ぼくとあなたの一番大事 初めてのエッチの男子の平均年齢は二十歳とは言うけれど、経験済の高校生の初めてセックスした年齢の過半数が十五、六歳だという。
となると、このクラスの何割かは既に体験済、ってことか。
樫尾は保健体育の教科書を揃えている手を止めて、ちらりと教室を見渡した。当然ながら、とつけてしまうといささか忸怩たるものはあるが、樫尾自身はまだ境界線のこちら側の人間だ。
だが清童である樫尾がついそんなことを考えてしまうのは、うっかり昨日見てしまった光景のせいだった。
いや、見るよりも先にまず聞こえてしまったのだ。
ふたりの間で交わされているとおぼしき含み笑い交じりの囁き、いや睦言は、樫尾にとってもとてもとても聞き覚えのある声でありながら、一度たりとも耳にしたことのない甘く誘い、惑わせるような響きをたたえていた。反射的に足を止め、薄く開いた作戦室の扉の狭間から目の当たりにしてしまったのは、自隊の先輩と、上位を争うライバルである他隊の隊員であるふたりによる、例えばおふざけでなどとはとても思えないような、真摯で熱のこもった口づけとその先に交わされる行為を予感させるような乱れた着衣だった。
思考に任せるまでもなく、樫尾は気配を殺して回れ右をしたので、その後どうなったかは知らないし、知りたくもなかった。
やりたい盛りの十代の情熱にまったく理解がないわけではないが、それなりに頭脳明晰な樫尾にだって許容量の限界はあるのだ。
中高一貫というほどではないが、よほどの問題を起こさない限り、六頴館中学から高校へは簡単なペーパーテストと面接だけで進学できる。
なので、同時期の他の中学ほど三年の雰囲気はピリピリしていない。生徒会長である樫尾も何なら内申の評価だけでこのままエスカレーター式に高校へと進むことになるだろう。残念なのは、同じ隊の先輩とは年が三つ離れているせいで入れ替わりになってしまうことくらいだ。
夏休みなどの長期の休み明けなどは海でどうした街でナンパしてどうしたなどと、さしもの進学校ボーイズ&ガールズたちも色恋沙汰で彩られたひと夏の経験的な話で盛り上がっている様子も見受けられる。休みであろうがあるまいが、学校がなくとも任務はあるボーダー隊員には比較的無縁な話題ではあるが。
ヴ……とポケットから低い振動が伝わる。個人所有の携帯端末は下校時までは教師に預けてある。着信に震えているのはボーダーから隊員へと貸与されたものだ。
「……っと。警戒区域境界にネイバーが出た。ここから近いから行ってくる。戻って来なかったら、そのままボーダーに行ったって先生に言っておいて」
「おう。頑張れ」
「行ってら」
「怪我すんなよ」
「おう」
教室にいたクラスメイトから声をかけられ、樫尾はトリガーだけを手に駈け出していく。
「トリガー起動! 王子隊、樫尾隊員、現場に急行します。データを下さい」
こうやって六頴館中学の校舎から駈け出していくのも、遠からず思い出になる。
校庭に植えられた蕾をふくらませた桜の樹を横目に、樫尾はかすかに目を細めた。ああ、そういえばそろそろ卒業式の答辞の文章を考えなければ、とも思いながら。
「樫尾隊員、現着しました!」
たちこもる土煙に紛れたその向こう、樫尾の目に映ったのは、もう既に見慣れたトリオン兵の禍々しい姿だった。
オペレーターからの報告通り、バムスター型が一体とモールモッドが三体、すでに壊れかけた建物に、まるで引導でも渡そうとしているかのように洗われた骨のような白い巨体をのたうつようにくねらせながらのしかかっていた。捕獲用トリオン兵の動きは戦闘体からすれば鈍重で、攻撃を与えることだけならトリガーを手にしたばかりのC級隊員にすら可能ではあろう。
その、団子虫を思わせる形状の、分厚い装甲を抜けるかどうかはともかく。
弱点は分かっている。刻む牙とすり潰す歯を二重に持ったその頭と目される先端にある、開口部の奥に鈍く光る単眼。
攻撃手である彼も幾度となく、刃を突き立て、トリオンの弾丸で貫き、屠ってきた。今は単騎であるが、怯む理由になどなりはしなかった。
ちら、とその脳裏に、今し方教室で見送ってくれたクラスメイトの顔が幾つか過った。将来は弁護士になって弱者の味方になりたいと言っている葛原はたまたまあの大規模侵攻の日、少し離れた親戚の家へと法事で出かけていて、自身こそ無事だったものの、留守を守っていた母親を亡くしていた。委員長の堀内はトリオン兵による崩落に巻き込まれた怪我が原因で大好きだったサッカー選手になる夢を諦めた。
クラスメイトの多くが、いや教師たちおとなですらも、そして樫尾とて、あの日三門に在った者で何一つ瑕疵を持たないはずはない。
三門の街で生きて、暮らしていくということはそういうことだった。
生き方を選べた。抗うすべ《トリオン》を持っていた。B級にすぐに上がれるくらいの適性もあった。なら、戦わない理由など樫尾にはなかった。
射程圏内に入ると同時に、樫尾はサブトリガーを起動する。昼日中でも淡く鈍く分かる光を蓄えた立方体が生じ、それは一瞬のうちに彼の望むままにキューブ状に分割される。
視線の導きに従うか、或いは目標と設定されたものを追いかけていくトリオンの弾丸が、異界からの侵略の尖兵へと叩きつけられる。
(誘導弾で目くらましと足止めをしながら、一体ごと削っていくか)
中央オペレーターからのサポートあるが、隊員の特性も癖も細かく心得た橘高――小隊付きオペレーターではない以上、精度の高い情報は降りてはくるまい。そしてまだ樫尾の戦闘技術では、標的までの距離と旋空弧月の最大出力である円弧の先端との誤差がほぼない状態ではないと、バムスターの外殻を断つことは出来なかった。樫尾にとっても決して難しいことではない、はずだ。その程度の自負はある。しかしそれはあくまで一対一でなら、のことだった。多対一、乱戦めいたこの状況では望んだパフォーマンスを望めはしなかった。
樫尾の優れた理性は現況を聞いた時点で、冷静にそう判断していた。
だが。
例えば。
あの破格の個人ポイントを誇る、ランカー一位の男の無双と言っても過言ではない剣勢なら。
或いは、目に捉えられないほどの速度と身ごなしで削ぎ、刻み、刮ぐ、ステルス小隊の長なら。
もしくは、ライバルと凌ぎ、競う中で編み出した、自らの名前を冠した最長の射程を自在に敵に振るう生まれついての剣士ならば。
だが。
(そんなの、ただのないものねだりじゃないか)
その胸を一瞬だけ苦さで苛んだ面影と自らの愚かしさを振り切るように、樫尾は駆ける足を一際加速させた。
四年半前の、あの時には持ち得なかった弧月を右手に構えながら。
「増援は来ますか」
「はい、少し前に非番の隊員がもう一人向かって……」
「カシオ、お待ち~♪」
中央オペレーターの声に重なるように、闘いに臨んでいるとはとても思えない、羽毛のように軽やかで朗らかな声が声音に相応しい澄んだ春の空から響く。
凶悪なトリオン兵へと、まるで仔猫がじゃれるかのように、その特徴的なノワールとルージュのカラーの戦闘服姿をいっそ無邪気に飛びかからせながら。
「南沢先輩!?」
それは王子隊の好敵手でもある生駒隊の攻撃手、南沢の姿だった。
「ははは! 今日は『生駒隊』じゃないんだ」
「……」
数日前になるラウンド6での三つ巴戦のおりの邂逅のことを考えれば、南沢の口から出たその言い様は嫌味のひとひらだったとしてもおかしくはなかった。だが、「生駒隊の末っ子」の口調にはそんなもの欠片もはらんではいなかった。
降り注ぐ陽光のような金髪に縁取られた、天真爛漫な表情にも。