きみのすてきなところ 類と喧嘩をした。
「もう弁当を作ってこなくていいよ」
そう、あしらわれ、オレは激昂をした。それはとても些細な出来事、では全くなく少なくともオレにとっては重要な問題だったからだ。
それなのに今、降りしきる雨の中、一つの傘の中に二人で居ることが酷く不可思議なことでしかない。ちらりと横目で類を覗けば、類はオレのほうなど見向きもせず、真っ直ぐに冷たい空気の向こうを見つめて歩いていて、苦しく思っているのはオレだけなのかと些か落胆をする。
昼休みのたびに昼食の交換をねだってくる類のために、わざわざ早起きまでして弁当を作ったのが始まりだった。それを続けること十五日目。今日になって類がその弁当を拒否したことがこの喧嘩の中心部分である。
類は何かを頼めば必ずその倍を上回る成果を上げようとしてきた。徹夜をしたり授業をサボったりしてまでオレの望みを叶えようとする。何故だと問えば、君が笑ってくれるのが何よりも嬉しいからと笑顔で返される。そんなことを繰り返していればオレの頼みに弱いところがあるのだと気がついてしまうは当然のことで。
類はオレのためにいつも最大限の尽力をしてくれる。ならばオレはどうすればそれに報いられるか。そう考えたときに思い付いたのが、いつもの昼食の風景だった。
類はオレと昼食を共にするときは必ず、購買で野菜サンドを買ってくる。そして食べられないからとオレに昼食の交換を申し出ようとする。断られる確率を下げようとチキンサラダを選んでみたりキャベツがたっぷり入ったカツサンドを手渡してくることもあった。その行動理由は今も理解ができないが、三分の一ほどでも交換をしてやると楽しそうに笑みを浮かべて「ありがとう」と感謝を口にするのだから類にとって良いことなのはオレにも理解ができた。
しかし類が家から弁当を持ってくることは極稀なこと。オレが弁当を分けるにしても、どう考えても人間が摂取するべき一日の栄養素のほとんどを取れていないのではないか。その毎日のような悩みの改善策を思考し続け、絞りだしたそれを実行へと移したのが一ヶ月ほど前のことだった。
夜はショーの脚本を考える必要があるから、母さんに頭を下げて、二人で午前の五時前に起床をして、弁当を作る練習をする。何故か嬉しそうに説明してくれる母さんに作り方を教わりながら栄養が取れる弁当を毎日作り上げて。卵焼きは火の調節を間違えて焦がしてしまうし、おにぎりは力を込めすぎて些か圧縮された食感になってしまうし、生姜焼きはそもそもの肉の形を間違えて買ってきてしまうし、と初日はボロボロの出来だった。
卵焼きは砂糖を入れた甘いものだから焦げやすくなってるだけ、おにぎりは外で食べるのだから固い方が好ましい、生姜焼きは一枚の肉でなくバラ肉でも簡単に作れるから、とずっと隣で教えながら褒め続けてくれた母さんには頭が上がらなかった。
その母さんに唆され、初めて作った不格好な焦げの残る弁当を父さんに渡してみたら、朝から大号泣をされて大層困ってしまったのは記憶に新しい。大きくなって、と泣き止まない父さんを必死に宥めすかし、送り出し、これからは咲希に弁当を渡された際は絶対に泣かないようにしようと心に決めたのだ。
初めの頃は火を強めすぎて焼きすぎてしまったり調味料を間違えて多く入れてしまったり、随分と失敗をしたものだったが、今では目立った失敗など無く、味の変化や装飾まで凝りだせるようにまで上り詰め、母さんの力を借りずともレシピさえ見れば完成させられるようになった。
野菜を細かくして混ぜるのなら、必ず入っていることを教えてあげること。騙し討ちのように食べさせてしまったら余計に苦手になってしまうだろうから。というのは母さんの談だ。
誰、とは決して言わなかったのに、どうしてか母さんは弁当を渡す相手を知っているかのようにレシピを教えてくれた。初めて弁当を作った日の朝、何故かキリリとしている咲希に「お兄ちゃん、ファイト!」とサムズアップをされたので、咲希経由で知ったのだろうなとなんとなく思っている。
もう食べられないのかとしょんぼりする父さんとそれを宥めながら頑張ったね、と微笑んでくれる母さんと応援してるよ、とキラキラした瞳で見つめてくる咲希に見送られ、跳ねる鼓動と共に学校へ向かったのが随分と昔のことのように思えた。
「オレの作る料理が嫌だったのか」
「そんなはずがないよ」
「じゃあなんで」
「わざわざ君が作る必要は無いだろう?」
どういう意図なのだろうかと、心が切りつけられたような心地がした。類はそういう直球でものを言わないところがあるなと、嫌な現実逃避をしたくなる。どう考えたって、オレの作るものが嫌だと言わんばかりの台詞ではないか。
「やっぱり嫌だったんじゃないか。悪かったな、母さんや咲希の弁当じゃなくて」
「いや、そうではないんだよ……」
そうじゃないとはなんだ。否定しておいて。
類へ向けた感情を当人に切り捨てられたような感覚を抱き、目蓋の裏が燃え上がりそうなほど熱を持ち始める。
類はそんなオレを横目に映して、ふいと視線を逸らした。それだけで体も心も傷つけられたような心地がして、オレはこんなに弱かったかと、揺らめく視界をぼんやりと見つめた。
「君が僕のために頑張る必要なんかないのに」
頬を張られたような心地がした。
「なんでそんなことを思うんだ」
震えてしまった声に気がつかない類は至極当然のことのように平然と口を開く。
「君の時間を僕のために使う必要性が一切感じられないからだよ」
その言葉に、酷く胸が傷つく。そんなことを言わないでほしい。オレに向かって告げないでほしい。
だって類のためなのだ。類に返すために、オレがしたかったことなのだ。
「……そんな悲しいことを言うな」
「悲しくなんてないよ。当然のことだろう」
「──類が、頑張ってくれるから、オレも頑張ったんだぞ。だからそんなこと、言わないでくれ」
「だから、どうして僕のために君が頑張ろうとしてくれるんだい。……僕には理解できないな」
「そんなの類が……!」
類が、なんなのだろう。開いた口が震え、瞳の裏がチカチカと瞬く。
類が頑張ってるから、助けてくれるから、ほしいものを全部渡してくれるから。報いたいと思ったのに、伝わらないことが苦しくて悔しくて。
あっ、と思った瞬間には、既に雫が溢れていた。視界の端で、類が目を見開いている姿を認識して、ああ、やってしまったなと、どこか冷静な思考を繰り返す。悲しいのか悔しいのか寂しいのか、その理由すらままならないのに、降りしきる雨のせいで類から離れることも叶わない。
不意に立ち止まった類がオレに手を伸ばそうとして、引っ込めたのが視界の端に映る。傘を持っていたのは類だから、そのまま歩いていたオレは雨に濡れてしまって、冷たいなと思う暇もなく、慌てたように類が近づいてきた。頑なな類の人間らしいところを目にするたびに、いつも思わず笑ってしまうのに、今は上手に笑えなくて乾いた音が口から溢れて、その瞬間、類に片手を掴まれて。
「僕は君に貰ってばかりだよ。だから君の思うことは全部叶えたいのに、どうして君は報いてしまうんだ」
こちらに傘を傾けた類の左肩はぐしょくしょに濡れていて、冷たいだろうにずっと傘を差し続けてくれていたその優しさを目にして、言葉が出なくなった。どうしていつもそんな優しさを当然のように扱ってくれるのか、少したりともオレにはわからなかった。
貰ってばかりだなんて、嘘だ。オレこそお前に貰ってばかりなのに。だからこそ報いたいのに。叶えたいのに。
「このままでは一生かかっても君に返せない。僕はどうしたらいいんだい。君はどうしたら僕が与えたいもの全部を享受してくれるんだい」
言葉を返せないオレに、類は「ねえ」、と瞳を見つめてきて、僅かに震えている唇を開いた。
「僕に君を愛させておくれよ」
ずるい男だった。
愛だなんて言葉に全てを詰め込んでしまうこの男は、誰よりもずるい男だった。そしてそんなところがオレは何よりも好きだった。愛おしくて、仕方がなかった。
報いはきっと、愛なのだ。
弁当を作りたいだとか食べてほしいだとか、それは報いではなく、義務でもなく、ただの愛のかたちなのだ。
目の前の男はそんな簡単なことに気がつかせてくれたのに、自身は未だ報いにがんじがらめになっている。それがなんだかおかしくて少し微笑ってしまえば、類は訝しげに唇を尖らせた。そしてそれすらも愛おしく思えて。
「なら明日も弁当を作ってくるから、それを美味しそうに食べてくれ」
「そんな簡単なことでいいのかい?」
「ああ、愛とはそういうものだろう?」
「……そうか」と類は瞳を丸くさせながらぽつり声を落として、
「愛って美味しいんだね」
そんな風にしみじみと呟くものだから、涙を溢してしまったはずのオレは思わず大声をあげて笑ってしまった。
天才と呼ばれている彼が、幼い子供のような細やかで大事な気付きをしているのが面白くて可笑しくて愛おしくて。
ずっと掴まれていた手を握り返せば、類はほんの少し体を跳ねさせて、困ったような落ち着かないような顔をした後、一つ瞬きをして、彼は柔らかく笑ってみせてくれた。そんな彼のそういうところが、好きだった。