ともがき 朝から冒険者協会の依頼をこなし、ヒルチャールやアビスの魔術師たちを蹴散らして昼頃。璃月港に帰ってきたら講談師の真ん前、いつもの席に座る鍾離先生と──……同席している彼を見つけた。
「し、侵入野郎?!」
驚いた。パイモンが上げた声が聞こえたのだろう、彼がゆるりとこちらへ視線を移してうすらに笑う。
「おう。奇遇だな」
「おまえ、外に出られたのか?!」
「ちび、お前さんたびたびおれのこと馬鹿にしてくるな?」
ひでえやつだ。喉を揺らして笑うさまに、おいで、と言われているような気がして身を寄せれば、きょとんと少しだけ目を見開いた鍾離先生が言った。
「旅人、彼を知っているのか?」
「知り合いというか」
「いまはこいつらんところに間借りしてる」
「……また勝手に住み着いてるのか」
仕方ないやつだ。ふう、と小さくため息をついた先生は、俺たちに席を勧めた。また、とは。首を傾げたが、店員が注文を聞きにくるのに思考は中断された。ふたりでそれぞれ頼み終えてから気がついた。テーブルの上には美味しそうな料理がいくつかのっているが、全て鍾離先生に寄っている。彼の前にはない。
「もう食べたの?」
「いや。おれぁひとが食ってるのを見るのが好きでね。同席だけしてる」
今日もそれさ。会話に応えるように麻婆豆腐を口に運んだ鍾離先生を、頬杖をついたまま眺める姿には既視感があった。そういえば、彼はいつも俺たちが食べる姿を見るだけだ。時間がまちまちなので先に済ませているのかと思ったけれど、そもそも食べていないらしい。パイモンがぎょっとして彼を見る。
「ほんとか?! 腹は減らないのか? 何を楽しみに生きてるんだ……」
「パイモン……」
ご飯とお宝が大好きなパイモンからすれば信じられないのだろうけど。じっと非常食を見つめれば、なんだよぉ……と弱々しい声が返ってきた。その姿を見てかれが笑う。
「はは。言った通り、おまえさんらがうまそうに食ってるのが楽しみなのさ。このセンセだってうまいもんに当たった時はこの辺を緩ませやがる。そういうのがイイんだ」
彼に自分の頬を突きながら視線を送られ、鍾離先生はどこか呆れ顔だ。
「そんなことを考えていたのか。奇特な趣味だとは思っていたが」
「そうかい? 食はいいもんさ。どの時代、どの国に行ってもあるし、らしさが一番出る。当然、たべてる人間にも影響するもんだ。おもしれぇだろ?」
頼んだ料理が運ばれてきた。湯気とともにふわりと香る香辛料は、すっかり身になれたものである。きらきらと瞳を輝かせたパイモンが、懐から取り出した専用のフォークで(この非常食は手が小さいせいか、いつまで経っても箸がうまく使えない)揚げられた鶏肉を刺した。その隣の肉をひとつ、箸がつまむ。
「マ、食えねえわけじゃねえ。味がわからんと料理もできんからな」
「あ〜!」
彼はなめらかな動作でそれを口に入れた。ふうん、と小さくつぶやいてすぐに箸を置く。これに黙っているパイモンではない。身を悶えさせながら彼を怒鳴りつけた。
「なんでオイラのを取るんだよぉ! おまえも頼めばいいだろ!」
「すまんすまん、夕飯はおまえさんの好きなもん作ってやっから、おさめてくれや」
「!! なににしようかなぁ……あっいや、許したわけじゃないぞ!」
そもそも大抵彼女の食べたいものが出ている気がするが、胃袋を掴まれているとこれだからいけない。取り繕うふうですっかり夕飯のことに脳を割いている相棒は放って、ふたりを眺める。鍾離先生が行儀が悪いと眉を寄せるのに、彼は軽く笑うのみだった。会話を聞いていて思っていたけれど、どうやら彼らの付き合いは長いらしい。言動のひとつひとつにきやすさを感じた。
たとえばこんな話。
「どうだい、このセンセにゃ振り回されてるんじゃないかい? 頼りにゃなるが、ひとの細けえ機微ってもんをまるで感じられねえ男だろ」
「そうだろうか。理解しているつもりだが」
「おまえさんのそれは理屈さァ。昔っから言ってるがよ、理解と実感ってのは別もんだろうが。かみさま視点は抜けねえな」
「俺は凡人になったぞ」
「おまえさんが凡人ならだれだって凡人だぁな。名ァ捨てたところですぐにゃ変わらんとも。だから今の生活なんだろ? これからのんびり染まってくのがいいさ」
「む」
それからこんな話。
「旅人のところに居着いているといったが、どうだ。また食事を作っているんだろう」
「まァ。頬膨らませてたらふく食ってくれるやつがふたりもいるんでね、作り甲斐もあらぁ」
「旅人、あまりこいつの料理ばかり食べるのはおすすめしない。どこへ行っても物足りなくなってしまう」
「褒めてくれてんのかい? 照れるねェ。ならセンセ、おれの飯食ったせいで物足りなくなったってえのはなんだ? 教えてくんなよ」
「いわないぞ」
「なんで」
「やっと別の味に慣れてきたんだぞ。また食べられなくなる」
「……あっはっは! かぁわいい! 鍾離ィ、おまえさんいつのまにそんな可愛げ身につけたんだ、え? これぞ愉快ってえもんだなァ!」
「ふ、凡人は愛らしいものだろう?」
「冗談まで言いやがる!」
俺は彼が大口を開けてわらうところや、鍾離先生が拗ねるというか、不貞腐れるというか、そういう表情をしているところを初めて見た。どちらもタイプは違えど落ち着いていて、マイペースをたもつ人たちだから、こうして楽しそうに会話されると微笑ましく見えてしまう。そう、やっぱり彼らは長い付き合いなのだ。永い──……
後に続く言葉は、口の中いっぱいに詰め込んでいたものを飲み込んだパイモンがわけ知り顔で言ってくれた。
「ふたりは仲のいい友達なんだな!」
時が止まった。そう、錯覚してしまうほどに、ふたりは、特に彼が動きを止めた。眼球のゆらぎも、呼吸もない、たった一瞬。それでも俺たちが首を傾げるには十分の時間だった。
「侵入野郎?」
「……ン」
ちいさく頷き、彼がパイモンの頭に手を伸ばす。髪をかき混ぜかきまぜ、眉を下げて笑った彼は、ぞっとするほどやわらかい声で言った。
「おまえさんに目にそう映ったのなら、そうなのだろうよ」
そのまま彼は立ち上がった。鍾離先生が視線で彼を追う。心配するような、案じるような、そんな色があった。
「セイ」
「……悪ぃなセンセ、今日はこのへんで終いだ」
しかし彼はそれを遮断するように目を閉じる。宙で指を振ると、白緑の光とともに分厚い本と小さな袋が現れた。金属の擦れる音、きっと袋の中にはモラが入っているんだろう。ふたつをテーブルの上に重ねておき、先生の近くに滑らせる。のろりと開かれた瞳は、こちらを柔らかく見ていた。
「ちびも、おまえさんも。呼び寄せてすまねえな、このセンセとは知った仲なんだろ? 構わずゆっくりしていきな」
べつに、捲し立てられたわけではなかった。その声にも言葉にも彼らしい穏やかさが宿っていて、さきほどの楽しそうな会話の流れで同じことを言われていたら、きっと何の違和感も持たなかったのだろうと思うくらいに「いつもどおり」だった。……けれどそれらはすべて、努めて作られたものなのだと肌で感じてしまった。
別れの音だけを残し、風を纏って彼が消える。髪が頬をくすぐるなか残されたのは、俺とため息をついた先生、それから困惑しきりのパイモンだった。
「ど、どうしたんだ? オイラ、まずいこと言っちまったか?!」
「いや。大丈夫だろう」
「でも……」
あわあわと口元に手を当てる彼女に、ゆっくりと鍾離先生が首を振る。口元には苦笑いが添えられていて、いまにも仕方がないとこぼしそうな顔だった。
「あまり気にやむな、きっとセイもそう思っている」
セイ。先ほども聞いた。むしろ、一度も聞かなかったことがおかしかったのだ。意図して使われていなかった音だった。察しているくせに、それでも口から出るのを止められなかった。
「それは、彼の名前?」
「そうだ」
ずっと聞きもしなかった答えは簡単に得られてしまう。踏み込んでいる自覚があった。それと、本人に聞かない狡さも。これは、崩したくないと思っていた関係にひびをいれる行為だ。やめるのなら今だろう。けれど。
知らず、握っていた拳を解いた。鍾離先生は腕を組んでこちらを穏やかに見つめている。
「続き聞かせて、先生」
「いいのか?」
「うん、知りたい」
聞いてしまったから。わかってしまったから。今までと同じようにはいられない。彼は、嫌がるかもしれないけれど、それでも気になるのだ。一緒に暮らしているから。たくさん世話になっているから。なにより彼が好きだからだ。パイモンはどうだろうと視線を送ると、彼女はぐっと拳を持ち上げた。
「お、オイラも! オイラも聞きたいぞ!」
「ふふ。では、名の話からしよう」
講談師の声はもうずいぶん前からなくなっていた。いつだって賑やかな璃月の昼間、おだやかで、すこし機嫌の良さそうな先生の声がはっきりとこちらに届く。
「彼はいくつか名前を持っているが、全て物語ることを意味している。俺が知っているのは三つ。セイ、スクリプトゥム、それから綴だ。璃月ではセイと名乗ることが多いな」
彼がなにかを書きつけているのを見たことはあるか。そう言いながら、鍾離先生は彼が置いていった本を手に取った。表紙をひらけば、じわりと文字に緑の光が宿って、すぐに消える。彼がいつも、空中に書いているのと同じ色──……風元素のそれだった。
「セイは文字書きをしている。世界を見たそのままを綴ったり、架空の物語を作ったりもする。……あれほど滑らかに、美しく文をかたどる男を俺は他に知らない」
手袋をした指がページに触れる。また文字に色が灯って、書かれた一文にほんのすこし橙が混じった。元素がそっと指を撫でるのを見て、先生が笑う。
「紙の中で語ることも、こうして音でかたらうことも愛しているのに、あれは自分の話をしない。聞かれたとしても上澄みだけで、うまくかわすばかりだ」
ふと食事をする前のことを思い返した。そのときは違和感なんて感じなかったけれど、勝手に住み着いている、といった先生に対して、彼はなんの弁明もしなかった。食事についてだって、自分がなぜ食べないのかまで掘り下げなかったのだ。鍾離先生によれば、ああして眺める楽しさについて話したのも珍しいほうだという。
「指摘すれば、セイは口を滑らせたとでも言うかもしれないな。だが気づかないほどに、今日の場を楽しんでいたのだろう」
いいことだ。鍾離先生が器をゆったりと持ち上げて茶をすする。
「旅人。俺たちは友人だろう」
「うん」
「俺は、彼ともそうだと思っている。だがあれは、関係に名前を付けたがらない性質なんだ。忌避していると言ってもいい。昔はそうでもなかったが……」
視線を巡らせて、先生は口を閉じた。そうなった理由を知っていそうな口ぶりだが、過去までつまびらかにしてしまうのは違うと思ったのだろう。おれも、根掘り葉掘り聞きたいわけではなかったからそれでよかった。パイモンはむず痒そうな顔をしていたが、口を開くことはなかった。
「今日は、もしかしたら帰ってこないかもしれない。だが次に会った時は普通に接してやってほしい。彼も何事もなかったような顔をするだろう。あれは確かに世話焼きだが、気に入らない相手の家で飯炊を続けるほどお人好しではないからな」
「それは……」
彼も、今の関係を心地よく思ってくれているのだろうか。頭をよぎった疑問は、さきほど聞いた鍾離先生の言葉で良い方に落ち着いた。先生が笑う。今日は、よく笑う日だ。
「あれでいて、不器用なところがあるんだ」
そう、ついに仕方がないとこぼした彼は、どう見たって友人の顔をしていた。