無題(3)「ミカ兄はたぶん、一生結婚はしないって。」
ほんのりと酒で頬を染めながら、ずいぶんと軽いノリでとんだ爆弾を落としたトオルは、グラスに残った酒をぐいっ一口で煽った。飲み込み、息をついてこちらを見やる目には、何かを探るようなものがあり、動揺を隠したまま目を反らす。聡い賢弟はこれだけで、これ以上は踏み込めぬと判断してくれたのか、続けてツラツラと話し出した。
「他人のそういう、性的な感情が自分に向くのが気持ち悪いんだって。恋する分には平気らしいけど、そういう雰囲気になると、駄目なんだって。」
トオルが喋るミカエラの告白に、横っ面を金槌でぶん殴られるような感覚になる。酒のお蔭でふわふわとしていた意識が一気に冷め、乾いた喉を潤したくてグラスの酒を飲み干す。先程までうまいと感じていた、末弟のための祝い酒は、喉を焼くだけでなんの味もしなくなった。
それでも足りずに、目の前の一升瓶からグラスへと酒を注ごうとして、それを遮ってトオルが酌を取る。本来ならば、明日結婚するこの末弟の為の酒であるのだから、長兄である自分がこうして注いでやるのが正しいのだろうが、今はどうにも、酒が欲しい。悪い、と謝り、再び口を潤すと、やっと少し冷静さを取り戻した。
「……そういうことは、あんまり他人に喋ることじゃねぇだろ。」
繊細なことだ。兄弟とはいえ、又聞きしていいものではないだろう。苦言を呈すとトオルは然も当然のように答える。
「ミカ兄本人が、もし今度ケン兄と会ったら伝えといてくれって言ったんだよ。」
再び、金槌で頭を叩かれ、今度は耐えきれずテーブルへ突っ伏した。低いちゃぶ台の上に置いたつまみの皿がかちゃりと音をたて、締め上げるような胸の痛みに耐えて黙りとしていると、後頭部に手のひらを置かれ撫でられる。昔は、それはケンの役目であったのに、ずいぶんと大きくなったなと、一人感傷に浸かる。
「…いい加減さ、俺を使うのやめろよ。何があったかなんて、今更聞かないから。だから」
帰ってきて、なんて、土台無理な願いを聞きたくなくて、目の裏の暗闇に意識を沈めると、件の次弟がその底で背を向けてたっていた。その姿は新横浜でのマイクロビキニの弟ではなく、遠い記憶の中のあの、自分が傷つけ続けたミカエラで、やはり自分は救われないと自傷する。
あの日、全てを理解したケンは絶望のままに新横浜から逃げ出した。
ミカエラからのRINEや着信を全て無視し、連絡先さえ消して、そうして、朝方たどり着いた田舎町の安いラブホテルの一室で声が枯れるまで泣きわめいた。愚かな思春期の己の行いに隠されたどうしようもない恋心を自覚し、それが二度と叶わないと知り、何もかも投げ出し逃げたくなった。何時間と泣き続け、気がついたときには眠っていたようで、ぼー、としたまま携帯を見れば、何十件もの不在着信が残っていて、その中に一つ、末の弟のものを見つける。少し考えてRINEを開くと『野球拳全国行脚の旅に出る。心配すんな。』と書き込み送りつける。我ながらなかなかの嘘だとふっ、と笑い再びベッドに寝転がるとそのまま、また眠りについた。
とにかくもう、なにも考えたくはなかった。
あれから、ケンは本当に全国を旅をして暮らしている。もともと根なし草の生活が合っていたこともあり、日々変わりは特になく、強いて言うなら辻野球拳をしたあとの収容地が全国で違うため、たまにハズレを引いてしまうのが辛いくらいだ。VRCの飯は恋しいが、新横浜には近づかなかった。ミカエラも最初こそ、必死にケンと連絡を取ろうと頑張っていたようだが最近はなんの音沙汰もない。これが最良であると、ケンの意思をくんでくれたらしい。
ミカエラの傍にいれば、俺はミカエラを求めてしまう。気がついた恋心は歯止めが効かず、拒絶されようときっと無理矢理でも手に入れてしまうだろう。これ以上、弟の心と尊厳を踏みにじりたくはない。
それだけは、どうしたって避けたかった。
末弟のトオルとは、連絡を取り続けた。俺とミカエラのことで間に立たせてしまう罪悪はあったが、弟2人と妹に万が一があった時、兄として何も知らないのは辛すぎる。勝手な我が儘だが、せめて自分以外の危険からは守ってやりたかった。
賢いトオルも何かを察したのか、特に理由は聞かずに、これを受け入れてくれた。
相変わらずの日々をすごしていたケンのもとに、トオルの結婚話が舞い込んだのはそれから数十年後だった。もちろん、息子のように育てた弟が伴侶を得たことは嬉しく、式の参列を望まれたが、断った。何故なら、そこには確実に次弟もいるからだ。
会わぬ月日がこの気持ちを落ち着かせてはくれぬかと願ったが、会わぬ月日が気持ちを大きくしていった。
ミカエラに会いたい。
会えば、きっと、
そんな恐ろしさで、余計に会うことはできなかった。
トオルにはひたすらに日の都合が悪いと通し、こうして結婚前夜、ごねるトオルにミカエラには言わぬ、会わぬ条件を出し、ひっそりと新横浜のトオルの家を訪れた。久しぶり会った末弟は記憶より大人び、成長と結婚の祝いにと酒を飲みかわす。
そうして、これだ。
トオルと話すにあたって、ミカエラの話題が出ることは当たり前に覚悟してきた。しかしまさか本人から言伝てがあるとは思っても見なかったのだ。しかもそれが、明らかなる自分へのメッセージならば、尚更だ。
ミカエラが、そうなってしまったのは恐らく、ケンのせいなのだろう。
幼い弟に向けた己の醜い性の暴走は、トラウマとなってミカエラを今もなお苦しめている。
それを、思い知れということなのだろう。
もっと、もっと、苦しめということなのだろう。
しかし
こちらの様子を伺い、静かになったトオルに気付き、顔をあげる。瞼をこすり、一息つくと立ち上がった。
「…もう遅い時間だろ。そろそろ帰るわ。」
たいしてない荷物を纏めると部屋を出て、玄関へとむかった。時計を見るとそこまで遅い時間でもなかったが、もはや正気ではいられず、早くこの場を去りたかった。突然出ていくケンに慌てたトオルが後ろから追いつき玄関口を塞いだが、その顔を見やってこれ以上は無理だと悟ったのか、大人しく玄関を開ける。
「…本当に、もう会わないの?」
はっきりと言えば、ケンがトオルからも逃げるであろうことを勘づいているのだろう。そこまで気を使わせてしまうことが、心苦しい。
「…邪魔したな。……これからも頑張れよ。」
そう言って、トオルの肩を叩くと玄関を出て歩きだす。久しぶりに訪れた新横浜の町は相変わらず混沌としていて、通りの向こうに歩くハンターの顔ぶれはどれも知らないものだが、纏う空気は変わらぬもので思わず懐かしい気分になる。しかし、それと同時にこの街でミカエラと過ごした日々を思い出してしまい、淡いノスタルジーはすぐに色褪せた。
『たぶん、一生結婚しないって』
これを弟から聞いた時、ケンはひそかに、喜びを感じた。
ミカエラは一生、自分のものにはなることはない。
しかし、他の誰のものになることもない。
ミカエラは一生、ケンが愛した、あの日の美しいままで、死んでいくのだ。
その事実に、うすらぐらい喜びを隠すことができない。
とんだクズだ。最低最悪の悪人だ。サイコ野郎。死んで当然のクズ野郎だ。
思い付く限りの罵倒を自分に浴びせ、ケンは駅までの道を歩いていく。
明日の式は晴れるといい。
吐き気がするほど晴れるといい。
そう願って、ケンは駅の改札口を抜けた。