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    67yknk

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    WEBオンリー用に書いていたさめしし
    93話にて色々覆ったのでこれ以上は書けないと判断し、供養🙏
    よりにもよって虐待児を保護する話でした
    せっかくここまで書いてたので載せます(貧乏性)
    しかしまだ全然CP要素ない

    無題
    獅子神がネコを拾った。
    栗色の毛をしたそのネコは、栄養が足りていないのか随分と痩せ細っていた。まだ随分幼く見える上、体格の良い獅子神に連れられていると余計に小さく感じられる。
    ネコは怯えた顔をして、獅子神から離れようとしなかった。
    「あー……お前なら診てくれるんじゃねぇかと」
    「専門外なのだが」
    インターホンが鳴った時から、その姿は見えていた。村雨が玄関のドアを開けてやると、カメラ越しに見た時と同じように、それは獅子神の腕の中に抱えられている。
    まずネコを見て、そのまま視線を獅子神へ向けた。無言で言葉を促すと、少し言い淀んでから、獅子神は村雨の家へとその拾い物を運んできた理由を告げた。
    素気無く答えると、獅子神は困ったように眉を下げる。ぎゅうとネコを守るように抱き寄せた。
    深くため息を吐く。
    「診せてみろ」
    村雨は一言だけ告げ、獅子神たちへ背を向ける。獅子神はパッと表情を明るくし、慌てて靴を脱いだ。村雨が使い慣れた自宅の診察台へと向かうと、パタパタと小走りの足音が追ってくる。
    そこへ寝かせろと指示をした通り、獅子神はベッドの上にネコを仰向けに乗せた。
    一通り触診をし、口を開けさせる。細かな擦り傷や切り傷が多く、打撲傷も目立つ。時間が経ち変色した痣も幾つか見られた。ただ、内臓に大きな疾患はないように見える。特筆すべきはやはりガリガリに痩せ細っていることで、まともな食事はとっていなかったのだろうと知れた。
    警戒心を解かないネコへ終わりだと告げると、ネコはのっそりと起き上がって獅子神の元へ戻った。診察中に一度も、村雨はネコと目が合っていない。
    「何処で拾ってきた?」
    椅子に腰掛け、必要があるのかは知らないが一応カルテを書き付けながら、目線は上げずに獅子神に尋ねる。獅子神は膝の上にネコを乗せたまま椅子に座り、カルテを書き連ねていく村雨の手元を見ていた。
    「カラス銀行の近くだ。入る時に見かけて、俺が出てくるまで六時間、ずっとそこにいた」
    「なるほどな」
    つまりこのネコはその場で動かずにじっと戻ってこない誰かを待っていたのだろう。獅子神が銀行に入る前に見たということは、もっと前から、下手をすると何日か、その場にいたことになる。おそらくその待ち人は負債者となったのだろうなと村雨は理解した。
    しかしネコの状態から考えるに、戻ってきていたとしても禄な扱いは受けていなかったのだろうと推測できる。全身にある無数の傷は、どれも適切に処置されず放っておかれたものだろう。虐待を受けてきたと判断してよかった。
    「あなたには関係ないのだから放っておけば良かっただろう」
    「……そういうわけにもいかねぇだろ」
    「お人好しめ」
    書き終えたペンの先を終い、バインダーに挟む。ふむ、と腕を組み、観察するようにネコを見やると、居心地悪そうに獅子神に擦り寄った。
    獅子神の大きな掌がネコの背を摩る。大丈夫だ、と穏やかな声で告げ、安心させるように体を揺らしてやっていた。
    ネコは声を発しようとし、かふ、と喉に引っ掛かったような息だけが漏れた。先程触診をしていて気付いたが、喉の骨に異常がある。強く殴られでもしたのかもしれない。
    「喉を潰されている」
    どうした、と心配そうにネコに声を掛けている獅子神へ、村雨は簡潔に告げる。獅子神は一瞬目を見開いて村雨の顔を見ると、すぐに眉間に皺を寄せて眉尻を下げ、痛々しいものを憐れむような顔をした。
    「治らねぇのか?」
    「暫くすればある程度の声は出るようになる。元の声には戻らないだろうがな」
    「そっか……」
    喉は急所のひとつだ。骨が砕かれ軌道が塞がれば呼吸困難に陥り最悪死ぬ可能性もある。強い衝撃を与えられ放置されたにも関わらず、声が出なくなる程度で済んだのはよかったと言わざるを得ない。
    獅子神が耳の横辺りの毛を労わるように撫でると、ネコはビクッと大きく体を跳ねさせた。震えながら目線を上げて獅子神を見る。ネコを捉える獅子神の目は優しい。怯えながらも獅子神を心配させまいとしたのか、ネコはおずおずと頭をその手に擦り寄せる。その健気さを汲み、穏やかな手つきで栗毛を撫でやりながら獅子神も目を細めた。
    ふん、と息を吐き、村雨が足を組む。
    「暫くまともなものを口にしていないようだ。刺激物は避けて胃に優しいものを与えるようにした方がいい」
    ちら、とキッチンの方を見る。真経津・叶戦の後、胃の洗浄を受けた真経津に獅子神がお粥を作った際、調理器具が何もないと文句を言われた場所だ。
    自分で使うことはこの先もないと思われる、フライパンや鍋、包丁など一通りの調理器具を村雨が揃えたのはつい先日のことだった。米や調味料などの、あまり期限を気にせず長く使えるものも揃えてある。
    「時に獅子神。私は空腹なのだが」
    キッチンの端にある冷蔵庫。冷凍室の中には先日自宅へ送られてきた和牛の肉が入っている。
    難しい病気だからと病院をたらい回しにされていた男を、それなりの金で手術を請け負った。村雨の腕によって手術は成功し、回復した男から礼にと送られてきたものだ。
    あの日の手術はなかなか楽しいものだったなと思い出しながら、村雨は獅子神に冷蔵庫の中身を告げる。
    獅子神が来ることが分かっていたなら冷蔵庫の中身をもっと充実させておいたものを、今日はアポもなく押し掛けてきたのだから仕方がない。それでも獅子神は村雨の家に調理器具や食材があることにひどく驚いた顔をした。
    立ち上がり、キッチンを見に行く獅子神に、ネコが置いていかれないようにとついて行く。買った時のまま箱から出されずに収納されている調理器具を取り出している獅子神に、村雨は座ったままで声をかけた。
    「そこにあるものは自由に使っていい」
    「……これ、全部新しいんだけど、開けていいのか?」
    「構わない。あなたが使うと思って買ったものだ」
    以前、獅子神がお粥を作った時に言っていた。せっかくいいキッチンがあるのに勿体ない、と。
    確かに、調理スペースも広くコンロも三口付いていて、収納も多い。ただ、これまでは自宅で料理をする者もいなければ自分で作るつもりもなかった。だから不必要なものは置いていなかっただけのこと。調理場としてではなく手術に必要なものを洗ったり燻したりするのには十分活用していた。
    村雨は、獅子神の料理の腕を認めている。それが時折家に来るような友人関係となったから、調理をする者がいるならと買い揃えた。つまり、獅子神が使わなければそれらは役目を全うしない。
    フライパンや包丁を開封しながら、ふーん、と獅子神が声を洩らす。不満の出るような質の悪いものを取り揃えたつもりはないが、いかんせん村雨はそれらの器具に明るくない。暫く獅子神を窺っていたが、見るからに機嫌が良くなっていく様子から察するに、それらは満足のいく品だったのだろう。
    獅子神が、危ないからあっちで待ってろ、とネコに声を掛けている。ネコはちらっと村雨の方を見て、もう一度獅子神を見た。獅子神がこくりと頷き、それに促されるように、ネコは獅子神の元を離れ、村雨の座る椅子の近くへと移動してきた。
    静かな室内に、獅子神が調理をする音だけが響く。ネコは村雨から数メートル離れたところで立ち尽くし、居心地悪そうにじっとキッチンの方を見ていた。
    手持ち無沙汰でやることもない村雨は、何とはなしに獅子神の拾ってきたネコを観察する。埃っぽく伸びっぱなしの栗色の毛並みに、痩せ細った体の見窄らしいネコ。腹の中を開けてみても胃には何も入っていないだろう。
    ネコは神経を過敏にさせていて、目はキッチンの方をじっと見ているにも関わらず、意識は村雨の方を向いていた。村雨が少しでも動くたび、小さな肩がピクリと跳ねる。大きな音がしたり村雨が立ち上がったりしたら、きっと反射的に身を守ろうとするだろう。虐待を受けてきたものとしては、当然の反応だった。
    暫くして、香ばしい匂いが部屋に広がった。肉を焼く音が聞こえる。それに紛れて、くつくつと何かを煮込む音も。
    「適当な皿使うぞー?」
    「待て、左の棚は手術で使ったものが入っている」
    「げっ……! ンなもん一緒に置いとくな!」
    食器棚の扉を開こうとする獅子神に声を掛ける。獅子神は心底嫌そうな反応をして、開こうとしていた棚を閉じた。
    一緒にするなも何も、元々はそういう用途の物ばかり置いていたのだから仕方がない。増えたのは食事用の食具の方だ。
    村雨が使える食器の入っている場所を教えると、獅子神は素直にそれに従った。
    食欲を唆る匂いが鼻腔を擽る。村雨の胃がきゅうと収縮して空腹を伝えた。その隣にいるネコは、村雨よりも更に鮮明に空腹を表情に浮かべている。
    テーブルに料理の乗った皿とカトラリーが並ぶ。分厚い肉には程よく火が通っていて、獅子神が作ったと思われるトマトソースが彩りよくかけられていた。そういえば調理器具と共にホールトマト缶などの幾つかの缶詰を購入して調理器具と共にしまい込んでいたと村雨は思い出す。それらは獅子神の手によって無事に発掘されたようだった。
    深皿とスプーンを片手に持った獅子神が、ネコに声をかけ、抱き上げて村雨の向かい側の椅子に座る。深皿の中身はドロリとした乳白色のスープで、一見するとじゃがいものポタージュのようにも見えた。しかし、村雨にはこの家にじゃがいもを買い置いた記憶がない。
    村雨の視線で彼の考えていることを悟ったのか、米だよ、と獅子神から材料が教えられる。フードプロセッサーで米を粉砕し、コンソメと少量の砕いた牛肉で味を整えたスープ。湯気の立つそれを、スプーンでひと掬い、獅子神は自分の口に運んだ。
    ネコはじっと獅子神を見詰めている。獅子神は自分が口に入れたものとは別のスプーンで、もう一度スープを掬う。二度ほど息を吹きかけてスープを冷まし、ネコの口元へ運んでやった。ネコは恐る恐る口をつけ、舌先でスープを舐めとる。そしてハッと顔を上げ、驚いた顔で獅子神を見た。
    「どうした? 不味かったか?」
    尋ねた獅子神に、ネコはぶんぶんと首を横に振る。獅子神は嬉しそうに破顔して、もうひと掬い、ネコの方に差し出した。
    好きなだけ食え、と言われ、ネコは必死の形相で食していく。よほど腹が減っていたのだと見てとれた。
    そんな様子を目の端で捉えながら、村雨はナイフで肉を切り分ける。柔らかな肉をフォークで突き刺し口に運ぶと、トマトの酸味と肉の旨味が口内を駆け巡った。
    「……美味いな」
    素直な感想に、獅子神は少し意外そうな顔で村雨を見る。素直に褒められるとは思っていなかったからだ。獅子神は口元で笑って、だろ? と得意そうに告げた。
    食事を終えるとすぐに食器がシンクへと運ばれる。腕捲りをしてスポンジに洗剤を付ける獅子神は、洗い物まできっちり片付けて帰るつもりのようだった。マメな男だと感心さえする。
    「あなた、これを連れて帰る気か?」
    布巾で皿の水気を拭っている獅子神に、座ったままで村雨は声を掛ける。これ、と呼ばれたネコの方は、瞳を揺らして村雨を見た。
    「分かっているとは思うが、面倒ごとに巻き込まれる可能性が高い。そうなる前に……」
    「分かってる」
    言葉を遮り、獅子神は些か乱暴に手を拭った。感情の機敏が分かり易すぎてため息が出る。それだけ村雨相手には隠す必要もないと思っているのなら、それはそれで喜ばしくあるべきなのかもしれないが。
    「俺もこいつを育ててやるほど暇じゃねぇ。つっても、一回拾ったのにその辺に捨てるのは後味が悪いだろーが」
    「ではどうするつもりだ?」
    「……怪我が治るまではうちに置いてやる。その後は施設かなんかに連れてきゃいいだろ」
    獅子神がネコを手招く。慌てたように獅子神の元へ駆け寄ったそれをひょいと抱き上げ、手間掛けたな、と告げられた。
    玄関へ向かう獅子神に、村雨は医師として声をかける。
    「様子を見て食べられそうなら固形物を食べさせてやるといい。刺激物はまだ控えろ。1週間後にまた診てやる」
    獅子神は振り返り、ぽかりとした顔で村雨を見た。その何とも間抜けな顔はすぐに擽ったいような笑みに変わり、ひらりと手を振って部屋を出る。
    獅子神の後ろ姿を見送って、村雨は椅子へ深く腰掛け直す。静かに深く息を吐いた。

    獅子神宅へ向かいながら、村雨はメールを打っていた。定期検診に来いと呼んだら、飯の用意をしてやるからこっちへ来てくれとの要請があったからだ。
    『ネコの様子はどうだ』
    件名は無記入で、本文にそれだけを入れて送る。すぐに返事が返ってきた。
    『猫?』
    一週間前に獅子神が拾ってきた、何処の誰とも知らない男児。伸び放題で荒れた栗毛と痩せ過ぎて大きなアーモンド型の目の周りが窪み、見窄らしい捨て猫のようだったから、村雨が勝手にそう呼んでいる。
    『ロウのことなら、順調に回復してると思う。飯も普通に食えるようになった』
    ロウ。カラス銀行の前で立ち尽くしていたから、crowから取ってロウ。獅子神が付けた名前だ。
    名前を付けると情が湧くぞ、という村雨の忠告に、呼び名がねえと不便だろ、と獅子神は譲らなかった。情なんてものは、とっくにあの男の中に根を張っている。
    タクシーの後部座席の窓から外を見る。道は混雑していない。予定通りの時間に獅子神宅へと着くだろう。
    『あと10分で着く』
    到着時間だけを送信し、携帯の電源を落とした。シートに深く背をもたれ掛け、透明のアクリル板越しに運転手の後ろ姿を眺める。
    歳は四十を過ぎた頃か、白髪がところどころに混ざった黒髪を整髪剤で撫でつけている。きっちりとした性格なのだろう、車内に一つの埃も落ちてはいない。運転手からは僅かに煙草の臭いが漂ったが、車内にはその名残はないことからこの場で吸ったわけではないのだろう。乗車してから目的地を告げる際、必要最低限の会話だけを行ったが、呼吸音も綺麗で、肺の汚れは感じなかった。とすると、常習性はないのだろう。仕事前、短い時間だけ喫煙所に付き合わされたのかもしれない。綺麗にアイロンの当てられたシャツを身に付けているが、おそらくは彼の妻が整えたものだろう。洗濯に使われた柔軟剤は若い女性の好むような甘い香りがしていることから、良好な関係の若い娘がいるように思えた。
    獅子神宅に着くまでの時間潰しにと村雨は運転手を観察をしていたが、視線が気になったようで運転手がバックミラーを使って背後を窺うような視線を向けてきた。ミラー越しに目が合う。
    「何か?」
    尋ねると、運転手は慌てたように目を逸らし、「いえ、なんでも…」と口籠る。何か失礼なことを考えているな、と悟り、そのことを指摘しようとしたが、車が目的地に随分近付いていることに気付いてやめた。
    獅子神の家まで数メートルという位置で、タクシーが路肩に停車する。カードでの決済を終え、車を降りた。運転手は最後まで村雨と目を合わせなかった。一体どういうつもりなのかと思ったが、尋ねたところでどうせ面白みのある回答は返ってこないだろうと思い直し、捨て置くことにする。あの運転手の名前と車のナンバーは覚えた。
    獅子神にメールを入れてからきっちり十分。家の前に立ったところで、自動的に門が開いた。中から村雨の姿を確認した獅子神が自身で解錠のボタンを押したのだろう。村雨や真経津たちがこの家を訪ねる時、獅子神は決まって雑用係の姿を隠している。
    玄関のドアを押し開け、中へ入る。ドアを開けた先、村雨の目にはすぐに少年の姿が留まった。
    獅子神の家で村雨の到着を待っている少年がいるとすれば、それはロウに決まっている。しかし、その姿が自身の知る一週間前の姿とはあまりに違っていて、村雨は思わずパチリと瞬きをした。
    伸び放題だった栗毛は少年らしく整えられ、ふんわりと柔らかそうな印象を与えている。一目で栄養失調と分かるほど痩せ細っていた体は、まだガリガリではあるものの、頬に少しの肉がついた。落ち窪んでいたアーモンド型の目も、僅かではあるが肉がついたおかげで大きく見える。身に纏っているのはハイブランドの子供服だろう、上質な生地で丁寧に作られていて、着心地も良さそうだった。
    「……見違えたな」
    たった一週間で憐れな捨て猫から育ちの良いお坊ちゃんだ。獅子神に随分大切にされているのだろうということは容易に知れた。
    ロウは警戒を目に宿しながらも、ぺこりと小さな頭を下げる。
    「こんにちは」
    口調は辿々しく、掠れたような弱々しい声音ではあるが、それでもロウの声は村雨の耳に届いた。
    風邪をひいて声が出ない時のような、くぐもった、低く掠れた声。喉の損傷が大きかった分、おそらくこれ以上に良くはならないだろう。声が出るようになっただけで十分回復した方だ。
    「ああ、コンニチハ。獅子神は中か?」
    靴を脱ぎながら尋ねると、ロウはこくんと一度頷いた。村雨が敷台を踏み、上り框に足を掛けたところで、ロウは身を翻してぱたぱたと足音を立てながら奥へと入っていく。向かう先がリビングであることは、何度か訪れた家の間取りから村雨には分かっていた。
    トントンと、リズミカルな包丁の音が聴こえる。ロウがリビングへ通じるドアを開けて中へ入ると、そこから見えるキッチンには獅子神の姿。
    ロウはそのまま獅子神の足元へ駆けて行った。
    「おー。ちゃんと挨拶したか?」
    こくこくと頷くロウに獅子神は吐息で笑い、小さく切った梨を一欠片ロウの口に押し入れてやる。頬を膨らませて目を輝かせたロウの頭を、濡れた手を拭った獅子神が優しい手つきで撫でた。
    梨の盛られた皿がロウに渡される。獅子神であれば片手で軽く持つそれも、小さなロウには両手で抱えてなお不安が残った。「気を付けて運べよ」と言われ、真剣な顔で頷いている。
    慎重な足取りで皿を運ぶ小さな体は、確かに庇護欲をそそられるものだった。とりわけ、面倒見がよく他者に頼られることを厭わない獅子神のような人間にとっては。
    腕をいっぱいに伸ばしてギリギリまで距離をとりながら差し出された皿を村雨が受け取り、テーブルに乗せる。村雨は既にテーブルの前に並んだ椅子の一つに着席していた。
    「ご苦労」
    告げられ、ロウは小さく安堵の息を吐いた。それから高さのある子供用の椅子をずりずりと引き摺って、村雨の座る場所から机を挟んで対角線上へと運んでくる。
    床へ傷が付く、と村雨は思ったが、当の家主は何も言わない。
    獅子神がグラスと瓶に入ったオレンジジュースを手にキッチンを出る。テーブルの上、村雨の目の前に並べて置いた。それからロウをひょいと軽く持ち上げ、椅子の場所を少し動かし、その上へ座らせてやる。
    「最近融資したフルーツパーラーから送られてきたもんだ。飲むだろ?」
    「頂こう」
    薄い青味がかったグラスに濃いオレンジの液体が注がれる。相反する色は引き立て合い、まるで互いのために生み出されたものであるかのように美しく映えた。
    グラスの一つは村雨の前に差し出される。許容量の三分の一ほどしか満たされていないグラスは、獅子神からロウに手渡された。
    「あなたがそこまで子供好きとは知らなかった」
    「はあ? 別に好きじゃねえよ」
    獅子神は何故そんなことを言われるのか分からないという顔で村雨に答える。その言葉に嘘は見受けられない。獅子神は本気で、何も特別なことをしているつもりがないだけだった。
    しかし、獅子神に拾われた哀れな少年が、この一週間どれほど丁寧に扱われてきたのか、村雨には想像に難くなかった。
    日にどれだけの食事が摂れていたかも定かではないほど痩せ細りやつれていた体が、たった一週間である程度子供らしい顔つきに変わった。虐待を受けた経験のある者なら誰でも見られる怯えや竦みを、ロウは獅子神相手には殆ど見せない。例えば背後から声をかけられた時、ビクッと体を跳ねさせ身を固くするだとか。例えば少し腕を持ち上げるような仕草を見ただけで、殴られるのではと身を縮こませるだとか。相手と一定の距離をとり、決して目を合わせないようにするような、そういう己の身を守るための警戒が、村雨と獅子神を相手にした時でははっきりと違っていた。
    更にリビングに入った瞬間から村雨の目には見えていた、部屋の端に用意された子供が座って使えるサイズの小さな机。近くにはパズル式に組み合わせて使うマットが重ねて置いてある。目立たないように片付けられてあるのは、幼児向けのひらがなや数字の簡単なドリルに鉛筆類、折り紙やパズル、粘土、クレヨンなどの知育系の遊び道具、ミニカーやブロックなど小さな子供が好む玩具。全てロウがこの家に来てから獅子神が買い揃えたものだった。
    「まあいい。食べ終えたら診察に移る」
    村雨はフォークの刺さった梨を取り、口に含んだ。歯を立てるとシャクッと音を響かせ瑞々しく果汁が弾ける。口の中に甘い果実の芳香が広がった。

    村雨がロウと向かい合って座り、触診をしていく。怪我と痣だらけだった体は少しずつ治癒していっていることが分かった。骨と皮が張り付くような栄養失調状態だったのが、随分顔色が良くなっている。獅子神に聞けば、刺激の少ないものであれば固形物もよく食べているとのことだった。
    口を開かせる。一週間ほど前に見た時、幼いにも関わらず口内は虫歯で溶けたり殴られた際に欠けたらしい歯が並び、酷い惨状だった。獅子神が早急に歯医者へ連れていったのであろう、歯茎の腫れは引き、幾分マシな状態にはなっている。
    衣服や髪型といった部分の清潔さだけでなく、身体中にある傷や打撲痕などの処置も日々丁寧に行われている様子がすぐに知れた。
    ふん、と村雨は鼻を鳴らす。この一週間、獅子神がどれだけこの少年に手をかけてきたかがよく分かる姿だった。
    「順調に回復している。あなた相手に食事の話をするつもりもないが、栄養面も悪くない」
    村雨はロウの背後に立ち腕を組んで様子を見ていた獅子神に声をかける。その姿は、まるで小児科に子供を診せに来た保護者のようだ。
    「あとは情緒面だが」
    不意に村雨が立ち上がる。ロウは反射的に両腕を頭上で交差させ仰け反った。椅子ごと後ろに倒れそうになるのを、獅子神が咄嗟に腕を伸ばして支える。ロウは蒼白な顔でカタカタ震えていた。
    「おい!? どうした!?」
    獅子神がロウの体を抱き上げ、強張り震える背中を摩る。獅子神の服を縋るように掴んだ手は凍ったように冷たい。
    村雨はそんな姿を顔色ひとつ変えず静かに見ている。ロウ、と何度も呼びかける獅子神に、ロウが助けを求めるようにぎゅうぎゅうと抱き付いて、やがて少しずつ呼吸ができるようになった。
    「見ての通りの愛着障害だ」
    「愛……何だって?」
    「簡単に言えば虐待による弊害だ。異常なまでに他人を警戒している。怯えて震える。表情が乏しい」
    獅子神は村雨の指摘に険しい顔をした。思わずロウの背に置いた手に力が篭る。先程のひどい怯えようが思い出された。
    「あなたには随分懐いたようだが、早く専門機関に預けた方がいいな」
    診察は終わりだと村雨は言った。持ち出したノートにサラサラと経過を書き連ねていく。獅子神が村雨の手元を覗き見たが、右上がりの酷い癖字はとても読めたものではなかった。

    それからというもの、週に一度か二度、村雨はロウの診察を行うことになった。村雨が獅子神宅へ往診に向かうこともあれば、村雨の自宅へ獅子神がロウを連れていくこともあった。時折約束をしたわけでもなくふらりと村雨が訪れることもあり、そういう時には日を置かずに診察が行なわれた。
    村雨はロウの件で、獅子神から診察料を受け取っていない。獅子神ははじめ、診察料を支払うと村雨に申し出たのだが、用意した封筒を一瞥するなり必要ないと切り捨てられた。
    村雨が金に困っていないことは獅子神も知っている。しかし、獅子神は投資家だ。技術を提供してもらうからにはそれ相応の対価が必要だと思っている。差し出した封筒を引っ込めることも出来ずに困った顔をしていると、村雨は獅子神の料理を所望した。以来、獅子神とロウは診察後は必ず村雨と食事を共にするようになった。
    時折アポも取らずに獅子神宅にやって来るのは、診察ではなく食事を摂る目的で来ているのではないかと獅子神は思う。言葉に出してはいないが、おそらく獅子神の思考を読み取っているだろう村雨が何も言わないことから、当たらずも遠からずといったところなのだろう。
    獅子神の自宅には子供用の食具が増え、村雨宅で獅子神の開封した新しい調理器具たちは既に手に馴染むほど使用頻度が増えた。ひとり食事を摂っていた時とは、内容も質も、随分変わったように思う。獅子神にとっても、村雨にとっても。
    食卓に並ぶのは、肉料理が多かった。見かけによらず、村雨が肉を好むからだ。デザートにはフルーツが並ぶことも多かった。子供は甘いものが好きだろうと、獅子神がさまざまなフルーツを取り寄せたからだ。ロウはブドウを最も好んだ。それから、野菜も食べさせようと、獅子神は毎回違ったドレッシングを作り、サラダも並べていた。
    細身の見た目に反してよく食べる村雨が、料理の盛られた皿を空にしていく姿を見ているのは気持ちがいい。綺麗な仕草で次から次へと食していく姿に、一緒にいるとロウも食欲を唆られた。
    獅子神がロウを拾って一月が経とうとする頃には、ロウは随分食が太くなり、子供らしい表情を見せることが徐々に増えていた。



    「やっほー」
    インターホンの通話ボタンを押して一秒。軽快な挨拶と共に手を振る真経津の姿に、獅子神は何も見なかったことにしてこのまま切ってしまうかと真顔で考えた。
    「あ! 待って待って切らないでよ!」
    慌てたような真経津の声。なんで顔も合わせてないのに、何ならこっちは一言も発していないのに、考えていることが分かるんだ、と獅子神は諦めにも似たため息を吐いた。
    全く今更だ。そんなことは真経津をはじめとするギャンブラーの友人たちに出会ってからというもの、ずっと思っていることだった。悲しいかな、獅子神が彼らに読み合いで勝てたことは一度もない。
    仕方なく門を開けてやる。ありがとー、という間伸びした声を聞いてから通話を切った。
    「お邪魔しまーす」
    獅子神が真経津に出す飲み物を準備していると、真経津は勝手知ったるとばかりにリビングまで入ってくる。抱えている紙袋から、かんばやしで買ったパンが飛び出していた。
    ロウはインターホン越しに初めて会う相手と知った時から、獅子神の後について離れない。村雨に対しては最初から挨拶をできる程度の交流を持っていたために、ロウが怯えと警戒を前面に出している姿を、獅子神はこの時初めて見ることになった。
    真経津がテーブルの上にパンの紙袋を置く。その中身の大半は菓子パンだった。
    「ぶどうジュースしかねぇぞ」
    「ありがとー!」
    獅子神がグラスを差し出すと、真経津がにこにこしながら受け取る。そこで初めて獅子神の後ろにぴったりとくっつくようにして付いてきていたロウの姿が目に入った。
    あれ? と真経津は首を傾げる。
    「獅子神さんの子供って言うからもっと赤ちゃんなのかと思ってたよ。こんな大きいの産んだの?」
    「産めるわけねーだろうが!」
    茶化すような真経津の言葉に、獅子神がいつもの調子で怒声を上げる。瞬間、隣にいたロウが、ひっ、と掠れた悲鳴と共にその場に蹲った。
    頭を抱え、体を小さくしてカタカタと震えている。獅子神の顔からサッと血の気が引いた。慌てて抱き上げて背中を擦る。
    「悪い。悪かった。お前に怒鳴ったわけじゃねーんだ」
    ぴったりと胸元に抱え込むように抱き寄せ、耳元でごめんと囁く。ロウも自分に向けられた怒りではないと分かってはいるようで、震えと荒い呼吸を繰り返しながらもこくこくと頷いている。ぎゅうぎゅうと獅子神の服を掴む手は真っ白だった。
    真経津はそんな二人の様子を見て、へぇ、と意外そうな声を上げる。場の雰囲気にそぐわない、どこか感心したような声音だった。
    「なんか大事にしてるんだね」
    「ああ?」
    「そんなに子供好きだったの?」
    以前の村雨と同じことを聞かれ、獅子神は眉間に皺を刻んだ。
    真経津は獅子神の腕の中で少しずつ落ち着きを取り戻そうとしているロウを覗き込んだ。表情は穏やかな笑みを浮かべているのに、その瞳の奥はゾッとするほど冷たい。
    身動ぐロウに、真経津は目を閉じてにっこりと微笑んだ。
    「驚かせちゃってごめんねー。まあ驚かせたのは獅子神さんなんだけど。パン食べる?」
    軽い口調でそう告げて、真経津はテーブルの方に向かう。先程自らそこに置いた紙袋から幾つかのパンを取り出してロウに見せた。
    「ボクのおすすめはチョココロネなんだー」
    そう言って差し出されたパンに、ロウはどうしていいか分からず困惑の表情を浮かべる。助けを求めるように獅子神を見ると、獅子神は諦めにも似たため息を吐いた。
    「……悪い奴じゃねぇんだ」
    暗に受け取ってやれと獅子神が促す。ロウは獅子神に頷いて、真経津からパンを受け取った。強い力で握れば潰れてしまいそうな柔らかさのパンに、チョコクリームがたっぷりと詰まっている。
    真経津は次いで獅子神にも手にしていたパンを差し出す。
    「……俺はいい」
    差し出されているのはどれも多分に砂糖を使った菓子パンばかりだった。そのカロリー量と糖質の多さを想像し、獅子神は眉を寄せる。
    断る獅子神に、ダメだよ、と真経津は言った。
    「獅子神さんが食べないようなもの食べさせられてるって思われちゃうじゃん。獅子神さんもちゃんと食べてー」
    ロウは獅子神と真経津を見比べ、オロオロとしている。真経津に指摘され、それに気付いた獅子神がぐっと言葉に詰まった。
    真経津の手にある、メロンパン、ツイストドーナツ、クリームパンを見比べる。
    「……もう少し、甘くねーやつ」
    「あるよあるよー!」
    テーブルに置いていた紙袋を手に取り、口を開いて獅子神に見せた。中には数種類の菓子パンと、惣菜パンが入っている。
    カレーパン、ピロシキ、ウインナーロールといったラインナップに真経津の食生活が不安になった。獅子神は奥の方に見えたベーグルを取り出す。この中ではまだ低カロリーな方だ。
    ビニールの袋を剥き、齧り付く。その様子を見ていたロウに目線で食べるよう促すと、ロウは慌てて同じようにビニールを剥き、クリームの見えている方に歯を立てた。
    「で、何の用だよ?」
    口に入れたパンのかけらを数回噛んで飲み下し、獅子神は真経津に尋ねた。真経津はグラスに口をつけながら小首を傾げる。
    「何って、獅子神さんが子育てしてるって言うから見に来たんだよ」
    「よし、村雨のヤローは次会ったら殴る」
    獅子神はぎゅっと拳を握った。それができもしないことだとは、本人が一番よく分かっている。
    ロウを見下ろしながら、真経津は人好きのする笑みで尋ねた。動物園って行ったことある? と。ロウは困惑したような顔をして、ふるふると首を横に振る。
    動物園。それがどんなものであるのか、ロウには見当もつかない。ロウに危害を加えていた両親は、そんなところへ彼を連れて行ったことは一度もなかったし、そういう、普通子供が楽しんで行くような施設を、ロウは知らなかった。
    真経津は我が意を得たりとばかりに獅子神に提案する。
    「じゃあみんなで行こうよ。村雨さんたちも誘ってさ!」
    「オメーが行きてーだけだろ」
    「え、そうだよ?」
    呆れた口調で言えば、真経津はあっけらかんと肯定した。獅子神は閉口する。
    しかし、動物園。誰もが子供時代、一度は行ったことがあるだろう場所。獅子神にも遠い昔に家族で出掛けた記憶がある。ロウはそんな場所へ、行ったことがないと言う。
    思えば、ロウを拾って以来、その殆どの時間を自宅で過ごし、外出といえば村雨の家まで車で移動するくらいのものだった。家の中へ閉じ込めるつもりもなかったのだが、結果的にそうなってしまっていたことに獅子神は気付く。どこか子供の好む場所へ遊びに連れて行く、という発想が、獅子神の中になかったのだ。
    「……行ってみるか? 動物園」
    獅子神はロウに尋ねた。ロウの瞳がパッと輝く。決まりだね、と真経津が言った。
    真経津はすぐに村雨と叶に電話をかける。その間、獅子神が携帯で様々な動物の写真をロウに見せてやった。初めて見る動物に、驚いたり感心したりしながらそのひとつひとつに興味を持って眺めている。
    通話を終えた真経津が携帯をしまう。
    「じゃあ木曜日ね。電車で行こ」
    木曜日。元々村雨にロウの検診を頼んでいた日だ。
    ロウはこくこくと頷いている。電車に乗せるのも初めてだった。
    子供の喜ぶようなことに関しては、自分よりも真経津の方が数段上なのだと、獅子神は舌を巻く。実際ところは、真経津自身が楽しいと思うことを優先しているだけなのだが。
    おしゃれして行こうね、という真経津の言葉に、ロウが困惑している。獅子神は栗毛をくしゃくしゃと撫でながら、今から服でも見に行くか? と提案した。

    午前中のうちに村雨の自宅で診察を受け、昼前には三人で連れ立って村雨の家の最寄駅から電車に乗った。
    一緒に電車に乗って行こうと誘ってきた真経津だったが、そもそも住んでいる家の方向が違っているため現地集合となっている。叶の方も午前中は趣味のテラリウムの様子を見る用事があると言い、現地での待ち合わせとなった。
    であれば車で向かえば良かったのでは、と村雨が獅子神にじっとりとした視線を向ける。
    普段使うことのない電車。人生で乗車した機会は片手で足りる。切符の買い方や改札の通り方が今一つ分からず、ロウと共に困り果てる獅子神を引率する羽目になったのは村雨だった。
    獅子神は罰が悪そうに村雨から目を逸らす。喜んでんだから良いだろ、と揺られる電車の座席に座って窓の外を眺めながら告げれば、深いため息が返された。
    動物園前の駅で下車し、案内の看板に従って歩く。ロウはただでさえ長身の獅子神と村雨に、置いて行かれまいと必死に足を動かしている。
    暫く辺りの景色を見ながら歩いていた獅子神が、周囲を見る余裕もなくついてきているロウにようやく気が付き、ひょいと軽い体を掬い上げて首を跨ぐように座らせた。
    わっ、と驚いたような声が零れる。ふっと優しい笑みを浮かべる獅子神と、肩車をされてぎゅっとしがみ付いているロウは、傍目からは親子にしか見えないだろう。
    大きなゲートが見えてくると、その下に目立つ二人組が待っていた。叶と真経津だ。
    おーい、と大きな声で獅子神たちへ呼び掛けながら、真経津が手を振っている。周りがぎょっとした視線を向けているが、気にした様子もない。アレに近付くのか、と、一瞬獅子神と村雨は目を合わせ、どちらともなくため息が溢れた。
    「あー! いいなあ、ボクも後で肩車してよー」
    「できるわけねぇだろーが!」
    合流後、開口一番ロウを羨んで言った真経津に突っ込みを入れながら、獅子神がロウを下ろしてやる。
    少しよろけながら地面を踏みしめるロウを、影が覆った。顔を上げる。ロウを見下ろしてくるのは、長身の獅子神よりもさらに頭一つ背の高い、色と柄が目に痛い服装の男。
    瞳の中の笑顔がロウを検分するようにじっと見つめ、ふうん、と呟く。びく、と身を竦ませるロウの肩を、すぐ傍にしゃがんだ獅子神が支えた。
    「挨拶。できるか?」
    優しい声が促す。ロウは獅子神を見て安堵したような顔で頷き、おずおずと叶を見上げた。
    「……こんにちは。ロウ、です」
    小さな掠れた声で名乗り、ペコリと頭を下げる。よくできたと褒めるように獅子神が栗毛を撫でた。
    叶が膝を折り、ロウの目線に近い位置まで身を屈める。
    「叶黎明だ」
    笑顔もなくそれだけ告げると、すっと体を戻す。叶はそれきりロウには興味を無くしたというみたいに、チケット売り場を指差し、早く中に入ろうと村雨に話しかけていた。
    入園料を払いチケットを受け取る。チケットにはそれぞれ違った動物の写真が載っていた。
    ライオンの写真のチケットを受け取った村雨が、ニヤニヤと笑みを浮かべながら獅子神のウサギと替えてやろうかと告げる。うるせー! と獅子神がロウの腕を掴んでさっさと園中へ入ろうとするのを、真経津が笑いながら追いかける。
    賑やかな成人男性四人と小さな子供の組み合わせは、周囲からよく目立っていた。
    平日ということもあり、人は少ない。それでもさすがは動物園というべきか、家族連れの姿はちらほらと見えた。
    こっちこっちとテンション高く真経津が先導する。真っ先に向かった先は大型の肉食獣の檻。ライオン、虎、豹やチーターといったネコ科の大型動物が並んでいる。
    「あ、ほら獅子神さんがいるよー!」
    太陽の光に豊かな黄色いタテガミをキラキラと輝かせる雄ライオンと、並んで横になっている雌ライオン。眺める人間には興味なさそうに、ゆらゆらと尻尾を揺らしている。
    獅子神さんがいる、という真経津の言葉にロウが反応する。大きな瞳でじっとライオンを眺め、それから獅子神の服の裾を引き、くふくふと笑う。
    似てるか? と獅子神が決まり悪そうに聞けば、ロウはこっくりと頷いた。
    「礼二君、こっちにホワイトタイガーがいるぞ!」
    「引っ張るな」
    「ねえねえ次はゾウ見に行こうよー!」
    「おい、お前ら! 好き勝手に動くんじゃねぇ!」
    元々が協調性のカケラもないメンバーの集まりだ。纏まって行動できる時間はそう長くない。
    それぞれが自由に動き出し、獅子神が声を荒げる。ロウは初めオロオロと困った顔をしていたが、暫く経つうちに慣れてしまった。獅子神が困っている様子を見てこっそりと笑う。
    獅子神が園内マップを見ているうちに真経津と叶が気の向く方向へと歩き出し、それを止めている間に気付けば村雨がいなくなっている。勝手に動くなと釘を刺して次の動物のコーナーへ向かっても、数分の後にはまた繰り返されていた。
    ライオンやゾウ、熊やバイソンといった大型の動物から順に見に行こうと連れ回される。動物園の目玉はほぼ見て終わった。
    元気が有り余っているらしい真経津は、初めて見る動物に感動したり怖がったりするロウと同じテンションで園内を楽しんでいる。どこでそんな知識を仕入れるのか、村雨が動物の生態に関する情報を披露し、叶はそれを聞きながら目の前の生き物を事細かに観察していた。
    園内の三分の二ほどを見て回り、やがて小動物との触れ合い広場へと行き着く。
    フェンスに囲まれた中へ入り、ベンチに腰を落ち着け、獅子神はぐったりと項垂れる。獅子神の隣で係員から膝に子ウサギを乗せてもらいながら、ロウが眉尻を下げて獅子神を眺めた。疲れている。
    少し離れたスペースでは、村雨がモルモットの観察をしている。さらにその奥、子供たちが身を乗り出して楽しんでいる場所に紛れ込んだ叶と真経津は、飼育員の解説を聞きながらウサギのレースを楽しんでいた。
    「あー……悪いな、自由な奴らばっかで」
    獅子神が額に手を当てながら、ちら、とロウを見た。青い瞳が優しい光を宿している。
    ロウはふるふると首を振った。
    「楽しめてるか?」
    こくり、今度は頷く。
    「あの……連れて来てくれて、ありがとう」
    か細い声が礼の言葉を紡ぐ。獅子神はふっと笑って栗毛を撫でた。ロウの膝の上、小さな手に毛並みを撫でられ心地良さそうにしているウサギよりも、更に柔らかな髪。
    ロウは嬉しそうに目を細めた。

    園内へ、三十分後に猛禽類のショーが始まるとのアナウンスが響き渡る。
    見に行こうと真経津が言い出し、ショーが行われる場所を確認する。マップを見れば、今いる場所からそう離れていないところにステージが設置されていることが分かった。
    入場者数の少ない平日の昼間、それもショーが始まる三十分前ということもあり、並べられた簡易なベンチへ座っている人は殆どいない。並んだベンチの真ん中の列、一番前の席へ並んで座る。
    一度は腰を落ち着けながら、すぐに叶が席を立った。
    「飲み物買ってくる。一緒に行くぞ」
    ん、とロウの目の前に手が差し出される。ロウは戸惑った表情で叶を見上げた。
    「しかたねーな、一緒に……」
    「敬一君は座ってて良いぞ。二人で行ってくるから」
    「ああ?」
    叶に断られ、獅子神は立ち上がろうとした中途半端な姿勢のまま止まる。なんでだよ、と訝しむが、隣に座っていた村雨に服の裾を引かれて座るよう促された。
    「いいからあなたは座っていろ」
    「はあ?」
    「そうだよ獅子神さん。すぐそこの自販機でしょ?」
    真経津にまで過保護すぎ、と笑われ、獅子神は口をへの字に曲げる。
    どうすべきかと差し出される叶の手と獅子神とを交互に見ていたロウヘ、更にずいと手が差し伸べられた。眉尻を下げ、困ったような顔をしながらも、差し出されるその手に小さな手を重ねる。
    よし、と叶は声を発し、ロウの手を引いて会場を離れた。不安そうな獅子神の視線がその背を追ってくるのを、叶は気付いているが無視をする。
    ロウは足の長い叶の歩幅へ追いつこうと必死に足を動かしていた。
    ショーのための特設会場から数十メートル。自動販売機の設置されている場所から獅子神たちが待つ場所までは、さした距離ではない。それでも、獅子神に拾われてからというもの外で目の届かない場所へ離れたことは一度もないロウは、不安そうに来た道を振り返っている。
    叶はまるで気にした様子もなく自動販売機に携帯を翳した。
    「敬一君にはどれが良いと思う?」
    ロウに尋ねる。ロウはそこでようやく自動販売機を見上げた。
    背の高いそれは、ロウの身長では一番下のボタンにしか手が届かない。上の方にある商品は見え辛く、背伸びをしながら首を大きく反らせて眺める。
    やがて小さな腕をいっぱいに伸ばして一番上の段、左端を指差した。
    「この、お水……しゅわしゅわしてないの」
    ふうん、と叶は意外そうにロウを見下ろす。確かに自動販売機に並ぶドリンクのラインナップから、獅子神が唯一選びそうなのがロウの指差したミネラルウォーターだったからだ。
    「じゃ、礼二君には? 分かるだろ、礼二君」
    こくり、小さく頷く。迷いなく指差したのは中段真ん中辺りに並んでいるオレンジジュースだ。
    オレンジジュースは二種類ある。片方は有名なメーカーの、愛らしいキャラクターが描かれているもの。
    しかしロウが選んだのは、オレンジの写真だけのシンプルなデザインのものだった。果汁100%、村雨にと買っていくなら、叶でも間違いなくそちらを選ぶ。
    叶は考えるように顎へ手を当てた。
    「晨君と俺には?」
    「パンの人は……これ。お兄さんは……えっと、これ?」
    先に指し示したのはメロンソーダ。果汁は5%も含まれていない、着色料が目に痛い不健康そうなチープなジュース。
    次いで叶へは、少し悩んでから指差した。エナジードリンクだ。叶が普段好んで飲むメーカーのものと、その隣に並ぶ数回は口にしたことのあるもの。ロウが選んだのは、叶が普段選ぶものとは違っていた。
    叶は少し黙ったまま自動販売機を見詰め、それからロウが選んだものとは違う方のエナジードリンクのボタンを押す。ビク、と怯えた様子でロウが一歩退いた。
    「ご、ごめんなさ……っ、ぼく、間違え……」
    「うるせー。調子に乗るなよ、これは俺の気分だ」
    サッと顔を青くさせたロウヘ、叶がその顔も見ずに告げる。叶はロウの選んだ飲み物を次々と購入し、ロウの小さな腕に抱えさせた。
    ガコン、重い音がして缶が落ちる。自動販売機かは視線は外さないまま、叶は問いかけた。
    「敬一君は優しいだろ?」
    少し戸惑った様子でロウは頷く。だろうな、と叶は言った。
    「自分に関係のない人間でも可哀想だと思ったら放っとけないんだ。つまりお人好しなんだな、敬一君は」
    ガコン。また一つ缶が落ちる。
    長身を屈ませて取り出し口から落ちてきた缶を拾う姿は、窮屈そうであるのに妙に絵になった。
    取り出した缶が渡される。ロウの腕にはペットボトルが一本と缶が三本抱え込まれていた。
    「お前だけが特別なわけじゃないぞ」
    ロウは答えない。
    叶は少し悩み、やがてもう一つボタンを押した。重たい音を立てて缶が落ちる。もう何度も繰り返した動きで、叶はそれを取り出した。
    ロウの抱えていたドリンクの中から、一番最初に購入したエナジードリンクの缶を抜き取る。代わりにもう一方、メロンソーダを抱えさせた。
    「それ、お前の」
    「え……」
    「飲んだことないなら知っとくべきだ、そういうのも」
    渡された不健康そうなジュースは、獅子神の家では決して出てこないものだ。ロウへ暴行を加えていた、両親というものがいた時には、水を飲むのさえ必死だった。真経津へと選んだとはいえ、ロウがそういったものを口にしたことはない。
    ロウは躊躇した。未知は恐怖だ。
    叶はロウの小さな背を押した。皆の場所へ戻るぞと歩き出す。
    「この世に存在する人間は敬一君だけじゃないぞ。お前のクソみたいな親だけでもない。これから生きてくなら知っとくべきだ」
    スタスタと歩いていく目立つパーカーを追い掛ける。腕の中には冷えたジュースが抱え込まれているため、腕や胸の辺りが冷たい。
    ロウの様子など少しも確認しないで歩いていくその速度が、自動販売機へ向かっていた時よりも少し緩められていることに、ロウは気付いていた。
    分かりにくい叶の優しさ。それはロウの持つ、人を見る目を認めたからだ。
    人の機敏を察知し、その人物が求めているものを瞬時に理解する力。その能力は叶の担当行員である昼間の持つものに似ている。
    例えそれが、暴力を振るわれないようにと、ロウが生きるために必死に身に付けた処世術であったとしても、叶には関わりのないことだった。

    電車が揺れる。
    獅子神と村雨の間に座ったロウが、安らかな寝息を立てて獅子神に寄り掛かっていた。
    平日の夕方。学校帰りの学生の姿が、車両の中にもポツポツと見られる時間帯。
    猛禽類のショーを楽しんだ後、動物園内のまだ見ていなかったゾーンを見て回った。申し訳程度に設置されている、コインを入れると動く古びた動物の乗り物に真経津が乗りたいと言い出し、ロウと二人で乗って遊んだ。最後にレストランと土産物売り場が一緒になったような施設に行き、みんなでテーブルを囲んでソフトクリームを食べ、動物園を出た。
    これからどこに行く? と、まだまだ遊び足りない様子で真経津が尋ねる。叶が携帯を取り出し、近くで楽しめそうな場所を検索し始めるのを、獅子神が口を挟んだ。
    「俺たちは帰るから、後はお前らだけで楽しんでくれ」
    えー! と、不服そうに真経津が声を上げる。
    獅子神と手を繋いで歩きながら、こくりこくりとしていたロウが、その声に驚いて顔を上げた。はっとして、自分はまだ大丈夫だと獅子神へ告げる。獅子神はひょいとロウを抱き上げた。
    村雨がスッと手を上げる。
    「私も今日はこれで失礼する」
    「ええー!? 村雨さんも帰っちゃうのー!?」
    つまんない、と頬を膨らませる真経津に、叶がじゃあ二人でここへ行くのはどうだと何やら提案をした。面白そう、とすぐに真経津の目が輝く。
    またねと手を振る二人と別れ、獅子神と村雨は来た時と反対側の電車に乗った。空きの多い座席に着いてすぐ、電池が切れたようにロウは眠っている。
    電車がカーブに大きく揺れ、ぐらりと傾いたロウの体が寄り掛かっていた獅子神の体からずれ、ぽすりと小さな頭をその膝の上に落とした。獅子神が穏やかな手つきでロウの閉じられた瞼の上を撫でる。村雨は無言のまま、横目でその様子を見ていた。
    ヴーヴー、という籠った音を立て、マナーモードにしていた獅子神の携帯が振動する。ポケットから携帯を取り出して確認すれば、メールを受信していることを知った。
    差出人は、カラス銀行。その銀行員で獅子神の担当になっている梅野からのメールだった。
    獅子神の眉間に皺が寄る。開いてみれば、おおよその見当がついていた通り、ギャンブルの対戦が組まれたとの連絡だった。日付は、明後日。
    獅子神がメールの内容に目を通し終わると同時、横から覗き込みもしないのに、村雨は銀行からか、と尋ねた。
    「明後日だと。……悪いんだけどよ、その日だけコイツのこと見ててくれねーか?」
    村雨は獅子神を一瞥した。そこにある感情を、獅子神には読めない。ただ、一言目に拒否をしなかったために、それを肯定なのだと判断する。
    終わればすぐに迎えに行く、と言いかけて、それを言葉にする前に獅子神は口籠った。五体満足で迎えに行けるとは限らない。
    獅子神は俯いて両手の指を組んだ。ぐ、と唇を噛み締める。
    最悪の未来が、一瞬頭を掠めた。そうなるつもりはさらさらないが、あり得ないわけではない。獅子神はその賭場で、金以上のものを賭けている。
    「……村雨。もし、」
    「断る」
    神妙な声で発した獅子神の申し出を、村雨は最後まで言わせることもせず、素気無く拒絶の言葉を吐いた。
    獅子神が顔を上げ、村雨の方を見る。真横からは眼鏡のフレームで瞳が隠れ、ただでさえ読めない表情は更に何を考えているのか分からない。
    獅子神には、出口の見えない深い闇のようにすら思えた。
    「明後日というなら日付が変わるまでは預かってやる。それ以降は知らん。気掛かりなら必ず引き取りに来い」
    電車が停車する。村雨の自宅の最寄りは、次の駅だ。
    大学に近い駅だけあって、電車内の人口が増えた。村雨の前にも人が立つ。
    ドアが閉まり、再び電車が動き出す。心なしか、揺れが大きい。
    獅子神は黙っていた。黙って、膝の上に頭を乗せて眠っているロウの頬に触れる。子供らしいそれは、柔らかく、温かい。
    やがて車内にアナウンスが流れる。車掌の声は村雨の降りる駅が近付いていることを知らせた。
    「勝つことだけを考えろ。小さな頭を余計な思考に割くな」
    電車が緩やかに停車する。
    村雨は獅子神へ告げて座席を立った。入れ替わるように村雨の前に立っていた学生が座る。
    ドアが開き、村雨が降車するために歩き出す。獅子神の前を通り際、言葉を落とした。
    「あなたの診察予定も入れておいてやろう」
    獅子神が顔を上げ、村雨の後を目線で追う。村雨は既にドアから出て行こうしていた。
    獅子神は拳を握る。
    診察予定を入れておく、と村雨は言った。つまり、這ってでも帰って来いということだ。勝つことだけを考え、勝利を収めて。
    膝の上ではロウが心地良さそうに眠っている。獅子神は覚悟を決めるように、深く静かに息を吐いた。


    _____


    この後の展開は、

    獅子神がギャンブルに行く日、少年が村雨に預けられる
    村雨から少年に獅子神が今銀行へ賭博をしに行っていることを伝えられる
    「あの男はいつ死ぬか分からない賭けをしている。あなたの存在は獅子神の足枷になる」的なことを告げる村雨
    帰ってきた獅子神は辛勝、酷い怪我を追っていた
    少年が獅子神の傷付いた姿を見て、村雨の言う通り、自分はここにいてはいけないのではないかと悩み、出ていく
    少年がいなくなったことに気付き必死に捜索する獅子神
    村雨が獅子神のギャンブル中に少年へ言った内容を知り、獅子神が激怒、さめししの喧嘩勃発
    少年が見つかる
    少年が自分の意思で出て行ったこと、悩んだ末のその覚悟を聞かされる獅子神


    獅子神は少年を施設に預けることに決める
    寂しい獅子神とそばにいて寄り添おうとする村雨
    よしよし甘やかし慰めックス
    ピロートークで自分なら死なないしそばにいてやれるぞって告げる村雨
    絆されるようにして付き合い始めるさめしし

    エピローグ
    少年を預けた施設へ面会に行くぎゃんぶらーず
    少年が施設で様々な境遇の同年代の子供たちと楽しく過ごしていることを知る
    以前よりも子供らしさを獲得した少年に安堵する獅子神
    少年がさめししの関係に気付き、帰り際こっそり村雨に尋ねる
    「あなたは(獅子神の)弱みにはならないの?」→「私は足枷になるほど弱くはない。獅子神を守れるだけの力もある」
    納得して大切にしてねと村雨に約束させる少年
    さめししはっぴーえんど!

    という(ざっくり)話の予定でした!

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