花屋の君⑥「伊地知さん、この花なんて名前でしたっけ」
新田から呼び止められ伊地知はそちらを向く。彼女が見ている先には一輪の花が咲いていた。
「あぁ、もうそんな季節ですか」
「何でしたっけ…ちょっと複雑な名前だった気が」
考える彼女を見て伊地知は柔和に微笑みながら口を開く。
「その花の名前はですね…」
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「ありがとうございました!」
お客様を見送り、今日の予約を確認する。17時に七海さんの勤務先の名前が書いてあった。
部署異動を彼が行ってからはお会いしていない。
花束も彼ではない会社の方が取りに来る事がここ最近ほとんどだ。
『お元気でしょうか…』
そう思うくらいなら電話やメッセージをすれば良いと考えたが、あちらも仕事をしている身なので急な電話は迷惑だろうと思ってしまい連絡先を交換したものの、こちらから電話が出来ずにいた。
『七海さんからも連絡がないということは、元気だとは思いますが…杞憂ですかね』
ふぅと息を吐いて気持ちを切り替えた所で店の電話が鳴ったので電話を取ると、先程まで考えていた当人からだった。
少し嬉しく思ったが何やら様子がおかしい。
「どうかされたんですか?」
『伊地知くん…大変申し訳ないのですが花束を取りに行くのが閉店までに間に合わないかもしれないんです』
「え…何かあったんですか?」
七海さんの話によると花束を取りに来るはずの方が体調を崩し、早退をしたので予定の時間に取りに行ける人が居ないとの事だった。
いつもは淡々としている彼の口調に焦りが込められているように感じる。
『本来であれば前日までに相談すべき内容と理解しています…申し訳ありません』
「ちなみにお客様に渡すのはいつですか?」
『明日の朝イチ、9時です』
その時間はうちも開店していない。そうなると導き出される策はひとつだ。
「分かりました。でしたら閉店後に取りに来て頂ければ大丈夫ですよ。私中にいますので」
『良いんですか…?』
「はい、いつもお世話になってますので構いません。来られる時間だけ教えて下さい」
『時間は19時頃になると思います。すみませんが、よろしくお願いします』
「かしこまりました。気をつけていらして下さいね」
電話を切って時計を見ると17時を指していた。やる事はたくさんある。水やりに、18時に閉店なので閉店準備、その後明日お渡しの花束を作って…七海さんが来られるまでポプリのストックでも作っておこうか。
「さて、もうひと頑張りですね」
店内で呟き、水やりの準備に取り掛かった。
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18時50分ーーー
『気をつけていらして下さいね』
こちらのわがままにため息ひとつ吐く事なく、むしろこちらを気遣う言葉をかけてくれた時救われた気持ちだった。
受取を任せていた部下が急な体調不良で早退し、花束を取りに行けないと聞いた時には気が気ではなかった。
成約したお客様皆様に渡している花束を渡さないという事などあってはならないと思い、藁にもすがる気持ちで店に電話をかけた。
そして彼が出てくれた。
店の前に着くと閉店後であるため、いつも開いているドアは閉まっておりCLOSEDの看板がかけられている。中は奥の方だけ電気がついているのが見える。
緊張のため少し震える手で2回ドアをノックすると奥から足音が聞こえ、ガチャリと鍵が開き伊地知くんが顔を出した。
「お疲れ様です。思ってたよりも早かったですね」
「お手数をおかけしてしまい、申し訳ありません」
頭を下げて謝罪すると彼は「頭を上げてください」と言い「とりあえず中へ。春と言えど日が暮れればまだ冷えますから」と中に入るよう促した。
穏やかに微笑む彼の後に続き、店内へ入るとコーヒーの香りが漂ってくる。
「先にこちらを」
レジ前に着き、渡されたのはマグカップに入ったホットコーヒーだった。
「そんな、お気遣いなく…」
「私も飲んでいたので、ついでです。花束の準備してきますね」
緊張で冷えていた手にマグカップの丁度良い熱さがじんわりと広がり、飲むとじんわりと体の内から暖かくなる。
「お待たせしました。個数の確認をお願いします」
今回の花束は3つ。赤、ピンク、オレンジで構成された花束がこちらに向けられる。
「はい…大丈夫です」
「ありがとうございます。持ち帰りやすいように箱にお入れしますね」
箱に花束を形を崩さないよう入れてゆく。
「確認せずにお渡ししましたが、コーヒー好きでした?」
「えぇ、好きです。君もコーヒー派ですか」
「そうですね。残って作業する事もあるので、コーヒーをいれることが多いです」
この仕事でも残業があるのかと思い「残っての作業とは?」と興味本位で聞いてみる。
「注文の花束を作るのがメインですね。リボンの補充をしたり、仕入れの確認をしたり、あとは今回みたいな……あ」
閉店後にお客が来た場合、と言いかけたのだろう。再度頭を下げて謝罪する。
「本当に申し訳ない…」
「わざとじゃないんです、七海さん!顔あげて下さい!気にしていませんので!!」
あまりにも慌てふためいて彼が弁明するものだから思わず笑ってしまう。
「笑わないでください…」
「すみません…ふふっ」
伊地知くんは耳まで真っ赤にし、花束を箱に入れ、領収書を書き始める。
「七海さん、最近元気にされていましたか?」
「元気…とは言い切れないですね。部署を移動してから前任者からの引き継ぎ業務や新しい事務処理で疲れている毎日です。君は…元気でしたか」
「私は七海さんのように業務が変わる事はありませんので、変わらず元気ですよ」
伊地知くんが領収書を差し出したので受け取ると「実はずっとお聞きしようと思ってたんです」と彼はこぼす。
「七海さんが来られなくなって病気や風邪などひかれてしまったのかと思い電話をかけたかったのですが、異動されて忙しいと思って…」
その言葉に君もそうだったのかと驚いた。
会社で業務に追われている時、机の上に置いてあるハーバリウムに目をやると君が出迎えてくれた時の顔を思い出した。その度に元気だろうか、電話しようかと思いスマホを取り出したが忙しいだろうと発信ボタンもメッセージの送信ボタンも押せなかった。
彼も私と同じような事を考えていたというのを知って、胸が高鳴り彼の姿が眩く見え始める。
今まで彼を見てきて、こんなことは初めてだった。
「マグカップ受け取りますね」
「あ、あぁ…すみません」
考えを中断し、マグカップを手渡して花束の入った箱を持ち上げる。
伊地知くんが足早に回り込みドアを支える。彼に向き合い、お礼の言葉を伝えた。
「今日、君が電話に出てくれて正直ほっとしました。おかげで明日のお渡しに間に合う事が出来ます。伊地知くん、今日は本当にありがとう」
「私は何も…七海さんが事前にご連絡下さったので、こちらも助かりました。お客様には喜んで頂きたいですからね」
彼のにっこり笑った顔を見た瞬間、甘酸っぱい何かが心を満たした。思わず目線を逸らすと紫の花をいくつも付けた一輪の花が咲いているのが目に入る。
「あの花は?」
「アガパンサスといいます。紫や白の品種があり、あのように花を多数咲かせるお花です。綺麗ですよね」
バタンとドアを閉めて歩く私の後に続き、車まで見送りに来てくれた。
「伊地知くん、今日のお詫びと感謝の印に夕飯をご馳走させて欲しいのですが空いている日はありますか?」
「そんな気を遣って頂かなくても」
「でないと私、今日のことをずっと引きずりそうなので…ダメですか?」
断りにくいずるい聞き方をしているのは分かっている。それでも
「ま、毎週木曜が定休日なので、その時であれば…」
欲しい答えが貰えて心の中でガッツポーズをした。
「では、またその時には君の携帯に連絡します。今日は本当にありがとう」
「はい!ありがとうございました!」
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店の中に戻り、ドアに鍵をかけてその場で呆けてしまう。本来なら食事の誘いなんて断るべきだとは分かっていた。
『…ダメですか?』
他のお客様から今まで誘われた時には断ってきたのに、どうして断れなかったのだろう。
「七海さんだから…?」
それは行き着いてはいけないような答えの気がした。だがその答えに行き着いた時、顔が熱を持ちはじめた。
「か、風邪…ですかね…早く帰りましょう」
帰り支度を済ませて店を出る。夜風が火照った頬を冷ましてゆくのを感じながら私は店を後にした。
アガパンサスの花言葉:「恋の訪れ」