無題side、M
見てないものは、存在しないものなのだ。
例えば、本に出てくるペガサスやゴブリン。あれは誰かが創造し書いたものであって、本当は存在しない。もしかしたら自分たち吸血鬼なんて存在がいるのだから、知らない世界のどこかにはいるのかもしれないが、その姿を実際に見るまでは創造と現実の狭間の存在でしかなく、ならば、それは存在しないものでいいんじゃないだろうか。
見てない、聞いてない、知らない。
その三つが揃えば、少なくともそれはミカエラの中では存在しないものだ。
「ミカエラ」
囁く声が生ぬるい吐息と共に耳に流し込まれ、寝巻きのシャツの裾から入り込んだ手が腹を撫でる。かさついた指の皮が薄い皮膚を滑る度に、ミカエラはまるで肌を数千の毛虫に這われたような感覚になったが、それを表にはおくびにも出さず、耐えて眠っているふりを続ける。
「…ミカエラ」
再び名前が呼ばれ、今度は後頭部に鼻息を感じて、髪の匂いを吸いこまれる。満足気なため息が首筋にあたり、ゾゾゾと嫌悪が背中を走った。それでも耐えて、あくまで眠ったふりを続け、目を閉じ続ける。
見てない。聞いてない。知らない。
頭の中で呪文のように唱え、ぐっと押し付けられる下半身の感覚を無視する。足のももにあたる固さが何であるか、知らぬふりをする。
見てない。聞いてない。こんなの知らない。
そのうちに、眠るミカエラを抱き抱えていたそれがふ、と離れ、ベッドを降りたのを揺れで感じとる。そのまま部屋の扉を静かに開け、閉める音を聞いて、ミカエラは心から安堵した。震える口から細くため息をつくと涙がじわじわと溢れ、顔を横に滑っていく。めくれた裾を直し、体を抱き寄せる。
見てない。聞いていない。
あんな、兄さんは、知らない。
カチカチと音をたて始めた口を噛みしめ、静かに嗚咽する。
兄がこうして、寝ているミカエラにいたずらをするようになったのはいつの頃からだったか、覚えていない。初めはふざけているのだと思い、驚かそうと寝たふりをして、それが何か異常なものだと感じた時には恐怖で体が動かなくなった。
なんで、なんて、昼間の優しい兄さんの顔を思い浮かべながら、眠るミカエラの肌を探る大きな手に耐え、そのうちにこれは兄でない、何か別のものだと思うようになった。
だって、ミカエラは何も見てない。聞いていない。知らないのだ。
腹を触る手も、熱をふくんだ声も、その意味も、見ていない。聞いていない。知らない。
そう自分に言い聞かせ、思い込まなければ耐えられなかった。
唯一の救いは、それがいつもすぐに終わることだ。腹を撫で、髪を吸い、ぐっと体を抱きすくめられる。そうするとベッドを降りて部屋を出ていく。その後は部屋に来ず、翌夜に訪ねてくる兄はいつもと変わらず優しい兄で、やはりあれは違うものだったのだと安堵する。
しかし、前は数日に一回ほどだったが、それがここのところ毎日行われていることにミカエラは不安を感じていた。
ミカエラが何よりも怖いのは、それを見てしまう事だった。
見てしまえば、きっと自分は、兄を受け入れてしまう。
嫌悪し、怯え、心の奥底では拒絶しながらもきっと、いいよ、と受け入れてしまう。
だって、自分には兄しかいないのだ。
能力なしと母に見限られ、父は誰かも知らず、一族がいるはずのこの屋敷の閉じられた自室には、兄のほか誰も訪ねてこない。
生まれてこのかた、ミカエラの世界は兄だけなのだ。そんな兄を拒絶できるほど、ミカエラは強くはなかった。
だから、いつか、自分に触れるあの手が、声が、寝たふりをするミカエラに気付き、起きていることを知られることがあるかもしれないと、そう思うとミカエラはその恐怖で震えが止まらなかった。ぎゅっと体を強く抱きしめ、そんな日がこないことを祈りながら眠りにつく。
兄が突然、家を出ていったのは、その数日後であった。
遠い記憶、自由を得た日々の楽しさに忘れたかけていたこの忌まわしい記憶を思い出したのは、飲み会で酔いつぶれ、眠ったミカエラの腹を兄が撫でたからだった。
昔とは違い、逞しい筋肉のついた厚い腹をあの頃と同じ様に撫で上げられ、ミカエラは思わず顔をあげてしまう。
見ていない。聞いてない。知らない。
それが自分たちの兄弟の、薄い氷の上に立つような危うい関係性を守る方法であったのだと、驚愕と深い絶望に染まった兄の顔を見て、思い知らされる。
あの頃の兄も、こんな顔をしていたのだろうか?
了