよ、と答えて足元に目をやると、鯉登の眼差しが従う。紙袋の中身はラッピングされたチョコレートが幾つか入っていて、多くは出社するなり机に乗っていたものだった。
「──女泣かせめ」
「義理ですよ、こんなの」
「わからんだろうが、ふふ」
どこか嬉しそうに言いながら、鯉登の指先がネクタイをゆるやかに引く。再び微かに唇が触れては離れ、舌を入れきれないもどかしさに月島はむすりと鼻へ皺を寄せた。
甘い匂いが誘うように嗅覚を擽り、このまま頭でも掴んで舌を捻じ込んでやりたくなる。それをどうにか理性で抑え込んで深い息を吐くと、月島は鯉登の頬へちゅっと唇を寄せた。
「そう言うあなただって、たくさん貰っているんでしょうに。…甘い匂いがする」
すん、とこれ見よがしに鼻を鳴らすと、鯉登はどこか曖昧に「うん…?」と言葉を濁して、月島の頭を撫でてきた。しなやかに見えその実柔らかくはない手のひらにざらりと坊主頭を擽られれば、彼は自分よりも遥かに年下だというのに──いつだって甘えてしまいたくなる。けれどもその歯切れの悪さを見逃してやる気にはなれなくて、月島は改まってひと言だけ「鯉登さん」と呼んだ。
「…なにかありました?」
「ン、…いや。…何もない。それに、…今年はひとつも、貰うてなか」
「は、…え? 学校、休みました? 体調悪いですか?」
思わず心からの疑問符が浮いた月島の言葉に、鯉登は居心地悪そうな素振りで首を横に振る。そうして、「何で」と更に言い募ろうとした男の唇に人差し指を押し当てて塞ぐと、緊張した面持ちで、ひゅ…っ、と、息を呑んだ。
「つ、…月島」
「はい」
「私のことが好きか」
「好きですよ」
迷いもなく答えれば、鯉登は一度だけ泣きそうに面差しを歪めた。子どものように眉根をきゅっ、と寄せたあと、ソファの端へ置いてあるクッションに手を伸ばし、その下から小箱をひとつ取り出して月島の胸へと押しつけてくる。
「…鯉登さん、これ」
褐色をした指先がふるりと震え、いつもなら抱きついてくるあたたかい身体は強張ったままだ。リボンの掛けられた箱は月島の手のひらより少し大きいくらいで、中身のことなど、聞かなくても知っているような気がした。
「…あ、…けても…いい、ですか…」
辿々しく口にすれば、鯉登は静かに頷き、震える指先を小箱から離してきゅっと握る。焦る気持ちを堪えてやわらかなリボンを解くと、硝子細工でも入っているかのようにそうっと箱を開けた。
箱の中には少し不恰好なチョコレートトリュフが六つ、所在なさげに詰め込まれている。
甘い匂いの元はここか、と得心した月島の前で、ココアパウダーが微かに舞った。
二人で暮らすようになってから、キッチンに立って料理をすることを覚えたのがついこの間だったというのに。
既製品にはない少しだけごつごつとしたトリュフのシルエットに手製だと確信をして息を詰め、鯉登の目をじっと見る。
「…上手う、…できらん、やった」
唇を結んで目を潤ませる恋人の、なんといじらしくて愛らしいことだろうか。小箱を丁寧にテーブルへと置いてから、月島は膝の上でくすぶる鯉登の背中をぎゅうっと抱きしめる。
「…作ってくださったんですか、…ひとりで」
甘い匂いを残す首筋にすりすりと鼻を埋めながら言えば、安心したように鯉登が背中に腕を回してくる。耳元で「ん」と頷く声がして、それから、鯉登は自ら舌を差し出し、月島の耳朶をぺろりと舐めてきた。
子猫のするような──けれど完全に男の欲情を知る仕草にゾクッ、と興奮が湧き立ち、首の薄い皮膚をじゅっと吸う。口付けのあとを残すようにきつく吸い付くと、鯉登は舐めたばかりの男の耳朶を指先でくすぐりながらこめかみにやさしくキスを落としてきた。
「…特別だ。今年は──月島の、…お前のだけ。…あとは、ぜんぶ断った」
「──私は、普通に貰いましたよ…」
「そいでよか。…私が、お前だけのものになりたかっただけだ」
「鯉登さんが、…俺の」
幼稚な言葉で紡ぐ独占欲に鯉登はとびきり甘い声をして「そうだ」と、答え、ネクタイを片手で引いてキスを強請ってくる。
これ以上は耐える理由も必要もなく唇を思い切り重ねて食み、舌先をちゅくちゅくと絡めれば膝上で腰がしっとりと揺れた。
そのままソファに背を沈めたい情動に少しだけセーブをかけてテーブルの上へと手を伸ばし、チョコレートをひとつ摘み上げる。
浮かされた心地で指先を差し出し、潤む唇へと一粒を挟み込み、そのまま鯉登の小さな頭を押さえて唇を合わせた。緩く蕩ける甘さを柔らかい舌へ絡めて、込められた愛情ごと貪るようにじゅくじゅくと吸う。
ふーッ──っ、と、己の荒い呼吸が激しく響き、鯉登の荒くなった微かな吐息を覆って濡れた。疼いたようにうねる尻を片手でわし掴めば、鯉登はびくっと僅かに体を跳ねさせる。
んく、っ、と愛らしく息を詰めた青年の、とうにチョコレートを溶かし切った粘膜を未練がましくねっとりと舐め、最後にひときわ弱い舌先を吸ってから唇を離した。
「ン、っ…く、…」
芯をなくした体を男の胸に預けた鯉登の唇から熱く吐息が溢れて、背中を撫で下ろせばとろけた体がひくひくと波打つ。その体躯を拾い上げるようにしてきつく腕に抱いてから、月島は鯉登の耳元へ切実な声を寄せた。
「…お返しは、何がいいですか…私にできるものなら何でも…」
呼吸の合間に、うふふ、と、ほどけたような笑い声がして、鯉登は月島の目の前に左手の指先を差し出してくる。
「──薬指が空いちょっ」
冗談めかすには愛おしすぎる弾む声音へ間髪入れずにその手を取って握ると、大きな黒目がぱちりと瞬きをした。
「…今から買いに行きましょうか」
本気の申し入れに、鯉登は今度こそ声を立てて愉しげに笑い──
「やっせん。──…今夜はもう、二人きりがよか」
そう言って、月島の唇の端に残る蕩けた甘い残滓を、やわらかな舌で拭った。