雨に打たれて.
雨が上がるのを待っていた。
放課後、出発前に天気予報も何も見ていなかった環は、左手をランドセルの肩ベルトに、傘もカッパも持っていない右手を宙ぶらりんにして、重い雲がかかった空を見上げていた。
雨は地面に強く叩きつけられていて、1度地面に落ちて散った飛沫が、時折短パン姿の環の脛に当たっている。それは下駄箱すぐの昇降口の屋根下ギリギリに立っているせいなのだが、環はそこから学校の中へ戻ろうとはしなかった。なんとなく、雲の薄さ具合から雨が上がるとまでは行かなくとも弱まりそうで、走って帰れそうな気がしたからだ。
そんなことを考えて、はや二十分ほど。周りを見渡すと、もう他の生徒は見当たらなかった。こんな土砂降りの日に校庭で遊ぶ人間はさすがに居ないし、ほとんどの者は傘をきちんと持ってきていた。中には環と同じように雨上がりを待っている生徒もいたが、すぐ痺れを切らして友達と一緒に走って帰ってしまった。
誰もいないと言うだけで、こんなにも雨音がしているというのに静かに感じた。環はもう一度空を見上げる。
静かなのにはもうひとつ理由がある。彼の親友でもあり憧れの太陽、ミリオが横に居ないからだ。きっと今頃ベッドですやすやと眠っている。
——昨日、環とミリオが共に下校していた最中のことだ。帰路の半ばにある橋に差し掛かった時、環は欄干越しに橋の下を流れる川の縁に咲く花を見つけた。
『おはな……』
『お、なになに!? 珍しい花?』
食い付きの良かったミリオには悪いが、見つけた花はそう珍しくもなかった。ただ、最近いた図鑑の中で「綺麗な花だな」と印象に残っていたから思わず目に止まっただけだ。
『どこどこ? 俺も見てみたいんだよね!』
『え、えっと……あそこ』
環が欄干に手をついて指を差すと、ミリオは「よっ」と勢いをつけて橋から身を乗り出した。
『おお、なんかかわいい花だね! あそこなら取りに行けそうなッ――』
直後、ミリオの声が途切れ、視界の端の彼の姿が音もなくスッと消えた。「えっ」とそちらを向くとミリオのランドセルと共に彼の来ていた服が地面にドサッと落ちていた。その瞬間、
『ぎゃああぁぁぁあああ!!』
『んみッ、みりおぉぉお!?』
どういうわけか思わず個性の透過を使ってしまったらしいミリオは、橋をすり抜けて直下の川に落ちた。そこまで高さも川の深さもなかったことが幸いして怪我なく済んだが、案の定今日の朝、環が家を出る前に通形家からミリオが熱を出したので学校を休むという連絡が来た。
転校して来てからしばらく経つが、やはり一番気の置けない友人はミリオだ。今日一日いなかっただけで騒がしいはずの学校生活が少し静かに思えた。やはりあの太陽のような明るいミリオはすごいと、再確認した一日だった。
そんな彼の面影を感じたくても、今は分厚い雲が覆った空には太陽は見えない。
昨日川から這い上がったミリオは、どこか落ち込んでいたようだった。大方個性を暴発させてしまったのを落ち込んでいるのだろう。それはあまり彼らしくない。彼らしくなければならないというわけではないが、ミリオは太陽のように笑っているのが似合っている。というより、彼には笑っていてほしいと環はいつでも願っている。
環は今日一日授業の間も休み時間もどうすれば彼を笑わせられるだろうかと考えていた。あまり口もうまくないし、ミリオのように人を安心させて笑わせるようなことはできない。でも、いつだって自分を信じてくれるミリオを信じて、彼のために何かをしたいと思う。
「…………」
そろそろ雨上がりを待ち始めて30分ほど経ってしまうだろうか。ようやく暇を持て余し始めた環は、両手をぶらぶらとさせる。
なんとなしに周囲を見渡して昇降口横の校舎の壁際の地面を見る。そこには、昨日橋の上から見かけた花がポツリと咲いていた。太陽があるだろう方向に小さな花弁を開き、全身に雨粒を浴びている。
少しの間その様子を見ていた環は、少し考えて半歩前に踏み出した。同時に、右手を前に出して、雨に晒す。冷たい雫から与えられる小さな刺激が次々と与えられ、気持ちが良かった。
今日の朝ご飯を思い出しながら、環は個性を発動させた。
雨を浴びる手の甲がぷっくりと盛り上がる。ぐぐっと猫が伸びをするように震えた後、ぴょこっと小さな芽が生えた。
「ふふ……」
今日の朝ごはんの中にあった枝豆はそのままゆっくりむくむくと枝葉を伸ばし、腕に巻きつく。
――彼ならこんな小さなことでも笑ってくれないだろうか。
本当なら放課後にミリオの家にお見舞いに行くつもりだったが、それも雨で叶いそうにない。ずぶ濡れで訪ねても迷惑だろうし、雨が上がってから行っても時間が遅くなってしまうだろう。
明日、また明日この芽を見せよう。そして、笑ってくれるなら嬉しい。
そのためにまた枝豆をご飯に出してもらわなくちゃな、と微笑みながら環は腕から顔を上げ、その先にいたミリオと目があった。
――ミリオ?
「うわぁッ!?」
「わっ、わっ! ごめん環! 驚かせるつもりじゃ!」
環はいつの間にか目の前に立っていたミリオから猫のように飛び退いた。
ミリオはもちろんランドセルは背負っていなかったが、傘を刺し、頭には寝癖をつけてそこに立っていた。真っ赤な長靴がとても眩しい。
「い、い、いつから……!?」
「実はちょっと前に来てたんだよね!」
「『ちょっと前』……? ま、まさか、見てた……?」
環が顔を引き攣らせて恐る恐る問うと、ミリオは途端に顔を輝かせた。
「あ、そうだ! 見たよ今の! すごかった!」
「す、すご……?」
予想以上の反応をされて戸惑う環は気圧されて一歩後ずさるが、その分ミリオは歩み寄ってくる。あんなもの、ちょっと面白いと思ってくれればよかっただけなのに、すごいとまで言われるとは流石に予想していなかった。
目をキラキラさせて環の手に巻きつく枝豆を見られているのが居た堪れなくなり、手で枝豆を取り去った。
「そ、それよりもどうしてここに……?」
「あ! そうそう、風邪治ったから環に報告しに行こうと思って! でも家行ったらまだ帰ってきてないって言うから迎えにきた!」
治ったからといって流石に早すぎるんじゃないだろうかと環は心配になる。太陽がいない日は一日で十分だった。
しかしミリオはそんな環の心配にも気がつかず、にパッと笑って自分が指してきた傘を差し出す。
「さ、帰ろう環!」
「え……」
当然のように言われて驚く。何度もミリオの全身を見るが、やはり間違いない。傘は彼が持ってきた一本のみしかなかった。
家に行ったと言う話があったため、環が傘を忘れた話を聞いて傘も持ってきてくれたのではないかと期待をしていたのだが、そう言うわけではないらしい。
「い、一緒にはいるの……?」
「え、嫌かな!?」
「エッ、い、いや、そう言うわけじゃ……」
いつか近くの席の女子が読んでいた本で、男女が相合い傘をして頬を赤らめている挿絵があったのを唐突に思い出した。
ミリオは別にそんなつもりではないだろうから、すぐにその記憶は頭を振って追払い、環は一歩踏み出した。意味もなく全身ガチガチに緊張させながらミリオの隣に並ぶ。
「い、いこう……?」
「うん!」
明るい笑顔をさらにパッと輝かせたミリオは、環の歩調に合わせて歩き出した。
その顔を盗み見てみると、環が一日中悩んで励ます方法を考えなくてもいいほどその表情は明るかった。そもそも彼が落ち込んでいる理由も、そもそも本当に落ち込んでいたのかもわからないのだが。
「……ミリオ」
「ん!? なに?」
「む……迎えに来てくれて、あ、ありがとう」
「えへへ! これくらいどうってことないね! それよりも、来る途中で昨日見た花まだあったんだ! 今日こそ近くで見てみようぜ!」
「いや……雨だから今日は危ない」
環は、土砂降りの雨にも負けないミリオの声が一日ぶりで懐かしく、そしてこの雨音に負ける環の声をきちんと聞き取ってくれることに安堵していた。
どこかいつも以上に他愛のない会話をしながら二人は帰路を辿った。
・ ・ ・ ・ ・
「そういえば……あの時のミリオ、どうして落ち込んでたんだ? それに落ち込んでたにしては、その次の迎えに来てくれた日はやけに上機嫌だったような……」
「えッ!」
高校生になってからは恋人という大義名分をもって、どちらかが傘を忘れなくとも一つ傘の下が当たり前となった二人の下校中。環たちは小学生の頃の記憶を思い返していた。
環の疑問にミリオはビクッと傘を持つ手を振るわせる。雫が勢いよく跳ねて地面にまとめて落ちる。かなり昔の思い出話ではあったが、ミリオもしっかりと当時のことを覚えているようだ。
「い、いや、あの時は落ち込んでたっていうか自分が情けなかったというか……」
「情けない?」
まるで個性を発動させる前のように口を固くつぐんでいたミリオだったが、環の純粋な眼差しに射止められ、ぷしゅうと口から空気を吐き出した。
「そのォ、環が川の近くの花を欲しそうにしてたから、個性使って颯爽と取りに行こうとしてたんだよね……まあ失敗して真っ逆さまだったんだけど」
「……それで落ち込んでたのか?」
「めちゃくちゃ情けなかったんだよね! 結局次の日風邪ひくし!」
「……ふふ」
小さい頃のミリオの優しさが健気で、思わず環の頬が緩む。あの時は別に花が欲しくて見つめていたわけではなかったから、素直なミリオ少年には紛らわしいことをしてしまった。
「それにしたって、勢いが余りすぎじゃないか? 川に落ちるほどなんて……」
「あ~、まあ、その」
珍しく歯切れの悪いミリオは少し顔を赤くし、傘を持っていない方の手で頭をかいた。
「……あの時の俺は、好きな子の前でカッコつけたかった典型的な小学生男子だったんだよね!」
「…………え? あっ、う」
少し間を置いてその言葉を理解した環は、ミリオと同じように顔を赤くした。
「環は知らなかったろうけど、俺、あの時からお前のこと好きだったんだぜ?」
「お……おおおぉ……」
予想もしていなかった言葉を聞いて環の喉の奥から、嬉しさと羞恥が混じった声が絞り出された。一途なミリオに感心すると同時に、その思いを向けられていることに全く気がつかなかった自分へのもどかしさが湧き出てくる。
「それに、カッコつけられなしなかったけど、次の日の雨で初めて相合い傘できたし、結果オーライだったし! 環の家行って傘忘れたの聞いてこれはキタと思っちゃったんだよね!」
「み、ミリオ……お前ってやつは、どこまでも……」
さらりと次々聞き捨てならないワードがミリオから飛び出してきて、環はツッコミきれなくなる。
自分の太陽はここまでちゃっかりしていただろうか。環は赤くなったミリオ側の耳を手で押さえた。
――しかし、思い返せば、その頃から自分だってミリオのことが好きだったのかもしれない。
でなければ、環はミリオが落ち込んでいたことに対してどうやって励まそうか一日中考え込んだりしなかっただろう。人のことなど言えるものか。
環が頭の中で色々考えているうちに、ミリオの方はすっかり立ち直っていたらしい。恥ずかしい記憶を掘り返された仕返しをしたいとばかりにニコニコと笑っている。
「そんなことを言ったら、あの時の環がやってたあれはなんだったのか気になるんだよね!」
「エッ……あ、あれって?」
「ほらあの、手を雨に打たせて枝豆が生えてたやつ」
「忘れてくれ……!」
丁度よく小恥ずかしい自分の行動を思いだされてしまった環は、思わず傘の外へ飛び出そうになる。しかし、すかさずミリオが環の体に手を回し、濡れぬように抱き寄せる。
こうなるともう逃げることはできない。きっと地球の裏に逃げようが、月に逃げようが、昔のようにミリオは環を迎えにくるのだろう。
「あれ、もう一回見たいんだよね! なんかすごかったし!」
「す、すごくなんかない……! 本当に忘れてくれ……!」
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