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    karehari

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    karehari

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    キデwebイベント用展示小説。
    恋人じゃない二人が恋人になる話。
    イベント後もこのまま、もしくはpixivに投稿しますので、開催期間中でなくとも閲覧いただけると思います。

    ●健全
    ●いつにも増して捏造過多
    ●性別の明記のない司令が出ます お好きな解釈でどうぞ

    ゲーム本編と齟齬が生じましたら齟齬ごと大きな心で包み込んでください。

    One more shot.One more shot.

     クリスマスオーナメントで飾り付けるには早いが、風はもう随分と肌寒い。変わらず温度を保ったままのものといえば若者たちの熱気だろうか。西の街の空気は本日も享楽的である。
     馴染みの街を馴染みの男が二人並び歩く。片方がパステルカラーの出で立ちであるから、隣がくすんだ色合いでちょうど目に優しい。性格の差も影響しているのか、ディノとキースはそういう、まるで季節の変わり目をかたちにしたような印象を持たれるヒーローだった。通りすがりのちびっこに手を振られて、ディノが笑顔で振り返す。ほら、と肘で軽くつつかれたキースもまた緩慢な動きで手を振った。

     本日の彼らは揃ってオフで、行き当たりばったりの適当なコースでぶらついている。
     本当に適当だった。なんとなく興味を惹かれた店に入り、小腹が空いたら近くのカフェに足を向ける。一緒にいられたら、話せたらそれでいい、なんでも楽しい。そんな学生の休日みたいだった。
    「さっきのお店のピザ、美味しかったなあ」
    「確かにな。あとは喫煙スペースがありゃ完璧だったけど」
    「そろそろ吸いたくなってきた?」
    「ま、コーヒーの後味でしばらくもたせるわ」
     結構歩いたから休憩したい、とキースが言い出したことで先ほど訪ねたカフェはパン屋に併設されており、買った商品をそのまま店内で食べることが出来た。トングで掴みトレーに載せ、飲み物を選んで会計を済ませれば、奥で温めてから運んできてくれるシステムだ。
     ディノは予想を裏切らず、具だくさんのカットピザを上機嫌で選んでいた。どんなピザも好きだけど今日はサラミ多めの気分だと言い、店の中央の台に盛られた好物をじっと吟味して、お眼鏡に叶った一枚を丁寧に挟み上げる。手に持つプラスチック製のパステルピンクのトングが、彼の私物のように妙に似合っていた。トッピングこそ都度違えど、ピザ星人の称号を戴くほどほとんど毎日食べているというのに、未だ新鮮に目を輝かせるのだから、ある意味凄いとキースは改めて感心する。
     自分もなにか軽く食べようかと見回すキースは、パストラミビーフのフォカッチャサンドが気になったようで、せっかくなのでビーフの大きいものをと、ディノと同じくじっと見比べていた。脅したらパンが逃げちゃうよ。なんて笑われて、無意識にトングをかちかちしていたことに気づき、ちょっと恥ずかしくなったキースである。結局一番手前のものを挟んだわけだが、パンは逃げずに大人しくしていた。
     会計を終えて席につけば、さして時間を置かずにほかほかのパンとコーヒーが二人の前へ運ばれてくる。互いに食事パンなので、コーヒーの方を少し甘くしても構わないだろう。テーブル中央に置かれたミルクとシュガーのポットを、ディノからキースの順で少しずつ傾けた。いつしか「いただきます」と手を合わせるようになったのはアカデミー時代、ブラッドからの受け売りだ。
     さく、と耳に心地よい音。生地に歯を立て、チーズを伸ばしながら美味しい美味しいと嬉しそうにするディノを真正面から見守り、キースは微笑む。そうやって保護者かつ不審者みたいに眺めているのがバレないよう、自分もフォカッチャを大きく頬張った。
    「……うま」
    「な、美味しいよな!ピザも美味しい~!売ってるパン全部制覇したくなっちゃう」
    「確かに、他のも気になってくるな。横にあったベーコンエピも絶対うまいわ」
    「思った!焼き立てって書いてたやつ!……ふふ。また来ような、キース」
     にかりと眩しい笑みを向けられる。次のデートの約束みたいだ。なんてキースは一人浮かれて、けれど自分たちはそのような間柄ではないから、あたたかな歓喜は胸の内に秘めた。
    「おー。またそのうちな」
     わざと渋々のような返事を向けながら、キースは再び目の前でピザをもちもちと咀嚼するディノを見た。
     ざっくりとした編み目のニットは明るい茶色で若々しく、ディノの髪や瞳によく似合う。この肌寒い時期の衣類は皆彩度が低くなるから、彼の人となりを表したようなぱっとする色合いは、何に紛れることもなくよく目を惹いた。
     キースの場合、恋心の都合でそうでなくても視線を向けてしまうのだが、口にさえしなければ持っているくらいただの感情なので許されるべきだろう。愛など不当にぶつけなければ誰に許しを乞うものでもない。
     降り積もっては片づかない春の花弁のような片恋の暖かさや切なさもまた、ディノが目の前にいてくれることで初めて味わえる。今はそれだけでよかった。
     そう広くない店内の小さなテーブルを挟んで向かい合っている。並んで歩いているとき、キッチンで料理の手伝いをしているとき、共有スペースで酌をしながらゆっくりと過ごしているとき。隣り合うことの多いキースとディノだが、こう正面で話すことは案外新鮮だった。
     そんなこんなで、食べ終えてからもしばらく会話に花が咲き、二人がカフェを退店したのは結局入って一時間後、つまりつい今しがたのことであった。

     他はどうか知らないが、この街は雑然と小汚なく見えて実は区画ごとに分けて定期的に清掃の手が入る。無法地帯になりすぎた場所は、どうせ酷い状態なのだからどれだけ汚れを重ねても構わないと勝手に解釈され、汚れを上塗りされてしまう。ごみ山が出来る理由がそれだ。なのであまりにもあんまりな状態になる前に役所が外注して綺麗にしてくれる。まあ街の管理は上の人間の義務といえば義務だが。
     ちょうど先日まるっと掃除されたレモネードアベニューはなんとなく見通しがよく、歩きやすくなった気がする。パトロール中よく拾っていたくしゃくしゃの煙草の空き箱やジュースの缶もほとんど見かけない。ありがたいことだと思うキースであった。
     小腹を満たした二人は、ショーウィンドウを眺めたりしながら再びぶらついていた。
     楽器屋から出てきた二人組の男の子は、片方がギターを試し弾きさせてもらったらしく興奮している。隣の少年もうんうんと頷いて、アルバイトでお金を貯めて買いたいな、と語り合っていた。歳は十五、六くらいだろうか。音楽で盛り上がっている姿にルーキー達が重なって、ディノは微笑ましげに目を細めた。
     隣に建つ旅行社の店頭にはいくつもパンフレットが立てられている。大きく書かれた他国の名前を見てははしゃぐディノ。日本行きのプランが載った冊子をめくって、夜景の見られる露天風呂と題打った見開きのページを目にした様子は楽しげだ。
     だからキースは、ブラッドも連れて旅行もいいかもな、なんて満更でもない反応をした。
    「にひ。なんだか、やりたいことがいっぱいだ」
     キースが予想したぱあっと明るいものとは違う、じわりと滲む常夜灯のようなはにかみがディノから返ってくる。嬉しい嬉しいと喜びを反芻するようなその表情に、キースの心はぎゅうと締まった。旅行くらい、これからはいつだって。

    「あれ?こんなところにギャラリーがある」
     ディノが立ち止まり、釣られてキースも足を止める。小綺麗な木製のドアは上半分がガラスになっており、外からも中を覗くことが出来た。ディノは首を傾げながら寄っていき、ちらりと様子を伺う。
    「絵じゃなくて写真みてえだな」
     片目で器用に中を覗くキースにこくりと頷いて、貴重なものを見つけたかのようにディノは目を輝かせた。ドアノブに視線を移せばFREEの文字。チケットを持っていなくても入っていいらしい。
     イエローウエストという場所は広義で言うところ娯楽と自由の街であるから、写真や絵画で自己を売り込む人間自体は珍しくない。ただこのようにこじんまりと雰囲気の良い一角を間借りして構える、本格的な個展は意外と少なかったりする。わざわざ律儀にショバ代を払わずとも、適当に陣取った路肩で店開きすればいいのだ。
     他の街であれば治安維持の観点から畳むよう警告を受けることも、イエローウエストにおいてはそうがみがみと言われはしない。よほどに往来のど真ん中で叩き売りでも始めるのであれば別だが。
     ガラスの向こうに薄ら見える写真の一枚にディノは惹かれた。ドアという隔たりが少し不鮮明にはさせるが、あれはきっと空の青だ。彼はキースよりもずっと目がいい。
     そしてキースは、なにかに惹かれるディノの横顔にいつだって目を奪われてしまう。きらきらと輝いては瞬く瞳の淡い青は、空のようで海のようでもあった。彼の見る世界がどんなときも澄んでいればいいと願っている。
    「なあキース……」
    「はいはい。覗いてみたいっつーんだろ。お付き合いさせていただきますよ」
     甘ったれに名前を呼んでおねだりする、まあるい響きにキースは弱い。全て伝えずとも理解され返事をよこされたことにディノは目をぱちくりとさせ、それから破顔した。間近で浴びる眩しさに思わずキースは両目を瞑る。眉間がしわくちゃになった。

     品の良い純喫茶のようなドアベルがからんと鳴り、訪問者を出迎えてくれる。押し売りの人間が手を揉みながら飛んでくることもない。扉が閉まれば、雑然とした外界から切り離された閑静な空間がそこに在った。
     入り口すぐの長机には来客に対する感謝の証として、無料配布のポストカードが十数枚ほど平積みされていた。青空の下、山羊が牧草をむしゃむしゃ食べている写真。高原で放牧でもされていたのだろう。快晴を背景に山羊の真っ白な体が写っているから、まるでもこもこの雲みたいだ。長閑ななんてことはないワンシーンのようで、絶妙な色の取り合わせで成り立っている。これが無料だなんて勿体無い。贅沢な気分になりながら、ディノはいただいたポストカードを大事そうにポケットにしまった。
     一見が入りづらい隠れ家的なバーのように、あまり大勢を入れる想定でない小さな空間だ。先客が数人いて、各々静かに壁に掛けられた写真を眺めてはゆったりと歩みを進めている。狭いから、ディノもキースとぴったり寄り添って順路を追った。
     大小ある作品のどれもが風景写真である。人物よりも自然を被写体に選ぶのを得意としているのだろう。そしてきっとこの写真家は空が好きなのだ。抜けるような青空をバックにした、鳥や草木の営み、花に留まる蝶の憩い、水面の揺らぎ。空気まで嗅ぎとれそうなほど、まるで自分が景色の中に入り込んだような感覚があった。
    「素敵だな……さっきよりもっと旅したくなっちゃった」
    「車でも借りるか」
    「ふふ、乗り気なキース珍しいな」
     小声で交わす感想とその延長を楽しみながら、二人はどの写真もじっくり堪能した。角に矢印の紙が貼られている。次が最後らしい。
     きっととびきり晴れやかな空が待っているのだろう。わくわくして角を曲がったディノの瞳に飛び込んできた風景は、シンプルなデザインの額縁に収められた暖かなオレンジ色。それから一人の女性であった。
     降る紅葉といちょうの並木道。落ちた先の地面は柔らかな絨毯と化している。グリーンイーストのどこかなのだろうか。それとも他の国の。少なくとも西の街ではこのような落葉高木はほぼ見かけない。
     暖色の中の女性は若すぎず老いすぎず、ウェーブがかったチェスナットの長い髪が風に遊ばれている。深い赤と緑のタータンチェックのストールを肩に羽織り振り返る姿。美しい、というよりは親しみのある笑顔でこちらに視線を向けていた。髪と同色の細まった目に愛を浮かべて。
    「……なんだか」
     言葉がつっかえて、ディノは何故だか胸が痛むような気持ちになった。
     優しい風景のなか、彼女の視線の先にいるのはきっとこの個展を催した写真家だ。ずっと青空と自然を撮り続けていた彼もしくは彼女の、最後に記憶に焼き付けて帰ってほしいと願い飾られた渾身の一枚が、たった一人の女性だった。
     この写真に限っては風景は添え物だ。明確に、主役は彼女である。あまりに鮮烈で、どうしてか儚い。
     カメラを構える者と、シャッターを切られ形に残される者。恋人、夫婦、友人、家族。どれにも当てはまるのか違うのか、彼らの関係をディノもキースも知らない。けれど写真から溢れ出た二人の愛はこんな小さなスペースなど、見物人の心など、すぐいっぱいにしてしまう。
     そう、これは愛だ。ディノは思わず胸を押さえた。ニットの手触りはふんわりと指に優しい。
    「ディノ」
     呼ばれてキースの方を向く。彼もまた何かを感じ取ったのか、優しい目をしていた。
     ディノもキースも違う人間であるから、きっと同じ気持ちばかりではない。人の感覚はたとえ親しき友であっても決して一辺倒でなく、正解も在りはしないのだ。だから言葉を交わす。
    「素敵な写真だよな。ちょっと……ちょっとだけ、切なくなるけど」
    「……そうだな。なんつうか、二人だけの大事な思い出を見せてもらってるみてえだ」
     まるで自分も経験したことがあるといったそんな目に、ディノはどきりとした。少なくとも己よりはこの写真に対する理解があるような遠いキースの瞳。訳も分からず焦燥感が募った。
     ディノが異性だったら、恋人だったら、今キースの手を握って、温度も渡しあえる。肩に頭を預けて、もっと寄り添って。そうではないから、腕を軽くとんと叩いた。
    「良い写真だから、見とれて動けなくなっちゃいそうだ。なあ、あっちに物販コーナーあるから覗いてみよっか」
     ディノは頷くキースを連れて入り口の方へ歩きだした。
     最初に見た長机の反対側にこじんまりとした販売所がある。他の客も例の写真から得るものがあったのか、会計のスタッフに「あの作品を使った商品はないのか」と尋ねていた。首を振られ、ならば致し方ないと、それぞれ次に気に入った風景写真のポストカードやクリアファイル、小物入れなどを買って退場していく。
     ディノもまた、ひまわり畑の写真を使用したチケットケースを購入した。野球観戦や、フェイスやジュニアのライブチケットを保管するのにぴったりのサイズだ。良い買い物をしてほくほくと満足げなディノがレジから戻ると、キースは壁を背に、ただ待ち人と化していた。
    「あれ?キースはなんにも買わないのか?」
    「ポストカードとかファイルとか薄いもんはすぐ折れちまうからなあ」
    「あ~ちょっと分かるかも……俺も部屋に帰ったらすぐ飾らないとな」
    「通販のダンボールの下敷きにしちまわないようにしねえとなあ」
    「またいじわる言って~!使い込んでボロボロにしちゃうことはあるけど、雑に置きっぱなしにしたりはしないぞ?」
    「はは、知ってるよ。いっぺん手に入れた物は大事にしてるもんなお前」
     からかうようなキースの物言いに先ほど纏っていた切なげな湿度はなく、口を尖らせるディノもまたからりと笑う。新しい客がドアを開けたのと入れ違いに二人はギャラリーを後にした。
     美しい暖色の写真を最後に焼き付けたあとの夕陽のオレンジは、なんだかいつもと違って見えた。



     ここ四年間の写真があれば見せてほしい。
     どうせならばと夕飯まで外出先で済ませて、メンター部屋へ戻ってすぐのディノの発言である。彼のお願い事は基本的に聞き入れてしまうキースは、それでも目に見えて渋い顔をした。けれど、驚いたかと問われれば答えはノーだ。
     ディノが戻ってきてもう数ヵ月経つ。きっかけこそ本日の個展だろうが、このタイミングでなくともいつか頼まれる気はなんとなくしていた。
     四年間、つまりディノのいない日々のことだ。彼にとっては空白で、記憶に存在しない過去。キースにとってもまた虚しく──しかし今に近づくにつれて、つらく苦しいのみではなくなった年月。それらを切り取った画像を見てディノが何を思うのか、キースには分からない。
    「いや、あんま写真とか撮らねえしな」
     嘘ではない。彼のスマートフォンのフォルダには、写真など数えられるほどしか存在しなかった。
     キースはかたちに残るものが苦手だった。それがタップ一つですぐ消えるデータであっても。嫌いなわけではないのだが、すがる思い出があることは時として残酷だ。喪った人の在りし日の姿を見ては、晴れ空を背景にはしゃぐ笑顔に何度も心臓が潰れたそうになった。そんな過去がある。
    「一枚もない?ほんと?」
    「……」
     困り眉を向けられては回答を偽れず、多少はある、とキースが正直に返せば、途端にディノの表情がぱあっと明るくなった。ぶんぶんと尾を振るのが見えるかのようで、思わずキースも微笑んでしまう。
    「ほんとにちょっとだけだからな。がっかりすんなよ~」
     長く持ちすぎたせいでまだ根深く残っている躊躇いも怖れも、ディノにまで伝播させることはない。キースは思案の末結論を出した。そういうものは勝手に己のなかに潜ませて、露にしなければいいのだ。だからキースは面倒そうな態度を演じながら、バックポケットからスマートフォンを取り出して、データフォルダをすいすいと過去へ遡った。
     今日びの老若男女にありがちな、SNSに載せるための外食や自撮りの写真などは全くといっていいほどにない。有名なフォトスポットも流行のクリームいっぱいの甘ったるいドリンクも、なにもかもキースにとっては残しておきたい瞬間には満たなかった。隣にいてほしい人がいないのだから。
     遡る四年間はフォルダのたった数行に纏まっている。その短さに反比例するかのように苦悩の期間は長かった。ディノが不在の世界では、切り取って大事にしておきたい光景などあるはずもない。
     ──などと。少し、嘘だ。指をのんびりと上下に動かし、キースは音にならぬ溜め息を喉から出して口を開かぬまま飲み込んだ。画面にはビールジョッキが四つ写っている。
     虚しき年月の全てを費やして喪に服していたわけではない。人に記念日を祝われた。人の記念日を祝ってやった。ブラッドにジェイにリリー。彼らと飲み交わす夜は、存外悪くなかった。うっかりシャッターを切りそうになるほどには。
     酔っぱらって気分が良くなったキースは、皿とグラスでごちゃごちゃになったテーブルの端、うつ伏せたスマートフォンに手を伸ばした。そして一瞬だけ酔いが覚めたように冷静になって、指を畳み引っ込める。
     騒がしく、笑みを交わしあう宴席。慕わしい一人が欠けてはいても、それを無礼にも秤にかけて、誘いの手を振り払うような真似を躊躇うくらいには、大切な光景だった。
     切り取ったこの一枚から、また誰かがいなくなったら。酒の代わりに花を手向けねばならない、そんな日が訪れたら。キースは二度と写真を撮ることはなくなるだろう。戻らぬ日々に落涙し、いっそ初めから持たなければと恨みすら抱くような辛さは、もう御免だった。
    「キース?」
    「……わり、ちょっと昔思い出してたわ」
     人物は写さなかった。けれど大切に思っていたから、四人で集った証として物を撮った。当時のいっとう臆病で深く傷ついていたキースの精一杯だ。塞ぎ込んでいたキースが、最低限にでも人間の生活が送れるようになってきたのがちょうどこの写真あたりだった。
     ん、とスマートフォンをディノによこす。しかし見たがったくせに、彼はすぐには受け取らなかった。少し考える素振りをして、それから良案を閃いたと言わんばかりにキースに視線を向ける。
    「勝手に触るのもなんだから、一緒に見よう!これはこんなシーンだって解説つけてくれよ」
    「え~面倒くせえ~」
    「座っていい?」
    「え~……」
     どこに。キースのベッドにだ。しくじったとキースは思った。カウンターの椅子に座っておけばよかったのに、なんでベッドになんか座っちまったんだ数分前のオレの馬鹿、と眉間を押さえる。返事を濁されてしょんぼりとするディノだが、キースの方がよっぽど困惑していた。
     好いた人間を寝台、つまり自分だけの領域に招いて、素面を通す自信がなかった。恋人でもない男に対して手は出さない。なんにもしない。誓ってもいい。ただ、心がざわめいて余計なことを口走る可能性が一ミリほどはある。
     けれど断るのも変だから結局は承諾して、シーツをぽんぽんと叩いて見せた。やったあ、と嬉しそうに隣に座りにくるディノは、部屋に戻ってからニットの重ね着を脱いでいたので白いシャツ姿だ。中のインナーが濃い色だから少し透けて写る。至って健全。別によからぬ部位の肌が露わになったわけでもないのに、一枚薄着になっただけでどこか心許なく感じた。完全にキースの主観だ。思春期でもあるまいに。
     キースの手の中の画面をひょいと覗いたディノは早速うきうきと目を輝かせている。
    「あ、ジュニアかわいい~!これ俺の衣装だよな?」
    「そうそう。初めの頃な、ほんとギャンギャン喧しかったんだぜ。今もうるせえけど。だからなんやかんや罰ゲームで着せた」
    「……人のお気に入りのウェイトレス衣装を罰ゲーム扱いするなよぉ」
    「普通はお気に入らねえんだわこんなもん……」
     心底不本意そうなジュニアのウェイトレス姿。恥ずかしいのか顔を真っ赤にし、大口を開けて嫌がっている。きっとスラングでも叫んでいるのだろう。今にでも声が蘇るようだ。ジュニアには申し訳ないが、よく似合っていて可愛い。ディノはくすりと笑った。
    「そんで次が……ああそうそうフェイスがチョコ摘まんでるときのだな。冗談で構えてたんだが、面白がってカメラ目線しやがるもんで、そのまま撮ったらお金取るよって言われた」
    「あはは、しっかりしてる。でもフェイス、本当に綺麗な顔してるよなあ。お金払ってもいいかなって思っちゃう」
    「確かアンシェルの新作でいいよってねだられた……んだけど」
    「だけど?」
     聞けば、キースは後日ノースでの用事ついでに店を覗いたらしい。残念ながら人気のため当日分は完売していたようで、代わりに適当な定番商品を買って帰った。それをフェイスに手渡すついでにぼそりと伝えたら大笑いされたそうだ。
     冗談だったのに。いいよ自分で買うし。でも嬉しいよありがとう。
     そんな言葉と礼が返ってきたのだという。
     当時の三人のことは、彼らそれぞれから聞いた情報しかディノは知らない。けれど関係性が良くなってきていたのだなと察せる。チームを組み始めた頃にはあったというぎすぎすとした棘は、どこにも感じられなかった。
    「にひ、なんだかいいな。ラブアンドピースだ!」
     怒り顔から始まり、呆れ顔。笑ってポーズを取っているものも多くなった。日が経つごとに、スクロールが進むたびに、ジュニアやフェイスの姿が増えていく。キースの言うとおり、決して枚数がたくさんあるわけではない。しかしどれもに絆が窺える。そのゆるやかな移り変わりを間接的に知ることが出来て、ディノは嬉しかった。
    「出たよラブアンドピース」
     これは本当に魔法の言葉なのかもしれないと、画面を見つめる友人に対してキースも笑みを浮かべる。
     愛を知らず人を信じずに生きてきた己にディノが教えてくれた他者を大切に想う心で、彼がいなくてもキースは少しずつ、誰かに笑顔を向けることが出来た。ゆっくり、本当にゆっくりとした変化のうちに、いつの間にか一人きりのメンターは二人のルーキーを懐に入れてしまうようになった。
     ちやほやと撫でて甘やかすわけではないが、支援してやりたい、背を押してやりたいと思う。初めはあんなに寝食から志までばらばらで、三者共違う方を向いていたのに。
     いい写真ばかりだ、とディノは昼間の個展と同じようなことを言う。けれどお世辞ではないことくらい、横顔で分かった。
    「ジュニアの引っ張っていく真っ直ぐな力。フェイスの場の空気を読んで動ける観察眼。それからキースの、ものぐさだけどどっしりとしていて、この人が後ろに居てくれたらちょっとくらい無茶したってなんとかしてくれる、っていう安心感。全部全部なかったら、噛み合わなかったら、こんな素敵な写真は撮れないよ」
     共有スペースのソファーで三人揃ってゲームに熱を上げている姿。これは面白がったキースが無断で定点撮影をしたものだ。あとでジュニアとフェイスにもデータを送ってやれば、勝手に撮るなよと初めこそ小言を投げられたが、反応は悪くなかった。
     付かず離れず、だが居心地は少しずつ良くなってきていた、あの頃にしか生まれなかった雰囲気が確かにある。これはそういう一枚だ。
    「みんなで、進んできたんだな」
    「……今はお前もいんだろ」
    「…………俺、もしかして寂しそうな顔してた?」
    「ちょっとな。ほんのちょびっと」
    「うわー、出さないようにしてたのに……!」
     恥ずかしくて、ディノはぱっと両手で頬を押さえた。これじゃあまるで変なやきもちを妬いているか、疎外感を抱いているみたいだ。そんなふうに思ったことなどこれまでないはずなのに、自分が写っていない写真を今目の当たりにして、寂しく感じてしまった。
     キースにはメンター一人で苦労をかけたし、ルーキーは当然そのぶん他のセクターに比べて経験値を稼ぐ機会が減ったことだろう。ディノがいつか帰還し、後から収まるための不確定な一枠を、知らずながらも守ってくれていたが故の負担。それなのに不在のあいだの三人の時間を羨むような醜い分不相応、あっていいわけがない。ディノはただ恥じ入った。
    「ディノ」
     キースに名前を呼んでもらえるのが、ディノは好きだ。しかし今は顔を上げられない。
     次に呼ばれたときは、穏やかな声が降ると共に、頬を押さえる手をそれよりも大きな手のひらで包まれた。体温を分けるようなぬくもりに心は解れ、ディノは俯き顔をゆっくりと上げた。
    合わさる視線。キースから向けられる笑みは優しい。
    「オレ相手にくらい、変な隠し事とか遠慮とかしなくていいんじゃねえの」
    「……」
    「まあ、その。全部言えよってわけじゃなくて。大人なんだから言えねえことの一つや二つ……三つや四つあんだろうし」
    「キース……」
     日頃面倒臭いだとか柄じゃないだとかで避けておきながら、ディノが悩んでいるときのキースは辿々しくもどこか多弁だ。言葉を選びつつ、繊細な内側をこじ開けることもせず、扉の前で待っている。したくないのであれば応じなくともよいと、ディノの逃げ道を用意しておくことも忘れない。
     ただ、好いた人の背に這う苦悩であったり重荷であったりが、少しでも軽くなることだけを願っている。キースはそういう、健気な側面を持つ男だった。
     そしてディノは。
    「……少しだけ……寂しい」
     両眉の外側を下げて、へにゃりと笑った。
    「俺、見返す思い出もなくなっちゃったから」


    ***


     イクリプスの洗脳から解放されたディノが病室のベッドで目を覚ました日、傍にはキースがいた。力無く垂れるディノの手を握り、額を寄せて俯く姿。まるで届かぬ祈りを捧げているようで、そんな顔しないでと、ディノは上手く動かせない指先をそれでもなんとか動かしてみせた。
     弾かれるようにはっと顔を上げたキースと視線が合う。穏やかで優しい色をしたオリーブグリーンの瞳が揺れて、ディノのスカイブルーと交ざる。震えた声で名を呼ばれたディノは薄く微笑んで、静かに一粒涙を落とした。
     キースの目が、声が、色が、表情が、大きな両手で渡される体温が、なにもかもが好きだ。大好きだ。
     長い年月を経て自我を取り戻し、命を失いかけるほどの危機のあとで気づくその感情。ああ戻ってこられてよかったと、ディノは気怠い身体でただただ噛み締めるのだった。

     ブラッドとも再会し、数年ぶりに味わう念願の好物に舌鼓を打ち、キースと同じチームに所属するルーキーたちとも挨拶を交わして、ディノは病床の住人のわりには忙しい生活を送っていた。
     一日に何度もさまざまな検査を受けるので少し疲れることはあるが、とくに酷い待遇を受けることもない。監視下に置かれた状態ではあるものの、友人らの尽力のお陰で、ディノは人権を認められぬような目に遇うことはなかった。
     なので、病室を訪れたノヴァと今期の司令に切り出された話は、ゆっくりと養生していたディノの心に鋭く刺さった。
    「……上層部から、ディノさんのスマートフォンを回収、破棄するよう指示を受けました」
     司令はまだ若く、新人の域を出ない瑞々しさがある。暗い表情で深刻な話を始めることが似合わないほどに。
     ノヴァはそんな司令を支えるために同行したのだろう。言いづらそうな隣人の代わりに、困ったような悲しむような笑みをディノへ向けた。
    「イクリプスの持つ技術力が看過出来ないものだって、君の洗脳の件で改めて明らかになってね。また何が原因になって、重要施設の襲撃や関係者の意図せぬ裏切りを招くことになるか分からないって」
    「……それで、俺の私物も」
    「……うん。位置情報とか他にもいろいろと仕組まれている可能性があるって」
    「俺、スパイ歴長いですもんね」
    「……ディノくん……」
    「あ……すみません、今の俺すごくかんじ悪かったですよね……ごめんなさい、なんか……動揺してて」
     気にしてないよ、こっちこそごめんね、と肩を擦ってくれるノヴァの手は優しい。優しいから、ディノはなおのこと苦しくなってしまった。
     激しい抗争になることが分かっていたから、四年前、出動する前に私物のスマートフォンは置いていった。ディノが戦場に連れていったのは業務用の端末だ。なので壊れて失せることもなく部屋で眠りについていた、のだと思う。偶然にもつい昨晩、キースが渡しに来てくれた。どこでどう管理していたかなどと彼はとくに明かさなかったが、埃一つ被っていない端末が丁寧に扱われていたことを物語っている。
     スマートフォン一台分だけでも、自分のスペースが守られ続けていたのだということはまるで罪を許されたかのように嬉しくて、けれど検査で疲れていたディノはうとうとと礼を言い、翌日、つまり今日にでもゆっくり見返そうと、引き出しの一番上の段にしまった。こうなるのならば夜を通してでも眺め過ごせばよかったと悔やむ。
     消えてほしくない思い出がスマートフォンの中にはたくさんあって、だからディノは争いの場に持ち込まなかったのだ。それを自ら手放さなければならないという。
     しかし、ディノに選択肢は与えられていない。これは打診ではなく命令である。知らずのうちに多くの損害を組織にもたらしたのは事実だ。誰も彼もがこの一件のために多大な時間や労力を費やした。なのに張本人がなにも捨てずに再び属しようなどと虫が良すぎるだろう。
     分かってはいるが、心が追いついてくれない。
    「…………回収される前に、最後に……中のデータを見ちゃダメかな?」
    「えっと……許可を出したいところではあるのですが……その……」
     せめてと伝えたものの、上層部と私情とで板挟みになる司令が可哀想で、ディノは自らの願いをすぐさま取り下げようと口を開きかける。が、ノヴァの発言の方が早かった。
    「おれが一緒に見るよ」
     ディノと司令が同時にノヴァを見る。彼はいつも通りの柔和な表情を浮かべていた。
    「スマートフォンそのものをまずスキャンして、内外に目立った異常がないか確認する。それから位置情報の有るものは紐付けを外してから開く。そうだなあ、不正がないようにカメラに写る位置で確認していけばいいかな……ね、ディノくん?」
     あとから万一トラブルがあったときも証拠として残るよう監視カメラに収まるべく、普段のふにゃりとした声より大きめに話すノヴァ。ディノはそんな彼をただ茫然と見つめ、数秒のち、その相貌を歪めた。
    「……ごめんなさい、俺のわがままを……」
    「ふふ、違うよぉ。おれのわがまま。だっておれも見せてほしいんだもん、君たちの思い出」
    「ノヴァさん……」
    「…………あ、あっあ~!そういえばどうしてもすぐ出さないといけない書類があったなー!」
    「へっ!?」
     司令の突然の大声とがたりと音を立てる椅子にディノが驚く。ぎこちない動きで扉へ向かっていく司令は脛をどこかへぶつけたらしく、あいて!と言いながらそれでも慌ただしく足を動かす。
    「一時間くらいかけて仕上げないとなー!あーあ!スマホの回収はそのあとになっちゃうなー!」
    「うわわ~それは大変だねえ司令~がんばって~!」
     フレフレ~と応援するノヴァもどこか棒読みで、ディノはようやくこれが優しい大根役者たちの一芝居なのだと理解した。器用に嘘を演じることに向いていない二人の精一杯。ぐっと込み上げる感情で礼を言おうとしたディノであったが、それをなんとか飲み込む。
    「……司令も大変だなあ。あんまり無理しすぎないように、頑張って」
     そして彼自身もまた、嘘が得意ではない。三者が三者ともお互いを思いあって滑りの悪い偽りを吐く。微笑んで。

     病室には高所の備品を取り出すために用いる脚立がある。二段だけの低いそれでも、日頃の猫背を正したノヴァの身長なら監視カメラにまで手が届いた。角度を調整し固定する。ディノのベッドがしっかりと映るように。後々がたがたとお上の人間に追及されぬためだ。
     先ほどスキャンのためにノヴァへ預けたスマートフォン。とくに異常は見当たらなかったので、滞りなく持ち主へ返却された。強いて言うならデータフォルダの残量が少ないことだけが判明したくらいか。通販アプリと画像で容量が逼迫しているようだ。しかし此度の検閲になんら影響はない。悲しいことに、これ以上容量が増えることもないのだから。
     もう飲み食いは出来るんだよね、とノヴァが尋ねるから、昨日はピザを二枚食べましたとディノは答える。なら全然問題ないねえと白衣を翻し奥に消えていったノヴァは少しして、ホットココアとビスケットを持って戻ってきた。訊くと後者は彼の非常食らしい。今度代わりの何かを差し入れようと、ディノはひそかに思った。
    「さてさて、それじゃあ見せてもらおうかな」
    「うーん。とにかくなんでも撮ってたから、一時間で全部見るのは難しそうですね……どこからにしようかなあ」
    「あ、じゃあキースくんやブラッドくんと出会ってからくらいがいいな。ふふ、学生時代のかわいい君たちが見たいな~。今も仲良しでかわいいけどね」
    「……なんだかちょっと恥ずかしくなってきました……」
     床頭台にマグカップと紙皿を置いてから椅子に腰かけるノヴァ。微笑ましげな表情を向けられて、まるで自分が見守られるべき対象、例えば幼児にでもなったような気持ちになったディノは口をもごもごとさせた。
     しかし悠長にしている時間はない。日付別にアルバムを表示させて指で遡る。アカデミーの制服は白地だから、エリオスへ入所してから増えた黒い色の写真の並びから抜け出せばすぐに分かった。
     社会人となる前の最後の写真は、アカデミーの卒業式後、行きつけのレストランにて三人で祝ったものだ。
    「若いねぇ」
    「若いですよねぇ」
     未成年だから酒も入っていないのに、酔っぱらいみたいに楽しかったことは今でも覚えている。全員同じ道を目指すのだから離別の物悲しさなどは欠片もなかった。一番自撮りの上手いディノが器用に三人写るように撮影した写真。ブラッドもキースもディノも、皆祭りの最中のように笑っている。確かこのあとコップを倒して水を溢し、大慌てで店員に謝った。些細なことだって、ディノの記憶にはずっと残っている。
     二人は、覚えているのだろうか。四年が欠けているディノより、ブラッドもキースも様々な事柄を学び経験し、喜怒哀楽を感じただろう。どうしても昔のことは薄れていくはずだ。ディノの感覚ではたった数年前の出来事なのに、一人取り残された気分だった。
     用意されたホットココアのほどよい甘さで胸の痛みを慰めて、ディノは次の画像を開いていく。ノヴァが驚き声をあげた。
    「うわ~なにこの山盛りポップコーン!器の倍あるよ!ファンキーすぎない!?」
    「これ"デカ盛り"が売りで当時人気だったポップコーン屋さんで買ったんですよ。つまずきそうになるたびにキースが慌てちゃって……ふふ」
    「これちゃんと食べられたの?」
    「俺の運び方があまりにも危なっかしかったみたいで、途中でキースが持ってたコンビニの袋に移し変えてくれたんです。それで半分こしながら食べ歩きしました」
    「甲斐甲斐しい~!キースくんそういうとこあるよねぇ」
    「わかります、甲斐甲斐しい~!って俺も思いました!」
     面倒見が良くて優しくて、ディノのことをよく見て支えてくれた。傍にいて安心する、眩しい陽光よりは静かな森の奥に差す木漏れ日のような人。それがキースだった。
     己に浴びせられる悪評には頓着しないくせに、懐に入れた人間に降りかかろうとする悪意に対しては自身が壁となってそれとなく守ってやる。
    器用だけど、不器用。一緒にいたかった人。
     そういう人を長きに渡り裏切っていたのだ。
    「罰ですよね」
     隣から息を飲む音が聞こえて、ディノはうっかり出てしまった言葉にはっとした。けれども間違いではないのだから、なんでもない気にしないでほしいと有耶無耶にも出来なくて、スマートフォンを支える指先に力が入る。
     大切な思い出を手離す、そんなくらいでキースやブラッドへの贖罪には到底なり得ないだろう。けれども現状なにも持たないディノに差し出せるものなんて他にない。あとは今後の人生すべてを賭けて償い続けるくらいしか、もう。
    「……おれからなにを言っても、君の救いにはならないかもしれないけど……」
    「……すみません、暗いこと言っちゃって」
    「いいんだよ。でもねディノくん。自分に優しくしてあげてね。それが難しいなら……そうだなぁ。今は、自分に優しくしてくれる人達のために、自分を労ってあげてほしいな」
    「…………でも」
    「他の誰かだって、確かに傷ついたし大変だった。でも、一番傷ついてるのは君だって、おれは思ってる」
    「……俺、が」
    「痛みを無視しないで。自分を蔑ろにしないで生きて。これからまた、この写真みたいにたくさん笑えるようにさ。大切な人たちと」
     ──ディスプレイに一粒、二粒。
     落ちては留まる水滴を、ノヴァは言葉では触れず、慈しみを湛えた眼差しで見守っている。ぽたぽたと目から溢れる涙を病衣の袖で拭い、ディノは静かに頷いた。雫の反射で丸く歪む画面であっても、写る在りし日の自身の笑顔はとても晴れやかだ。
     またこうして、笑って生きていきたい。ディノは己の心を欺くのはやめて、素直にそう思った。
    「……ふふ、見てください。これ、すごく楽しかったんですよ」
     画面の水滴を親指の腹で払い、ディノが楽しげに写真を見せる。覗き込んだノヴァもまた楽しそうに、どういう状況なのかと尋ねては相槌を打った。
     笑い泣きで見返すアルバムは寂しくて、あたたかい。さながら追懐と葬送の儀式みたいだ。
     手に入れたものを捨てることをせず近くに置いて抱きしめて、そうやって大切にする性格のディノは、もう二度と見られなくなるであろう一枚一枚に涙で別れを告げていく。
     帰省したディノと共にピザを囲む楽しげな祖父と祖母。アカデミーの廊下の先、ぶっきらぼうな表情のキース。涼しい横顔のくせにしっかりカメラ目線のブラッド。寮室での、買い食いの、遊園地の、それから同じ数の星を胸に戴いた制服の三人。
     もう瞳には映せないそれらを脳の一番深くに焼きつけるように、ディノは滲む視界で懸命に見つめた。
     一緒になって眺めるノヴァもまた、誰かに言わぬだけで自分だけの秘めた思い出を抱えているのかもしれない。大切な大切な想い出の箱の中をときどき蓋を開けては眺めるような、そんな面持ちをしていた。

     一時間で全部見るのは難しいだろうと最初にディノが言ったとおり、司令が病室に戻ってきたタイミングではまだ閲覧の途中であった。ビスケットをつまみながら楽しげに画面を見る二人と目が合って、どうせ下手くそな嘘なら開き直って二時間設定にしておけばよかったかと悔やむ司令に、ディノは躊躇いなくスマートフォンを差し出す。
    「時間は充分貰ったよ。本当にありがとう、司令」
    「ディノさん……」
    「俺、ちゃんと覚えてるなあって分かったから。写真がなくても、記憶に残ってる。だから、大丈夫」
    「……すみません。ご協力、ありがとうございます。では、お預かりしますね」
     ディノの目が少し赤くなっているのを見て、わざわざ泣いたのかと追及する司令ではない。これから役目を終えゆく端末でも、両手でそっと大切そうに受け取って、司令は再び部屋を辞した。次いでノヴァも食器を片付けるべく姿を消す。
     窓の外を見れば空は青かった。
     出歩けるようになったら新しいスマートフォンを買おう。そうして、一枚目の写真には大切な人たちを納めたい。ディノは寂しさと未来の展望を乗せた笑みを微かに浮かべた。


    「えっと、お預かりしていたスマートフォン、返却致しますね」
    「……へっ?」
     病衣を卒業し、Tシャツ姿でハンドグリップを扱っていたディノは、突然の来訪者とその台詞に目をぱちくりとさせた。司令の手の中にあるのは、あの日涙で別れを告げた、見慣れた色のスマートフォンだ。疑問符を浮かべるディノに司令が説明する。
    「いやあ……人情に訴えかけられないかなーと思って、これと一緒にカメラの映像も切り出して提出したんですよ。途中退室の私があまりにも大根役者すぎて上の人に怒られちゃいましたけど……まあそれはいいや。そしたら映像を見た何人かが、せめて本体だけでも返してやれないかと掛け合ってくれたんです。内心やったぜ!いいぞいいぞってかんじで……」
     上層部と現場の板挟みで、まだ新人なのに苦労をしている。エリオスに戻ってきたばかりのディノの目から見て、司令はそういう印象を抱かせる人間であった。しかし存外と精神はタフらしい。根性が座っている。癖のある面々に揉まれてきただけのことはあるとディノは感心した。
     しかし得意気な顔から一転、司令はしょんぼりと項垂れ、大きな溜め息を吐いた。
    「でもやっぱりデータは消去になってしまいました……力及ばず面目ないです。本体だけ戻ってきても、とは思ったのですが……」
    「そんなことないよ、司令」
     ディノの柔らかな声色に、司令が目線を上げた。
    「嬉しい。本当にありがとう、司令……それに庇ってくれた上層部の人も。俺のためにたくさんの人が動いてくれて。にひ、ラブアンドピースだ!」
     スマートフォンを受け取ったディノは電源をつけ、画面に明かりを灯す。待受画面も初期化され、ただ元々搭載されていた時計のウィジェットだけが色気のない字体で昼過ぎを示していた。
     なにもかもが失われている。友人らと白熱した対戦ゲームのデータ、予定を書き込んだカレンダー、そしてかつて一番の容量を占めていた写真の数々。一枚たりとも残ってはいない。まっさらだ。けれど失くしていないものもあった。
     右下、角を指でさする。ダブルエーに上がりたての頃、忙しい合間を縫ってブラッドとキースを誘いキャッチボールをした。はしゃぎ走り回っていたらバックポケットからスマートフォンが落ちて、そのときついた傷だ。
    「写真はなくても、あの日々を一緒に過ごしたスマホだから、返ってきて本当に嬉しいんだ……これからまた、一つずつ思い出を残していこうと思う」
     皆の尽力の甲斐あって、ディノはヒーローとして復帰出来ることが決まっている。
     また鍛え直さないといけないなと、空色の瞳で未来を描くように陰りなく、ディノは微笑んだ。


    ***


     初めて聞く話だった。キースは愕然とした面持ちで隣人を見つめている。もう大丈夫なつもりだったんだけど、と困り眉で頬を掻くディノに対してキースの抱く感情はとても複雑だ。憤りが先に来て、無力感が遅れてやってくる。
     思い出作りが誰よりも好きな男が、そういえば過去の写真を見せて懐かしさを共有しようとしてくることはあまりなかった。当たり前だ、見せられる写真が失われているのだから。
    「……お前、なんで」
     そのときに言わなかったのか、尋ねかけてやめた。伊達に付き合いは長くないし、恋慕を抱くがゆえにディノの一挙一動に潜む心の機敏に鋭くなって随分経つ。大変な思いをさせたキースやブラッドや仲間たちに、これ以上心配をかけたくなかったのだろう。
     そしてきっと、キース達の苦労の前では自分の端末のデータどうこうなど取るに足らぬ些事だとディノは判断した。憶測が混じるが、あながち間違ってもいまい。それくらいキースはディノの傍にいた。
     分かっていることを改めて訊いてほじくり返すことは不毛だ。どこか責めるような言葉を使ってしまいそうで怖い。ディノは当時も今も充分傷ついている。傷の本当の深さもろくに伝えないまま、一人で。
    「キース。なんで、の次は?」
    「……忘れちまったわ」
    「ふふ、優しいな」
    「優しいのはお前の方」
     拳一つ分は開いていた距離を太股が触れあうほど詰めて、キースは座る位置を調整した。真っ黒シーツのベッドがぎしりと軋む。心臓が跳ねたのは二人のうちどちらであったか、あるいはどちらともか。
     近くなった距離に目を丸くするディノをよそに、キースはメッセージツールを開く。一回にどれくらい送れたかな、と独り言を呟きながら画面をタップしていく太い指。見ていいと言われていない画面を覗くのは親しき仲でもよろしくはないから、ディノはすいと目線を逸らした。するとスマートフォンが通知音を奏でる。キースの端末からではない。ディノはもぞもぞとスマートフォンを取り出した。
     ひっきりなしに鳴り続けるメッセージの受信通知。フロム・キース。あまりのけたたましさに即座に開けば文字はなく、ただ画像の添付がやたらあるだけ。
    「あ」
     ディノの細い声を、キースはただ黙って受け止めた。
     一枚目は白い制服。真顔と呆れ顔のピースサインが二つと、やけにカメラに近いピンク髪と空色の瞳。まだ自撮りの下手くそだったディノが拙く切り取った、三人でのひととき。些か画質が悪いのが年月を物語っている。
     片手にフラペチーノを持っていたディノがぶれぶれの写真を何枚も増やしたものだから、台にでもスマートフォンを置いてタイマーで撮影すればいいのでは、とブラッドは提案した。それに待ったをかけ、手元が安定してないだけだろとこれ見よがしな溜め息を吐いたキースが、ディノのカップを預かってくれるのだ。
     覚えている。今も褪せず眩いほどに。
     画面を見つめ驚いたままのディノ。側頭部をがしがしと掻いて、呟きほどの声でキースは言葉を紡いだ。
    「なんか食ったりどっか行ったりした帰り、撮った写真めちゃくちゃ送ってきただろお前。失敗したやつも連写のやつもぜーんぶ。あんときはこんなにいらねえよって返事したけど……消してねえよ。ちゃんと保存してた。お前がいねえ間、見返したりもした」
    「……」
    「本当は大事だったくせに、当時は思い出なんて~とか斜めに考えてた。でも、消さねえでよかったって、今は思ってるよ」
     四角く切り取った景色や人物。記憶を呼び起こし情動を誘う映像。すがるものがあるのも辛いが、なくてもまたきっと寂しい。ならばディノが取り上げられた思い出をキースが持っていてちょうどよかった。
    「写真があろうがなかろうが過ごした日々は変わらねえけど……人は弱えから、目で見て確認して、ああちゃんと在った記憶なんだなって頷きながらじゃねえと生きていけねえこともある」
     絶望をさ迷うキースに気遣って、周りの人間はことごとくディノの名を口にしなくなった。まるで最初からいなかった者のようにだ。ブラッドはたまに呼んでくれたが、彼はディノのことを殉職者として扱っていたから、どうしても温度差が生じた。結果、ブラッドの立ち振舞いのお陰でキースは死へのスプリンターにならず済んだわけなのだが、当時は冷静すぎる友人に裏切られたような気分になったものだ。
     そんなとき、よくかつての写真を眺めた。涙は出たしアルコールも進んだが、ディノの存在が自分だけのまぼろしではないと何度も確かめて、だからひび割れた心も完全に死んでしまうことはなかったのだ。
     ディノから貰った大切な思い出だ。もう一度ディノのもとへ届いてほしかった。
    「…………キース、持っててくれてたんだ。待っててくれてたんだ……ずっと……」
    「……お前がそういうことになってたってすぐに気づいてりゃもっと早く……あーもう、お前もちゃんと言えよ。つらいとか悲しいとか全然伝えねえから……そしたらそんとき見せてやれたのに。写真なんかいくらでもよ……」
    「キース、ありがとう……嬉しい。俺、やっぱり寂しかったみたいだ」
    「そうやって素直に言ってくれると助かる」
    「ふふ。本当にありがとうな、キース……大好きだよ」
     ぐすぐすと泣き笑いのディノは目元を赤くして、この瞬間、世界のなによりも一番美しい笑顔を浮かべた。
     隣のスペースと比べて仄暗い照明、酒瓶、壁面のボールとキュー。場末のビリヤードバーのようなキースの庭に、ディノの存在は一等明るく咲いた花のようであった。その淡さに緩んだキースの口からぽろっと、嘘偽りない心が落っこちる。
    「オレも好きだよ」
    「わ……!キース、滅多に言ってくれないのに……!これはラブアンド」
    「オレのはラブしかねえ方の好きだけどな」
     万に一つの聞き間違いすらないほどはっきりと、真面目な顔でキースは愛を声に乗せた。今滑らずしていつ滑るのかと言わんばかりに、つるつる口を滑らせる。
    「……ラブしかない方の、好き?」
    「おー」
    「ライクじゃ、ないやつ」
    「いいぞ~解釈合ってる」
     キースがあまりにも開き直っているから、まるで冗談みたいだ。けれどディノには、キースの瞳が真剣な色を帯びていることが分かる。
     愛の告白を、された。
    「キースが、俺のこと、好き……。友達としてじゃなくって、恋愛の意味で……?」

     ディノはキースが好きだった。
     キースが長く恋慕の情を抱いているように、ディノもまた同じくらい、長い長い恋をしていた。
     これまで出会った誰のことだって、ディノはかけがえのない大切な存在だと思っている。けれど目の前の男に限っては殊更特別であった。他の誰かに向けたことなど一度たりともない感情を持て余している。
     例えば、唇を許してもいい。
     例えば、生まれたままの姿を晒して、肌に触れられてもいい。
     自分でも至ったことのない最奥を、彼に確かめられてもいい。
     そういう類いの愛情を腕いっぱいに抱えて、口に出すことのないままもう随分経ってしまった。
    暖かな花の季節も白く冴える冬も、一回り二回りと繰り返してもなおずっと手離せずにいる。当然だった。キースと接するたび、言葉を交わすたびにディノの好意ははっきりと色づいていくのだから。
     心身が自分の意思の儘に動かせなくなって四年。年月はある種、遅効性の薬である。過ぎゆくうちに、鮮明だった感情は穏やかな色に移り変わり、柔らかな思い出へと変容するものだ。洗脳から解き放たれたディノはそう信じていた。長く敵対関係であった己を元通り友人として扱ってくれ、近くにいさせてもらえるだけでも幸せなことなのだから、満足しない方が分不相応だ。
     それがどうだ。空白の月日が生んだのは凪ではなく、恐ろしいほどの渇望であった。
     キースとどうにかなってしまいたい。当たり前の日常が突如奪われることを知っているディノは、戻ってきた平和に対して欲張りになる自分に気づき愕然とした。
     友人に肉欲を抱くのは異常だ。そう自らを責めて、気持ちに蓋を被せた。明け透けに見え、嘘も演技も三流なディノだが、実のところ隠し事ならばそう不得意でもない。
     皆が投与されるよりずっと前からサブスタンスを体内に飼っていることも、アカデミー以前より既にエリオスと縁があることも、友人らに洩らすことはなかった。それらを秘め続けた過去に比べれば、己の恋心一つ封をすることくらい造作もないはずだ。
     蓋をして、蓋をして、蓋をして、いつか殺してしまえばいい。ディノは友としてキースの傍にいるために、想いを消し去ることを選んだ。
     そんなキースからの愛の告白。都合の良い、夢みたいだった。
    「言わねえつもりだった……でも、戻ってきたお前と過ごして、隣で笑いあって、背中預けて闘えて、欲が出た。それにお前には素直に気持ち伝えろって言ったくせに、オレが言わねえのはフェアじゃねえ」
     真摯なオリーブグリーンの瞳に熱が灯るのを、ディノは確かに見た。同じだ、自分と。傍にいられるだけでいいと殊勝に振る舞うのに、この人とああしたい、こうなりたい、と湧水のように溢れて留まることを知らぬ欲を孕んでいる。
    「万が一伝えちまっても、返事はいらねえとかカッコつける気でいた。でもその方が反対に気ぃ遣わせるだろうなって考え改めた……だからディノ」
     驚きと戸惑いでスマートフォンから離れていたディノの手を、キースはそっと握る。彼の手はディノより少し大きくて、熱くて、うっすら汗ばんでいた。
    「……返事が欲しい」
     今ここで、と付け足す声はどこか吐息混じりに震えている。
     言葉のみ聞けば淡々としており、平静を保っているように見えるキース。しかし本当はきっと恐ろしいのだろう。拒絶されることも、その拒絶に含まれる感情の種類を知ることも。同性同士で気持ちが悪いだとか、友人なのに恋情を持たれていたことへの嫌悪感だとか、ディノから返される可能性のあるさまざまな想念を浮かべて怖がって、それでもキースは想いを告げてくれた。
     ならばディノも、勇気を出して答えねばならない。
    「……俺、昔から言えないことだらけだった。四年もみんなのこと忘れて危害を加えてきた……なのに、なのに。キースはこんな俺のこと好きだって、言ってくれるの……?」
    「……オレは、自分で見て、話して、触れてきたお前に惚れたんだ。だから明かせなかった秘密や過去がどんだけあったって、それは変わらねえ。信じられねえなら何度でも言ってやるよ……ディノ、好きだ」
     じんと、また目の奥が熱くなる。いつ泣き出しても不思議じゃないのが自分でも分かって、それでもディノは懸命に堪えた。
    「好きだよ……俺も、キースが好き。忘れられなかった。気持ち、大きすぎて、全然蓋出来なかったみたい」
     まばたきと同時に涙が落ちて膝を濡らす。四つ目の染みが出来る前に、キースはディノの雫を拭った。優しい親指。その大きな手のひらに、すり、とディノが頬を寄せる。
    「伝えようかな、って悩んだこともあったけど……裏切ってた過去が責めた。知らないうちにキースに誰か大切な人が出来ていたら、って考えるのも怖かった。そう断られたときに、ちゃんと祝福してあげられる自信がなかった。それでなくても男同士だし……キースはすごいや、勇気あるなあ」
    「あ~……いや、勝算はあった」
    「へっ?」
     抜けた声でディノがぱちくりとキースを見る。目尻は赤いままだけれど涙は止まったようで、キースは安堵して、それから口角を上げた。先ほどまでの真剣な眼差しはゆるくほどけて、平時の穏やかさに戻っている。すり寄られることに受動的だった手を、自分の意思でそっとディノの頬に添えた。
    「個展」
    「個展?今日の?」
    「最後の写真の前で腕叩いて呼んだだろ」
    「う、うん。覚えてるけど」
    「あんとき、本当はもっと違う方法で寄り添いたいのに、って顔してたよ、お前」
     建て付けの悪いドアの音みたいな叫びを喉から鳴らして、ディノは顔を真っ赤にした。はくはくと、他になにか言いたいけれど言えないといった彼の口の動きに、ふは、とキースが笑う。
    「き、キース、それ、その……」
    「あとさっきベッドに座っていいか訊いてきたときもよ」
    「えーっまだある!耳塞いでていい……?」
    「平然と尋ねてきたくせに、いざ座っていいって許可出したらどっかそわそわと座るし」
    「うぁ~……恥ずかしい……全部駄々もれじゃん……」
    「伏せんなよ。可愛い顔してんぜ今」
     添えた手に力を加えて、今にも伏せそうなディノの顎を掬う。耳まで赤くなって本当に可愛かった。二十八のそれなりに鍛えた男に対して抱く感情ではないかもしれないが、キースにとってディノほど魅力的な人は存在しないのだから、無意味に嘘をつく必要はない。
    「勘違いじゃなきゃ、お前もオレに……同じくらいとまではいかなくても、似た情持ってんのかなってさ……的外れじゃなくて、良かった」
     ほっと小さく吐かれる息に胸が絞まって、ディノもまたキースの頬に手を伸ばした。どれだけの勝算を見出だしていたとて返ってくる答えが是とは限らない。緊張しただろう。重ねられた手のひらの汗が記憶に新しい。今は安堵の色の瞳。愛しかった。
    「……キースだって、可愛い」
    「おいおい目ぇ大丈夫か?この大男のどこが可愛いんだよ」
    「ふふ、可愛いよキース。キスしちゃいたいくらい、可愛い」
    「……オレもキスしちゃいたいくらい、お前のこと可愛いって思ってるけど」
     意見が合い、目が合う。ぱちぱちとまばたき。
     どちらかは添えた手を離さなければ不恰好だ、そう思って同時に手を離す。考えることは一緒で、ある種以心伝心だがどうにも譲り合いが過ぎた。はは、と二人して噴き出す。
    「キース、支えて」
    「はいよ」
     キースの手のひらだけがディノの頬に舞い戻る。暖かい体温が心地よかった。近づく唇を察し、ディノが敬虔な祈り人のように目蓋を閉じる。先端までピンク色の睫毛が可憐だ。そよぐ春風に色を付けるならこのような淡さなのかもしれない。
    そんなことを思いながら、キースはディノの唇を奪った。初めて重ねる想い人の唇は本当に柔らかく、どこか現実味を欠いて、まるで夢の中での契りのようだった。
     何秒と居座ることなく離れれば、ディノがゆっくりと瞳の空にキースを映す。それからくすくすと鼻を鳴らした。
    「柔らかかった」
    「ん」
    「……初めてだった」
    「……光栄です」
    「キース」
    「ん?」
    「恋人になってもいい?」
     好きだと伝えて、同じ気持ちなのだと返されて、キースの告白はそこまでだ。あ、と声を漏らして、彼は信じられないことを聞いたような間抜けな表情を浮かべた。今後どうなりたいか、どうしたいかという未来の展望をちっとも話してはいない。
     初恋を拗らせればこうも段取りの悪いものか。頭を抱えそうになるキースの手をぱっと奪うディノは、とても楽しそうだった。
    「顔見せて、キース」
    「ぐわ~情けね~……伝えて終わりってティーンの恋愛でももうちょいマシだわ……」
    「あはは!大丈夫だよ、俺もキスしてるときに気づいたから」
    「……最中に別のこと考える余裕あるお前も、なんか悔しいな」
    「や、そうじゃなくて……その……」
     つい今しがた見せたからっとした笑顔はどこへやら、急にしどろもどろと歯切れの悪い。首を傾げつつ、キースは視線だけで続きを促した。
     意を決して催促に応じたディノの台詞がとんでもないものであるとも知らずに。
    「……恋人じゃないから、挨拶みたいなキスしかまだ出来ないなって……恋人だったら、その先も一緒に経験していけるんだろうなって……思ったら、欲しくなっちゃった。キースの、たった一人になる権利」
     ディノのことをうぶでいたいけな男だと、キースは勝手に決めつけていた。色恋の話もろくに聞かず、彼がその渦中にいるなどという噂も耳にしたことはない。
     三十手前だ、知識くらいは当然あるだろう。実践経験はきっとない、はず。ゆっくり一つずつ進んでいけばいい。キースはそう思っていた。
    「……その先って、やらし」
    「はっ!ち、ちが!違う!デートとか!大人っぽいハグとか深いキスとかそういうやつ!」
    「ほ~~~ん」
    「……そりゃ、もっと先もしたいけど。なんだか俺だけスケベな奴みたいじゃないか……キースのいじわる」
     口を尖らせるディノだが、くつくつと笑うキースに対して漏らす不満なんて上辺だけのものだ。そのうち自分も可笑しくなってしまってにこにことしていると、キースがまた頬に触れてきた。
    「恋人、なってもらえたらめちゃくちゃ嬉しい」
    「んふふ、よろしくお願いします」
    「……もっかいキス。いい?」
    「……どうぞ」
     しれっと拐ってしまえばいいものを、都度お伺いを立ててくるキースは律儀で、いとおしい。断る理由などあるはずもなく、しかし改まった二度目はなんだか気恥ずかしくて、ディノはおずおずもだもだと許可を出した。その態度がキースの心を擽ることも知らず。
     結局気の逸ったキースに容赦なく深く長いキスを捩じ込まれ、されるがままのディノはろくに息も継げずにぐるぐる目を回すことになった。情けなくも初々しい顛末である。


    「お前合わせて四人のチームだ。ルーキーの成長も一緒に見守ってやれる。旅行だって行ける。ブラッドは有給取らせて担いででも連れていこうぜ。美味いもん山ほど食って、写真も馬鹿みてえに撮りゃいい。望みすぎなんてこたあねえよ。全部欲張っていいんだ、ディノ」
     濃厚な口づけのあと、ふわふわと酩酊のような状態のディノはキースのベッドに横たえられた。オレがお前のとこで寝るから、と退こうとする恋人の腕を引っ張って留めるディノ。意図が通じたのかキースはなんとも言えない表情で唸り、緩慢な動きで先客のすぐ隣に納まった。
     満足そうなディノの肩に被るように布団を掛けてやる。屈強な男二人を覆うにはどう見積もっても幅が足りないが、自分の背が多少寒くたってキースはそれでよかった。
     そうして落ち着いてから、キースが伝えた柔らかな言葉。耳から心へ降りていって全身を巡る慈しみに、ディノは日だまりみたいな笑顔を返した。
     全部キースが付き合ってくれる?と甘えたさえずりの声色で訊けば、仰せのままに、なんて格好をつけた回答を贈られる。
     可愛くて優しくて格好いい。ディノの自慢の友人で、今日からは恋人。幸せすぎてまだちょっと信じられないくらいだけれど、こうしてキースが言い聞かせてくれるから、ディノはこれから何度でも特別な関係になれたことをにまにまと噛みしめられるのだ。
     そうやって唇を上げ下げしていると、キースがあやすようなリズムで肩を叩いてくる。
    「眠いならもう寝ろよ。オレも寝る……ふぁ~」
     口の動きがおねむの幼児みたいに見えたのだろうか。キースの方がよほど眠そうなあくびを出すので、ディノもまた寝かしつけのようにゆるゆると抱きついた。互いの体温が暖かくて、徐々に目蓋が下りてくる。
    「……おやすみ、ディノ」
    「おやすみ、キース……ふふ。いい夢、見られそう……」
     告げてディノは目を閉じる。その予想通り、今宵の夢の世界は幸福な色に満ちていた。



    「あれ……もう終わっちゃうのかな」
     数日後、ちょうどパトロールのコースが前回のオフでぶらぶらした道と被ったので、ディノは再び個展を覗こうとした。しかしどうも様相が異なる。ドアは開きっぱなしで、吊られていたFREEのプレートも撤去されている。なのでガラス越しにしか見えなかった中の様子も、本日はよく見えた。
     ダンボール箱を二つ重ねてよたよたと出てくる男性がいる。危なっかしいので一つ持ってやると、彼の頼りない足元に反して思いの外軽かった。
    「す、すみません手伝っていただいて。僕どんくさくて……」
    「いいえ!写真や売り物を運んでるんですよね?慎重にもなりますよ」
    「そうなんです、僕ここで個展やってて!」
     外のワゴン車まで荷物を運ぶ。聞けばやはり今日で仕舞いらしい。ディノが残念がれば、写真家の男性は惜しまれることをとても嬉しがった。
     一つ、質問をしてみたくなる。
     最後の写真、秋を背景に笑う女性。ディノにはずっと気がかりなことがあったのだ。
     だが、この機にしか訊けないだろうと口を開こうとした瞬間近づいてきた人影に、質問はもう意味を持たなくなった。
    「あなたったら。また片付けが止まっていてよ」
     ふわり波打つチェスナットの長い髪。肌触りの良さそうなチェックのストール。風景写真のポストカードを数枚、両手で大切そうに運び出し、その最中に写真家へ呆れた声を投げる女性。小言にも聞こえるお叱りはどこか優しい。仕方のない人、といった具合で。
    「……あの、最後の写真の」
    「あら、見てくださっていたのね。なんだか恥ずかしいわ」
    「妻なんです。えへへ、彼女に手伝ってもらって、今回個展を開いてみることになったんです」
    「そうだったんですね!すごく……すっごく素敵でした」
     ディノが褒めると、開いてよかったと二人は見つめ笑いあった。
     秋とは。暖かい色彩を帯びては風に吹かれ徐々に枯れていく、寂寥漂う季節である。そこに佇む笑顔が儚くて、写真の中の彼女がどうなったのか──飾らぬ言葉で言うならば今も健在なのだろうかと、そういう心配があった。
     目の前の夫婦は仲睦まじく、穏やかな雰囲気に満ちていた。幸せなんだろうな、なんてディノまで暖かい気持ちを得る。次の機会を願っていることを伝えれば、また必ずと良い返事が戻ってきて、喜びのまま手を振りディノは個展を後にした。

    「おーいディノ。人が一服してるあいだにどっか行くんじゃねえよ」
     壁に凭れる長身男のくすんだ緑色の瞳が呆れた温度で、戻ってきたディノを責める。キースの煙草休憩の隙に、自販機を探すと言ってそのまま道草を食っていたことを思い出し、ディノは慌てて両手を合わせた。お茶目なウィンクも忘れない。
    「ごめんごめん!ちょっとラブアンドピースを浴びにね!」
    「なあんだよそれ。サボらず真面目にパトロールしてくださ~い」
    「あ、またそういうこと言うだろ~」
    「はは、悪い悪い。オレも一服長かったしな。むくれんなよ」
     行こうぜ、とキースが手を差し出す。その逞しさに吸い寄せられるように、ディノも笑顔で手を伸ばした。
     あえて人通りの乏しい路地裏を経由する。
     外、勤務中。だからここを歩く数メートルのあいだだけ繋げる手。
    「にひ、俺たちもラブアンドピースだな!」
    「も、って誰だよ他にラブとピース撒き散らしてた奴」
     あとで教えてあげる!ディノが跳ねた声で告げれば、キースも穏やかに笑み返す。

     今の表情、写真に納めたかったな。
     なんてお互い考えながら。
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