Cute aggression 初めてのハロウィン・リーグは成功に終わった。ニコはそう記憶している。
研修チーム五人に共有された写真は皆柔らかな表情を浮かべていて、日頃決して喜怒哀楽に富んでいるとはいえないニコも、どこか上機嫌に写っている自分の姿を金の瞳で捉えながら、過日をぼんやりと思い返す。
着付ける際の煩雑さに反し、とても着心地の良かった白と黒の衣装。ビアンキがヒーロー業の傍ら、忙しい合間を縫って一から仕立てたものだ。金糸の刺繍、星のアクセサリー、天使の輪をアレンジしたような髪飾りは射し込む後光にも似て、それから左胸を彩る羽細工はニコとセイジ、二人だけの揃いである。清廉潔白。本当に天使みたいだった。
「セイジに、よく似合ってた」
「ん?ニコ、なんの話?」
「ハロウィン・リーグの写真見てた」
キッチンから問いかけるセイジの声は少し遠い。ニコから見える細い背に留まるエプロンの蝶結び。
今日の年長組は夜間パトロールで、メンターであるロビンはメジャーヒーロー仲間との付き合いがあると知らされていた。いつもは大の男が五人掛けで使う共有スペースのテーブルも、ゆったりと広く使えた穏やかなディナータイム。終えた現在は静かに水音が聞こえるのみだ。
ニコが食事作りを担えば、大抵セイジは洗い物を買って出てくれる。一段落して蛇口を締めたセイジは、タオルで両手を交互に拭いてからエプロンを外し、足早にニコのもとへ向かおうとして──バランス悪くよれてしまったタオルを気にしてあせあせと均しに戻った。律儀な後ろ姿に、ニコは密かに笑む。
「ふふ、ニコが熱心に写真見てるのって珍しいね」
「セイジが可愛かったから」
「んんっ……!」
ソファーの隣に失礼するや否や、猫は可愛い、くらいさも当たり前のように返され噎せるセイジの前に、マグカップがすっと置かれる。片付けの礼にとニコがいつの間にか淹れていたらしい。先日二人でグリーンイーストへ出かけた際に気になって買った中国茶だ。濃い茶色はもはや黒に近い。確か店員は烏龍茶と言っていただろうか。くぐもった声で礼を告げて飲めば、アップルパイを好んで食すようなセイジの舌には少し苦かった。
「ビアンキもよくセイジのことを可愛いって言ってる。だからおれが言ってもいいかと」
「に、ニコは同い年だから、ちょっとびっくりしちゃったかな……」
「これ見たらそうも思う」
ニコが向けるスマートフォンの画面には、彼が先ほど述べたとおり、ハロウィン・リーグの成功を記念して撮った写真が表示されている。眺めてセイジは、忙しなく過ぎる日々のなかで少し奥の方になっていた当時の記憶を呼び戻し、ふわふわと幸せそうに笑って、それから顔を仄かに赤く染めた。
「…………僕ひとり、ものすごく、その、子供っぽくない……?」
「衣装はおれとほとんど同じ」
「顔が……」
「顔か。顔はさっきみたいにふわふわしてるな。このときのセイジ、すごく楽しそうだったから」
だよねぇ、と恥ずかしそうにセイジは過去の自分を指さす。こんなに嬉しいことは他にない、なんて具合の柔らかな笑顔だ。暖かい季節に咲く花のように頬は淡く色づき、歳のわりに幼い大きな瞳のそば、インカムに取りつけられた片耳の白い羽飾りが清らかさを添えている。
「ポーズ取ってるのも僕だけだし、すごく舞い上がっちゃってるよね……うわ~なんだかどんどん恥ずかしくなってきた……!」
なにも案じることはないのに、とまるで年上みたいな面をして、ニコは百面相の隣人を面白そうに眺める。
セイジが気づいていない長所を、ニコは知っている。ビアンキもジュードも、ロビンだって知っていることだ。当人だけが自らの影響力を理解していない。
あどけなく笑う彼がいることで、このチームに明かりが灯る。カーテンの隙間から朝の気配がきらきらと漏れるような優しい光を纏って、手を伸ばしてくれる。セイジはそういう人だ。
「ほら。ニコは凛としてて、ちょっと斜めな角度もかっこいいよね。ジュードくんは少し離れてるからクールなお兄さんって雰囲気が出てて、ビアンキさんはウィンクがお茶目でとっても素敵だなあ。それで僕らに手を添えて、輪を作ってくれてる」
はじめは可もなく不可もない、そういうチームワークだった。個性が強く我が道を行くタイプの人間ばかりだと、流石のニコも自身がその括りに含まれている認識くらいある。そんなだからハロウィン・リーグもさくっと、無難に、簡単にこなせたらよかった。菓子をやりとり出来るイベントと考えれば魅力的ではあったけれど。
消極的な流れを変えたのは、セイジの一声だった。
無責任にただ物を言うのではなく、適材適所の提案をしつつ礼儀を持って人に頼ることも出来るセイジだから、頼られた相手を悪い気持ちにはさせない。ビアンキはそうして一度悩みはしたものの快く首を縦に振ったし、以降彼は目が開かれたかの如くうきうきとデザインの仕事を兼ねるようになった。ときどき疲れてうたた寝などしているが、やりたいことに挑戦する彼の表情はとても満足そうである。
人が蓋をしかけた夢を掬って、陰りの路地裏から明るい道に放してやる。セイジは無自覚に誰かを救える人間なのだ。ビアンキだけではなく、ニコのことも。
「セイジは人を褒めるのが好きだな」
「だってみんな本当にすごいから!あっほらジュードくんもよく言ってるでしょ?綺麗だとか愛してるとかは」
「思った瞬間に伝えたい」
「そうそう!」
「じゃあおれもそうしてみるか」
普段出ないような台詞がニコの口から出てきて、セイジはきらきらと目を輝かせた。美点を伝えて喜ばせたい人がいるのだろうか。
是非そうしてあげて!と応援しようとしたセイジが口を開く前に、ニコが名を呼んだ。いつもみたいに起伏の少ない落ち着いた声だったから、セイジもまたいつもみたいにうんと頷く。一秒先の展開も知らずに。
「セイジは可愛い」
「──へっ?」
「セイジが笑ってるとおれも嬉しい。美味しい店を見つけたらセイジと行きたくなるし、食べてほしくてお土産もたくさん買っちゃう。アップルパイを焼いてあげたら喜ぶ、その顔も好き。もっと上手く作ったらもっと喜ぶかなって、それでパイ作りが上達した。勿論自分用でもあるけど」
「う、うん……ニコはおなか、す、空くからね……」
「誰にでも物腰が柔らかくて優しい。エリオスのヒーローの中で一番笑顔が似合ってる。セイジが憧れてるジェイとかブラッドにだってそこは絶対勝ってる。おれが保証する」
「……買い被りすぎだよ……ああちょっと待ってほっぺた熱くなってきた……!」
「可愛い。そういうところ」
距離が狭まる。焦げ茶色のソファーが軋んで、偏る体重で沈んだ場所から小さく皺を成す。セイジの頬は当人の前言どおり熱くて、ニコが伸ばし添えた手のひらにじんわりと温度を移していった。手触りがよくて二度三度と撫でてしまう。大胆なニコの行動にセイジは目をくるくるとさせて、随分と困惑している様子であった。
「そ、そっそそ、そういうところってなに……!?どれ!?」
「真っ赤になってリンゴみたいなところ。焦って噛んでるところ。挙げてったらきりがない……あとたまに」
「……たまに?」
「食べてみたくなる」
「食べ……!に、人間って、食べても美味しくないって話だけどな……あ、でも…………ふふ」
なにかに気づいたか思い至ったか、セイジは小さく笑って、会話に休符を置くようにちょっぴりぬるくなった茶に口をつけた。首を傾げるニコを改めて見つめて、次に。
「それならニコの方が、なんだか甘い味がしそう」
自分の方がよっぽど甘ったるい相形を浮かべて、とんでもない言葉を発する。少なくとも先ほどまではニコが優勢であったはずなのに、思わずどきりとしてしまった。無垢には勝てない。本当に食べてやろうか、などと良からぬことを考えてしまう。だがニコがそうすることはない。
「でもニコのこと、食べたくはないなあ。こうしてたくさん話がしたいし、いろんな所に行ってみたいし、一緒にごはんを食べて、これが美味しいね、あれも食べたいねって伝えあいたいから」
セイジが言う。そういうことである。
「おれもそう。セイジといたいから、セイジのこと食べない」
ありがとう、とふわり微笑むアクアブルーの瞳は嬉しそうで。まるで言葉遊びが真実であったかのようにニコは、この場でセイジを食べないでよかったなと、自身の金色を細めた。
ロビンが帰ってきたのが二十三時過ぎだった。仕事に差し支えるため日付が変わる前に床に就くよう心がけているセイジとともにニコも、ロビンに挨拶をしてから二人部屋に入る。おやすみを伝えあって、それぞれのベッドで眠りに向かった。
照明の消えた部屋。ニコはもう一度密かにスマートフォンを灯し、写真の中のセイジを眺めた。
天の遣いに相応しい、白の清麗さと金細工の繊細な美しさ。ビアンキは本当にいい服を作ってくれた。着るものの良し悪しにさして頓着しないニコだって、これらが手間隙かけて考えられ作成された素晴らしい衣装だと一目で分かるほどの出来だ。
天使が題材だとどうしてもガードが固くなりすぎちゃうからね、と遊びを入れたがったビアンキは、腕の部分を大胆にカットした。セイジがファンサービスでポーズをとったり、大きく手を振ったりするたび肌があらわになって、その健康的な薄い色にニコは心がざわざわと落ち着かなくなったものだ。理由に見当をつけられないほど彼は幼くはなかった。誰かの柔肌に焦がれるような至極人間らしい感情が、自分に備わっているとは思わなかったが。
「こんなところ見てやらしい気持ちになるなんて、変態みたいだ……セイジには言えないな」
笑っていてほしいと願う傍らで、触れて、血の通う皮膚のあたたかさを知ってみたいとも思う。
軽く区切っただけの空間、かすかに耳に届く寝息。向こう側に忍び込むのは容易い。それをしないのもまた愛情なのだとニコは笑んで、布団に潜りなおした。