欲しいものはおまえだけ「弓場さん、何か欲しいものはありますか」
そう告げたのは、何度か訪れたホテルでの二時間だけの逢瀬の、その終を迎えた後だった。
「なんでェ、いきなり」
クリスマスは終わったばかりだぞ、とシャワーから戻ってきた弓場は、濡れ髪を手でかきあげながら眉をひそめ、まだベッドに寝転んだままの神田の傍らに腰を下ろした。
「……って、おい、こら」
神田は腕を回し、浴びた湯のせいか、それとも情事の名残か、まだ熱をとどめる弓場の体を後ろから抱き込むと首筋に顔を埋めて囁いた。
「次に来るあんたの誕生日、一緒にはいられないから、先払いしておこうかと」
「先払いときたか。もう少し情緒のある言い草はできねえのか」
弓場は笑って体を返すと、年下の情人の頬をつまみ上げる。
「痛い、痛い、痛いですって」
「あいにくだが、おめェーから巻き上げるモノなんてねェ―よ」
伝法な物言いではあったが、その言葉からにじむのはただ温かさだけで、それを伺えない神田でもなかった。下がり気味のまなじりを一際させて、どこか甘えるように愛しい男へと告げる。
「俺があげたいんすよ」
「おめェ―にはさんざん、色んなモンをもらっちまってるのにか?」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ」
「そうなんだ」
かつては部下でもあった男はほろほろと口の中で溶けるパウンドケーキのアイシングみたいな甘い笑みを浮かべて、弓場の頬を分厚い掌で撫でた。弓場はそのまさぐるくすぐったさに身と心も預けたい衝動に、しかし委ねることはなく、だがその掌を奪って唇を押し当てる。
「だったら、おめェーと一日一緒に過ごしたい、って言ったらどうする?」
「え」
「一分一秒も惜しい受験生の時間をまる一日借り切りだ。これ以上の贅沢なプレゼントはあるめェ―よ。しかもおめェ―だけしかくれられねェしな」
その一分一秒を今もこうして奪っているというのに、なんて業腹なことを俺は言ってんだろうな、と弓場は腹の中で自嘲する。もちろん冗談めかした口調に韜晦してはみたものの、だ。
だが。
今さら何が欲しいものか。彼からはもう返せないほどの多くのものを捧げられた。忠心、献身、誠心、そして恋慕の情と。
もうすぐここを発ち、離れる愛しい俺の男。慕われ、応え、育んだ時間がどれだけ弓場にとっても豊穣なものだったか。
分かってもらえなくてもいい。いや、分からなくてもいい。俺はおまえの枷にはなりたくない。彼のまことを疑うべくもないが、もし、あちらで生きるという選択が生まれたとしても、振り返ってなど欲しくはないのだから。
「いいですよ」
だが、軽やかに答える神田の、しかし弓場を見据えるまなざしは重く、熱く。
「冗談に決まってんだろ」
そう告げて、弓場はその唇に自らの唇を押し当てた。
俺こそ、おまえにくれてやれたものなど、この身ひとつだけだったというのに。
「残念」
触れる刹那に、果たして、唇が象った「嘘つき」という言葉は気づかぬふりをすることだけが弓場がしてやれることだった。