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    りーでぃん

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    りーでぃん

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    未完結るいつか小説まとめ
    7つある

    類司【映したくもない】
    司くん、と声をかけられる。聞き慣れた声に振り向けば、教室のドアの前にビニール袋をぶら下げた類が立っていた。
    「演出の話をしたいんだけど昼は空いてるかい」
    「ああ、空いてるぞ。昼食を食べながらでもいいか?」
    「勿論だよ。僕もそのつもりだったからね」
    教科書を片付けて弁当箱を持ち、類の傍に寄る。少しだけ口角を上げた類は「行こうか」と喧騒に満ちた廊下を進み出した。いつものように階段を上って軋む音を立てる扉を開けば、流れ込んでくる生温い風がオレの髪を揺らしていった。
    学校の屋上にはほとんど人が近寄らず、二人で演出の話をするにはもってこいの場所だった。誰も近寄らないためにベンチだなんてものも存在しない屋上でオレたちは地面に腰をつける。勿論、制服を汚さないようにタオルを引いて。
    初めの頃は一人、ハンカチを使っていたものの、類が何も気にせずコンクリートの上に座り込むものだから、いつの頃からかタオルを敷くようになった。一つのタオルに二人で座るのは些か狭くはあったが、ハンカチより大きいタオルならば類も制服を汚さずに座れる。もし、何故二つタオルを持ってこないのかと問われれば、オレには返す言葉が無かった。類に尋ねられたことは一度もないが、この先も聞かないでほしいと願わずにはいられない。少しでも類の傍に居られればと願う、オレの心の弱さだった。
    「今日も野菜サンドなのか」
    「そうなんだよ司くん!こんな仕打ちをうけている僕が可哀想だと思わないかい?」
    「思わないな」
    「というわけで野菜サンドとその弁当を交換しようじゃないか!」
    「人の話を聞け!せめて会話をしろ!」
    あっけらかんと笑う類にオレは呆れてしまう。毎度のことのように類は野菜サンドとオレの弁当を交換しようと持ちかけてくるのだ。野菜サンドが嫌ならば違うものを持ってくればいいと初めは告げていたが、類に言わせれば母さんが渡してくる、らしいので強く注意することもできなくなった。類の母親の気持ちはわかるのだ。野菜を食べない類を見ていると、栄養は足りているのかと心配の気持ちが湧いてきてしまうから。
    「全く、仕方ないな……全部はやれんが半分わけてやろう」
    「本当かい?ありがとう司くん。助かるよ」
    「その代わり野菜サンドを半分食べろ」
    「ええ~」
    「ええ~、じゃない!全くお前は……」
    自作の弁当の蓋を開き、弁当箱の蓋に少しずつ中身をわけていく。生姜焼きに卵焼きにツナのサラダに、弁当を作ったら余ってしまったと咲希が分けてくれたタコの形のウインナー。類は野菜全般が苦手なようだが玉ねぎは比較的食べられるらしい。弁当の蓋にのせた、きゅうりもブロッコリーも入れられないツナのサラダは、玉ねぎのおかげでなんとかサラダとしての体裁を保つ。
    「ほら、これでいいか?」
    「ああ。ありがとう」
    嬉しそうに頷く類の顔を見れば、弁当をわけることも仕方がないなと思ってしまう。別に、嫌ではないのだ。毎日のように弁当をねだられることも、半分に千切られた野菜サンドを食べることも。
    「今日の弁当も美味しいよ、司くん」
    「そうか、それは良かった」
    美味しそうに自分の作ったものを食べてもらえるのはどうしたって嬉しくて。思わず顔が緩んでしまいそうになる。オレは取り繕えない表情を隠すようにして、小さくなった野菜サンドを口にした。できれば渡した弁当ばかりを見て、こちらを見ないでほしいのだ。
    恋にまみれてスターで居られないオレの姿など、スターであるオレを輝かせてくれる類の目に映したくもなかった。

    「ねえお兄ちゃん」
    両親を旅行へ送り出し、二人きりのそれでも明るい食卓の中。咲希はクルトンサラダに添えられたトマトを箸で掴もうとして、ふとオレに視線を向けた。
    「るいさんのことが好きなの?」
    掴んでいたじゃがいもを箸から滑らせてしまい、ポトフの皿からぽちゃんと音がする。
    「……なんでわかったんだ?」
    「だって最近、るいさんの話をすることが多くなったでしょ?えへへ!そっか~!やっぱり好きなんだ!」
    咲希はうんうんと頷いてにこにこ笑った。オレは隠していたはずの類への心を咲希へ晒してしまったことがいたたまれず、手で顔を覆ってしまう。きっとオレの顔はりんごのように赤く染まってしまっているのだ。その証拠に、頬にじんわりとした熱を感じていた。
    「類には絶対に言わないでくれ……」
    「わかってるよ!」と強く頷いた咲希は、ふいに腰を浮かせて幾分か身を乗り出してきた。食事中には珍しい咲希の行動に、何事かと顔を上げてしまう。
    「それでそれで、お兄ちゃんはるいさんのどんなところが……」
    真面目な表情で問い詰められ、更に頬へ熱が上ったのを感じ、首を強く横に降る。他人に言うなど考えてもいなかった。それが咲希相手ならば尚更だ。羞恥の感情が湧いてきてしまう。
    「い、言わんぞ!」
    「お願いお兄ちゃん~!あたし、一度でいいから恋バナしてみたかったの!」
    「一歌達とすればいいだろう!」
    「だって女子高だしバンドの練習で忙しくて恋する暇ないんだもん~!」
    「ぐっ、それはそうだが……!」
    「お願いお兄ちゃん!絶対に誰にも言わないから!ほら!指切りげんまん!」
    小指を立てて右手を差し出してくる咲希の瞳は期待と希望と不安が混ざりあっていて、幾分か不安の要素が大きいようにも見えた。無理を言って困らせてしまっていると思っているのだろう。それを目にしてさえ拒否をし続けることなど、兄であるオレにはできるわけもないのだ。咲希の小指に自分の小指を絡めれば、咲希はみるみるうちに顔を明るくして、指切りげんまん!と弾んだ声を上げた。
    「ありがとう!お兄ちゃん!」
    えへへ、と顔に笑みを浮かべる咲希は酷く嬉しそうで、そこまで恋バナをしてみたかったのかと思わずにはいられなかった。やりたい100のことノートに恋バナをする、という項目でも入れてあったのだろうか。
    「それでるいさんにはいつ告白するの?」
    咲希は箸をぎゅっと握りしめると、無邪気にオレへと笑いかける。オレは、ポトフを口に運ぼうとしていた手を止めてしまった。
    「……告白はしないな」
    「そうなの?」
    「まあ、色々考えてな。想いを伝えることはしないと決めている」
    「そっか……」
    咲希は眉を下げて小さく呟く。心配させてしまうことはわかっていた。咲希は優しいから、昔から気を遣いがちなのだ。
    「大丈夫だ、咲希。オレは今、幸せだから」
    悩むようにご飯を口にしていた咲希だったが、思いついたようにぱっと顔に笑みを浮かべてオレに視線を合わせてくる。
    「ねえお兄ちゃん、たまに恋バナしてほしいな」
    「ああ、いいぞ。咲希が聞きたいのならばな」
    ここまできてしまえば想いを隠すことのほうが難しい。きっと咲希に類のことが好きだとバレてしまうような、類の話をしてしまう以外の行動をオレはしていたのだろうし、わざわざ隠し事をしてこれ以上の心配をかけさせたいわけでもなかった。
    「嬉しかったこととかいっぱい教えてね!」
    「わかったわかった。ほら、早くご飯を食べてしまえ。見たいと言っていたテレビがあっただろう」
    「あ!そうだった!」
    口を閉ざしてもぐもぐと忙しく咀嚼をする咲希を見ていると、頬いっぱいに食べ物を詰めたハムスターを思い出してしまい、思わず笑いが溢れてしまう。
    咲希を笑顔にできるのならば、この想いも、悪いものではなかったのだ。それだけでオレの想いは救われている。食事の手を止めて見つめてしまえば、咲希はぱちぱちと瞳を瞬かせると不思議そうに首を傾げ、それからにっこりと嬉しそうに笑みを零した。




    【諦めたのは、恋】
    インターホンの音が部屋に鳴り響く。機械の修理に集中していた僕は、不可解なその音に顔を上げた。こんな時間では用のある人間ですら訪れない。部屋間違いか、いたずらだろうと見当をつけ、応答用のモニター越しに外を覗く。
    予想に反し視界へ映ったのは、土砂降りの雨を背にする、きらきらと輝く金の髪。見覚えのあるそれに声をかけようとして、ほんの数瞬、躊躇った。揺れる髪からは、ぽたりぽたりと水滴が零れ落ち、ぐっしょりと濡れている服は、今日、稽古場で別れたときと同じものだった。折り畳み傘を常備しているだろう人間が、頭から服から指の先まで色を重くしていることにも、こんな時間に僕の家へ訪ねてきたことも、理解ができず、思考が停止する。それでもなんとか言わなくてはと、応答モニター越しに、「司くん」と呼び掛ければ、俯いていた彼は顔を上げ、「類」とにっこり笑った。

    司くんは、ビニール袋をぶら下げて、「酒を飲もう」といつものように溌剌な笑いを見せてくる。特段、僕も司くんも酒に強くはないために、度数の低い缶ばかりが詰められた袋には、大量に酒が入っていて。これは何かあったのだろうなと、僕は水滴に濡れたビニール袋を有り難く受け取った。
    司くんは自制の無い飲み方などしないタイプだったから、二人で飲める量を明らかに超えている数を持ってきたことに忘れたいことでもあるのかと、白い袋の中身で薄らと察してしまう。それに言及することはしないが。
    そもそも彼は、連絡もなしに深夜に人の家に邪魔をするような人間ではない。たとえ僕が相手であってもそれは変わらずにいた。だからきっと、尋ねないのが正解だ。いつも通りを装うことが頼ってきてくれたことに対する誠意だと、僕は考えていた。
    「散らかってるけど構わないかな」
    「なんだ、そんなのはいつものことだろう」
    「それが足場も無いレベルなんだけど」
    「……まずは片付けか?」
    司くんは呆れたように苦笑をした。演技が上手い彼は小さな綻びすらも見せてくれないのだな、と僕は内心で落胆をする。頼りにしてくれるなら、弱音こそ見せてくれて構わないのに、と思わずにはいられなかった。そんな身勝手な感情から少しでも助けになればと手を差し出せば、座り込んで靴を脱いでいた司くんは目を丸くして、恐々と手を重ねてくる。外気に冷えている白い手を握りしめ、軽く引っ張りあげた。
    「風呂に入ってきなよ。追い焚きすればすぐ入れるから。服は僕のを使えば良いよね。下着も新しいのがあったはずだから探してくるよ」
    「何から何まですまんな」
    「いいや、君と過ごせる時間が増えたことは掛け値なしに嬉しいからね」
    「……なんだそれは」司くんは眉を下げてくすくすと笑みを溢した。思わず、僕は息をついた。
    高校を卒業した頃から見せるようになったそのはにかむような笑い方は、目にするたびに胸の辺りがムズムズとして、自分が自分でいられなくなるような未知の感覚を覚えた。これこそが所謂、嫉妬という感情なのだろう、と僕は見当をつけている。僕と離れてから、僕の知らない笑い方をするようになったという事実。それをふとした瞬間に思い出すたび、あまりにも簡単に気が狂いそうになるのだ。僕では引き出せなかった彼の姿を、彼の周りの人間は簡単に引きずり出せたとしらしめられるようで、胸の内の苦しみが澱のように溜まり続けていく。
    「入浴剤、使いたいなら脱衣所に置いてあるから」
    「ああ、わかっているぞ。ありがとう、類」
    司くんは僕の頭を撫でてくると、にこりと笑顔を見せて風呂場へ足を向けた。伊達に数年を共に生きてきたわけではない。僕の心情の変化には気がついているだろうに、司くんの表情はいつもと変わらずにいた。頭を撫でられたあたりも、彼に気を遣われているのだろう。
    「はあ……」
    自分の情けなさを思い知るばかりでため息が落ちた。服もタオルも用意しなければならないのに、どうにも足を動かす気にならず、暫く風呂場から聞こえる物音だけを耳にして、のろのろと動き出す。

    「──恋、なのか」
    僕は読んでいた本から顔を上げた。屋上を吹き抜ける心地好い風が、彼の夕焼け色の髪を煌めかせていて、雲一つ無い空を背に司くんは、どこか呆然としたように僕を見つめていた。
    「何が、恋なんだい」
    司くんは瞬きを繰り返し、ふっとフェンスの向こうに視線を動かすと、「いや」と意味のない否定をする。
    「恋とは、なんだろうな」
    「それは難しい質問だね、人によって定義が変わるものの代表じゃないだろうか」
    「定義……」と呟いた司くんの金の髪は風に浮かされ、さらりと揺れた。ぼんやりと空を見上げていた司くんは、ふと、僕の顔を窺うようにして覗き込んでくる。
    「類ならば、なんと答えるんだ」
    「強いて言えば、運命、かな。そうあってほしいと願う、強い想いが恋という感情を形作っていくんじゃないかと僕は思っているけれど……ワンダーランズ×ショウタイムの演出家がこんなあやふやな答えしか出せないなんて、笑われてしまうかな」
    「いや、いいと思うぞ。オレは類のそういうところが好きだ」
    柔らかい表情を浮かべる司くんは随分と愛らしく見え、僕の気持ちは簡単に浮上する。知り合ったばかりの頃、会話をしかければ眉を吊り上げ怒ってばかりだった司くんは、今ではすっかり落ち着いた様子で僕と言葉を交わしてくれる。ただそれだけで、心の内が火を灯したようにほんのりと暖かくなった。
    彼が、案外静かなたちであることも、油断したような時の笑顔が存外かわいらしいことも、惜しみ無く晒されている頬は手触りがよく柔らかいことも。僕だけが知っていることがどれだけあるのだろうかと考えるだけで、心が浮き立つ気分になった。それだけ信頼してくれているのだと理解できるようで、もっとずっと、彼のことを知っていたいと、隣に立っていられたらと、誰に言うわけでもなく、そう考えていた。
    「言ってしまえば、僕は司くんに出会えたことも運命だと思っているんだ。──もしも恋が運命ならば、僕は司くんに、恋をしているのかもしれないね」
    夢見心地のまま司くんの顔を覗き込んで、僕は心臓を掴まれたようにぎゅっと息が詰まる。
    司くんの瞳の端から、雫が流れ落ちていた。たった一滴のそれは、服の繊維に吸収されて形を失う。見てはいけないものを見てしまったかのように、心臓がバクバクと音を立てた。哀の感情を見せない彼の夕焼けの瞳から涙を零した姿が、脳に焼き付いて離れない。
    「……馬鹿だな」司くんはぽつりと呟く。唇はきゅっと結ばれ、瞳は伏せられている。美しさすら感じるその表情に息も出来ずに見つめていれば、司くんは顔を上げ、僕へ星の瞬く瞳を合わせる。
    「恋だなんてそんなこと、あるわけないだろうに」
    司くんは、睫毛を震わせ、くしゃりと微笑った。

    かぽっと缶のプルタブが開く音がして、僕は目を開いた。夢現に机から顔を上げた先では、司くんが酒の缶を手に片肘をついて、じっと僕を眺めている。
    「起きたか」司くんは酒の缶を机に置いて、愉快げに笑った。彼が風呂から出るのを待っている間に夢に落ちていたらしい。
    「君が来てるのに寝てしまうなんて……すまないね」
    「いや、今日は稽古で疲れているだろうからな、むしろオレのほうこそ押し掛けてしまってすまんな」
    「構わないよ。君と過ごす時間はいつでも楽しいものだから」
    気がつけば、机や床に散らばっていた設計図は一纏めにされ、落ちるか落ちないかの瀬戸際へ寄せられている。ソファに放ってあった洗濯物はぴっちりと畳まれた上に分けて置かれ、床に積み上がった本やDVD達も、元居た棚へ元通りに揃っていた。超能力でもない限り己が元に戻した記憶など万に一つもなく、どうやら司くんが片付けてくれたらしい。
    「何から何まですまないね……」
    「そうだな、お前はもう少しこまめに片付けをしたほうがいいぞ」
    「ああ、それは明日の僕が善処するよ、きっとね」
    「しない言い方だろう、それは」司くんは呆れたように溜め息をついて、しかし口角は笑みの角度に吊り上がっていた。
    「それなら司くんが来てくれればいいよ」
    「……まあ、一週間に一回程度なら来れなくもないが、行かんぞ」
    「来てくれないのかい?」
    「掃除のために行くのは嫌だな」
    「なら僕のために来ておくれよ。稽古場だけでは話し足りないからね。一週間に一回と言わず、なんなら毎日でもいい」
    「毎日は無理だが……そうだな、考えておこう」
    コップへとくとくと注がれた白桃の酒はどうやら司くんのお気に入りらしく、「美味しいぞ」と笑顔で僕の方へ押し出された。薦められるまま一口流し込めば、桃の香りが鼻を抜けていく。これが司くんの好みの味なのかと思うだけで、酒に強くなくともあっという間に飲み干してしまえるのだから、感情というものは不思議であった。
    コップに酒を注がれながら、次々と開けられていく缶に、それ以上は止めたほうがいいと制止するか否か、頭を悩ませる。目についたものを片っ端から買ったような酒のラインナップ。それを片っ端から開き、自分の分はコップへすら注がず、そのまま全て胃へ納めていくさまを僕は眺めることしかできなかった。無遠慮に心へ足を踏み入れることなど、許されていないのならできるはずがない。消費されていく酒の山をぼうっと眺めていれば、司くんは酒を煽る手を止め、缶チューハイを握りしめた。
    それから、溜め息を一つ吐いて、なんでもないことのように笑った。
    「失恋したんだ」
    は、と僕は疑問を漏らしそうになる。君は今、何を。
    「好きな人が、居るらしい」
    司くんは机に顔を伏せて、ふふ、と笑みを溢す。
    「長い片想いだったな」
    理解を拒む脳を抱えたまま、僕は震えた声で疑問を捻り出す。
    「……何年、君は恋をしていたんだ」
    「そうだな、……七年くらい、だろうか」
    がんと、頭を殴られたような衝撃を受け、視界がぐらぐらと揺れる。七年前なんて、僕はもう既に君の隣に居たのに、君は誰に恋をしていたんだ。僕の隣で、君は僕以外の誰を見つめていたんだ。初めて会ったその日から、僕は君しか見つめていないというのに。君は、誰を。
    「司くんは誰に──」
    「言わんぞ」
    司くんは言葉を被せて、否定する。僕へ視線を合わせた、いつも通りに星が煌めく瞳。ずっと、変わらない。
    「……なんで」
    頼りない音をした僕の声に、司くんはほんの少しだけ微笑んだ。
    「終わらせようと思ったんだ」司くんは目を伏せる。長く伸びた睫毛がふるりと震えていた。
    「今日で、この気持ちは仕舞いにしようと。だから、言わない。言ってしまえば後悔するだろう?」
    僕へ投げ掛けられた、恋を失った彼の表情は相も変わらず美しさに満ち溢れていて、どうしてなんだ、と意味のない問いかけが口をつきそうになる。
    どうして、そこまで綺麗なままで心を終わらせられるのか。どうして、恋をしたことを今まで僕に教えてくれなかったのか。どうして、僕の元で恋を終わらせにきたのか。
    頭の中をぐるぐると回る思考にぐらりと眩暈がした。酒も入っていて、脳の機能が低下している。何も、わからなかった。何も、わかりたくなかったのかもしれない。ともかく、僕も彼も正常ではないのだ。
    司くんはおもむろに立ち上がると、ビニール袋に手を突っ込んだ。ガサガサと音を立てて取り出したそれは、僕の好物。
    司くんは紫色をした小さなラムネを、口へ放り込んだ。艶かしいほど赤い舌の上で、ラムネが泡を上げて溶けていく。
    「さようなら、オレの恋心」
    七年の恋の終わりは案外呆気ないものなのだと、僕はラムネが溶ける様をただ眺めていた。




    【君を知りたい】
    「恋を、しているんだ」
    机から顔を上げれば、類の横顔が視界に映った。ホームルームが終わってから幾分か経っている教室には、人の気配が無い。未だ青い窓の向こうを見やる類の顔は、どこか知らない人のように見えて、オレは、小さく息を吐く。
    「そうなのか」
    「ああ」
    交わすのは短い相槌。案外、オレは類のことを知らないのだと、知りたくもない理解をしてしまう。たった数ヶ月共にいるだけの人間。全てを知ることなど、到底無理な話なのだ。ただ、類がこうして心を告げてくる、それがどれだけの事象なのかをオレは知っていた。だから、聞きたいと思った。誰にも告げられないのだろうその仕舞われた心を、もっと教えてほしいと思った。
    「どんな、恋なんだ」
    類は雲一つ無い真っ青な空を眺め、瞼を閉じる。暫く、再び開かれた瞳が此方を向いた瞬間、オレの口から、意味の無い呼吸音が漏れた。
    「きっと、死ぬまで忘れられない恋だ」
    諦めと執着と愛で満ちた金の瞳が、弧を描く。それはまさしく恋にまみれた瞳。
    「そうか」と笑みを浮かべて、オレは机にばらまかれた設計図へ視線を移す。
    痛くても、笑うのだ。不安になんてさせたくないから。オレに告げて良かったのだと、思っていてほしいから。心の底からの願いを言葉にする。
    「叶うと良いな」
    笑って見せれば、類も釣られたように笑みを溢した。その笑顔に、胸がぎゅうっと痛くなる。
    「ありがとう、司くん」
    気がつかなければ良かった。知らないふりをしていれば良かった。そうすればきっと、誰もが幸せだったのに。
    「──本当に、叶うと良い」
    風に吹かれて設計図が宙を舞う。それに手を伸ばすことすらできす、今更、叶うはずの無い恋を、自覚していた。



    【とくべつなひと】
    初めて彼と出会った日のことを今でも夢に見る。
    僕のことを探しているなどという奇特な人間。幼げな顔立ちに自身ありげに吊り上がる眉、夕焼けのように色を変えた美しい髪をもつ彼、それが司くんだった。
    学校中を隅から隅まで探し回って大声で僕の名前を叫ぶ。所謂変人と呼ばれる人種なのに、誰にでも好かれている。先生にも呆れられたように見られていたが、どちらかというと楽しげに見つめられているようにも見えた。
    不思議な人だ。
    僕とショーをしたいと告げてきた時も、一万二千パーセントで応えてみせるなどと根拠のない言葉ばかりを口にして、けれどそれを信じさせてしまうほどの魅力に溢れていた。僕が一度見限ってしまったあの時も、司くんは諦めることもなく、僕へ手を伸ばし続けてくれた。ならば、好きになるのも当然のことだった。僕の狭く小さな世界に現れた、星のような空のような花のような優しくて愛しくて不器用で器用な顔も知らない誰かの幸福を望む人。
    彼が僕に告白をしてきたのは半年前のことだった。
    司くんは、柔らかそうにも見える白い頬を林檎のように真っ赤に染め上げながら、恋をしているのだと、震えた小さな声で教えてくれて。後悔と懺悔と清廉と羞恥にまみれたその苦しげな顔に、僕の心がぐらりと揺れた。
    僕は恋を知らなかった。その人だけに溺れてしまうような、その人の全てを願うような、その人だけを見つめてしまうような、そんな不可思議な行動原理を覚えたこともなければ、恋に心を傾ける人の気持ちもわからない。あまりに自分から遠い感情はお伽噺のようなもの。それは恋を告げられた今でも変わらなかった。
    ただ、彼が好きだった。二人で最高のショーをし続けて、世界中の人を笑顔にして、楽しげな司くんと顔を見合わせて笑いあって、例え死ぬ瞬間までも、彼となら共に生きていきたいと思った。
    きっとこれは恋ではない。けれど永遠に、許されるなら彼の隣で呼吸をしていたかった。彼が居なければ自分は既に息すらできなくなくなるほど、幸福に、心に溺れていた。
    司くんは丸くした瞳を潤ませて、幸せそうに微笑う。彼が笑うと、僕も幸せだった。

    「──別れよう」
    雲一つ無い青空だった。屋上で昼食をとりながら次のショーのための構想を二人で話し合う、いつも通りの昼休み。心地よい空間を漂っていたはずの場所へ響く脈略のない冷えたような音に、先まで働いていた思考はぴたりと動きを止めた。良く知っているはずなのに、何も知らないような色を持つ声の司くんは、瞳を伏せて微笑んだ。
    「僕は、何かしてしまったかな」
    司くんはほんの少しだけ目を細めると、僕よりほんの少し小さいそれでいて僕より温かいその白い手を、指先まで冷えきった僕の手に重ねた。
    「類、ありがとう。オレの恋人になってくれて。告白を受け入れてくれたあの時、本当に嬉しかったんだ。あの日のことはずっと、忘れない」
    返答は幸福の言葉ばかりで、理由など教えてくれない彼に、彼はそういう人間なのだと、今さらながらに思い出す。いつもならば即座に回転をする己の脳はぴくりとも動かず、気の利いた言葉も返せないほどに僕は、動揺をしているようだと、どこか他人事のように考える。真っ直ぐに僕の顔を見つめる司くんの瞳には、相も変わらず煌めく星が散っている。
    「なあ、類。幸せになると約束してくれないか」
    運命は赤い糸で繋がれているなどと騙ったのは誰なのだろう。彼の差し出す小指には、赤い糸など見えやしない。それでももし、僕らが見えない糸で繋がれていたのならぱ、彼の指に己の指を伸ばすことは、自ら赤い糸を断ち切るような行為なのか。考えれば考えるほどに伸ばそうとした手が震え、動かなくなる。
    けれど結局は、想いを秘めるばかりの彼の願いの言葉に逆らえるはずもなく、せめてゆっくりと小指を絡めれば、司くんは安堵したように笑い声を溢した。「指切りげんまん」と小さく呟いて、彼は指を離した。
    「幸せだといいな」
    何が、と聞くことなどできやしなかった。彼の心に足を踏み込むことは許されていないのだと、理屈ではなく、想いで理解をしていた。
    繋がれた糸を断ち切った僕は、いつも通り自信に満ちた彼の表情から視線を逸らすことだけを許されている。




    【最高のショーのための婚姻】
    「君と共に居れば最高のショーを作り続けられる!だから──」
    類はオレの手を握りしめて、ずいっと身を乗り出してきた。
    「僕と結婚してくれないか!」
    キラキラと瞳を輝かせた類の頬を、反射で強く叩いてしまう。手が出てしまったことに焦りはするが、それよりも大切なことがこの場にはあった。
    「そんなプロポーズの仕方があるか!」
    類は赤く手跡のついた頬に手を当て、目を丸くしてオレを見つめてくる。それも極めて不可思議そうに首を傾げながら。
    「何かダメなところがあったかい?理由としては完璧だと思うんだけど」
    「何が完璧だ!そもそも!オレ達は付き合ってなければ想いも通じあっていない!類から好きだと告げられたこともないしショーのためにわざわざオレと結婚しようなどと、お前は馬鹿なのか!?」
    類がオレを好きだと言ったのなら、結婚についてもしっかり考えたのに。思わず呼吸が荒くなる。オレだって恋をしているわけではない。けれど大切な仲間で友人で演出家の類を蔑ろにはしたくないし、オレ達が結婚をして二人で未来を過ごし続けるのなら、それ相応の理由も順序も必要だった。なのに類というやつは。
    俯いてしまえば、類はオレの手をぱっと掴んで、握りしめてくる。おかしな行動に顔を上げれば、類はにやりと口角を上げて、オレの顔を覗き込んでいた。
    「君と付き合ったら良いのかい?」
    「は?」
    「君と付き合って恋をすれば僕は君と結婚をしてもいいんだろう?」
    「は?いや、オレはそんなわけで言ったんじゃ……」
    「それに、君だって恋の表現に悩んでいるところだったじゃないか。丁度いい機会だと思うんだけどね?」
    「ぐっ……」
    そういうところが類を嫌いになれない由縁なのだ。自分勝手に見えて、誰よりもオレのことを気遣ってくれる。オレが恋愛要素のあるショーを上手く演じられないことに悩んでることを知っているのだ、類は。随分と遠回りに想いを伝えてくるものだから真意に気がつけないことも多いけれど、大切にしてくれていることが伝わるからこそ断りづらかった。それを類自身が理解して活用しながらオレに迫ってくるのが何よりも、扱いづらい。
    「はあ……わかったわかった、付き合おう」
    「本当かい?……フフ、それは嬉しいね。必ず君を結婚に乗り気にさせてみせるから、覚悟しておいてくれ」
    「ただし変なことをするのは禁止だからな」
    「フフフ、わかってるよ」
    類は機嫌が良さそうに笑みを浮かべていて、ああ、この表情を見せているのならきっとこの後はショーの実験に付き合わされるのだろうと、オレは少しばかりの覚悟を決める。

    「結婚したいくらいだ」
    なんだ、オレにだけ言ってるんじゃなかったのか。
    高鳴っていた胸の鼓動が、静かに収まるのを身で感じた。好きだなんて、あんなに口にしていたのに。なんだ。
    遣る瀬無い気持ちが溜め息となって口から零れた。
    やはりあり得ないのだ。彼が恋をしてくれることなど。最初からわかっていた。彼が本当に恋をしてくれる日など来ないことも。オレ以外にも類の演出に答えられる人間はずっと多く居ることも。
    全部全部、わかっていたのに。
    息を整える。屋上から流れ込む冷たい空気と校内の少し篭った空気を吸い込み、屋上に続く扉を押し開けた。
    吹き付けてくる春になりかけの未だ冷えきった風に目を瞑る。「司くん」という喜色の混じった声に目を開ければ、類がおもむろに立ち上がって近寄ってきた。しゃがみこんでいた暁山も「司先輩こんにちは~」とゆらゆら手を振ってきたため、手を振り返してみる。少し目を瞬かせた暁山は楽しそうに笑い声を上げた。
    「そろそろボクは行こうかな。お邪魔しちゃ悪いしね」
    「そうかい。じゃあまたね、瑞希」
    「いや、ちょっと待ってくれ。暁山もオレの作った弁当を食べないか?類のために作ってきたんだが多めに持ってきたから暁山が食べる分もあるぞ」
    「うーん、嬉しいお誘いだけどやめとこうかな。類が嫉妬したら困るし」
    「おや、僕は嫉妬などしないよ」
    「え、マジで言ってる?……うわ~、司先輩、本当にお疲れさま」
    「……そうだな!」




    【恋い焦がれ、決して、満たされるな】
    購買で購入した野菜の入っていないカツサンドを食べようと口を開けていた僕は、彼に随分な間抜け面を晒してしまったのではないか。そんな杞憂に襲われるが、彼の表情は寸分も変わらない。
    「類が、好きだ」
    教室の中、真っ青な夏空を背景にしたまま、司くんは、絵画のように美しく笑っていた。
    四時限目のチャイムが鳴り響いた後の教室は、人がまばらだった。台本の最終稿を詰めようと司くんは弁当を持って教室の端にある僕の席までやってきて、彼の愛する妹君が作ったらしい弁当を表情を緩ませながら食べていた。台本について話す傍ら、弁当を褒める言葉を語ろうとしてくる彼の姿は幸福に満ちていて、思わず笑みを溢してしまえば、彼は目を丸くして、それからにこりと微笑った。
    外はあまりにも快晴で、雲一つ浮かんでいない空は、深い青に包まれている。エアコンの完備されている教室は外の暑さなど意にも介さないように冷えきっていて、機械の冷風で目の前の彼の、よく手入れされた柔らかな金の髪がさらりと揺れる。
    酷く、美しかった。夏の青い空と教室の机と機械の風と綺麗な笑顔と、全てがアンバランスなようでいて、彼を見せる全てが美しく、そして眩しかった。
    星の煌めく瞳に視線を奪われていれば、ふいに彼は緩慢に口を開く。その唇の動作は実際に遅い動作で行われたのか僕の脳が見せた錯覚であるのか、判別がつかない。
    「なあ、類、断って、手酷くオレを振ってくれ」
    空気のように軽い音だった。ショーの相談をしているかのように紡がれた声は、深い深い恋の音を示している。その言葉も音も表情も、酷く彼らしい。恋を告げられたことが遥か遠い記憶のようで、停止した思考の奥、僕はその言葉に納得をする。
    「僕に断られたいのかい」
    彼は綺麗に微笑んで、頷く。寂しさも悲しさも嬉しさも見えない静謐な表情。彼は役者なのだと、強く思い知る。そんなことは誰よりも知っているはずなのに、彼が彼ではない誰か知らない人のように目に映る。
    叶えることは容易かった。たった一言、口にすればいいだけ。断って振って謝って、彼はそ食べきって、台本を作り上げて、えむくんや寧々と司くんとワンダーステージで苦心してショれでいいといつもの自信満々の顔で笑って、また元通り。野菜の入っていないカツサンドをーを完成させて。カーテンコールで幸せそうに手を振る彼と顔を見合わせ、楽しいな、とくしゃりと笑う彼の姿に感覚の全てを奪われる。そんな、元通りに。
    「振らないよ」
    彼は目を見開く。
    「何故」
    「知っていたから」
    君が、僕を好きなことを。
    彼は睫毛を震わせて、息を吐いた。僕を見つめる瞳の膜が太陽の光を反射して、きらりと輝いた。
    彼は、優しい人だった。妹を愛し、家族を愛し、仲間を愛し、自分を取り巻く全ての人に愛を傾けている。誰よりも人に優しく、誰からも愛し愛される、綺麗なかたちの人。だからきっと、彼は恋を許せない。その人の一番願ってしまう愚かな感情を、愛して、嫌っている。
    「ねえ、司くん。君が、好きだよ」
    司くんは目を見開き、口を微かに開いた。何を言っているのか、とでも言いたげな混乱に満ちた表情に、そうだろうなと僕は一人納得をする。
    「ならば何故受け取ってくれようとするそぶりすらしないんだ」
    当然の疑問だった。想いが通い合うならば結ばれることが当然で、ならばどうして振りもしないし、受け止めてもくれないのだと、迷子になった子供のような瞳が揺れていて、罪悪感を抱く。罪悪感を抱けるほどの立場は僕にはないのだが。
    「怖いからさ。君が僕以外に恋をすることが怖いから、永遠に恋い焦がれていてほしい。心を求めている間は、その相手のことを考え続けるだろう?だから、僕は応えられない。応えてしまったら、君は、僕の傍から居なくなってしまうはずだから」
    「居なくならないと誓ってもか」
    「人の心は変わるものだ。そしてそれは君も例外じゃない」
    「……お前は残酷なことばかりを言う」
    司くんは睫毛を伏せ、小さく瞬きを繰り返した。最低なことを口にしていることなどわかっている。僕の言葉は彼の想いを否定することであり、本当に愛しているのならば、彼の想いを受け入れて、ハッピーエンドの道を辿るべきだった。その先で、例えいつか離れてしまう未来が見えたとしても、そのまま、何も言わず、手を離してやるべきだった。
    けれど最後まで僕は彼を求めて、手離したくなくなって、自分と彼を縛り付けようとしてしまうから。彼がスターとして輝く未来を阻む自分が許せなくて、けれど唯一の愛を失うことも恐ろしくて、彼から好きだと言われたことも、自分も好きだと返せたことも嬉しくて嬉しくて仕方がないのに、世界と未来と自分にがんじからめになって、彼の首を絞めている。
    「ずっと、好きだと言うから、君も僕を好きでいて」
    満たされたら終わりなのだ。愛をして恋をして永遠に君と二人で生きたいから、それを終わらせてしまう恋を、許せない。ずっと二人で恋い焦がれて、永遠に求めあいたい。
    僕のどうしようもなさに彼が愛想を尽かすのならばそれでもいい。──それでもいいと、思いたい。
    「……好きだ、類」
    「僕も好きだよ、司くん」




    【】
    天馬司という存在がこの世に無いと気がついた瞬間、息が詰まった。
    目が覚めた瞬間、異常なまでの心拍数を刻んでいる胸を抑え、息を吐く。呼吸を繰り返すたびに、自分の存在が希薄になったような心地がする。
    忘れている忘れていないという以前に、わからなかった。髪の色も瞳の色も声の音もその人の笑顔も、何一つ、わからなかった。ただ、司くんが居たという事実だけを覚えていて、こんなに心に穴が開いて埋まらないのに、何故忘れていたのかと、ただ、生きるために息をすることも難しくなる。
    寧々もえむくんも瑞希も東雲くんも青柳くんも果てには家族である咲希くんでさえ、司くんの存在を記憶していないのだと知ったのは暫く後のことだった。誰もが、いつものように生活を送っていて、司くんが居ないということ以外は何一つ変わらない毎日だった。その世界の中、天馬司の存在を訪ねても、皆一同に首を傾げた。
    酷く聞き覚えがあるが、何も思い出せないと寧々は困惑した表情で告げ、えむくんは天馬さんなら高校に一人居るよ、と教えてくれながら眉を下げて辺りを見回し、瑞希と東雲くんは学校に声が足りない気がする、と自分達でも何を言っているのかわからない様子で眉をひそめ、青柳くんは落ち着かない様子で悲しそうに目を伏せていた。
    ただ、何かが足りないと咲希くんが苦しそうに呟いていたのを深く深く、覚えている。
    「誰かが、居なくて。家に帰るたびにあんなに安心していたのに、何かが足りなくて」
    咲希くんが今にも泣き出しそうな顔で、騒がしいカフェの店内で目の前に置かれたレモンティーのグラスをじっと見つめている。
    「るいさんのことも、どうして知っているのかわからないんです。絶対に、何かあったのに何も思い出せないんです」
    咲希くんは画面の消えたスマホの表面に触れた。黄色いカバーにぺたりと貼られたペガサス模様のシールの上を、彼女の指が撫でていく。
    「あたしには大切な人が居たはずで、それがきっと司って人で。ほら、あたしと名字が同じでるいさんが知ってて、あたしがお姉ちゃんって感じしないから、きっとお兄ちゃんかお姉ちゃん……。ん~、なんとなくお兄ちゃん、かなあ?」
    咲希くんはほんの少しだけ笑みを溢した。それから静かに息を吐くと、僕を真っ直ぐ見つめてくる。その表情に何故だか、既視感を覚えた。
    「お願いします。るいさん」
    決意に満ちた、人の心全てを射貫くような強い意思の瞳。僕はそれを、知っているのに。
    「あたしと一緒に、お兄ちゃんを見つけて」
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