黒猫専用マタタビのお届け物です「半田、顔色が悪いぞ。残りは私たちがやるから少し寝てきたらどうだ」
パチパチとキーボードに指を走らせる。青い液晶画面に躍る文字の羅列が目を通して頭を埋め尽くす。霞む視界。鉛を注ぎ込んだ様に重く痛む頭に顔をしかめながら、半田は心ここにあらずな声で「……ああ」とだけ返した。
「ああ、って、本当に分かっているのか? さっきからそう言っている割にちっとも休んでいないじゃないか」
「そうですよ先輩。ほら、資料なら僕が預かりますから」
年下の上司と、親しい後輩の声は鼓膜を震わせたものの単なる音声として処理され、半田の意識を素通りしていた。彼はデスクの上に必要な資料を几帳面に並べ、猛烈な勢いでブラインドタッチしながら気の無い声を漏らした。
「……ああ」
「あー、駄目じゃなこりゃ。全然聞こえとらん」
「完全にゾーン入っちゃってますもんね……」
「カンタロウが喋りかけても同じ対応だったぞ。あの声量にも動じないなんて……」
仕事の鬼と化した半田を遠巻きに見守りながら、新横浜警察署吸血鬼対策課の面々は途方に暮れていた。
ここ数日、所轄内で発生した吸血鬼関連の事件に加えて月毎に提出が必要な書類の締め切りが重なってしまい、対策課のオフィスはいつもに増して殺気立った雰囲気に包まれていた。それはここヒヨシ隊の面々においても例外ではなく、通常業務の合間を縫い、隊員同士で協力しながら束の間の繁忙期を何とか乗り切ろうとしているのだが、あまりの忙しさに半田のタガが外れてしまったのだろう。普段はなるべく定時退勤、残業も最小限に済ませるはずの彼が、見事なまでのワーカホリックと化してしまった。先ほどから見かねたヒナイチとサギョウが何度も休ませようとしているのだが、宥めすかしても返ってくるのは生返事ばかりという有様だ。いっそ後から殴って昏倒させるという案も出たのだが、半田相手に下手に実力行使に出るとかえって危険だということで即却下された。が、そんな強引な手段を、仮にも公務員たちが真剣に検討し始めるぐらいには埒のあかない状態だったのである。
「暴力が駄目ならいっそ一服盛りません?」
「駄目だ。さっき血液錠剤を飲んでいたから下手に薬を服用すると飲み合わせが悪いかもしれない」
「というかブーストをかけてまで働くならいっそ休んだ方がええじゃろ……」
うーん、と三者三様に頭を抱え、同時にため息をつく。机の虫となった隊員を休ませる方策を考えるその時間で各々仕事をするべきでは、という正論に気付く人間はここにはいない。彼らも半田ほどではないとはいえ、連日の書類地獄の疲弊により思考が散漫になっていたし、何より鬼気迫る顔で忙殺される半田の身を案じていたのだ。
「……こんな真面目で、仕事をちゃんとする先輩なんて、半田先輩じゃありませんよね」
「……そうだな」
「いや、言わんとすることは分かるが、おみゃーら結構酷いこと言っとるな……」
だが、ヒヨシとて二人と同じ気持ちだ。半田は確かに優秀で真面目な男だが、こんな風に仕事に身を削る様な姿は全くもって半田らしくない。ちっとも似合っていないし、見ていて落ち着かないのだ。
半田桃は、もっと規格外で、上司の言うことも後輩の悲鳴も吹き飛ばす勢いで暴走する様な存在でいなければならないのだ。
ヒヨシはしばし考えた後、よし、と独りごちてからスマートフォンを取り出した。私用のメッセージアカウントから赤い帽子のアイコンを辿り、「お前、今からこっち来れるか?」と送信した途端、既読マークがついた。
「え、えーと……レンタルロナルドです、どうも?」
「…………」
数分後。困惑を顔いっぱいに広げた銀髪の男が現れた瞬間、それまで微動だにしなかった半田の肩が ぴくり、と揺れた。ついさっきまで石像の如く不動だった男が、とうとう生返事以外のリアクションを返したのを目の当たりにして、ヒヨシ隊のオフィスに ざわ、とどよめきが走る。気分はさながら某スイスが舞台の子供向けアニメで車椅子の少女が初めて立った瞬間を目撃したアルプスの少女のそれである。
「嘘だろ、まさか本当にロナルドさんが来たら反応するのかよ……!」
「予想してはいたが、ここまで反応が露骨だと複雑だな……さっきまでの私たちの苦労は一体……」
「えっ、あの、何でみんな俺のこと見てんの……ていうかあに、隊長さん、さっきのセリフで本当に良かったのか?」
「効果抜群じゃから安心しろ。ほれ、見てみろ。半田が机から離れたぞ」
「せ、先輩が立ったー!」
「ふらふらしながらこっちに近付いているぞ! すまんロナルド、半田を任せたぞ!」
「えっ、えっ、マジで何!? マジで何なの!? 俺どうすりゃいいの、って、うわ、」
状況についていけずに目を白黒させていたロナルドは、突然背後から抱き寄せられてたたらを踏んだ。まるでぬいぐるみを抱きしめるみたいに、背面にぴっとりと生温かい身体が密着する。うなじの辺りに高い鼻梁を擦り付けられて、思わずロナルドの口から引き攣った悲鳴が上がった。
「ひっ、えっ、は、半田?」
「…………」
半田は再び石像に戻ったが、今度はロナルドを抱き締めたまま動かなくなってしまった。絶えることなく すぅー……と息を吸う音が聞こえてくる以外に何一つ声を出さない。猫吸いならぬロナルド吸いの構えである。流石にずっと匂いを吸われるのに抵抗があるのか、次第にロナルドの顔が半泣きになってきた。
「め、めっちゃすわれてる……え、なあ、さっきからずっと吸われてるんだけど……」
「あー、多分その人もう今日はこのまま帰ってこないと思うので大丈夫です」
「帰ってこないって何!? ていうかそれ大丈夫なの!?」
「大丈夫だ。何ならそのまま帰ってもらっても構わないぞ。今の半田には休息が必要だからな」
「このまま帰ったらどう考えても事案なんですけど!? これ休めてるの!?」
「ああ、半田にはとびきりの癒しじゃな。急に呼び出してすまんが、頼めるか」
「ええ……」
成人男性が成人男性に懐く様にハグをしている光景を生温かい目で見守るこの場にもはやツッコミ役は存在しなかった。誰もこの異様な状況を止めてくれない。敬愛する兄ですら平然と半田の奇行を流している。その間もすぅーっと一瞬の切れ目も無くうなじを吸い続けてくる友人。抱き締められてから息を吸うばかりで全く吐いていない気がするのだが一体どういう理屈だろうか。ちょっとしたホラーじゃないか。割とロナルドは本気で泣きたくなった。
その後、体力の限界が来て寝落ちするまでしっかり絡み付いて離れない半田に泣きを見る羽目になったのはまた別の話である。