たとえ夕陽だって君には「オレを間に挟むなよ」
辟易したような顔、しっしっと手で払うような仕草、それだけ残してキースはアルバイト先へ向かった。
学費と生活費を自らの身体一つで調達する彼のことは素直に尊敬している。普段の態度も良かったのならもっと手放しで褒められるのだが──などと考えて、ブラッドは一度キースを頭から追い出した。友人相手にしては無礼、否、友人相手だからこその雑な扱いか。
なんにせよあばよと去っていった男に対していつまでも不満を抱いているわけにはいかなかった。ブラッドには今からすべきとても重大なミッションがある。
「ブラッド、お待たせ!」
駆けてくる足音がすぐ傍で止んで、水色の瞳が覗き込んでくる。よく共に過ごす三人のなかで一人だけ、空想みたいな淡い色ばかり持つ友人。
「ディノ。助っ人はもういいのか?」
「うん、ブラッド待たせてるから早くしなきゃって思って、シュート三本決めてきた!」
笑顔とピースサインに窓からの日射しが当たってきらきら眩しい。マゼンタの瞳を少し細めてからブラッドは、そうか、と短く返した。
ぶっきらぼうに聞こえなかっただろうか。ディノは沸点がきわめて高く、大体のことはなんでも許してくれるから、自分の愛想の有無を本当はどう思われているのか、ブラッドはときどき不安になってしまう。
「ディノはすごいな」
そんなときはそっと言葉を足す。妙な焦りなど滲ませず、ポーカーフェイスでスマートに。少しの微笑も添えて。
「にひ、ありがとう!」
ディノの嬉しそうなはにかみを浴びて、安堵と他もろもろの感情が心で忙しなく暴れる。ブラッドの慌ただしい精神状態など知りもせず、ディノは先ほどまで参加していたサッカーの試合のハイライトをうきうき語ってくれた。
楽しかったことを分けてくれ、そのくせ自分のことばかりではなく、聞き手も話題に巻き込むような話し上手。ディノはそういう人間だ。だからブラッドはディノとの会話が好きだった。無論、会話の楽しさだけが好きな部分ではないのだけれど。
放課後、ブラッドとディノが二人だけで出掛けるのは初めてだ。アカデミーの敷地から出るときのブラッドといえば大抵一人きりで、最近こそ誰かと連れ立ってということも増えたが、キースを含めて三人で行動することがほとんどであった。
今日街へ買い物へ行く約束も本当はそのはずだったのに、キースのもとに割りのいい日雇いアルバイトの話が舞い込んできたのだ。きな臭い気配に敏感な彼が「変な仕事じゃねえよ」と言うのだから安全性はまあ信じていいだろう。となれば当然キースは喜んで稼ぎにいく。なら買い物はどうなるのだ。ブラッドがそう問えば、二人で行けよと返された。
仲良し三人組でいるのが好きなディノだ。一人欠けることを寂しがって嫌だと駄々をこねるか、次の機会にしようと延期を提案するかと思いきや、存外普通に返事をしていた。ここでブラッドが渋れば、二人では興が乗らないのかと思われ、ディノを落ち込ませる可能性がある。
今回は二人で買い物に行こうか。ブラッドが優しい声色で告げれば、ディノはぱちぱちと二度大きくまばたきをしてから、ゆっくり破顔した。前向きな返事をして良かったと、ブラッドは胸にあたたかな光を灯しながら、放課後の待ち合わせ場所を提案したのだった。
そうして今に至る。
アカデミーは寮を含め非常に広い敷地を持つ。そのように大きな建物は、えてして郊外や山手にあるものだ。なので街に出るには坂を下り、バス停からバスに乗る必要がある。乗車賃を浮かせるべく自転車を走らせる者もいるが、彼らに訊けば十中八九こう返ってくる。坂、登るとき地獄。マジ無理。歩く方が全然まし。
「ディノの体力ならば、この坂も問題なく登れるのかもしれないな」
「そうかなあ?今度誰かに借りて試してみよっかな」
「上手くいけば買い物が楽になるだろう」
「でも俺、歩くの好きなんだ。だから今日こうしてブラッドと歩くの楽しいよ」
バス停までのたかだか十分足らずの道だけれど、ディノにとっては実りのある散策らしい。効率や時間短縮を優先しがちなブラッドとは真逆だ。
昨日蕾だった路肩の花が今日は咲いていただとか、雲の流れが早いとか、あまり見かけない小鳥がぴょこぴょこ歩いていて可愛いとか、そんな発見に心が踊るのだとディノは言う。
「ブラッドも余裕があるときは見てみて!」
跳ねるような歩き方をするディノが、上機嫌にリュックサックの中身を揺らし鳴らす。明らかに教科書だけではないなにかの音がした。
よくキャッチボールに誘われるから、ボールやグローブが入っているのかもしれない。間食のチョコレートバーの包装やペンケースにぶら下げてあるキーホルダーも音の出所の可能性がある。持ち物までごちゃごちゃと賑やか。微かに笑うブラッドに、ディノはこてんと首を傾げた。
他愛ない話で笑いながらの下り坂。ようやく視界に入り込んだバス停にディノが先に駆けていき、ブラッドも小走りで追う。電子時刻表を見れば、本来であればちょうどバスが来ていてもおかしくないタイミングだった。
「あ、なんか流れてる……ちょっと前のバス停から遅れが出てるみたい」
「道路状況にも影響されるからな。ゆっくり待とう」
部活の助っ人をしていたディノに合わせての待ち合わせだったから、学生でごった返す時間を過ぎ、今はバス待ちの人間も自分たちしかいない。
乗り口の近くでお利口に並べば、しばし訪れる沈黙。気まずくはない。穏やかなひとときをブラッドは一人楽しんだ。隣でがさごそと音がするまでのきわめて短い間だったけれども。
「なあブラッド。音楽って聴く?クラシックしか聴かないとか……?」
「いや、それなりには聴くしこだわりもないが」
「よかった。じゃあ、はい」
有線イヤホンの片側を差し出されて反射的に手に取るも、展開がよく分からなくてブラッドは疑問符を浮かべた。そのきょとんとした表情がおかしくて、目を細めたディノが楽しそうに話す。
「最近好きだな~って思ってよく聴いてる曲なんだ。待ってるあいだ、一緒に聴いてほしいなあって……ブラッドさえよければ、なんだけど」
ディノのこういうところが、ブラッドには可愛らしく思えた。きっかけを作るときは少し押しが強くて、けれど相手への配慮が必ず存在する。そのくせ瞳のなかに、断られたら寂しい、という色を宿しているのだ。誰が突っぱねられようか。ただでさえ、下心もあるのに。
「勿論、構わない。お前の好きなものがどんなものかも知っておきたいしな」
「……ブラッドそれ、なんか…………や、なんでもない!ありがと!聴こ!」
落ち着きなくスマートフォンを操作していくディノ。そのあいだにブラッドはイヤホンの片方をはめ終えた。
ディノが好きそうなスカイブルーのイヤホンは、ブラッドにはあまり似合わなかった。もしピンクならば、きっと二人で共有するのに相応しい。なんて自分本位な空想を頭から追い出して、ブラッドはもう片方の垂れたままのイヤホンを、なんとはなしにディノの形のいい耳の中に突っ込んだ。ひゃっ、と裏返った声を出して、ディノが隣人を見る。やった方とやられた方、どちらの目も真ん丸に開かれていた。
「……すまない、垂れているのが気になって。驚かせるつもりはなかった」
「あ、いや、俺も驚きすぎちゃってごめん……耳、弱くて」
「…………………………そうか」
本来要らぬはずの情報を、あまりにも長い沈黙を経てブラッドは、後生大事に持っておこうと誓った。思春期であることを都合よく盾にして。
耳の赤さを治めたディノが、またいくつかスマートフォンの画面をタップして準備を終える。再生するねと小声で告げられて頷き返すブラッドの耳に、耳触りのいいミディアムナンバーが流れ始めた。
ブラッドの知らないアーティストだ。聞き覚えのないボーカル。片耳分聞こえが悪いから、目を閉じて聴覚を補えば、歌詞も頭に入ってくる。軽快なサウンドに乗せて届けられる、難解さや攻撃的な部分のない歌詞。だからこそたくさんの人間に真っ直ぐ気持ちが伝わるのだろう。聴いていて心地が良かった。隣をちらりと見れば、ディノもまた目蓋を下ろしていた。本当に気に入りの歌らしい。ゆるく上がった口角が物語っている。
三分経つくらいで一曲聴き終えると、一度ディノがブラッドを見た。
「どうだった?」
「よかった。ボーカルの声は癖がなく聴きやすいし、メロディーもいい意味で分かりやすく、すぐにでも口ずさめそうだ」
「わ、音楽評論家みたいだ!ふふ、気に入ってもらえて嬉しいな。もう一曲あるけど……」
「聴こう」
「やったあ!」
バスはまだ来ず、他に待ち人もいない。贅沢な時間はまだ続いてくれるらしい。ブラッドはひそやかに喜んだ。二曲目はゆったりとしたバラードで、かといってつらい離別だとか夢破れてだとかそのような悲壮感があるわけでもない。前向きな楽曲を生み出すバンドなのだろう。こんな若者二人が放課後に並び聴くにはぴったりだった。
先ほどのように目を閉じて浸っているディノを盗み見る。リズムに乗ってちょっと横に揺れていた、楽しげなその表情に西陽がかかる。鼻のいちばん高いところ、前髪や睫毛の先、頬の曲線、唇の尖った真ん中。オレンジ色にきらきらと煌めいて、目映いくらい。
「……綺麗だ」
思わず口に出してしまったブラッドが失態に気づいた頃には、ディノはぱちりと目を開いていて視線は交わってしまっていた。ここから出来る言い逃れはあるだろうか。ディノの瞳の空も暖色に染められて、夕焼けを切り取ったみたいだ。彼のどんなパーツも美しくて、上手に言葉を捻り出せない。
「ほんとだ。夕陽、綺麗だな」
あたたかな光の向こうの、世界の果てでも見通そうとするかのように真っ直ぐなディノの視線。彼の勘違いに甘えてブラッドは頷いた。嘘ではない。夕陽だって間違いなく明媚だ。その明るさの恩恵を受けたディノが、比べようもなくもっと綺麗なだけで。
「周りに高い建物が少ないから、なおのこと良い眺めだ。このバラードにも合う」
「詩人だぁ……ブラッドってたくさん言葉知ってるから、いろんな表現が出来ていいな。素敵だなって思うよ」
「……俺は、お前の振る舞いから学ぶことが多い。なんでも試してみて、成功も失敗も笑って楽しむ明るさを、尊敬している」
「わ、わ~!ありがと……なんか照れちゃう……」
頬をむにむにと擦ってくすぐったそうなはにかみを宥める、そんなディノにぐっと来ているうちに二曲目が終わっていく。話しながらだったので一曲目ほどじっくりとは聴けなかったものの、こちらも良い曲だった。今度ダウンロードしてみようかと、ブラッドがアーティスト名を問おうとしたところで、車のエンジン音が徐々に近づき始めた。
散々待たせたくせに、いざやって来るときは無遠慮に二人のあいだの穏やかな空気を裂く。そんな八つ当たりみたいなブラッドの心境に気づかないディノは、ようやく現れたバスの姿に喜んだ。
他の交通機関と共通で使えるパスを鞄の前ポケットから取り出そうとするブラッド。迫る車体。
「……ブラッドが綺麗だって言ったとき」
「……? ディノ、なにか言ったか?」
最近主流の静音のものではない、旧型のバスだ。エンジン音が大きくて、さっきまでの声量では会話も儘ならない。
「俺の方、見てたから……や、俺べつに綺麗とかじゃないけど……さ」
電子音声がバスの到着と、終点までの停車順路を無機質に告げる。買い物へ向かうスーパーマーケットは四つ先だ。そんなことくらいブラッドは把握している。分かっているから、静かにしてほしかった。ディノがなにか言っているのだ。
「……夕陽のことじゃなかったら、嬉しかったのになあ……なんて。聞こえてませんように!」
ディノが先に乗り込んだ。
エンジン音が、うるさい。
二人席が空いていなくて、一人席に縦並びに座った。ディノは窓から夕焼けを眺めている。ブラッドはなにも言ってこなくて、上手く騒音に気持ちを隠せたのだと内心ほっとした。ブラッドの凛とした相貌がオレンジ色に染まるのを見て、その美しさに口が滑ったのだ。
聞かれていなくてよかった。そう油断していたから、ポケットの中で震えたスマートフォンをなにも考えずに手に取った。届いたメッセージは短くて、通知のポップアップだけで内容がすべて読めた。
「夕陽よりお前に見とれていた」
ひゃっ、と。少し前に聞いたような素っ頓狂なディノの声に、後ろの席のブラッドがたまらず笑った。